奇郷(12)
“――震空鋼!”
低音声の無機質な宣言が再び宵闇にこだまする。
一声、更にもう一声。
“――震空鋼!”
“――琥珀!”
ガッハシュートが流れるような熟達した手さばきでスティックを差し込んだ、両脚と右腕の計三ヶ所のスロットが輝き唸る。
絶体絶命の危機だというのは、誰に指摘されずとも分かった。
漫画の主人公ならば脳裏に水の一滴でも落ちて、逆転の秘策を閃いて然るべき場面であることも。
(……馬鹿か、私は!)
ただ手を拱き、そのような無意味な夢想に逃避する他ない無力な自分が堪らなく嫌だった。
アニメではあるまいし、そう易々と水の一滴が落ちてくるように都合よく打開策が落ちて――落ちる……?
(――!)
天啓などというつもりはない。完全に苦し紛れでしかないことも理解している。
だが他に、例え僅かでもナナムゥを逃す隙を作る為にはこれしか思い浮かばなかった。
私はジリジリと立ち位置を移動した。ちょうど剣豪同士の野試合の様に――と言いたいところだが、及び腰で逃げる機会を窺っているように傍からは見えた事だろう。
もっとも実際は誰が見ているという訳でもない。例え見ている人間がいたとしても、私は甘んじてその嘲笑を受けよう。
ナナムゥから少しでも距離を取る為に。
とても策と呼べる程のものではない。単にあの夜の――ナナムゥと出合い妹を喪くしたあの夜の――再現でしかない。
今居るこの小高い丘の上からガッハシュートを追い落とし時間を稼ぐ。如何なる手段を用いても。
幸か不幸か格闘戦を挑まれている以上、接触の際に何らかのチャンスはある筈だった。
最悪の場合は、この身諸共丘から転げ落ちるだけでいい。幸いにして、拘束用の“紐”はこの躰に何本も常備してあるのだから。
「――策は練ったか、試製六型」
まるで私の胸中を読み取ったが如くガッハシュートは告げると、翼を持つ者のように高々と跳んだ。右の腕に、今度はバチバチと派手な音をたてる黄金色の光を宿し、両の踵の部分に蛍火のような輝きを保ちながら。
再度のガッハシュートの跳躍を見届けた時点で、私は脳内の声なき声に素早く問うていた。
――六型の装甲はもつか?
“琥珀での破砕不能。電撃無効。装甲、稼働共に直撃にても支障無し”
隠匿されることもなく、すぐに応えが返ってくる。無効な攻撃を敢えて仕掛けてくるガッハシュートを訝しむ暇すら今の自分には無かった。
ガッハシュートが中空で描く正確無比な黄金色の軌跡は、まさに天を貫く落雷そのものであるかとも思えた。
故に、標的となった私は両腕を顔の前で揃えて構え、俗に言う防御態勢でその痛打を待ち構えるだけでよかった。
(南無三!)
私は敢えて避けず――正直な所、そもそも避けきれるものでもなかった――真正面からガッハシュートの一撃を受け止めた。
轟雷を。楽しげに笑うガッハシュートの躰そのものを。
雷鳴に等しい爆音の響きが、夜気と木々とを揺るがした。放電の音にほぼかき消されながらも僅かに、ほんの僅かに幼女の叫びが漏れ聴こえた。
ナナムゥがまた、無力な私を案じて声の限りに叫んでくれているのだろう。私を案じてくれる者がいる、ただそれだけの事で私の心に活力が湧くのが分かる。
ここまでは全てが刹那。ここからが正念場であった。
私はガッハシュートの右の拳を受けた両腕を、勢いよく前方へ振り払った。ちょうど、両開きの扉を全力で開け放つかのように。
ガッハシュートを少しでも、少しでも遠くに弾き飛ばす為にあらん限りの力と勢いを込めて。
構えを解いて両腕を振り切ったことで、覆われていた私の視界が再び開ける。遅延をかけたままの私の単眼に、予想以上に勢いよく弾き飛ばされたガッハシュートの姿がまずは最初に飛び込んで来た。
(やったか!?)
胸中で歓声をあげた私は、それがフラグのお手本のような台詞であることにすら気付かなかった。
恥ずかしい話だが、生まれて初めて草野球で――思い返すと、たまに草野球に混ぜてはもらえたが、あくまで頭数の埋め合わせとして攻守ともにただ突っ立てるだけの幼少期だった――ヒットを打てたような、そんな達成感で胸が一杯になったというのが正直なところである。それ程までに、ガッハシュートがジャストミートした打球の如く弾き飛ぶ様は嬉しい誤算であった。
生きている甲斐というのものを、私は始めて知ったように思う。
心の底ではいつも、自分は無力だとずっと項垂れて生きてきた。例え表に出さずとも。
『前を見なさい』という亡き母の教えがなければ、そのまま卑屈な生き方しかできなかっただろうと、今でも思う。
そのような矮小な私がこの閉じた世界に墜ち、そしてコルテラーナより新たな巨躯を授かり、文字通り転生を果たした。
ナナムゥを、コルテラーナを、他の誰かを護る為に授かった新たな第二の命。そしてようやくその使命を果たす時が来たのだと、今、自分でも初めて実感できた。
拡大した視界の中に、口元を隠していても尚明らかな、ガッハシュートの楽しげな笑みを認めるまでは。
私はいつもそうだ。
ガッハシュートと自分との歴然とした力の差を実感していた筈なのに、そこまで都合良く世の中は出来ていないという現実を私は忘れた。
(アレは――!?)
踵のみに留まらずガッハシュートの両の脚甲が、煌めく白色の輝きを放つ。右拳の黄金色の輝きが『琥珀』であるならば、両脚のそれは『震空鋼』であることは明らかであった。
私から見て垂直に、夜の闇に波紋が浮かぶ。ガッハシュートの両の踵を中心に、まるでそこに不可視の水面があるかのように。
ガッハシュートがその不可視の壁面に両膝を曲げて接地すると、次の瞬間その両脚は揃って壁面を蹴り飛ばしていた。
壁を蹴るような固い音。
引き絞った矢が放たれたかのような勢いで、その反動を利用したガッハシュートの躰が私の方一気に迫り来る。
依然として遅延をかけたままの私の視界の中でガッハシュートは身を捻ると、脚の先から錐揉み状に、ちょうど私に跳び蹴りを喰らわせる形となって飛び込んで来た。
あたかも一筋の白い流れ星のように。
身を護らねばと気付いた時にはもう全てが手遅れだった。
再び宵闇を轟音が揺るがす。先程の雷鳴とは異なる、何か重い物同士がぶつかったような鈍い音が。
何が起こったのか、私には咄嗟には分からなかった。
私の視界が突如として、夜の闇より尚黒い漆黒に塗り潰されてしまったからである。
最初にこの躰で目覚めた時の、あの意識だけが暗黒の空間に捕らわれていた虚無の状況とも異なる、ただ視界だけが盲いた状態として。
(――何が起こった!?)
私は脳裏の声なき声に必死に尋ねた。
しかし、応えは返ってこない。
(――何が、何が起こっている!?)
私がここまで狼狽するのには理由があった。
これまでも、脳内の声なき声からの応えが返ってこないことは幾度もあった。まるで、何らかの制約により応える事を禁じられているかのように。
それでも、『沈黙』という名の反応自体はあった。
だが、今は違う。巧くは言えないが肌では分かる。
怖れと共に。
絶望と共に。
声なき声が今この場には、存在すらしていないということを。
「――ナシロラン・ルー!」
(――!?)
漆黒の世界の中でナナムゥの声が聴こえた。どこの何語とも知れない、私にとっては意味不明の言葉となって。
「キャリバー!! ナシロラン・ルー!!」
幻聴などではない。漆黒の世界に繰り返し響くナナムゥの緊迫した声。
私と常世とを繋ぐ声。
視界は失われた。だが聴覚は残った。
私は一つの可能性に思い至り、慌てて頭部に手をやった。
「――!?」
そこには在るべき物が無かった。単眼を備えた、私の楕円形の頭部そのものが。
ガッハシュートの一撃が――正確には一蹴か、今はそれどころではないが――私の頭部を刈り取った事はすぐに判った。
そして同時に、一つの厳然たる事実を私は知った。
これまで私を導いてくれた声なき声。漠然とではあるが、私はその“声”が常に私の脳裏に同居している、云わば一つの肉体に二つの意志が宿っている、そのような二心同体の共生状態であると認識していた。
だが、事実は違った。今この瞬間ですら、声なき声の応答は皆無である。
“声”は私とは完全に独立した存在だった。すなわち、頭部ユニットそのものに“声”は宿っていたのである。
故にそれを喪失した今、私の視界は失われ、言葉は翻訳されることもなく、私の問いに応えるものはない。
ガッハシュートは知っていたのか。私の――試製六型の弱点を。知っていたとしても不思議ではない。ナナムゥの言う通り『敵』として、立ち塞がってきたのならば。
(――どうする!?)
腹を括ったと言うべきか、自分でも驚く程に早く私は狼狽から復帰した。機能停止のふりも一瞬考えたが、頭部の有無を探るため、今まさに頭上をまさぐったばかりである。そのような児戯で誤魔化しきれるとは思えなかった。
聴覚と、そしてわずかな触覚。それだけが今の私に残された全てだった。
腕を切り離し、肩口から生える3本の“紐”を鞭代わりに当たるを幸い振り回す手もないではない。しかしそのような自棄糞じみた攻撃が通用する相手とは到底思えず、何よりもナナムゥを巻き込む危険をいたずらに犯す訳にはいかなかった。
「――! ――!!」
「――、――」
そのナナムゥと、そしてガッハシュートのやりとりが意外と間近に聴こえた。大音声で響く興奮した幼女の声と、そして対照的に落ち着き払った青年の声が。
何を喋っているのか、無論理解できる筈もない。まくしたてるナナムゥの声は、そもそもが正確に聞き取ること事態が困難であった。
わずかに判別できたのは聞き及んだ人名のみ。
ガッハシュート、ナナムゥ、そして――バロウル。