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帰道(4)

 自身に向けられたナナムゥの雄叫びをまったく意に介する様子も無く、コルテラーナを乗せた"台座"が上昇を続ける。崩れた塔の天井部分を超え、更なる青天の高みへと。

 幾ら高々と跳躍したとは云え、そのままではナナムゥの手など届く筈も無い。しかし彼女は無様に墜落などはしなかった。彼女の指先から勢い良く射出された不可視の"糸"が"台座"の基部の端にクルクルと絡み付き、ナナムゥの身を吊るしたのである。

 「まだじゃっ!」

 気合と共に"糸"を手繰り寄せ、コルテラーナの"台座"に飛び移らんと宙で身を躍らせるナナムゥ。

 正直なところ、今この世界で何が起こっているのか、何が起ころうとしているのかをナナムゥは全く把握出来ていない、その自覚自体はあった。極端な事を言えば、今こうして決死の覚悟でコルテラーナに追い縋っているのも、彼女が逃げたから追ったというレベルの話でしかない。

 それでも彼女を突き動かしているのは、ガッハシュートの口にした『世界のやり直し』という言葉に対する強い憤りの念であった。具体的に何を指すのかまでは分からずとも、それは看過してはならぬと本能的に確信していた。『世界のやり直し』なるものが、今の世界の犠牲を強いるものであるという、暗い疑念は拭えない。

 (これ以上、誰も死なせてたまるか!)

 このままコルテラーナの懐に飛び込み"糸"で一気に捕縛する――そのナナムゥの目論見は、しかし遂に叶えられることはなかった。

 「――なっ!?」

 顔を、のみならず全身を、何かに打たれたことをナナムゥは知った。斬撃の鋭さとはまったく異なる、全身を連打する重い鈍痛。始めて体験した訳でもないその感触が、滝に打たれた時のソレだと気付いた時には、ナナムゥにとって全てが手遅れと化していた。

 もしナナムゥの手元に、かつてファーラが護りの要として託した小さな菱形の徽章さえ健在であれば、それはファーラの当初の目論見通りナナムゥを完璧に守護してくれていただろう。しかし徽章は既にキャリバーの装甲内に預けられたまま所在が不明となり、ナナムゥの手の内からはとうに失われていたのである。

 ナナムゥとコルテラーナの"台座"とを繋ぐ"糸"がブチブチと千切れる。

 (水じゃとっ!?)

 ナナムゥはここで初めて自分の身に打ち付け、"糸"を消失させたものの正体を目視した――できた気がした。

 "台座"の四方から滝めいて降る半透明な赤い奔流。

 "半透明"とは言ったものの、それは水が淡い赤色に着色されているといった意味ではない。目視自体は可能でありながら、あたかも幻のように実体が定かではない、そのような覚束ない状態を指しての"半透明"という形容であった。

 夢幻(ゆめまぼろし)――ナナムゥの躰に痛打を与えた、明らかに何らかの質量を伴う奔流でありながら、それは朧に過ぎなかったのである。

 (……涙?)

 何がナナムゥをそう認識させたのか、それは本人にも(よう)として定かではない。しかし"台座"から流れる奔流がコルテラーナの流す血の涙だとナナムゥは直感し、それに対する一切の疑念すら生じなかったのである。

 「さようなら、ナナムゥ」

 "台座"を介して、始めてコルテラーナの言葉がナナムゥの頭上に降り注ぐ。時と場合によっては"台座"による音声の増幅は、天からの啓示と錯覚するまでの神々しさを秘めていた。或いは本当にその為の拡声機能であったのかもしれない。

 この密封世界(ガザル=イギス)の住人に対し、終焉の刻が訪れたことを隅々にまで告げて回る為の。

 ナナムゥに掛けられた別れの言葉は、その先触れであったのか。

 「次の世界でまた会いましょう、私の『守衛』として……」

 普段であったなら、その思わせぶりな餞別の言葉にナナムゥは青筋をたてて叫び返していただろう。それが単なる強がりや罵声の類しか思いつかなかったとしても。それどころかより奮起して新たな"糸"を射出し、コルテラーナのいる"台座"の上に何としてでもよじ登らんと試みたことだろう。

 だが、ナナムゥの半開きの口から零れ出た言葉は、辛うじてそれと判る呻き声でしかなかった。

 全身を襲う灼け付く痛みは、一瞬彼女に自分が落下している事実すら忘れさせた。すぐに我を返ること自体はできたものの、落下を阻止する為に咄嗟に"糸"を射出する判断までには至らなかった。

 元より"台座"が飛び発った左塔の上部が瓦解した今、"糸"を巻き付ける事の可能な代わりの"基部"となるべきものが咄嗟には目に入らなかったという不運な理由もある。"台座"自体が斜め上に移動していた為、中央の塔自体はすぐ間近にあったのだが、それを認識する余裕すらナナムゥには無かったのである。

 迫り来る死の足音を、ナナムゥは聴いた気がした。

 (冗談ではない!)

 潔く死の安らぎに身を任せるなど、彼女にとっては論の外である。瞳も"血の涙"に灼かれた影響で、既に視界は霞みがかった有様である。最期の無駄な足掻きになることは重々承知で、それでも尚ナナムゥは腕を伸ばし虚空に向けて"糸"を射出しようとした。


 その試みは、不発に終わった。


 (……"旗"…じゃと……?)

 薄れゆく意識の中、何者かが自分の身体を抱き止めた事をナナムゥは知った。視力こそ今は完全に失われたが、貌を見ずとも同じ"旗"を持つ者であることは感覚として察知できた。この場に居る"旗手"でこのような芸当ができるのがミィアーを除いて他にはいないことも。

 ナナムゥが意識を保てたのはここまでであった。

 少女が浴びた"血の涙"は、彼女の全身を容赦なく灼いた。ナナムゥの身体を空中で抱き止めたミィアーもまた、その代償として少女の肌に残留していた"血の涙"に触れることとなり、そして同様に肌を灼かれることとなる。

 「……」

 しかしミィアーは苦痛に顔を歪めるどころか、顔色一つ変えることは無かった。気を失ったナナムゥを右手で抱きかかえたまま、左手の内に握っていた"旗"を事前に見定めておいた中央の塔の壁面へと放つ。

 ミィアーの"旗"が実体を備え顕現したその巨大な苦無を、彼女自身は守裏剣蛇(シュリケンダ)と呼称していた。その柄尻に結ばれた鋼糸が彼女とナナムゥの文字通り命綱と化す。

 (『敵』は――)

 鋼糸からの反動が到達する直前、ミィアーは既に遥か蒼天の内に遠ざかりつつあるコルテラーナの"台座"の行方を冷静に目で追った。

 (北東…!)

 ミィアーはおおよその方角を確認した後、その方向に位置するものに関する記憶の糸を手早く手繰った。

 商都ナーガス。そしてこの閉じた世界(ガザル=イギス)の中心である"黒い棺の丘(クラムギル=ソイユ)"。そして有象無象。

 「……」

 自分の推察が正しいかどうかという出過ぎた判断をミィアーは控えた。それは己の主である所長と、己の師であるモガミが判断することである。

 彼女は振り子運動の要領で鋼糸に伝わる落下の衝撃を相殺しつつ、胸中で改めて自らを制した。

 己の心を食む暗い予感を、そうでもしないとかき消すことができそうになかったのである。

 (これは、酸か…?)

 落下の衝撃を完全に殺した後、己の腕の中でいまだに気を失ったままのナナムゥにミィアーが意識を集中させたのも、その胸騒ぎを抑え込む為でもあった。

 ナナムゥの服と肌は劇薬を浴びせかけられたように灼け爛れており、気の弱い者であれば顔を背けるであろう程に酷い有様であった。

 ミィアーは自身は怯むことなく直視したまま、更に仔細な観察に及んだ。

 ナナムゥの皮膚と髪だけ――すなわち表層のみが灼けているのは、中空にいたことで液体を浴びた時間そのものは短かったことに起因したと思われた。それに加え『生体兵器』なるミィアーにとっては耳慣れぬ出自の故であろうか、目視で確認できる程のナナムゥの高い再生能力にミィアーは内心舌を巻いていた。

 その正確な成分などは知らねども、ナナムゥを失神にまで追い込んだ劇薬めいた液体は、彼女を抱きかかえたミィアーにも当然の如く悪影響を及ぼしていた。ナナムゥに接触したミィアーの肌もまた同じような炎症を起こし、繊維の灼かれたメイド服には虫食いめいた穴が開く。服の内側に着込んだ鎖帷子にまでは達しなかったとは云え、良質の布地を用いたメイド服をみるみるうちに侵食するその毒性の強さに、ミィアーは内心眉を顰めた。

 あくまで内心のみの話である。

 鎖帷子に守られていない両腕を始めとした素肌の部分に、軽く爛れるまでの外傷が生じる。にも関わらず、ミィアーの表情は歪むどころか眉一つ動いてはいない。

 かつてシノバイドとして受けた厳しい訓練の賜物――表向きの理由としてはそうである。だが、決して他人には明かさぬ真の理由は別にあった。

 "旗手"ミィアー――かつての"旗手"にして自律式工作機械の成れの果てでもある"魔獣"スキューレが所持していた"旗"は、それを回収したモガミの手を経て最終的に彼女の手に渡ることとなった。所長を護る為の更なる"力"を期待されてのモガミからの厚遇であることはミィアーも理解していた。

 そのミィアーの"旗"が、光珠の形態からより具現化した姿をもったモノが守裏剣蛇(シュリケンダ)であり、そして彼女自身が"旗手"として"旗"から新たに得た"力"こそが感覚の遮断であった。

 かつてモガミに拾われた孤児達の一人としてシノバイドとなる為の過酷な修行に身を置いていたミィアーは、その最中の事故による重傷を負った。背中の大きな傷ばかりか、肉体を駆使すると激痛に襲われるという後遺症までが残った。

 シノバイドとしての道を断たれたミィアーをモガミは妖精皇国に遣わし、所長の使用人を務めさせた。無論それは表向きの生業であり、彼女の真の使命はモガミの"腕"として所長を影ながら庇護することであった。所長もまた全てを承知で自分を受け入れてくれたのだと、やがてミィアーは悟った。

 "旗"からどのような"力"を得るのかについては、本人の無意識下の願望の影響が強いのではないか――カカトやナイトゥナイといった手近の"旗手"を観察した結果、モガミはそう推論付けていた。果たして彼が"旗手"に任じたミィアーに発現した"力"とは、彼女の肉体から痛覚を消すものであった。

 再びシノバイドとしての忍務(にんむ)を果たす機会を、彼女は取り戻すことができたのである。

 そればかりか、ミィアーが己の肉体から遮断できたのは痛覚だけに留まらず五感の全てに及んだ。とは云え、あくまで『遮断』である。彼女の肉体が癒えた訳では決してなく、激痛による肉体の萎縮を生じさせないよう誤魔化しているに過ぎない。

 この反動はいつか自分の躰を完全に破壊するであろうことも、ミィアーは既に覚悟していた。

 所長は良い顔はすまい。それどころか"旗"を手放すように自分に迫るだろう。それを理解しているが故に、ミィアーは己の得た"力"の具体的な効能をモガミ以外には伏したままに留めた。

 少量であるとは云え肌を灼かれる痛みにミィアーが微塵も反応しないのもまた、その痛覚遮断の恩恵の一端であった。

 (移動図書館のコルテラーナ……)

 "亡者"の復讐は潰えたが、今また新たな脅威が幕を開けようとしている。それに先んじて自分がシノバイドとしての力を取り戻せたのは、何かの啓示ではないかともミィアーは思う。

 大恩あるモガミと所長の為の剣となり盾となるべき刻が来たのだと。

 例えこの身が砕け散ろうとも。

 固い決意を胸に秘め、ミィアーは気絶しているナナムゥを抱いたまま、モガミと所長の許へと跳んだ。


        *


 自分達の前に立つガッハシュートに対して所長が最初に抱いたものは、そういう仕組みだったのかという純粋な感嘆であった。

 美丈夫であるガッハシュートが小柄な『老先生』に擬態する事ができた理由、それは彼が強化人間(サイボーグ)の類であり、その手脚も取り外しが可能な点にあった。『老先生』に扮する時のガッハシュートは、必要最小限の機能を有する小型の手脚に換装を行い、それによって背丈を偽装していたのである。

 ガッハシュート本来の四肢は彼――否、『老先生』が身の回りに常に随行させていた手押し車の中に収納されていた。手押し車の上部にある可動腕部(フレキシブルアーム)こそが、まさにガッハシュートが手足を換装する時の補助装置として据えられていたのである。

 迂闊だったと、所長は悔やむ。それはモガミも同じであった。

 手足の換装機能はまさに試製六型機兵(キャリバー)に酷似したものであり、その技術流用は明らかであった。何よりも両者共に『魔晶弾倉』という唯一無二の兵装を揃って搭載している以上、ガッハシュートが機兵を擁する浮遊城塞オーファスの中枢に関与していないことなど有り得る筈もないのだ。

 (何故、私はそれに思い至らなかったのか……!)

 我が事ながら、改めて所長は己の迂闊さを自問した。ガッハシュートとキャリバーの関係性にまったく気付かなかった訳ではない。逆にそれとなくコルテラーナを問い質そうと思い立った事も、今にして思えば一度や二度の話ではない。

 だがいざコルテラーナと対面する度に、その決意は霧散した。コルテラーナに疑念を持つこと自体が有り得ないと、羞恥の念が巻き起こった。

 何故そうなったのかは分からない。それも含めての、悔やむに悔やみきれない所長の無念であった。


 今、所長達が集っている場所は、完全に崩壊する恐れもある左の塔の近辺ではなく、元々は浮遊城塞の住人の居住区として使われていた右の塔の玄関口であった。

 そこには会談の為に司書長ガザル=シークエによって招かれたほぼ全員が揃っていた。コバル公国のデイガン宰相とその護衛の一団も例外ではない。一行は玄関口の思い思いの場所に陣取り、それに相対する形でガッハシュートとガザル=シークエが阿吽像の様に並び立っていた。

 雑談を交わす者すら皆無の、重苦しい如何にもな場の雰囲気。

 その陰鬱な長い沈黙を打ち破ったのは、それまでこの場にいなかった、一人の少女の怒声であった。


 「ガッハシュート!!」


 この場に駆け寄って来た声は言うまでもなくナナムゥのものであり、その後ろには彼女の応急処置を終えたミィアーが滑るような足取りで続いた。

 新たなナナムゥの出で立ちは、正直異様の極みであった。灼け爛れた肌を隠す為に全身に――ミィアーの手によって一旦服を剥ぎ取られた後に――巻き付けられた包帯からは、辛うじて髪の毛の一部と右目と口だけが覗いている有様であった。

 そのミイラ人間としか形容しようのないナナムゥであるが、瞳をぎらつかせた鬼気迫る剣幕のままにガッハシュートに飛び掛からんと一気に間合いを詰めた。

 しかしナナムゥの強襲は不首尾に終わった。跳躍する事すら叶わなかった。彼女の横合いから飛び出したバロウルが、必死の表情でしがみついたからである。

 「離せっ!」

 ナナムゥの碧い右目が、怒りによって更に大きく見開かれる。元より白眼の少ないその瞳が化け物めいて煌々と輝き、包帯に隠れ本来は定かではない筈の羅刹の如き形相を、この場に居た者全員が錯覚する程の剣幕であった。

 「バロウル! お主知っておったな! ガッハシュートが老先生であることを!!」

 そう怒号を上げながらも、ナナムゥのバロウルに対する真の怒りは別の要因にあった。悲しみと言ってもいい。

 この世界に墜ちて来た瀕死の兄妹の魂魄を試製六型機兵に封じた――そのキャリバーの生い立ちを秘密にしていた、それは仕方のないことはまだ分かる。コルテラーナに口止めされていたのだから。

 だがガッハシュートと老先生が同一人物であったという秘密を、コルテラーナが逐電した今の今までバロウルは自分には明かしてくれなかった。ナナムゥにとって、それだけが悲しい。

 いきり立つナナムゥを宥めようと、キャリバーや所長がにじり寄ろうと試みる。だがそれに先んじて彼女に声を掛けたのは、他ならぬガッハシュート当人であった。


 「バロウルを責めるな。仕方のない理由がある」


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