帰道(1)
閉じた世界において『国』を謳う二つの居留区の内の一つ、妖精皇国。その地における小高い丘の上に、“所長の館”として知られる大きな屋敷があった。
そのテラスの上に独りぽつねんとたたずむヴァラム・カルコースは、鬱々とした頭上の曇天を物憂げに見上げていた。
浮遊城塞が空から墜ち、確たる宣戦布告も無いままに襲来したコバル公国軍の壊滅が各地に伝えられてから、早一ヶ月近くが過ぎ去ろうとしていた。ヴァラムの知己の人々も皆追い立てられるかのように事後処理に駆け回っており、ヴァラム自身はと言うと傍目からもソレと判別できる程度には膨らみ始めた腹を抱え、周囲の喧騒からは一歩身を引いた状況であった。
とは云え、ヴァラムも決して身重にかこつけて無為の刻を過ごしていた訳ではない。胎の子の父親であり、今は商都ナーガスに留まっているモガミ・ケイジ・カルコースに請われ、今の彼女は所長の相談役めいた役職に収まっていた。
本来ならば所長と必要以上に関わり合うなど、カルコース家の姉妹としてはこれまでの経緯からも有り得ぬことである。そもそもヴァラムは、所長に対して決して良い印象を抱いてはいなかった。
所長を嫌う理由自体は実に単純である。夫であるモガミの元の主君であり、そしてモガミ自身が所長に対しいまだ崇拝に近い念を抱いていることが、傍目に見ても明らかであった為である。かつてモガミに放逐を言い渡した相手こそが、他ならぬその所長であったにも関わらず。
いつの日か再びモガミを召し抱える腹積もりではないか、奪い取られるのではないか――実のところその危惧を激しく抱いているのはヴァラムではなく、彼女と同じくモガミに嫁いだ身である双子の姉のティラムの方であった。それは危険視を通り越して既に強迫観念と呼んで差し支えのないものであった。憎悪ですらあっただろう。かつて自分を庇って我が身を犠牲にしてくれた姉である。その姉が嫌う以上、妹である自分がそれに追従するのは当然だという認識がヴァラムにはあった。
そう、これまでは。
本腰を入れて所長と寝食を共にし、間近でその働きぶりを観察したヴァラムは、彼女の人となりを改めて知った。否、始めて知ろうと意識したと言っても過言ではない。これまでは妖精皇国の単なる象徴でしかなかった妖精皇の名の許に、既存の権益を護ることのみに汲々とする評議会の面々を相手に粘り強く交渉を重ねる姿には素直に敬意を覚えた。
旧来の会合衆がザーザートの手によって根絶やしとされた商都ナーガスにおいて、空座を得んと新たに湧き出した有象無象の手合いを抑え込んでいる夫の姿が重なって見えたことも一因であろう。
それに――自分でも意外なことに――いざ腹を割って接してみると思いの他所長とは気が合った。それが自分の一方的な思い込みなどではない事も、肌で感じ取ることができた。当初はぎごちなさを隠せなかった休憩のお茶の時間も、いつしか互いに誘い合うまでもなく共に過ごすことが当たり前の習慣となっていた。その時間も、苦痛ではなかった。
それは良い傾向であるだろう。だがそれと同時に、ヴァラムは姉のティラムが自分とは違い今後も所長に心を開くことを頑なに拒むであろうことも予期していた。姉の夫への偏執的な依存は後天的な要因によるものであり、要は砕けたティラムの心が産んだ妄執であった。無論ヴァラムもいつか姉の心が癒されることを願ってはいるものの、具体的にどうにかできる類のものではないことも残酷な真実であった。
自分を野盗から逃す為に犠牲となることを選び、心がひび割れた姉。更にその様な負い目があるにも関わらず、姉を差し置いて自分の方が先にモガミの子を肚に宿してしまった。
姉の祝福が、嘘ではないと分かってはいるものの、それを割り切れる程ヴァラムは強くはなかった。
「……」
膨らんだ腹を愛し気に抱き抱えながら、ヴァラムは改めて己に誓う。産まれてくるこの子が不和の悲しみにさらされない様に、自分がモガミやティラムと所長との仲を取り持つのだと。
今のヴァラムには、モガミの信任厚いナプタを筆頭とした幾人かのシノバイドが護衛として付いていた。彼等シノバイドの諜報能力を駆使して妖精皇の介入を快く思わぬ評議会の面々を相手に陰ながら助力した――身も蓋も無い言い方をすれば彼等の弱みを探り脅すことまでした――のは、完全にヴァラムの独断によるものであった。確かにシノバイド達を如何様にも使って良いと彼女に認可したのはモガミであったが、流石に想定外に違いなかった。
無論、所長はシノバイドの暗躍は知らない。知られてもいけない。その様な手段を所長は望まぬであろうから。その程度の判別と配慮ができるまでには、ヴァラムも所長のことを理解できるまでにはなっていた。
今、ヴァラムはその所長に請われて彼女の館の留守役に就いていた。狼藉者に対処する為の“門番”としては、引き続き所長の護衛機であるシロが残留している以上、シノバイド達は館の内には潜まず屋外に散開し周辺の警戒にあたっていた。
浮遊城塞オーファスの墜落に伴い、城塞から逃れて来た元の住人達は所長によって迎え入れられていた。その後、彼等は館の裏手に元々あった空の倉庫を活用した小規模の集落として落ち着いていた。そればかりか、所長の庇護の許、本格的に製紙業を再開する運びとなっていた。
当然というべきか、ないがしろにされた形である評議会の人間達にとっては面白くはない推移である。ヴァラムは所長に対し彼等を宥める折衝役を務めることを申し出ており、それに加え所長達が不在の今、城塞の元の住人達を――物理的な意味合いで――保護する役割もポルタ兄弟と共に請け負っていた。
そもそも所長の不在は、以前より予期されていたものではない。まして館を留守にするに留まらず、妖精皇国の集落の何処にも所長の姿は無かった。その護衛を務めるミィアーとクロも同様であり、そればかりか所長の盟友であるナナムゥとバロウル、そして機兵キャリバーまでもがその姿を消していた。
行方知れずという訳ではない。ヴァラムはその行き先を聞いていた。今頃は、皆揃って浮遊城塞オーファスに到着している筈であった。
(会談、ね……)
ヴァラムも同行したくなかったかと言えば嘘になる。何よりもオーファスには夫であるモガミも招かれた筈であり、会えるものならば久方ぶりに会いたかった。言葉だけでも交わしたかった。
それでもヴァラムが妖精皇国に残ったのは、先程述べた浮遊城塞の元住人を庇護する役目を果たすことを最優先したというのが大きな理由ではある。しかしそれ以上にヴァラムを押し留めたのは、所長達を招待する為に現れたのが神出鬼没の移動図書館であることに起因していた。
今回の、浮遊城塞オーファスでの会談を提唱した者こそ、誰あろう移動図書館の司書長にして六旗手の一人であるガザル=シークエその人であったのである。
所長達が浮遊城塞に赴くにあたり、移動図書館そのものが迎えの為に出現した。『移動図書館』の名が端的に示す通り、異空間を渡って浮遊城塞まで僅かな時間で送り届けるというのが、バーハラと名乗る迎えの司書の弁であった。
お腹の子諸共に異空間などという得体の知れぬ領域を経由することは、ヴァラムには到底許容できる行為ではなかった。所長にしろナナムゥにしろ、同じ理由でヴァラムが館に残ることを望んだ。
ヴァラムを残し、移動図書館内に乗り込んだ者は全部で6名――所長とその護衛であるクロとミィアー、そしてナナムゥとバロウル、機兵のキャリバーであった。
移動図書館が現れた時と同様に煙の様に掻き消え、残されたヴァラムにできることはといえば、所長達一行の無事な帰還を祈ることだけであった。誰一人、欠けることのない帰還を。
神無きこの世界で、ヴァラムの祈りが何処に届いたのかは定かではない。それ故に必然であったのかもしれない。
それが果たされぬ願いであったことは。
*
「どうじゃった、バロウル?」
ナナムゥはようやく工廠から出て来たバロウルに対し、努めて明るく尋ねてはみた。だが、褐色の巨女の沈んだ表情を一目見た時から、不本意な結果となったであろうことの覚悟は済んでいた。
はたしてナナムゥの予期に違わず、バロウルはまずかぶりを振って答えた。
「駄目だ。内部を確認することさえできなくなっている」
「そうか……」
目的の一つが早々に頓挫し、ナナムゥの貌にも僅かに陰りの色が落ちる。
浮遊城塞オーファスを――それなりの感傷と共に――捨て、妖精皇国に拠点を移した筈のナナムゥ達が、僅かひと月にも満たぬ内に再び城塞に戻って来た訳は二つ――否、ナナムゥに関しては正確には三つあった。
その内の一つがナナムゥにとっての供であり弟分でもある試製六型機兵キャリバーについてであり、本来ならば今回の会談にはまったく無関係であるバロウルが同行してきた理由でもあった。『同行』と言うのは語弊があるであろう。そもそも浮遊城塞への帰還を最初に言いだした者こそが、他ならぬバロウル当人であった。
“気にしないで”
そう発声しながら、バロウルの後に続いて石の巨人がノソリとその姿を現す。胸部に据えられた忌動器の中に、とある兄妹の半死体と魂魄を宿した試製六型機兵キャリバー。その単眼は、今は赤い光を灯していた。周囲に響く、性別を感じさせない硬質な声色も、このキャリバーが発したものであった。
ナナムゥが何か答えるよりも早く、キャリバーの単眼の色が赤から青に変わる。次いでキャリバーより発せられた発言は、声色だけは先程の硬質な響きと寸分違わぬものであったが、回りくどい口調は最初の発言とは明らかに趣が異なるものであった。
“妹の言う通りだと私も思う”
それも道理、キャリバーの中に据えられた兄妹は、コルテラーナの命により封じられていた言語機能を真紅の青年の“気まぐれ”によって取り戻しはしたものの、機体に設定されていた音声の種類自体は一つだけであった。その為に兄妹どちらの発言であるか聴いた者が判別できるよう、兄は青、妹は赤と単眼の色を変える事にしていた。
そのような工夫は兎も角としても、渦中の身でありながらもキャリバーがバロウルやナナムゥのような陰鬱な雰囲気を醸し出していないのは事実であった。機兵としての単眼のみの貌に、表情というものが存在しないことが大きな要因であるにしても。
浮遊城塞が墜落したことにより、まだ工廠の機能が本調子ではないのではないか――そうバロウルを励まそうとしたナナムゥであったが、すぐにその考えを胸中で打ち消した。元々は浮遊城塞オーファスの生体端末が出自のバロウルがそれを考慮していない筈もなく、それがただの虚しい慰めでしかないことを充分に理解していたからである。
先日にバロウルがナナムゥに語った告白によれば、キャリバーの忌動器内の半死半生の肉体を保持する為には、フォーモル液と呼ばれる専用の液体の補充や交換が必須であった。しかしそのフォーモル液は浮遊城塞の落下と共に失われ、一から新たに精製する術も不完全であった。それでも、少しでもキャリバーの命を長らえる事に尽力しようと誓ったバロウルであり、その為の浮遊城塞の工廠への帰還であったが、そのせめてもの願いさえも潰えてしまったという事になる。
最初にバロウルが異常を――キャリバーの忌動器を中心に、濁った輝きの紅い結晶が機体内部に生じ始めた事を知ったのは、彼女達が妖精皇国に腰を落ち着けて間もなくの頃である。
紅い水晶を構成している物質が何であるのかは分からなかったが、その発生要因は――そのあからさまな色からも――心当たりがあるどころの話ではなかった。忌動器の表面を朝露の如くに徐々に覆う水晶片は、数日後には忌動器を完全に包み隠すどころか六型機兵の骨格替わりの“紐”にまで浸食していった。
それは、あたかも試製六型機兵を構成する物質の全てが紅水晶に置き換わっていくかのような怪異にしか見えなかった。遂には整備の為の胸部装甲の展開にすら支障が及ぶに至り、このままでは確実に万策が尽きる事をバロウルも認めざるを得なかった。
ある程度の解析ができる設備が揃っていたとは云え、所長の館での対処は既に不可能であった。バロウルが早期に浮遊城塞の工廠への移動という手段を選択できなかったのは、キャリバーの石の巨体を搬送する手段が無いというその一点にあった。かつては四肢を分解し複数の馬車で浮遊城塞から妖精皇国まで搬送した事もあったが、紅水晶に“紐”が浸食された時点で、その肝心の四肢の切り離しすらも不可能と成り果ててしまっていたのである。
決して諦めた訳ではない。妖精皇国の妖精機士団達による人海戦術での輸送を試みたバロウルとナナムゥであったが、それには評議会を説き伏せる必要があった。
移動図書館と司書長ガザル=シークエが所長の前に姿を現したのは、まさにナナムゥが非合法な手段で妖精機士団を掌握しようとしたその矢先であった。
移動図書館が自分達の動向を見計らっていたのかどうかまではバロウルにもナナムゥにも定かではない。何を企んでいるのか知れたものではないのは勿論のことである。それでもバロウル達にとって、所長への招きに便乗する形とは云え、キャリバーを浮遊城塞に移動させる手段が確保できた事は渡りに船であった。
しかしそこまで右往左往しておきながら、工廠にさえ戻れば何らかの打開策が見出せるのではないかというバロウルの覚束ない一縷の望みが今、完全に断たれたのである。
かくして失意の底にあるバロウル達に比べ、当のキャリバー内部の兄妹達が別段取り乱したりしていないのは、実のところ予兆があったからに他ならない。周囲にいらぬ心配をかけることのないよう黙していたが、実質魂魄という意識のみの状態であるにも関わらず、兄妹は頻繁に“熱”を感じ取るようになっていた。
もしかしたらガルアルスが気を利かせて肉体を再生してくれていて、その副産物なのかもしれない――兄は妹にそう軽口を叩いてみせたが、それが自分を不安がらせない為の方便であることを妹は見抜いていた。依然として兄妹がある程度の感情を共有しているが故に気付いた訳ではない。兄がそういう人間であることを、妹は良く理解していた。
故に妹は兄に騙されてあげた。そして兄もまた妹が騙されてくれていることを察し、悟られぬよう咽び泣いた。無意味な嘘をつくことしかできぬ、無力な己を。
強大な“力”を持つ龍が、さして知りもしない自分達兄妹の為に肉体の再生までしてくれる義理など無い。この“熱”を伴う魂魄の痛みが、いままさに命が燃え尽きようとしている証であると、兄は確信していた。
兄にこそ告げねども、妹もまた同じ様に。
かくしてキャリバーが無言を貫く一方、ナナムゥはバロウルから工廠の天井へと目線を転じていた。
遂に最終章かつ100万字突破でそれなりに感慨深くはあります。
それはそれとして前章に元の最終章の内容をそこそこ前倒しで書いたつもりが、意外とやること残ってるなとプロット確認しつつ恐れおののく今日この頃。