鬼轟(23)
*
「凄まじいな……」
ガッハシュートの半ば唖然とした呟きに、彼のすぐ隣に立つコルテラーナもまた悍まし気にその身を震わせた。
(無理もないか……)
只でさえ白い肌を病的なまでに蒼白とさせるコルテラーナを前に、ガッハシュートはそれ以上精神に負担をかけまいと口を噤むと、眼前に映し出される外部の映像に再び目線を移した。
ナナムゥ達の前から姿をくらました両人であったが、依然として浮遊城塞の中に留まってはいた。バロウルは――珍しくも――自らの意思で同行を拒んだ。消え入りそうな拒絶であったとは云え。
戦場を見下ろす浮遊城塞の縁を去った彼等が今居る場所こそ、浮遊城塞にそびえ立つ尖塔の頂である。三棟ある城塞の尖塔の中で、下部に工廠を備えた左の塔の最上部こそが、コルテラーナによって占有された彼女にとっての――移動図書館に続く――二番目の拠点であった。
コルテラーナが、地に墜ち再び浮上する事のない浮遊城塞オーファスと、その生体端末であるバロウルに見切りを付けたのは確かである。それは“黒き棺の丘”踏破の切り札でありながらその活動を停止した試製六型機兵に対しても同様であると言えた。
故に、浮遊城塞を棄てると決断した以上は、『館長』として真の本拠地である移動図書館に早急に退くべきではある。それが、身を隠したとは云え敢えて二人揃っていまだに浮遊城塞に留まっている理由は、ガッハシュートがそれを望んだからであった。
尖塔のコルテラーナの私室には内向け外向けを問わず周辺の監視機能が備えられており、城塞が墜ちた今でもその機能は健在であった。ガッハシュートが外部映像により真紅の青年の顛末を見届けたいという想いは、永きに渡りこの世界を見守ってきたモノとしての、半ば義務感めいた欲求であった。
だがそれは、あくまでガッハシュート個人の要望に過ぎない。取り乱すまではいかなくとも、己の隣で俯いた顔を上げようともしないコルテラーナが、それを含めてただならぬ様子であることにも無論彼も気付いてはいた。しかし、なまじ永い間に共にあっただけに、ガッハシュートにとってコルテラーナの気性難も勝手知ったるものでもあった。
ガッハシュートがコルテラーナの沈鬱を看過してしまったのは仕方のないことだったのかもしれない。何よりも彼にとって、紛いモノである自分が“亡者”メブカの最期を看取る形となったことに気を取られ過ぎていたというもう一つの理由もあった。
(……本物の成れの果てであるお前が消え、紛いモノである俺の方が残るとはな……)
ガッハシュートの胸に去来するものは自嘲であった。唐突にして、あまりにも呆気ない幕引き。しかしガッハシュートは軽く頭を振ると、自らを呑み込みかねないその感傷を振り払った。
メブカの消滅に対し、想うところは無論ある。無い訳などない。だがそれよりも、真紅の青年の示した圧倒的な“力”――これまで自分達移動図書館員が数え切れない程の試行錯誤の果てに遂に叶わなかった、密封世界の障壁の破壊を成し遂げることが可能であろうと期待させるだけの“力”が目の前に示されたからには些事であった。些事とせねばならなかった。
宿願である。ガッハシュートにとっても、“亡者”と化す前の本来のメブカにとっても、おそらくは。
果たして“密封”が解除された時、“紛いモノ”である自分達“守衛”や“司書”がどうなるのかは分からない。“館長”だとてその軛の例外ではない。だが、閉じた世界の解放こそが移動図書館の悲願であったことは嘘偽りではない。例えこの“紛いモノ”の身が、残らず再び夢に帰る結果となるのだとしても。
「サリア・護るさ・君を」
ガッハシュートの口から零れたその呟きは、彼方の“黒い棺の丘“で憂悶の内に夢見て眠る彼女への手向けであり、彼女自身の記憶の残滓でもあった。
“亡者”と化したメブカもまた最期に同じ言葉を遺したのは、かつての己の今際の際の言葉が、決して忘却してはならぬ強い想いとして魂魄に刻み込まれていた証であったのかもしれない。
六旗手メブカと六旗手サリア――手を携え、共に過ごした二人にとってのかけがえのない記憶の残滓として。
(穢された……)
コルテラーナの眼差しにとある決意の昏い輝きが宿りつつあることに、遂にガッハシュートが気付くことはなかった。
*
「凄まじいの……」
ナナムゥの唖然とした呟きは、奇しくも先程のガッハシュートの呟きとほぼ同じものであった。
“亡者”を余すところなく殲滅した、ガルアルスによる言わば地上の太陽光。それは実際には瞬きする間もない短い輝きでしかなかった。しかしそれでも尚、その煌めきが収まった後に浮遊城塞に居た者達が再び周囲の光景に目を慣らすまでにはそれなりの時間を要した。
足下に広がる爆心地めいて焼け焦げた大地の中央には、依然として真紅の青年が独り佇むのみであった。その周辺に、かつての公国軍にせよ商都の傭兵にせよ、生き永らえた者の姿は皆無に見えた。地に転がる骸の横に寄り添うように立つ“幽霊”達だけが、ただ揃ってその身を虚しく揺すっている光景だけが視えた。
一言で表すならば凄惨としか言いようのない荒野だけが、ナナムゥ達の眼下に広がっていたということになる。
「しかし、困ったものじゃな」
続いて発せられたナナムゥの言葉が、それまでの切迫した口調から一転して苦笑混じりの軽口めいたものに変わったのは、気圧されたままの場の雰囲気を少しでも和らげたいという彼女なりの気遣いが故であった。
「ガルアルスめ、いけ好かない子供じゃとばかり思っておったが、いきなりわしより大人になるとは許せんな」
「それはナナムゥも一緒じゃない」
かつてナナムゥ自身が一夜にして幼女から少女へと変じた事を揶揄して、ファーラもまた苦笑で返す。場を和ませようとするナナムゥの心意気が通じたのか、或いはファーラの天真爛漫さが故の無意識の追随であったのかまでは、ナナムゥとしても判別しかねた。
それでも確かに場の緊迫感が――ひいてはガルアルスという存在に対する絶対的な“恐怖”が――緩みつつある雰囲気にナナムゥはようやく安堵を覚えた。
だが、続けてファーラが口にした言葉が期待した更なる軽口などではなく真摯な謝罪であったことは、ナナムゥにとってまったくの予想外の流れであった。
「ごめんね、ナナムゥ」
「あん?」
ナナムゥの返事が些か間の抜けたものであったのは、ファーラの謝罪があまりに唐突であった為と、安堵したことでちょうど彼女の気が抜けた瞬間であったという二つの理由からであった。
ファーラの美しい黒い瞳が、如何にも申し訳なさげな憂いの色を帯びる。
「たぶん、もう、この世界を助けることができなくなったと思う……」
「!?」
一瞬眉間に深い皺こそ刻んだものの、ナナムゥはかしこまって自分を見つめるファーラに対し詰め寄ることも、声を荒げる様なこともしなかった。それくらいの分別はついた。
ファーラが何故唐突にそう断言したのか、断言できたのか、ナナムゥの頭に浮かんだのはまずその疑念であった。同様に――表情にこそ出さなかったとは云え――そこから踏み込んだ更なる疑念を抱いたのはモガミであった。
根本的な疑惑と言ってもよい。その出処として、あくまで“部外者”である水晶球の言葉を鵜呑みにして良いのかは別として。
それは、定命の運命の域を超えた――要は己と同等の“不滅”の存在と化した“亡者”メブカをも易々と撃破せしめたガルアルスの、その顕現した“力”に対する根本的な疑念であった。
それだけの“力”があるのならば、それだけの“力”を誇るのならば、何故ここに至るまでその“力”を存分に振るわなかったのかと。
ガルアルスが浮遊城塞のファーラの許に行き付くまでの行動は――モガミの知る限りではあるが――あまりに冗長で拙く、お粗末だとしか言いようがなかった。ただひたすらにガルアルスが迎えに来るのを待ち焦がれていたファーラにしても、その茶番の片棒を担いでいたとしか思えなかった。
モガミが直接ファーラと言葉を交わしたことは無い。だが、『得体の知れない』出自でありながら所長に近しい立ち位置となった彼女は、忍びとしてのモガミの重大な監視対象と化した。まだ短い監視期間ではあるがその上で、ファーラ個人は腹芸のできるタイプではなく、少なくとも彼女自身は本当にガルアルスの迎えを待っているのであろうというのがモガミの下した見解であった。
その待ち焦がれていたであろう真紅の青年が今、ファーラを迎えに現れた。ようやく、相応の待ち時間を経た後に。
そこがモガミにとっては不審な点である。
何故ガルアルスはファーラを探すのにわざわざ時間を掛けたのか。あれだけの“力”を持つ“化け物”がその気になれば、強引にファーラと合流することも可能であった筈なのだ。例えば極論を言えば、閉じたこの世界において街一つとまでは言わないにしても山を幾つか燃やすだけでこの上ない“狼煙”となるであろうことは、思い付かない方がおかしい話である。
にも関わらず、ガルアルスはそうしなかった。漏れ聴こえた話混じりではあるが、ガルアルスは地道にファーラの行方を捜し、ファーラもまた大人しくそれを待ち続けた。
かと思えばその一方で、圧倒的な“力”を用いてザーザートと“亡者”メブカをまとめて撃滅してみせた。今まさにモガミの目の前で。
まるで、ファーラと合流するまではその“力”を出し惜しみしていたかのように。
『気紛れ』或いは『戯れ』の一言で説明のつく話ではある。
とは云え、まさか再会したファーラの歓心を買う為に、わざわざ“力”を誇示する機会を『とっておいた』などという馬鹿な真似をする輩でもあるまいと、モガミはガルアルスをそうふんでいた。限られた非常に短い時間であったが、ガルアルスの言動をつぶさに観察したモガミの直感であり、確信でもあった。
我ながら妙に買ったものだとモガミは苦笑せざるを得ないが、少なくとも彼の内で導き出された結論は一つであった。
ガルアルスにはその“力”を使わない、或いは使えない何らかの制約があるに違いないと。
それが一縷の望みに繋がると、モガミ・ケイジ・カルコースは熟考に及ぶ。
この世に真に完璧なものなど有り得ないことをモガミはその身をもって見知っていた。例え己が忍びの技が及ばぬにせよ、真紅の青年と対峙した際に付け入る隙が皆無ではないということを、それは意味していた。
ガルアルスに課せられているであろう、とある『制約』。おそらくはファーラと云う名の少女こそがそれであり、そして真紅の青年の隙であるのだろう。
とは云え、モガミが脳内で幾ら想定を重ねたところで、今更ガルアルスと正面から敵対するような事態になること自体が想定し難いというのもまた事実である。双方にとって、まさに『今更』としか言えない為である。
(だが……)
モガミは一切の表情を崩さずに、しかし胸中で渋面を浮かべる。彼の忍びとしての勘が告げていた。備えよと。事態が収束するにはまだ遠く、波乱はまだ続くのだと。
所長とティラムをこれ以上不安にさせない為にも、例え配下であるミィアーにも気取られるわけにはいかぬ、モガミの密やかな決意であった。
モガミが争乱の予感に気を引き締める一方、ナナムゥは再びファーラに対して改めて問い質していた。依然として、詰問ではなく友に対する問い掛けとして。
「要は、ガルアルスが今ので“力”を使い果たして、“壁”を破壊することができなくなったということか?」
「……」
ナナムゥの確認に対し、ファーラは否定も肯定も口にしなかった。その代わりとしてただ申し訳なさげに、再び先程と同じ謝罪の言葉を口にした。
ごめんね、と。
「……まあ、よいわ」
少しの間を置き、そして努めて明るい声で、ナナムゥはファーラに笑って見せた。ファーラが事情を説明をしないのではなく、彼女自身もまた説明できる程には事態を把握していない可能性に思い至ったというのもある。
なまじ賢いだけに、ナナムゥは常に周囲に対して慮り、その結果として他人に対する追求を徹底しないことも多かった。コルテラーナやバロウルが自分に対して何か大きな『隠し事』をしていると意識しながらも沈黙を保ってきたのもまさにその性格が原因であった。何れ自分が知るべき時がくれば自ずと明かしてくれるだろうという達観は、ナナムゥの『家族』への信頼の証であり、そして抑えきれぬ甘さでもあった。
故にファーラの謝罪にそれ以上問い詰めはしない代わりに、ナナムゥはその反対側の人影に視線を移した。
「しょうがない。また、“黒い棺の丘“に潜るところから始めようかの」
先程から自分の隣に蹲っている“弟分”に対し、ナナムゥは苦笑交じりにそう呼び掛けた。元より城の調度品のように不動を保つ石の巨人に。
「のう、キャリバー」
如何にもやれやれといったわざとらしい口調ではあったが、ナナムゥの大きな碧色の瞳には何故かそれなりの煌めきが生まれていた。それは無邪気な探求心、飽くことの無い冒険心の賜物であったのかもしれない。
その強さがあるからこそ、かつてコバル公国公都の“奈落”にまで堕ちながらもナナムゥは今この場に立っている。
だが、彼女の瞳の輝きが、とある事実に気付き、失せた。小刻みに震えるバロウルと、それとは対照的に微動だにしない試製六型機兵の姿を前に。
「……キャリバー……?」
*
戦場に、漆黒の“亡者”の痕跡は一片も残りはしなかった。幾世もの過去より地底深くに澱み潜んでいた太古の“亡者”の集合体であろうとも、その“怨念”諸共に全てを焼き尽くした。
メブカの遺志の残滓も、ザーザートとティティルゥの屍も、彼等“姉弟”が所持していた二つの“旗”も含めて何もかも。
全てはたった一人の真紅の青年による鬼の所業であった。
「……」
死の荒野の中心にしばし無言で佇んでいたガルアルスであったが、その背に不意に一対の紅い皮翼が出現した。そのまま、特に羽ばたいた訳でもないが、その身がスッと浮遊する。
飛翔と呼ぶにはあまりにもゆっくりと、言わば宙を滑るように移動していたガルアルスであったが、周囲でいまだ身悶えする“幽霊”の群れの中の一ヶ所に急に降り立った。その一連の移動はまさに唐突な動きとしか言い様のない短いものであった。
「馬鹿か、貴様は……」
ガルアルスは、眼前の一人の“幽霊”に対し、吐き捨てるが如くそう呟いた。他と比べてどこか小太りに感じられる、無貌の白い空虚な存在に向かって。
「言っておいた筈だ。戦場で、次に俺の姿を見たら逃げろと」
“幽霊”の背には、屍が二つ転がっていた。一つは泡を吹いて事切れている乗用馬。そしてもう一つが、これまで彼をさんざん悩ませてきたオズナ・ケーンの物言わぬ死体であった。
死に際に対し、そこに“幽霊”を生じさせるまでの如何なる“未練”が生じたのか。他の死体に比べると、オズナの死に顔に、少なくとも恐怖の色は無かったのは確かである。むしろ喜色すら感じますと、もし水晶球がこの場にいたならば、或いはそう補足していたのかもしれない。
待ち侘びた再会の場にようやく辿り着いた喜びの貌のように見えます、と。
「……」
ガルアルスはそれ以上は一言も言葉を発することなく、ただ無造作にオズナの“幽霊”に向かって右腕を伸ばした。そしてそのまま“幽霊”の身体の一部をブチリと指で千切り取ると、当の“幽霊”が激しく身を震わせるのに構わずに、躊躇なく口に含んでみせた。
「……さして旨くもない」
僅かな沈黙の後、ガルアルスは不機嫌な声でそう吐き捨て、口の中の“幽霊”の欠片をそのまま呑み込んだ。
それで、終わりであった。
ガルアルスはその場から再び己が身体を宙に浮上させた。今度は高度を取り、眼下に“幽霊”達の群れを一望できる位置まで上昇したところで止まった。
特に“溜め”の動作など必要ではない。実際、ただガルアルスが“視た”だけで、大地から次々に火柱が上がる。それが常世の理から外れたものであることは改めて言うまでもないが、何れにせよその“炎”は身を捩る“幽霊”達を等しく包み、そして焼き尽くした。その足元に転がる、元となった数多の死体諸共に。
宙に浮かぶガルアルスのちょうど真下に位置するオズナの死体もまた、例外ではなかった。
「……」
同様に“幽霊”と死体とを灼いた“炎”も役目を果たした後にすぐに消え失せ、後にはただ、文字通り何もない荒野だけが残された。
死の痕跡すらも死んだ虚無の荒野の上空に、ただ独り浮かぶガルアルス。それはこれまで幾度も繰り返され、そしてこれからも永久に続く孤高の俯瞰であったのだろうか。
真紅の青年は最後まで一言も発することの無いまま、背の紅い皮翼を再び大きく広げると、今度こそ浮遊城塞目掛けて飛翔した。
*
ナナムゥに詰め寄られた時点で、既にバロウルは泣いていた。
遂に魂魄が尽きたのだと、嗚咽と共に悔いていた。
蹲ったまま既にピクリとも動きはしない試製六型機兵の傍らで、膝からくずおれ、頭を垂れて肩を震わせながら。
全て自分が悪いのだと。
それは単なる悔恨の涙ではない。いつかこの日が来ることを知りながら、怖れによって何もできなかった己の無力さを改めて思い知らされたが故の自責の涙であった。
「しっかりせい!」
くずおれた事でちょうど良い高さとなった巨女のその肩を、ナナムゥが掴んで揺さぶる。
所長がそれを黙って見守ったのは、或いは“姉妹”とも云える二人の絆を信じたからであり、モガミとミィアーもその主を前に差し出がましい真似は控えた。
皆が揃って見守る事を選んだ中、唯一それに従わない者もいた。言うまでもなくファーラである。
ガルアルスが真紅の皮翼を収め、ナナムゥを宥めようと歩を進めたファーラの背後に降り立ったのは、まさにその瞬間であった。
素早く背中に所長とティラムを庇い自分を警戒しているモガミには目もくれず、ガルアルスはファーラにただ無言のままに歩み寄った。
再会の喜びを口にする訳でも、迎えが遅くなったことを詫びる訳でもない。ただ当然の如くガルアルスはファーラの傍らに影の様に立った。
無駄の無い、流れる様な一連の動き。意外にも真紅の背年が始めて呟きを漏らしたのは、ファーラやナナムゥ相手ではなく活動を止めた機兵に一瞥をくれた時であった。
保った方だな、と。
「ガル……」
ファーラにとって、真紅の青年の気紛れなど慣れたものであったし、それが本当は気紛れなどではないことを理解できるまでの時間を共に過ごしてもきた。例え周囲の者から見れば『化け物』でも、ファーラにとっては一人の『ガルアルス』であった。
にも関わらず彼女がその身を僅かに怯ませたのは、無論今更ガルアルスを恐れたという訳ではない。己の身勝手さに気後れしたが故であった。
――キャリバーを助けてあげて
その願いが、身贔屓の極みであることをファーラは知っている。
ひとたびガルアルスが“戦場”に降り立った以上、そのあおりで大勢の――自分以外の――人間が死ぬことは理解していた。今までがそうであり、これからもそうなのだろう。だからこそファーラはコバル公国の軍勢がこの場から逃げることを願い、ガルアルスが戦わぬよう祈った。
だがそれが諸共に叶わぬ想いであることをもまた、ファーラは良く知っていた。知り過ぎてしまった。目の前で多くの無垢な――或いは無垢ではない――人々が死ぬ光景を見ても、ファーラはそこまで動揺することもなくなった。いつの頃からか定かですらなく。
かくの如く何時しか人死にをあるがままに受け入れるようになったファーラであったが、その彼女がキャリバーの救済を願う理由は唯一つ、『友人だから』という身贔屓によるものでしかなかった。
だからこそファーラは我儘を口に出す事を躊躇い、身をすくませたのである。
だが、そこでファーラは挫けはしなかった。
(レン……!)
幼馴染の青年の顔を脳裏に思い浮かべ、ファーラ・ファタ・シルヴェストルは固い決意を胸に顔を上げた。
自分の手の届く範囲でやればいい。
無理なものは無理として、それならそれで無理のない範囲でやれることをやるしかない。
それが、はとこであり彼女の守護騎士でもあるレン・デュイターの言葉であった。
陥落した王都より共に落ち延び、そして再び王都への帰還を目指す長い旅の中で、ファーラは己の拙い想像以上に世の民草が貧困に喘いでいることを知った。王侯貴族の身でありながら――気休めでしかない――慰めの言葉をかけることしかできない自身の無力さを恨めしく思った。
慣れぬ流浪の身であったこともある。疲弊し、ふさぎ込むファーラに対して、レンがかけた励ましこそが先の言葉であった。
“赦し”を得た――奇妙な話ではあるが、それだけでファーラの心が随分と軽くなったことは事実である。そしてガルアルスの捕囚となった今でも、ファーラはレンが必ず迎えに来てくれると信じ待っている。
この手の届く範囲でしかないけれど、救えるのならば救いたい。
例え切っ掛けが単なる身贔屓であろうとも、一つだけとは云え生命を救いたい。それこそがレンの言う『やれること』であるのだろう。
だが、機兵の助命をファーラが懇願するよりも早く、ガルアルスの方が先に動いた。なんじゃと騒ぐナナムゥの抗議には耳も貸さず、蹲ったままの試製六型機兵の前に仁王立ちとなり見下ろした。
「……」
それが如何なる気紛れからであったのかをファーラは知らない。
否、ガルアルスが“気紛れ”などでは動かない以上、如何なる理由でわざわざ一つの生命を自ら救う気になったのか、その理由をファーラは知らない。
モガミですらガルアルスの腕の動きを目に捉えることは出来なかったが、何をしたのかはその場に居る誰の目にも明らかであった。
ガルアルスの両腕が諸共に、キャリバーの胸部に肘まで突き立っているという結果だけはと云う、その意味においては。
とは言え、ガルアルスの貫き手が機兵の胸部に突き立ってはいたものの、その石の装甲版を割り砕いたという訳ではない。かと言って、腕が通る穴だけ綺麗に穿ったという訳でもない。まるでガルアルスの腕自体が実体を持たぬ幻であるかのように、胸部装甲に阻まれず肘の先まで埋没した、そのような形にしか見えなかった。
それはザーザートや妖精機士の攻撃がガルアルスの身体をすり抜けたのと、ちょうど逆の現象であったと言える。
だがそのような奇怪な現象も、誰かが驚愕の声を上げる暇も無い程の短い間のものに過ぎなかった。気合の一つも入れる訳でも無くガルアルスが再びあっさりと、両の腕を機兵の胸部から引き抜く。直後の両の人差し指の爪が揃って失われており、しかしそれが瞬時に再生する瞬間を視認できたのは、見守る一同の内ではモガミのみであった。
「――ファーラ」
既にこの場に居る者達に興味は無いといった態度で機兵から身を離し歩み去ろうとしたガルアルスであったが、その脚がツと止まり、そして思い出したかの如くファーラの名を呼んだ。
「そろそろだ。準備しておけ」
ファーラの貌自体には一瞥もくれずに只それだけを告げたガルアルスは、そのまま通路の奥へと歩み去った。そこにはあのナナムゥですらも呼び止めることを躊躇する程の、明確な拒絶の障壁が確かにあった。
「ルフェリオン……」
ファーラが、ガルアルスの背中ではなく己の左肩に浮かぶ水晶球に語り掛けたのは、真紅の青年が成した事への確証が欲しかった為である。
“再生完了まで多少時間を要します”
「なら、良かった……」
水晶球の返答は事務的であり、その意味ではかなり素っ気ないものであったがファーラにとってはそれで充分であった。元よりファーラと水晶球の間では、細かい会話は不要であった。ファーラからすれば『気の合う』程度の話であったが、真相はそこまで無邪気なものではない。水晶球にとって捕囚は守護するだけではなく、あくまで監視対象であった。その心身共に。読心も含めて。
その様な裏事情は兎も角として、ファーラにもガルアルスが死に逝くキャリバーに対して何らかの“施し”を与えたことは察しが付いた。いつもの様に、超常の者の単なる気紛れであるかのように。
だが、ガルアルスに“気紛れ”などは無く、何よりも『死は特権』などという――ファーラからすればまったくの意味不明な――信念を口にするガルアルスが、特定の誰かの命を救うことなど非常に稀なことであった。
そこに至る心境などファーラには推し量る術も無いが、それでも間違いなく何かがあったことだけは確かであった。ガルアルスにとって、忘れ難き何かが。
或いはルフェリオンなら何か知っているのかもしれないが、それが自分の耳に入ることなどないことも、ファーラは経験則として知っていた。
故にファーラはとうに通路の奥に消えた物悲しい――あくまで彼女から見た錯覚の類であろうが――紅い背中に、心より謝した。
(ありがとう、ガル……)
*
私にとってそれは悪夢どころか虚無の只中ですらなかった。
意識が泥土の中に塗り固められるような感覚であり、ただひたすらに重く気怠い感触に、私は遂に己の最期の時が訪れたことを悟っていた。故郷ではなく、得体の知れぬこの閉じた世界の片隅で命運付きたことを知った。
悔いはあった。
否、薄れいく意識の中で悔いだけが最期まで残った。妹の亡骸を探し出すことができなかったという、どうしようもない悔いが。
あれ程に、あれ程までに固く誓ったにも関わらず。
後はただ途絶えるだけの意識の中で、私の中にとある疑念がふと浮かんだ。見当外れも甚だしい、何ともおかしな疑念が。
これほどまでに未練と後悔に塗れた私の――正確には、人の身を無くした石の巨人である私の横にも、“幽霊”が出現するのであろうかと。
如何にも私らしい、愚にもつかない最期の思考。だが私には疑念と共に永遠の眠りに就く事すらも、許されはしなかった。
無くなったと思っていた痛みがわたしの体をバチンと叩いた。本当に、ビックリするほどいきなりのタイミングで。
苦悶の叫びを、しかし私は堪えた。失せた筈の痛覚の疼きに耐えながらも、次に私は怯えた。神など信じていない以上、死後にこの身を焼く地獄など存在する筈も無いというのに私は――
わたしの体が熱を持っている。胸の奥が熱い。心臓のへんがとても熱い。痛いのと熱いのが、心臓から体中に広がっていく。手と足の、指の先にまで――
私は知った。これまで宵闇の中に溶け込み存在自体が稀薄であった筈の己の四肢に、今、力が戻る様を。この痛みこそが、言わば鍜治場のふいごの如くに――
わたしには分かった。この痛みが、痛いけど決して悪いことではないんだということが。分かった。きっと――
私は―― わたしは――
私で―― わたしで――
私と―― わたしと――
ナナムゥとそして
バロウルの声も聴こえる
そうだ ふたは 私は
そうだね うん わたしは
私達は――!
*
「どうやってここまで来た」
後ろ手にコルテラーナを庇いつつ、かつてない程に険しい顔でガッハシュートは突如として現れた真紅の青年に問い質した。
「……」
無論、その様な詰問にガルアルスが応じる筈もない。元より今のガルアルスにとって、如何なる“足止め”も意味はなさない。それを一々説明する義理も無い。
故に、ガルアルスの冷徹な視線はガッハシュートではなくコルテラーナの方へと向けられていた。淡々とした宣言と共に。
無駄だ、俺には効かんと。
「……!?」
あたかもそれが死刑宣告でもあったかのように、コルテラーナの蜂蜜色の瞳に濁りが生じる。だがその豹変に気付いてはいながらも、ガルアルスはそれに言及すらしなかった。
(化け物め……!)
真紅の青年の言う『無駄』が何を指しているのかを、ガッハシュートも既に理解していた。
“精神操作”――コルテラーナの周辺にいる者は、ただそれだけで彼女に対して強い親愛の念を抱き、彼女の全てを肯定するようになる。害するなどという悪意の一切を削がれ、自ら膝を屈することになる。
それは物理的な距離としてコルテラーナに近ければ近い程に強固に作用し、試製六型機兵に至っては腹部に刻まれた増幅術式により、それが盲信の域にまで達するように仕組まれていた。
“黒い棺の丘”の中心部で、躊躇なく自爆を選択、実行できることを目的として、である。
浮遊城塞においてコルテラーナのその秘密を知る者は、本人を除いてガッハシュートとバロウルのみであった。所長やモガミのように彼女を前にした時の己の心情の変化を不審に思う者も無論いはしたが、いざコルテラーナに対峙するとその疑念そのものが融解してしまう為に対処のしようがなかった。
音や匂い、或いは視線を媒介にする訳でもなく、そこにいるだけで発動する“魅了”。それは秘密を知るバロウルですらも抗うことの叶わぬ、この世界に住まう者への『軛』であった。
それに抗しうるモノといえば、彼女と根源を同じくする移動図書館の“守衛”と“司書”であり、そして“怨念”の集合体である“亡者”のみである――その筈であったのだ。
洗脳や呪いなどではない、この閉じた世界における絶対の理として。
その意味で、コルテラーナにとっては今まさにガルアルスこそが轟然たるこの世の破壊者、悪鬼羅刹の類に他ならなかった。
「それで…」
依然としてコルテラーナを庇いつつも、ガッハシュートはガルアルスの“圧”を少しでも自分の方に向けるべく口を開いた。
「何の用だ」
「ファーラが世話になった」
ガルアルスが口にした言葉、それは他愛ない礼であった。その字面だけを見れば。
事実、それだけを言うと真紅の青年は、全ての興味が失せたと言わんばかりにそのまま踵を返した。
「待って!」
その去り際の紅い背を、不意にコルテラーナが呼び止めた。穏やかな立ち振る舞いを常に崩すことのなかった彼女からは想像もつかないような、大きく、そして懸命な声として。
ガッハシュートですら、ガルアルスから目を離し背後のコルテラーナへ目を見開いて振り返った程に。
「……」
例え僅か一刻に過ぎぬとは云えガルアルスがその脚を止めたのは、その必死な叫びそのものではなく、ファーラが世話になった“借り”に免じた故であったのだろうか。元よりガルアルスにとって――自身や、ルフェリオンによって守護されたファーラにその効力は及ばないとは云え――コルテラーナは周囲の者の心を支配し偽りの安寧に拘泥する、くだらない存在でしかないのだから。
「貴方なら本当に、この世界を――」
言わば始めから興味の対象外であったコルテラーナが、精神操作ではなく自身の言葉で必死に食い下がっている、それがガルアルスにとっては予想外であり、僅かながらに興味を惹いたのかもしれない。
だが――
「縋るな」
背を向けたまま放たれたガルアルスの返答はしかし、にべもないものであった。それはかつてナナムゥの懇願に対しての返答とまったく同一のものであり、そしてそれで終わりであった。
それ以上の反応を窺うことすらせず、ガルアルスの姿が元来た時と同じように、コルテラーナとガッハシュートの両者の前から消える。あたかも実体の無いモノが、扉どころか壁そのものを透過して去ったが如くに。
「……凄まじいな……」
先程とまったく同じ嘆息をガッハシュートは口にした。他に言いようもなかった。
“守衛長”である彼が、ガルアルスが出現した時点で配下の“守衛”達を召喚しなかったのは、例え総がかりでも『龍』なる青年と刺し違えることすら難しいと推計していた為でもある。
(それに……)
ガルアルスがこのまま去ろうとしているのではないかという予感が、ガッハシュートにはあった。自分達や浮遊城塞の前からといった小さな括りではなく、この閉じた世界そのものから。
憶測であり、確たる理由なども無い。密封されたこの世界から、如何にして脱出する算段なのかを知る術も無い。だが、せめてこの世界の障壁を破る糸口を掴めるかもしれないと、ガッハシュートは己自身に言い聞かせた。
浮遊城塞も、目を懸けていた試製六型機兵もその活動を止めた今、ガッハシュートが我知らず漏らした呟きは、単なる自身への慰めに近いものでしかなかった。
「もう一度、最初からやり直すだけだ」
(最初から……)
コルテラーナの濁った蜂蜜色の瞳の内に、再び焦点が結ばれる。
捨て去った筈の、暗い決意を再び抱くと共に。
(もう一度、最初から……!)
元の構想では今回の途中から最終章でした。
書くペースを早めねばならないことは承知しているのですが…