鬼轟(22)
『神』――各々の耳元に響くガルアルスの宣告を前に、自ら進んで言葉を返すことができた者は皆無であった。
「――悪魔」
静まり返った浮遊城塞と、死の大地と化した戦場の上に、ガルアルスの言葉だけが粛々と流れる。
「勇者…魔王…救世主…破壊者…旅人…招かれざる客…神魔…化鳥…超高次元の魔神…風を渡る者…永劫の戦士…超獣…神の側の使徒…魔の側の尖兵…人の形をした災厄…外来神…火炎魔人…魔皇子…告死十四使…炎の髪を持つ男…星砕き…黙示録の“獣”…火の大葬…妖魔の君主…死の王…惑乱の公子…炎羅…太陽の仔…死の翼…赤衣の王…紅衣の公子…紅蓮の剣…紅蓮の装者…紅孩児…火鬼…星の精…」
この場に居る者にとってほぼ全てが聞き慣れぬ“名”を列挙していったガルアルスであったが、やがて飽いたのかのように一旦は羅列を止めた。
「……貴様ら定命の者は俺を様々な“御名”で呼んだ。だが、最後に必ずこう呼ぶのだ」
ガルアルスの三白眼に焔が揺らぎ、その宣告は不可視の言葉の刃となって聴いている者の胸を衝撃で刺し貫いた。
「――『龍』、と……」
「ふざけるなっ!!」
轟く怒号。それは半ば悲鳴に近いものであり、そして浮遊城塞の者達から発せられたものではなかった。
ただ身悶えを重ねるばかりの“幽霊”の群れと、幸運にも生き長らえたほんの僅かな者が這いずりながら必死の潰走を図る地獄の様な死の荒野。その只中において、絶叫の主である青年がヨロヨロとその身を起こした。
六旗手の一人でもあるザーザートが、己の“旗”である長杖に縋り付き、半死半生の身のままに。
「何が神だ! 何が龍だ! 馬鹿にするのも大概にしろ!!」
呪詛を喚き散らすその顏を隠すべき仮面はとうに砕け落ちており、白目の部分が少ないという――ナナムゥやカカトと同じ――特徴的な瞳を持つザーザートの素顔が露わとなる。そればかりか、厚い外套を始めとする、その身に纏っていた着衣の殆どが既にボロボロと崩れ去っており、山窟の民の出として相応に鍛えられた肉体が夜気の下に晒される。
上半身が完全にむき出しの裸身となったザーザートであるが、彼の着衣だけがこうまでも崩壊を遂げたのには理由があった。
剥がれ落ちた着衣の残骸がポロポロとザーザートの脚元に堆積し、その遺児達としての正体を露わとする。一見しただけでは単に衣服が破れるという現象に過ぎなかったが、彼の身を護る“鎧”として衣類に擬態していた遺児達までもが、ガルアルスの“気”に当てられて壊死したのであった。
露わとなったのはそれだけに留まらなかった。おびただしい充血によって、今はガルアルスに勝るとも劣らないまでに真紅に染め上げられたザーザートの両の瞳。ナナムゥやカカトと同じ生体兵器の出自であることを示す、白眼の少ない真の瞳。
尤も、それは今更と言っても差し支えない程の秘め事が暴かれたに過ぎない。程度の差こそあれ『ザーザート』自体を知る者もこの場には幾人か居た為である。例えばナナムゥはカカトの知識を通じてザーザートが生体兵器であることは朧げに理解していた。そして何よりも、かつて商都ナーガスで方術の同門として机を並べ学んだ過去を持つティラムにとって、露わとなったザーザートの素顔は懐かしくも見知ったそれであった――その筈であったのだ。感傷と共に。
だが、にも関わらずティラムがくぐもった悲鳴をあげたのは、ザーザートの素顔とは別に露わとなった部位が原因であった。
――怨!!
声として発せられたものではない。叫びとして轟いた訳でもない。だがこの場に居る者達の耳には確かに届いた。
怨嗟の声が。
ザーザートの裸身の脇腹で両目を剥いた、ティラムに悲鳴を上げさせたモノの垂れ流す呪詛の怨念が。
「そういうことか……!」
我知らず冷や汗を浮かべながら、ギリリとナナムゥが歯噛みする。そのまま足下の地獄絵図に猿の様に駆け降りようとした彼女に対し、モガミの鋭い叱咤が飛んだ。
「行くな!」
「はぁっ!?」
眉間に深い皺を寄せて振り返りはしたものの、ナナムゥは強行することなくその言葉に従い一旦は立ち止った。それはモガミに師事したカカトを己が内に同化した事により、ナナムゥの心境にも間接的な師弟としての何がしかの影響が表れた故であったのかもしれない。
「“亡者”の姿が見えん。警戒を怠るな」
「――!」
ナナムゥがハッとした表情を浮かべる。
モガミの云う“亡者”とは、ガルアルスの到来で追い散らされて地の底に逃げ帰った尖兵としての“亡者”ではなく、ガッハシュートと同じ貌を持つ“亡者”メブカを指すことは改めて訊くまでもなかった。
“地の底”に引き摺り込まれたファーラ達をガルアルスが引き上げた際の衝撃で消滅していれば御の字ではあるが、そこまで甘い願望を抱く者は流石にこの場にはいない。それだけにメブカがまったく姿を現さない今の状況は、極めて不穏以外のなにものでもなかった。
「アレに……」
ナナムゥに問い掛ける所長の声もまた震えていた。ザーザートの脇の腹にあるモノを前にして。
「アレに何か心当たりが?」
「生体兵器は互いに死んだ同胞の肉体を同化するように造られておる」
答えるナナムゥの貌も、青白いを通り越して白蝋のようでもあった。
「じゃが奴は…ザーザートはそれに失敗したんじゃ……」
同化――それは他ならぬナナムゥ自身がカカトの遺体を“繭”の内に取り込み、その肉体を幼女から少女への変貌すら遂げてみせた。その実例があるだけに、“同化”そのものに対するナナムゥの説明は非常に簡潔であった。それでも理解してくれるだろうという、所長への信頼もあった。
そもそもが“前座”である同化の説明に時間を掛けていられないという実情も後押しした。
ティラムが悲鳴を上げ、所長が慄いたアレ――ザーザートの脇腹に顔を覗かせた、悪夢の産物のような少女の正体を語るにおいて。
ナナムゥと同じく白目の少ない漆黒の大きな瞳はあたかも髑髏の巨大な眼窩そのものにも視え、そしてザーザートに憑り付いた悪霊のようでもあった。
ここまで呪詛を振り撒く存在と成り果てたからには、少女の死に際において傍らに黒い“怨霊”が出現したであろうことも想像に難くない。それが“彼等”によって定められた、この閉じた世界における絶対の取り決めであるのだから。
ナナムゥが『そういうことか』と歯噛みしたのは、まさにそういうこと――死に際に現れる“怨霊”の類が全ての要因であると悟った為である。
ザーザートが同化に失敗したという事実のみならず、その失敗した原因についてナナムゥは確信に近い推察を得ていた。だが所長に対しナナムゥが敢えて口をつぐんだ理由は、彼女自身ですらも釈然としない非論理的な感情によるものであった。
切迫した状況である為、悠長に説明している暇が無かったというのも無論ある。だが、“同族”としての同情、更に言えば憐憫の情に流された故ではなかったのかと、ナナムゥは後に思い起こすことになった。依然として判然とはせぬままに。
(ザーザートよ、お主は死体だけでなく、その“怨霊”ごと同化しようとしたのじゃな……)
同朋の亡骸を取り込んでその知識を増す――生体兵器としてどのような目的でそのような共食いめいた奇天烈な特性を与えられたのかまではナナムゥが知る由も無い。だが、この世界特有の“怨霊”などと云う得体の知れぬ存在との同化が想定などされていないことは、疑問を抱くまでも無く明らかであった。
正気の沙汰ではないと、ナナムゥは改めて独り慄く。或いは生体兵器としてまったくの異物であればそもそも同化の対象には成り得なかっただろう。だが“怨霊”は――死体の傍らに立つ“怨霊”は“異物”とは認めがたいものであったのだ。
少なくとも、ザーザートにとっては。
『正気の沙汰ではない』という言葉が、比喩ではない的を射たものであることもまたナナムゥは本能的に理解していた。ザーザートの脇腹で呪詛を垂れ流す、既知の外にある女の貌を認めた時から。その狂気が“本体”であるザーザートにも伝搬していることも疑う余地もなかった。
(あれでは正気など到底保ってはおられまいに……)
眉間の皺をより一層深めながらナナムゥは一時的にではあるが目線を逸らした。肝心の、ザーザートの脇腹の同族の女が何者なのかも知らぬままに。
そしてナナムゥとは別にもう一人、口にこそ出さなかったものの、晒されたザーザートの真の姿を前に悲痛に暮れる者が居た。かつて商都ナーガスで共に方術を学んだ仲のティラムである。
ナナムゥやカカトが持つ生体兵器としての特性、すなわち同族を“同化”して“力”を増すというその特性自体は、ティラムもモガミから教えられてはいた。とは云えティラムの理解はあくまで表面的なものに留まり、ましてやそれがザーザートにすぐに結び付いた訳ではない。そもそもモガミやナナムゥとは違い遠目の効かないティラムには、ザーザートの脇腹に溶け合った頭部が女のソレであるだろうと辛うじて推測できた程度である。もし実際にその細部まで視認できたと仮定しても、ティアムにとって見知らぬ顔であることには変わりない。
だが、それでもティラムには確信があった。ザーザートの脇腹に共にあり、その狂気でザーザートを蝕んでいるその貌こそ、彼がかつて折りに触れて語っていた、姉のティティルゥであろうことを。
「……それが貴様の怨讐の源か」
浮遊城塞から見守るナナムゥとティラムの二人が揃って口を噤んだのは、ザーザートに対する同情なり悲嘆なりがそうさせた故である。
だが、ガルアルスが単に淡々と呟くだけに留まらず、ザーザートに相対する地の上にわざわざ降り立ったのがどういう心境からであったのかはこの場にいた誰にも分からない。例えそれが御付きの水晶球であろうとも、或いは捕囚たるファーラであろうとも、誰にも定かではないだろう。
「嗤うかアルス! 惨めな我らを!!」
血走った目で、ザーザートが叫ぶ。それはどこか泣き笑いの様な哀愁と狂気を帯びていた。まるで己自身に対する嘲りでもあるかのように。
少年ではなく青年の姿のガルアルスをその目にするのは無論ザーザートにとっても初めてのことではあるが、その真紅の出で立ちを見紛うことなどは有り得ない。だが実のところ既にザーザートにとっては、ガルアルスの姿が少年であろうが青年であろうが些細な相違でしかなかったのである。
生かしてはおいてはいけないモノ。
存在していてはならぬモノ。
この世のあらゆる暴虐に曝された自分達姉弟にとって、眼前の眩しくも超然とした存在はまさに忌むべきモノであった。地べたに蹲る惨めな自分達を遥か高みより灼く真紅の太陽は、決して赦してはならぬ“傲慢”の象徴であった。
眩しさに脇のティティルゥが悲痛に哭く。
輝きに、この目が潰れてしまうから、と。
輝きに、貯め込んだ怨念ごと灼き尽くされてしまうから、と。
(――だからこそ!)
無造作に自分達の眼前に降り立ったガルアルスに対し、ザーザートは渾身の力をもって叩き付けた。怨念を。彼等姉弟にとっての最後の手にして、それが故に必殺の一撃を。
“糸”――それはザーザートやカカトのような、この閉じた世界に落ちた生体兵器群に元より備えられた工兵としての能力である。彼の操る遺児達と呼ばれる黒い“布”の群体も、元を正せばその“糸”を編み上げたものであった。
ザーザートが体内で――否、完全には同化できなかったティティルゥの胎内でと言うべきか――長い時間を掛けて精練を重ねた特別な“糸”は、彼等生体兵器が生成する“糸”の中でも最も特異にして最も時間を要するものであった。
怪異の域と言っても過言ではない。
刃こぼれをするどころか、この世に断てぬものなど存在しない、鋭利を超えた鋭利。それこそが、必殺の単分子の“糸”であった。
カカトが繰る“斬糸”――すなわち己の血を染み渡らせることによって硬化する“糸”に性質としてはかなり近い。だが単分子構造による切断力は比較にならず、また己の血を捧げるという、代償として事実上の命を賭す必要も無い。その意味ではティティルゥが胎内に秘蔵している“単分糸”はカカトの“斬糸”の上位互換であるとも言えた。
とは云え無論欠点もあり、ザーザート自身もそれは熟知していた。それが故に“単分糸”を己の体内に貯め込みながらも、ザーザートはこれまでひたすらに秘蔵としたのである。
その“単分糸”の致命的な欠点とは二つ。一つは精製の効率があまりにも悪く、事実上の死蔵に近い扱いであるにも関わらず、そこまでの長さを確保できてはいないことにあった。そしてもう一つが、ティティルゥの胎内から射出したとして、大気に触れて後に程無くして融解する、すなわち再利用不可であるという特性であった。
特に後者の致命的な弱点がこの世界の大気に由来するものなのか、或いは“自律兵器”に対し敢えて設けられた制約であるのかまではザーザートが知る由も無い。
何れにせよその二つの致命的に等しい要因により、あらゆる物体の寸断が可能であるという“単分糸”の能力を遺憾なく発揮するには、ザーザートの至近距離の範囲に限定されることを意味していた。
だが今、その困難な条件に対し怨敵であるガルアルスは不用心にも地面に降り立ち、あまつさえ自らの眼前に留まっている。
神の存在などザーザートは信じない。万が一それに類するモノがあったとしてもザーザートはそれを呪う。だが今この瞬間だけは、確かに神の気紛れによるものとしか思えぬ千載一遇の好機であった。これが最初で最後の好機であることもザーザートは承知していた。
迷う理由は無かった。
迷う猶予も無かった。
故に必殺の“単分糸”を今、ティティルゥは放ったのである。ザーザートの繰り出した数多の“糸”に紛れ込んだ、必殺の一糸――否、ガルアルスを全方位から包み寸断する為の“網”として。
“単分糸”を展開するにあたり、ザーザートの“糸”でその表面を包み込んだのは、少しでも大気に触れる時間を延ばす為であり、真紅のガルアルスの発する熱から護る為でもあった。何よりも蜘蛛の巣の様に網目を張り巡らせるには、“単分糸”のままでは質量が足りなかったと云う理由もある。
元よりザーザートが射出した“糸”の殆どは、単なる目晦ましの意図によるものでしかない。網の目を緻密に形成できるだけの長さの“単分糸”の蓄えなど始めから有りはしない。それでもガルアルスの放つ熱気に灼かれた“糸”の中から出現した“単分糸”の網は、ガルアルスの背後に蕾が花開くように展開され、そしてその真紅の背面に触れた。
(――殺った!!)
ザーザートは一気呵成に“単分糸”の網を引き絞った。己の憤怒と姉の怨嗟の思いを込めて。骨肉を断った手応えは掌に皆無であったが、“単分糸”がそれ程までに鋭利であることを、片手の指で足りる試行回数であったとは云えザーザートは充分に心得ていた。
ガルアルスの背中から胸部まで、“単分糸”の網目が奔り抜ける。肉体ではなく液体の中を薙いだかのようにあまりにも容易く、呆気なく。役目を果たした“単分糸”の網はそのままガルアルスとザーザートの間の地面に墜ち、その直径の微細さ故に事実上の不可視のままに融解を始めた。
ガルアルスの身体全体が僅かに揺らいだかのように視えたのは、その身を通過した幾重もの斬撃による影響であったのだろうか。
「……」
おもむろに、ガルアルスがザーザートに向けてズイと新たなる一歩を踏み出す。己が身体が“単分糸”によって既に網の目状に寸断されている事に微塵も気付いてはいないとしか思えぬ、無造作な足運びであった。
その歩み出したガルアルスの脚は再び地を踏むことなく切断され、バランスを崩してよろめいた肩口からも両の腕が付け根からボトリと落ち、ようやく己の身に何かが起こったことを悟ったガルアルスが紅い三白眼を大きく見開き、しかし呻き声一つ上げる間も無く最期の刻を迎える。出来損ないの玩具の様に、紅髪を振り乱した頭部がボトリと転がり落ちる。その衝撃的な結末を前に、浮遊城塞からこちらを覗き見していた者達の絶望の悲鳴がザーザートの耳にまで心地よく届いた。
その筈であった。
その筈であったのだ。
だが、そうはならなかった。
「何をした……」
すぐ目と鼻の先にまで迫るガルアルスに対し、ザーザートが辛うじて口にできたのは悲鳴じみた叫びだけであった。
「貴様一体、何をしたっ!?」
掴みかかろうと思えば、そのまま掴みかかれる距離であった。明らかに取り乱しながらもザーザートがそれをしなかったのは、彼に残された最期の矜持故であったのかもしれない。
最期――本能的にザーザートはそれを、我が身の破滅を否が応でも悟っていた。彼の脇腹のティティルゥの成れの果てすらも、怨嗟の嗚咽を止め、虚ろな眼窩で真紅の青年の貌を見上げるばかりであった。
“単分糸”が――確かにガルアルスの身体を薙いだ必殺の“糸”が――何故に無効化されたのかは分からない。だが一つだけはっきりとしている事は、自分の打つ手が皆無となったという残酷なる事実であった。
「……」
真紅の青年が、地に降り立って後始めてその口を開く。青年はザーザートを嘲りはしない。誇らしげでもなければ、憐れみの視線を投げかけた訳でもない。ただ淡々と、冷酷たるこの世の理を口にしただけであった。
「――貴様ら定命の者の指先が、この俺に届くとでも思ったか」
「馬鹿にするなっ!」
己が龍であるという独白を聞いた時と同じ激昂をザーザートは口にした。
「我ら姉弟を踏みにじって言う事がそれか! 我ら姉弟だけが命も! 尊厳も! 未来も! 希望も! 何もかも無残に踏みにじられて! 今がそうだ! 正にそうだ! こんな馬鹿な話が罷り通ってたまるものかっ!!」
ザーザートの慟哭は、絶叫は、正に彼等の千切れた魂の欠片を吐き出す行為そのものであった。
「ようやく復讐を! 報いを与える側になった筈なのに、今度はお前の様な得体の知れぬ化け物が邪魔をする!!」
「……」
「全知全能を気取るのならば、答えろアルス! なんで我ら姉弟だけが――」
「かつて貴様に言ったな」
悲鳴じみて吠えるザーザートの言葉を遮り、再びガルアルスが口を開いた。それは依然として余分な感情の無い淡々とした口調であり、呟きめいていながらも――これまでと同じように――後方の浮遊城塞のファーラ達の耳にまで不可思議に届いた。
「貴様には、絶望の果ての死を与えると。だが――」
それまでザーザートから目と鼻の先の位置にいたガルアルスは更に無造作に歩を進めると、遂に互いの息吹すら感じられそうな真正面に立ち、そして告げた。
「貴様は届かぬとは云え、二度も俺に指先を掠めてみせた。それに免じて苦しまずに葬送ってやろう」
「――!!」
その瞬間にザーザートが発した憤怒の絶叫は化鳥のそれに等しく、人としての言語をまったくと言ってよいほど成してはいなかった。それまでは矜持によって辛うじて踏み止まっていたザーザートであったが、遂に恥も外聞もかなぐり捨てて、只々狂乱に駆られるままにガルアルスの胸倉に掴みかからんと全身で跳ね上がった。
だが最期まで、ザーザートの指先はその真紅の身体に触れる事は叶わなかった。せめて僅かにでも掠める事が叶ったかどうかすらも朧気な願いと消えた。
「――っ!?」
撃たれたことを、ザーザートは知った。
微動だにしていないように見えたガルアルスの真正面から、大きく、そして激しく弾き飛ばされながら。
飛び掛かった両の拳が虚しく空を掴む。そして弾き飛ばされ宙を舞う中、既に霞み始める視界でありながらもザーザートは確かに視た。己が剥き出しの腹に突き立ち貫いている真紅の“炎”を。
熱も、痛みすらも我が身に及ぼさないその“炎”が、しかし自分と姉という存在を灼き尽くす滅びの炎だということを、途切れ途切れと成りつつある意識の中でザーザートは悟っていた。
全ては刹那の出来事であり、半ば走馬灯めいた末期特有の刻の流れであったのだろう。ともあれザーザートは己の腹に墓標の様に突き立つ“炎”と、既に灼かれたか呪詛の嗚咽を発することすらなくなった姉の顏を諸共に掻き抱いた。
まるで、まだこの世の苦しみを知らぬ、生まれ出でる前の胎内の赤子の如くに。
「――亡者!」
それがザーザートの断末魔であり哀願でもあった。
「今こそ盟約に従いこの身を捧げる!」
まるで天からではなく真逆の地から土砂降りの雨粒が沸き立ったが如く、地面から顕現した数多の黒い怨念の粒がザーザートの体を取り巻き始める。
「この恨みを…恨みをっ――」
ザーザートの身体が、絶叫が、脇腹のティティルゥごと、集束する幾重もの怨念の渦の中に呑まれ消えていく。
「無駄な足掻きを……」
目の前で繰り広げられる異様な光景に対しても、ガルアルスは依然として淡白であった。
己が与えた浄化の炎を消すことなど出来る筈も無い。その証左としてザーザートを今や完全に呑み込んだ暗黒の渦――それが“亡者”の集合体であることも無論ガルアルスは承知していた――の内部においても、まるで行燈の様に依然として紅い炎が視認できた。
だが、逆に言えばそれだけであった。ガルアルスが当然の事として予期したような、“亡者”たる怨念の塊を内部から浄化の炎が灼き尽くすようなことは無く、むしろ中央に灯る炎の輝きは、急速に暗く小さなものへと変じていく様が目視できた。
「ほぅ……」
ガルアルスの三白眼が――初めて――スゥと僅かに細まる。
「何がどうなっておる!?」
状況に付いていけていないのは、むしろ浮遊城塞から固唾を呑んで成り行きを見守るしかないナナムゥ達の方であった。皇室直属の忍者として研鑚を積んだモガミですら、いつの間にやらコルテラーナと老先生が揃って姿を消している事を見落としてしまっていた程に気を取られていた。
バロウルと、そして蹲る形で微動だにしない試製六型機兵だけはこの場に置き去りにされたままであった為に、気配がそれに紛れてしまったという、モガミが気付くのに遅れた理由も有りはしたのだが。
“これは…前例が無い事象ですな……”
それまでファーラの肩の上で行儀の良い傍観者然としていた水晶球の声に、始めて動揺らしき色が浮かぶ。それが珍事であることは、肩の上を貸していたファーラが、真横を向いて水晶球をまじまじと見つめたことからも明らかであった。
「良くないの、ルフェリオン?」
“『亡者』の群体がガル=アルス様の常世のモノならざる炎を内包しました。それはすなわち”
水晶球が一旦言葉を思わせ振りに区切ったのは――ファーラがぽかんとした顔をしたのは無論のこと――その意味するところをこの場に居る皆に伝えあぐねたが故であったのかもしれない。
“あの『亡者』の集合体は定命の運命を超越したのです”
持って回った説明に、ナナムゥの渋面がかつてない程のものとなる。
「要はなんじゃ?」
「並んだということだ、その存在が、真紅の男に」
いまだに事態を完全に呑み込めてはいないナナムゥに対し、こちらも珍しくも険しい目線を露わとしたままにモガミが応える。それに対し、更に何かを口に仕掛けたナナムゥであったが、隣に立つファーラのただならぬ様子にギョッとして口をつぐんだ。
「駄目よ、ガル……」
足下で対峙する真紅の龍と、龍の炎を己がモノとし内に灯した“亡者”の巨塊。共に常世の存在であることを超えた存在である。
祈るように手を組みそれを見下ろす異界の姫君の黒い瞳はこれまでにないほどに真摯で、そして沈痛なものであった。
「戦っちゃ駄目……!」
「ファーラ、お主は……」
敗北を予感したのだと、戦慄と共にナナムゥもまた確信し、そしてそれは正しかった。ファーラの憂いの源に関しては。
上方の浮遊城塞の人々が静まり返るのを余所に、ガルアルスが初めて右足を半歩だけ、引いた。
「……」
無言を保つ真紅の青年の眼前で、ザーザートを呑み込んだ“亡者”の渦にして塊は、ようやく単なる暗黒の粘塊から確たる一つの明確な“個”へとその外観を変貌させた。
“亡者”メブカ――ガッハシュートと同じ顔を持つ、暗黒の化身たる青年の姿へと。
貌の造りこそ貴公子然としていながらも、依然として“死”そのものの顕現であるかのように陰鬱で凍てついた表情を保ったままに。
否、水晶球の解析が偽りの無いものであれば、定命の宿命を超えたモノ、すなわちガルアルスに並ぶ永劫不滅に限りなく近しき存在であった。“死”の顕現などとは真逆の存在であると言えた。
それを“昇華”と呼べるのか、呼んで良いのかは別として。
一旦は明確にメブカの形をとった“亡者”であったが、その“人”としての身はたちまちの内に膨れ上がった。かつての“六旗手”メブカとしての上半身は留めたままに、漆黒の巨人として。
その下半身が地に埋没しつつも更に大地を割り裂いているであろうことは、目には見えずとも自ずから明らかであった。そして地表においてあたかも胸像の様に聳え立つその上半身が、膨張を止める気配が皆無であることも確かであった。今でこそまだ人型を保っている“亡者”メブカの巨体が時を置かずして崩れ落ち、溶岩の如く地表に流出し浸食していくであろう光景が、浮遊城塞で見守っている全ての者の脳裏に悪夢としてまざまざと浮かんだ。
「この世界の全てを覆い、呑み込むつもりか……!」
ナナムゥは、辛うじてそう呻くことしかできなかった。所長も、ティラムも、シノバイドであるモガミやミィアーでさえも又、滅びの前兆を前に言うべき言葉を無くしたままであった。
膨張を続ける“亡者”メブカを構成する怨念は無尽蔵としか思えなかった。幾ら累積されてきたとは云え、閉じた世界に存在した元々の住人の数など、たかが知れているにも関わらず。或いはそれは“亡者”の内に取り込まれたザーザートの屍の腹にいまだに灯る、ガルアルスの“力”の“炎”による副次的な恩恵によるものであったのかもしれない。
それとも、ザーザートの屍と共に飲まれた二振りの“旗”によるものか。
“――サリア・シス・ファラド”
突如として巨大な“亡者”から発せられた低いその声は、果たして“亡者”メブカその人の遺志によるものであったのだろうか。
今や指先一つでガルアルスを圧し潰せるまでに巨大化したメブカの上半身が、『サリア』という己が呟きを合図に始めて動きをみせる。腰から下を地中に埋没させたままの漆黒の巨体が、まるで山が崩れ落ちるように真紅の青年の上にのしかかる。死する直前のザーザートの身体をそうしたように、その“怨念”の内にガルアルスをもまた取り込もうとしているのだということは、浮遊城塞で呆然と見守るしかない誰の目にも明らかであった。
唯一人の例外として、辛うじてモガミだけはこの後の事について素早く考えを巡らせていた。“亡者”が真紅の男の吸収に成功し更なる上位存在――俗な言い方をすれば――すなわち“半神”めいた存在に到達することができたのならば、それはこの閉じた世界を封じる障壁を破壊可能な存在と化したことを意味するのではないかと。例え制御が不可能だとしても、シノバイドの総力を結集すれば、“亡者”の巨体を障壁まで誘導することは可能であろうと。
囮となるシノバイドの損害は計り知れない。例え首尾よく障壁を破壊できたとしても、恐るべき存在と化した“亡者”が依然としてそこに残る以上、その脅威の前には逃げ惑う他ないであろう。
だがと、モガミは決意を新たにする。例え暫定的な解決でしかなくとも、この閉じた世界で只いたずらに主たる所長を呑み込ませる訳にはいかないと。
そして、当事者たるガルアルスは浮遊城塞に背を向けたまま微動だにしなかった。
迫り来る雪崩の前に、或いは頭上を覆う大津波の前に一個たる“人”があまりにも無力であるように、正にそういう風にガルアルスの姿は視えた。惑星を砕き恒星を断つなどと云う大言壮語を幾ら重ねたところで、圧倒的な質量差の前には虚しい戯言としか思えなかった。
この場に居る、ほぼ全ての者にとってはそうであった。
その予感を後押しするかのように、それまでガルアルスの声が不可思議にも耳に届いた時に仄かに感じられた真紅の微熱すらも――それがガルアルスがファーラとルフェリオンに声を届ける際の副次的なものだったのだとナナムゥが思い至ったのは、後に彼等を偲んだ時であった――立ち消えた。断ち切られてしまった。
巨大なメブカの上半身という形状が遂にくずおれた暗黒の粘塊の奔流に、ガルアルスは抵抗することなく頭から呑み込まれた。
“ここまでですか……”
浮遊城塞の中で、水晶球の妙に人間じみた吐息のみが聴こえた。ファーラは悲し気に顔を伏せ、いつもは無鉄砲に飛び出すナナムゥですら呆然とこの場に立ち尽くしたままであった。
「――貴様が」
だが、ガルアルスは健在であった。周囲に“力場”の様なものを展開して漆黒の“亡者”の浸食を防いでいる、などと云うことではない。ただ、当然の様に“亡者”の渦の中に立ち、当然の様に焔の如き紅い三白眼を見開いていた。
真紅にして流浪の龍として、常世の理に縛られぬモノとして。
「貴様等が、その定命において如何なる因果により如何なる憂き目に遭ったのかなど、俺の知ったことではない」
メブカの姿を取ったとは云え、ガルアルスの言葉はあくまでザーザート達姉弟に向けられたものであった。
それは、ガルアルスの自己満足じみた呟きなどでは決してない。混ざり合った“亡者”の暗黒の内にあるガルアルスの目の前には、いまだ溶け合うことの無いザーザートの屍体が浮かんでいた。腹に“炎”を突き立てたまま、周囲を衛星の様に回る二つの“旗”の光珠と共に。
頭から“怨念”の濁流に呑まれながらも今なお半歩右足を引いたままの体勢を保っていたガルアルスが、更に僅かに腰を落とす。右の拳もまたその動きに合わせて五指を伸ばし手刀を形造る。
“亡者”の粘塊の中で、ガルアルスが四肢に力を込めその流れに抗っている訳ではない。かと言って、逆に“亡者”の粘塊がガルアルスの身体に触れるのを自ら避けているという訳でもない。
同一にして異なる位相の中に、ガルアルスと“亡者”は諸共に存在していた。この閉じた世界における同一の場所に在りながらも、互いに不干渉にして決して混在しない存在。
永劫不変のモノ、干渉の許されぬモノ――ガル=アルスとは、龍とは、そういう存在であった。
「これで終わりだ」
ガルアルスの手刀が、屍の腹の“炎”を穿つ。ザーザートを、ティティルゥを、メブカを、“怨念”の塊として集合したその他数多の“亡者”の群れを、真紅の炎が包み込む。その周りを回る二つの“旗”さえも。
全ては一瞬のことであった。ガルアルスの頭から崩れ落ち、呑み込んだ“亡者”メブカの巨大な上半身は、全体が赤く発光したのも束の間、たちまちの内に一片の欠片も残さず蒸発した。
蒸発したのは地上に露出していた上半身だけに留まらない。ガルアルスの手から成る灼熱の波動は瞬時に“亡者”の粘塊の端々にまで到達し、いまだ地下奥深くに蓄積されていた古からの“怨念”の残滓すら余すことなく蒸発させた。
定命の理を超えた“亡者”メブカをも灼き尽くす龍の炎。瞬時とは云えその輝きは、あたかも地上に顕現した小型の太陽さながらであった。
ナナムゥを始めとする生者はガルアルスと“亡者”メブカを中心に照射された赤光のあまりの眩さに手で顔を覆い、元は公国の者の慣れ果てとして周囲に蠢く“幽霊”達は、苦悶にその身を激しく揺らした。
「今生の苦難も、怨恨も、因果も、その全てを忘却し次の生を歩むがいい……」
赤光の中のガルアルスの呟きは、誰の耳にも届かぬものであった。
「それが、不変である俺には決して赦されぬ、貴様等定命の者の特権だ……」