奇郷(11)
私信:加世田先生へ。お情けのptはいらんと言ったな。アレは嘘だ。
(――生身!)
ガッハシュートの言葉に私は激しく動揺した。無論、目の前の理不尽な襲撃者の言う通り、元より私の拳など当たりはしない。当たる筈もない。
だがもし、もしも何かの間違いで私の殴打が直撃したとするならば――。
手加減などできる筈もないド素人の私の石の拳が、何かのはずみでまぐれ当たりでもしてしまったならば――。
起こりうる惨劇の果ては、火を見るよりも明らかであった。
確かにあの夜――何もかも喪ったあの夜に同型機との戦いは経験した。文字通り死闘とも云える肉弾戦を。
しかしあの時は目の前の苦境を乗り切るだけで精一杯であったし、何よりも互いに発声機能が無い為に意思疎通を図ることもできなかった。
まさに私にとっては意志の無い人型のロボットを相手にしていると同じであった。あくまで相手を『破壊』するかどうかであり、『殺す』のではないかという危惧を抱くことすらなかった。
しかし今、目の前に立つ青年は紛れもなく『人』である。
言葉を話し、表情に感情の浮かぶ、意思疎通の可能な『生命ある者』であった。
(できるのか、この私に……?)
最初の動揺は既に失せていた。自分でも意外な程に、私はそれ以上に取り乱すことはなかった。
自分の中で、既に覚悟は完了していたのだろう。
人の姿をした者と闘うことに。命のやり取りをすることに。
命を奪うことに。
自分でも、気味の悪い程淡々と。
既に心情としての殺すか、殺さないか、ではない。
技量としての殺せるか、殺せないか、の問題であった。
「もう帰れ!!」
ナナムゥの罵声が、鬱々とした私の心を常世へと呼び戻す。殺伐とした心の暗がりから、元の星の灯りの世界の下に。
三型の腕の中で強引に身を捩り、何とかこちらに駆け寄って来ようともがく幼女を、私とガッハシュートが同時に制した。
「寄るな!」
「ヴ!!」
示し合わせたかのように重なる私とガッハシュートの鋭い声。その険しさに、ナナムゥはビクリとその場で身を震わせた。
賢い子だと、改めて私は感嘆した。
並の幼児であったなら、それでも聞き分けなくこちらに駆け寄って来ようとしただろう。或いは私達の叱咤の声に気圧されて涙ぐみ、大声を上げて泣きじゃくっていた事だろう。
だが彼女は違った。ナナムゥは三型の腕の中で身動ぎを止めると、気丈にも私に対して懸命に声を張り上げた。
「逃げよ、馬鹿者!!」
己ではなく、“部下”である私を案じた叱咤。初めて会った時から、彼女は私の心に光を示してくれる。
だが、今の私には彼女の叫びに耳を傾ける余裕など既に無かった。ガッハシュートがいつの間にやら指先に挟んで誇示している、鈍く輝く小物に注視していた為である。
暗視機能だけを用いて一瞥した時には、私はその幅広いスティック型をした小物をその形状から――異世界であるにも関わらず愚かにも――ライターか何かだと錯覚した。
だが、星の光の下で鈍い輝きを放つソレを前に、私は胸騒ぎを抑える事ができなかった。
(――何だ!?)
嫌な予感に慌てて拡大機能を駆使して見て初めて分かった。夜の闇の中で星の光を僅かに照り返し輝くソレが、金属で出来たスティックそのものであることを。
流れるような華麗な動きで己が右腕を胸の前で平行に掲げるガッハシュート。左手に持っていた例の謎のスティックを、彼はその自分の右肘に押し当てた。
「ヴ!?」
スティックがガッハシュートの左手の中から消失する。まるでよくある初歩的な手品の一幕の様に。
ギョッと単眼を瞠る私だったが、その手品の種はすぐに割れた。
単なる手甲に思えたガッハシュートの両の肘には、コネクタ状の突起が存在していた。スティックは文字通り、その孔の中に挿入されたのである。
まるでリボルバーに弾丸を装填するかのように。
“――紅銅鉱!”
低音の無機質な音声が夜の帳の中に突如として轟く。
ガッハシュートの右肘から――紅い輝きを纏う右腕の手甲そのものから。スティックが挿入されたという私の観測を後押しするかのように。
手甲を覆う赤光はガッハシュートの右腕の肘から先全てを包み込むと、そこから更に前方に向かって鋭く伸びた。
輝く炎の刃の如く。
悪を断罪する、選ばれし勇者の聖なる剣の様に。
高々と頭上に掲げられた赤い光刃が、篝火のように周囲の闇を明るく照らした。
「受けろ、我が一刀を!」
凛とした口上と共に、再びガッハシュートが地を蹴り私へと迫った。
右腕と完全に一体化した長い光刃が、次の瞬間私の頭上から斜め下へと袈裟懸けに一閃する。
輝く軌跡は、さながら真紅の落雷の様でもあった。
「――ヴ!」
そして私はと云うと、その大振りの一撃をすんでのところで躱した。空を斬った光刃が足元の大地を激しく穿つ。
『躱した』という表現が良く言い過ぎであることは自分でも分かる。実際は転がるように無様に飛び退さっただけだというのが正直なところであった。
それどころか、最初のガッハシュートの宣告が無ければ、私は視界に遅延をかけ身構えることすらままならず、この胸部にあの手痛い光刃の直撃を喰らっていたことだろう。
(くっ…!)
私は喧嘩はしない。身体能力で負けることが分かっているのでそもそも喧嘩など挑んだ事も無い。
拳を交えた経験は、せいぜいが母親に無理やり通わされた子供空手道場の試合くらいである。それすらも、とても『試合』とは呼べない一方的な体たらくであった。
だが今、2年間しかもたなかったとは云え無理やり私に空手を習わせた母親の行為に私は初めて、初めて感謝した。
ほぼ四つん這いと云った情けない体勢からあたふたと立ち上がりつつ、私はガッハシュートの姿を何とか盗み見た。
右腕に光の刃を宿したまま、私を黙って見下ろす青年の姿を。
私が立ち上がる瞬間を待ち構えているという訳ではない。さすがにそれは私ですら察することができた。
空手の試合の時に嫌でも感じた刺すような気配は、そこには微塵も存在しない。
私でも分かる。人の躰を失くした、今の私の石の肌を介してすら分かる。
ガッハシュートが、私の立ち上がるのを待っている――待ってくれているということが。
それは強者の慢心か、或いは無様な私に対する手心であったのか。どちらにせよ私は屈辱などは感じなかった。屈辱に身を震わせる余裕すらなかった。
ヨロヨロと私は拙く立ち上がった。元より生身を備えたままであったなら、私の顔は青ざめ歯の音が鳴り止まなかったに違いない。
逃げるしかない。逃げる事しか出来ない。
だがそもそもの『速さ』が段違いである以上、それは儚い望みでもあった。
(無理だ…!)
絶望に捕らわれる私には、他の打開策などある筈もない。
たった一つ救いがあるとすれば、それはガッハシュートがナナムゥに対しては何の興味も抱いてはいないように見えることだけである。何らかの危害を加えるつもりなら、これまで何度もその機会が有ったのだから。
「ほぅ…」
立ち上がった私を見て、ガッハシュートの口からその一言だけが漏れ聴こえる。
その『ほぅ』が、どういう意味合いの『ほぅ』なのか、私にはマスクで口元を隠されたその表情から読み取ることはできなかった。
「ふ…」
不意にガッハシュートの右腕が、右脇にあたる誰もいない空間を薙ぐ。
「ヴ!?」
咄嗟に身構える私の目の前で右腕に宿った赤い光が消滅し、次いで再び無機質な低い音声が鳴り響いた。
“――排出”
ガシャリというささやかな金属音と共に、何か小さな固まりがガッハシュートの右肘のスロットから薬莢の様に打ち出された。
それが、先程装填した紅銅鉱なるスティックの残滓であることに、私もすぐに見当がついた。
“排出”したということは、更なる一手が待ち構えているであろうことにも。
(――考えろ!)
例え打開策に思い至らずとも、いくら手詰まりで切迫しようとも、私は私を鼓舞するしかない。
他には何も無い。無力な私には何も。
(せめて、ナナムゥが逃げる時間を稼ぐだけでも!)
それさえ成し遂げることができれば、ナナムゥをあの野営地まで逃がす事さえできれば、後は賢い彼女のことだ、バロウルに現在の窮状を的確に伝えてくれるだろう。
そもそも今回の“幽霊狩り”に護衛用の改四型を随伴して来たのは、このような異常事態に備えての筈である。不本意ではあるが後はバロウルの救援に賭けるしかない。
問題は、ガッハシュートにとってもそれは考慮の内であろうということである。
幾ら意に介していないとは云え、例えたかが幼女一人とは云え、ナナムゥがこの場から逃げ去る事を青年が黙って見過ごしてくれるとは到底思えなかった。
まして元より見知った仲であるのなら、彼女の利発さも充分承知の筈である。少なくとも私がガッハシュートの立場ならば、不確定要因としてナナムゥを絶対にこの場から逃がしはしない。
私のような粗忽者でも思い至る危惧なのだから、目の前の青年にとっては尚更のことである。
(後は何か…何かないのか…?)
他に縋る事ができる僅かな希望が残されているとすれば、今はナナムゥが暴れないように抑えている三型くらいだろう。私がここまで持ち込んだこの小型機が、何らかの形で野営地との交信を行っていたとしても不思議ではない。
その交信を介して異常事態を察知したバロウルが救援に現れる可能性が、最も現実性の高い希望だと言ってもいいだろう。
だがそれも、ガッハシュートがナナムゥと三型をまとめて放置している時点で非常に心許無い願望となった。交信の可能性が有るのなら、真っ先に潰しておくのが定石なのだから。
結局は、独力で何とかするしかない。出来るかどうかは置くとして。