鬼轟(20)
今でこそ、浮遊城塞オーファスの工廠長として知られるバロウルであるが、その出自は閉じた世界においても変わり種の部類であった。元より彼女は種としての『人間』ではない。浮遊城塞の付随品――本来の“城主”によって創造された自我を持たぬ補助端末である。本来の仕様としては無意味であるにも関わらず、外見が人型を模しているのは、只の“城主”の手慰みに過ぎない。
そしてバロウルはその様な浮遊城塞で創造された補助端末の最期の一体であり、それは彼女があくまで非常時の予備端末として用意されたことを意味していた。既に稼働状態である同型機達とは異なり未稼働のまま培養槽に死蔵されていた――敢えて通常の生物に当て嵌めるならば胎児の状態の――バロウルは、浮遊城塞がこの閉じた世界に墜ちる際の影響を抵抗も無しにもろに受ける形となった。すなわち“彼等”が施した、閉じた世界に適合するように身体の造りを“調整”される際に、バロウルには明確な自我と生殖能力が宿ったのである。
本来の『人の似姿』から明確なる『人』として。
それは元の“城主”が単なる操作端末に対し、細部に至るまで人の似姿に細部の形状までも拘った趣味の悪さに依る偶発の現象であった。
それ故に、僅かな喜怒哀楽の萌芽と云う不完全な適応に留まった同型機とは異なり、バロウルは『人』と呼んで遜色の無い存在へと変貌を遂げたのである。
だが、本来は持ち得ない“感情”を得た事によって、バロウルは悶え苦しむ宿命を背負ったという事でもあった。彼女にとって感情の突然の昂ぶりは自ら許容できるものではなく、普段から無表情に努めているのもその苦しみの反動故であったのだ。
バロウルにとって、自我が生じたことによる苦楽の何れかが勝る結果となったのかは本人にとっても定かではない。
移動図書館の守衛達によって浮遊城塞が接収され、“城主”亡き後の服属を拒んだ同型機の最期の一人が潰えた後、それまで長きに渡り片隅に捨て置かれていたバロウルはコルテラーナによって見出され、そして目覚めた。正確には浮遊城塞の機能を掌握する為に目覚めさせられたと言うべきか。
最初は幼女の姿として――それもまた“城主”の趣味であったのか、或いは“彼等”による変容の副作用であったのかは最早誰にも分からない――覚醒したバロウルは平均的な『人』の半分の速度で成長し、30年の時を経て工廠長の役職をコルテラーナより与えられた。
そこに至るまでの間、バロウルは常にコルテラーナの庇護の下に在り、まさに育ての親と呼ぶべき存在であった。だが目覚めてから後、バロウルがコルテラーナへの恐怖を忘れることは決して無く、ただ彼女の意向のままに務めてきた。或いは、廃された同型機の“無念”が残滓となって浮遊城塞をいまだに漂い、元々は操作端末であるバロウルが知らず知らずの内にそれに同調し恐怖を拭い去ることが不可能であったのかもしれない。
何れにせよ、誕生の時点から唯々諾々とコルテラーナに従ってきたバロウルが、ここまで強く“親”に異を唱えたのは初めての事であった。
そのなけなしの勇気の源が、彼女にとって初めてできた“妹”であるナナムゥへの情愛だけではないことを果たしてバロウル自身が自覚できていたかどうか。
何れにせよバロウルが必死にコルテラーナを押し留めようとしていたのは、コルテラーナが本当に試製六型機兵を自爆させることを厭わないと熟知していたからである。
試製六型機兵の頭部には専用の通信装置が組み込まれていることを無論バロウルは知っている。専属の技師として、それを組み込んだのが他ならぬ彼女自身であったからである。その通信装置を介して、移動図書館長が選抜した司書が補佐という名目の監視役として図書館の一室に常駐している事も、試製六型機兵自身はその補佐に対し無邪気に“声なき声”と称している事も知っていた――知っていて黙っていた。
コルテラーナへの恐怖によって。幾度も罪悪感に圧し潰されそうになりながらも尚。
これまでの三型機兵を用いた内部への強行偵察の結果、“黒い棺の丘”の暗黒空間においては移動図書館との遠隔通信が遮断されてしまうことは既に判明していた。それに対処する為の独立型機兵である六型の開発に繋がる訳だが、地中に消えた今も尚、その六型機兵との通信は健在であった。
バロウルにとってそれはナナムゥ達の救助の為に現在位置を特定する目印でもあったが、コルテラーナにとってはそうではなかった。手勢である移動図書館の守衛を救助に向かわせるどころか、“目印”が明らかに何かに引き寄せられて徐々に移動していることを確認すると、バロウルの望みとはまったく異なる判断を下したのである。
すなわち、“亡者”の源に引き摺り込まれているとしか思えぬ六型機兵をナナムゥ諸共に自爆させることを。それは六型機兵自身の判断と奇しくも――少女達を巻き込む訳にはいかないと早々に棄却されたが――同じものであった。
コルテラーナが予めバロウルに指示し、休止状態に陥っていた六型機兵に――“黒い棺の丘”の暗黒の中心地で起爆するのが本来の想定である――爆裂魔晶を余すところなく装填したのは、浮遊城塞に迫るコバル公国軍を一掃するのがそもそもの目的であった。
既に粒体装甲を起動させ“魂魄”の尽きる事が確定した試製六型を言わば見限った形ではあるが、巡り巡って最期に“亡者”の中枢を消滅させる可能性が生じたことは怪我の光明以外の何ものでもなかった。
尤も、あくまでコルテラーナにとっては、である。それが故に遠隔通信で自爆させるように命じられた時に、バロウルが狼狽し、強く抵抗したのも自明の理であった。コルテラーナ以外の者にとっては、であるが。
「既に粒体装甲を起動した以上、キャリバーの魂魄は尽きます。せめて最期に私達の役に立つのならばあの子達にとっても幸いでしょう?」
淡々と――コルテラーナの口振りはまさに『淡々と』としか形容しようのないものである。言い淀むことも顔色一つ変える素振りすら無く言い放つコルテラーナに対し、バロウルは物陰を隠れたとは云え所長達の気を引かない様に小声で、だがこれまでに無い程に強く抗議した。
「嬢や預かり人も一緒にいるのに!!」
「すぐにまた会えます。移動図書館の守衛として――」
コルテラーナが聖女の如き微笑みを浮かべる。その“善き”笑顔の前に、バロウルは心底恐怖した。邪気の無いその笑顔に。
「カカトのように」
「貴女は!」
正式に知らされていた訳では無いが、バロウルも爆発の威力はある程度推測できていた。キャリバーに詰め込んだ爆裂魔晶はこの世界の中心である“闇”の領域を破壊する為のものである。その破壊力は容易ならざるものであり、巻き添えの危険性が高い為に浮遊城塞の近くではおいそれと起爆できない筈であった。
そう見当を付けていたからこそ、バロウルは渋々とではあるがキャリバーの機体に爆裂魔晶を満載したのである。
だが、自分の考えが甘かったことをバロウルは今まさに思い知らされた。地に墜ちた浮遊城塞の再浮上は見込めず、試製四型機兵は最期となる粒体装甲を発動させ、そもそも世界を“固定”すると云う水晶球の試みなどコルテラーナとっては既知外沙汰でしかない。乱暴な言い方をすれば『知ったことではない』のである。
コルテラーナが、これまで永きに渡り向き合うことすらできなかった“怨念”を浮遊城塞ごと――それはすなわちコルテラーナ自身だけでなくこの城塞に今いる者達諸共に――爆破する気でいることにバロウルは気付いた。
図書館長であるコルテラーナと守衛長であるガッハシュートは例えその身が破壊されたとしても、時こそ置くがこの閉じた世界に戻って来る。
そしてコルテラーナの言葉通り、ナナムゥとそしてバロウルの追憶もまた守衛と化して、移動図書館に仕えることになるのだろう。
この閉じた世界という名の軛から解放されるその刻まで。
すなわち永久に。
だからこそ、バロウルは恐れる。ある意味“娘”としてコルテラーナの側に仕え、血肉を備えた『人』として所長達ですら及ばぬ程にこの世界の深部に触れてきたバロウルは、だからこそ声を絞り出し抗った。
これまで怖れによって封じ込めて来た憤りを。
「守衛も司書も、結局は全て紛いものでしかない、そんなものに……!」
所長達の存在も忘れ、知らず知らずの内に大きくなるバロウルの声。それまで微笑を絶やさなかったコルテラーナの口元が、スッと真一文字に結ばれた。
「……ならば、通信端末を渡し、そこで黙って見ていなさい」
「!」
試製四型機兵を監視する為の通信端末をバロウルはコルテラーナより預かっていた。起爆装置でもあるそれを手にし、自らの手で成そうとするコルテラーナをこれ以上止める術をバロウルは持たなかった。
咄嗟に、己が知り得る唯一の抑止力を持つ者の名をバロウルが呼んだのは、彼女の精一杯の、そして最後の抵抗であった。
「ガッハシュート!」
「――待テ!」
それまでコルテラーナの横に立ちながら、しかし自らの意見を口に出さずに黙って成り行きを見守っていた老先生が、一転して鋭い声でバロウルを制する。
それはバロウルが声を荒げた事で、これ以上モガミ達シノバイドの注意を引かぬようにという警告ではなかった。
空を奔る鳴動に、大いなる異変の先触れに、バロウルが縋った者が逸早く気付いたが故であった。
陽はとうに沈み、既に世界は“亡者”の領域の内にあったのだが、その夜の帳が唐突に破られた。
夜空の情景が切り替わる。夜の闇がかき消され、再び天頂に太陽が煌めく。夜から昼に超高速で時間が経過したという感じではなく、“天”そのものの情景が差し替えられたかのようであった。まるでプロジェクターによって天井に投影された光景が次のスライドに切り替わりでもしたかのように。
いきなり陽光に晒される形となった“亡者”の群れが次々と苦悶の叫びを上げる。その漆黒の体が崩壊するような事態は流石に起こらなかったとは云え、汚水の如く次々に地へ逃げ帰ったことでコバル公国軍のみがこの戦場に残される。
どよめきを隠せないコバル公国軍を余所に空もまた依然として目まぐるしくその様相を変えていた。ある瞬間では一面の淡い紫色。またある瞬間には空の半分を明滅する緑色の星々が占める眩い夜。或いは幾つもの太陽の浮かぶ百天かと思えば、油膜の様に絶えずその色を変じる夜空もあった。
魔女の大釜をぶちまけた様な出鱈目で煩雑な、空一杯に広がった万華鏡。浮遊城塞の者も公国軍の者も残らず混迷の内にあり、中には膝を折って嘔吐する者まで出るのは無理なからぬ光景であった。
そのあまりにも常軌を逸した天の変わり様であったが故に、それを背に翔ける一条の紅い流星に気付いた者は、老先生を除いて皆無であった。
その紅い流星が鋭角を描いて地に突入したのも、そこを中心に火柱が上がったことに直ちに気付いた者ですら稀である。まるでこの場所を浄化でもするかのように激しく渦巻くその火柱は、しかし表面の火勢に比較するとまったくの無音と言ってもよい不可思議な燃え上がり方をしていた。
まるで火柱が合図であったかのように、地獄の責め苦のようであった天の光景の移り変わりも、始まった時と同じように唐突に終わりを迎えた。事実だけを述べるとほんの僅か5分程度の怪異であったにも関わらず、この閉じた世界の内で空を見上げた全ての者達にとっては、その何十倍もの時間が過ぎ去ったとしか思えない有様であったことは間違いない。
そして炎の柱もまたすぐに燃え尽きたのか消散し、しんと静まり返った戦場の上空に浮遊する少年の姿を最初に視認した者は、その場より一人離れた位置にいた一人の青年であった。
(あれは…まさか……!?)
先程までの天の狂騒に怯えたままの乗馬を必死に宥めていたオズナ・ケーンであったが、思わず顔を上げた先の目線がちょうど少年の姿を捉えたのは、やはり何らかの縁があったというのであろうか。
宙に浮かぶ赤い輝きを纏ったその姿を確かにオズナがその目で認めてしまったのは抗えない運命であったのだろうか。
「アルス卿……?」
死んだと思っていた真紅の少年の姿がそこにはあった。無論、それなりの距離を隔てている以上、浮遊する人影の細部まで認識できた訳ではない。そもそも本当に『少年』に該当するのかすらも実のところ定かではない状態であった。
それでもオズナの確信は揺らがなかった。
商都ナーガスにて一度は公国軍から置き去りにされた形となったものの、それでも一人で馬を駆ってでもその後を追う気になったのも、強い胸騒ぎが拭えなかったが故である。
その胸中をざわつかせていた原因こそが、まさに死んだ筈のアルスが生存していたからなのだと、オズナは自分の中で全てがストンと腑に落ちた気がした。自分を駆り立てていたものが何であるのかを、今ようやく理解できた気がした。
再会を果たせた神の恩恵も。
「はっ!」
ようやく落ち着きを折り戻した馬に改めて鞭を入れ、オズナは少年の許に急いだ。彼ならばザーザートによるこの無意味な遠征をどうにか巧く収めてくれるのではないかという、そんな淡い期待を胸に抱いて。
そして宰相から監査役として遣わされた自分も、この戦場でせめて少しは何か手助けができるのではないかという、強い使命感と共に――
*
地中に囚われていた自分達の身に何が起こったのか、それをすぐに把握することはできなかった。
視界の全てが一瞬で紅く染まった事だけは分かった。じかし逆に言えば五感の全てが翻弄され、自分達が上昇している事にすら最後まで気付けない有様であった。
「ヴ……!」
単眼を眩ます紅い輝きが晴れた時、私達は揃って浮遊城塞オーファスの固い石畳の上にその身を転がされていた。それもコルテラーナやバロウル、そして老先生の目と鼻の先に。そして私達がすぐに――コルテラーナ達でさえも――揃って顏を上へと向けたのは、上空5メートル程の高さに浮遊しこちらを見下ろしている、真紅の少年の放つ強烈な“圧”に当てられた為であった。
「貴様か――」
単眼の望遠機能を用いるまでもなく、少年の鋭く紅い三白眼が静かな怒りを湛えていることは明白であった。言葉として明示されていなくとも、圧に震える己が魂で理解できた。
唯一つ不明であったのは、何がガルアルスをそこまで激怒させたかについてである。浮遊要塞を脅かすコバル公国軍や“亡者”に対してではなく、私達――否、コルテラーナに対して向けられたその怒りの源が。
辛うじて単眼を動かし、自分のすぐ近くにナナムゥとファーラの無事な姿を確認することだけはできた。
そう、まさにそれだけは、である。
例え理由は分からずともコルテラーナをガルアルスの憤怒から庇うべく、私は尻餅をついた体勢から立ち上がろうとしたが、できなかった。
「……ヴ」
最初はガルアルスの怒気の前に単純に腰でも抜けたのかと思ったが、無論機兵である私にそんなことが起こり得る筈も無い。四肢に力が入らぬ以上、粒体装甲を発動させるくらいしか残された抵抗の手段は無いが、それすらも今の私には発動させることが叶わなかった。
地中に飛び込んだ時に展開した粒体装甲の結界はとうに四散していた。そしてそれを再び発動させようと幾ら試みても無駄であることを、脳裏の声なき声に通告されずとも私自身で悟ってしまった。
己の命が――例えそれがコルテラーナ達に与えられた、石の躰に込められた仮初めの余命でしかないのだとしても――今まさに尽きようとしているのだということを。