鬼轟(15)
“何を焦っている……?”
何かに突き動かされているかのように進むザーザートに対し、あの“亡者”メブカですら困惑はせぬまでも訝し気に彼に声を掛けた程であった。
直ちに妖精皇国を目指すと云う約定を、半ば反故にされた形であるにも関わらず。
「浮遊城塞を野放しのままにはできない。それは当初からの指針の筈だが?」
いくら急くとは云えオズナの号令も無しに強行軍を続ける訳にもいかない。一旦進軍を止め休息の為に全軍が陣を張った折に、ザーザート自身はと云うと外部からの煩わしい接触を断つ為に四頭立ての大型馬車とそれに付随する天幕の内に籠っていた。その休息を待っていたかのように先触れも無く地の底より現れた“亡者”メブカに対し、ザーザートは苛立ちの色を隠そうともせずに早口で一気にまくし立てた。
「もし浮遊城塞が再び空に上がってみろ。そこに屑どもに逃げ込まれれば我々の殲滅計画に齟齬が生じる。収容量的にかなりの数を空に逃してしまうことに成りかねない」
“……”
それ以上問い詰めることもなくメブカの漆黒の体がスゥと地の底に消えたのは、ザーザートに気圧されたから――などと云う理由では無論ない。今のこの状態では何を言ったところで意味が無いであろうと“亡者”にすら冷淡に判断されたからに他ならない。“見限られた”とまではいかないまでも、少なくとも今この瞬間は捨て置かれたと言っても過言ではない。
普段のザーザートであれば、“亡者”のその一線を引いた態度に自ら気付いていたであろう。だが逆上に近い状態であるザーザートにそこまで望むべくも無く、また彼をしてそこまで浮遊城塞に固執させる理由が確かに存在したのである。
浮遊城塞に避難民を満載し天に逃れられれば打つ手がないというザーザートの先程の弁も、まったくの出鱈目という訳ではない。例え無限再生を誇る“亡者”の黒い触腕とは云え、流石に天高くにまでは届かない。浮遊城塞も遥か天に坐したままいつまでもそこに留まってはいられないではあろうが、それでも降雨により水を得る事ができると推察できる以上、実際にいつ地上に降りてくるのかが覚束ない。
地底深くに“核”を持ち地上においては無敵に等しい“亡者”にとって、そもそもが手の届かぬ非常に厄介な相手であった。
それ故に機会を逃さず陥落させるべき。或いは公国の戦力として接収すべき。場合によっては商都や妖精皇国を圧し潰す攻城兵器として上空より落とすべし。
宰相デイガン、公国の貴族達、そして盟約を結んだ“亡者”メブカ――相手を問わずに表向きの様々な理由付けを――時には相互に矛盾するのも構わずに――説いてきたザーザートではあるが、この閉じた世界の全ての者に“死”を与えるという執念こそは本物であり、浮遊城塞を排さねばならないという決意もそれに伴う紛れもない本心であった。
“同族”であるカカトとナナムゥを屠りその身体と“同化”することで“力”を増す――生体兵器と思しき己の特性に起因する理由も当初は確かに存在した。それは時間を掛けて方術陣を構築し、わざわざ自らが前面に立ってまで成し遂げようとするまでの重要事項であったというのもまた事実であった。
だが最早この閉じた世界において彼とメブカに並び立つモノはいない。残る障害は移動図書館のみであるが、ザーザートがその存在をこれまで重視しなかったのは、如何に神出鬼没であるとは云え移動図書館が外部とは完全に接触を断っている事にあった。
ザーザートをして“謎の組織”であるが故に、半端に関わるよりは逆に今は無視した方が効率が良いという判断を下したというのが正直なところである。“亡者”とその“死”がこの世界を覆い尽くしてしまえば、最終的にはどうとでも始末できる、そういう算段でもあった。
そこまでの“力”をザーザートは“亡者”に認めているということであり、それはすなわちこれより立ちはだかるモノも後顧の憂いとなるであろうモノも、全て等しく『問題外』である、その筈であった。
先日までは。つい先日までは。
――紅童子
主としてコバル公国領と商都ナーガスを結ぶ街道沿いの集落に、最近とみに流布されるようになった噂話である。その内容としては、髪の毛から靴の爪先まで真っ赤な出で立ちの子供が、行く先々で信じられぬ怪力を発揮したり不可思議な魔法を振るったりといった、他愛のない与太話の類である。子供一人だけという話もあれば、間の抜けたお供を一人連れていたという話もあるという僅かな差異こそあれ、闊歩する得体の知れぬ子供としてその存在は急速に人々の話題として交わされるようになっていった。
一時ではあろうが流行の話題と化してしまったが為に、人々がまことしやかに語り広まっている噂話には完全な作り話も無視できない割合で含まれてはいるのであろう。そもそも『赤色』がこの閉じた世界においては吉兆を示す色であるだけに、より人々の興味を惹いた――そして無責任な尾鰭が加えられた――という理由もある。
だが紅童子とそのお供に対し誰よりも心当たりがあるザーザートにとっては、決して安易に無視できない戯言であった。
何よりもザーザート独自の情報網によれば、擱座した浮遊城塞オーファスにまさにその紅童子らしき姿が見受けられたという一文があった為である。
(確かにあの時に殺した筈……!)
警告色のような真紅な出で立ちの子供など、この世に二人と存在する筈はない。
“客将”アルス――この世界に混乱をもたらす存在を招来することを目的とした“紅星計画”。公国の戦力を増すという表向きの名目で自ら陣頭指揮に立ったザーザートであったが、元よりそこまで都合の良い存在が都合よく招来されると期待していた訳ではない。全ては“紅星計画”によって招来した“客将”という名目で、己が傍らに“亡者”メブカを常駐させることを主目的としたものであった。
だが“紅星計画”の副次的な産物である筈の招来者の中に――幸か不幸か――アルスという名の化け物が墜ちて来た。付随品として、一人の女を伴って。
アルス――すなわちガルアルスが己の制御下には収まらぬまでの“力”を持つことをメブカによって指摘されたザーザートは、彼の者が目覚める前に女――すなわちファーラ・ファタ・シルヴェストルを“人質”としてティティルゥの遺児達によって包み隠し、更に仮死状態のように動かぬガルアルスに“保険”として“不可視の枷”――すなわち“圧壊”、“灰塵”、そして“寸断”の三重に連なる方術を施した。
ザーザート自らも解除できない――元より解除できる造りにしなかった為でもあるが――その“枷”によって、結局は彼の制御下を離れ対峙する事となったガルアルスを目論見通り排除できた――その筈であった。
既に障害と成り得るモノも存在しない今、浮遊城塞の破壊にせよ“同族”であるナナムゥを抹殺し“同化”する目論見にせよ、何れも優先度としては高いものではなくなってしまった。効率という一点においては、浮遊城塞になどわざわざ立ち寄らず、約定通り妖精皇国に到達し全てを“亡者”の手に委ねる事こそがこの世界に“死”をもたらす為の最適解であることはザーザートも理解はしていた。
浮遊城塞を素通りしたところを背後から強襲される可能性はあるとしても、今更その損害に何の意味があるというのであろうか。
ザーザートと“亡者”が健在であれば、コバル公国であれ浮遊城塞オーファスであれ妖精皇国であれ商都ナーガスであれ、ただ“死”を享受する順番が前後するだけの話であった。
そこまで頭では道筋を描いておきながらも尚ザーザートが浮遊城塞に――否、紅童子に拘ったのは、彼なりのけじめであった。
“不可視の枷”による死の顎を逃れ得たなど、あってはならぬことであった。事実として決して許してはならぬことであった。
故に、浮遊城塞に紅童子など居る筈も無く、ザーザートはそれを自らの目で確認せねば気が済まなかった。
それでも、これまでの暗躍とは異なり己とメブカだけでなく公国全軍を伴って浮遊城塞に向かったのは、何か嫌な予感が拭えないせいであった。
カカトを斃した時に比べると、ザーザートの“手持ち”は如何にも薄い。事前に罠として張り巡らした方術陣も無ければ、かつてアルスに施した“不可視の枷”も咄嗟にその場で構築できるような代物ではない。“旗手”である妖精機士ナイトゥナイは、精神的に甚だ不安定であり直接同行させるのは躊躇われた。
それでもザーザートが嫌な予感を前に尻込みをしなかったのは、ひとえに“亡者”メブカの存在にあった。地底の奥底に溜まりに溜まった“怨念”の集合体。例えメブカという“器”を破壊することができたとしても、この閉じた地上にある限り新たな“器”が瞬時に再生される。何百何千それを繰り返したとしても、“怨念”は尽きることがない。
無限の存在である“亡者”を完全に滅することなど、この世の何者であろうと不可能事である。それは渾身の方術を用いたザーザートであれ例外ではない。
浮遊城塞に向かう四頭立ての馬車の中でザーザートはどこか乾いた昏い笑みを一人浮かべて見せた。
怨念の集合体こそ“死”の顕現であり、そして“死”の定めを免れることができる者など、存在し得る筈がないのだと。
紅童子の生存を誰よりも予感しているのが他ならぬ自分自身であることを、ザーザートは最後まで認めることはしなかった。
*
私の脳裏を漂う少年の声。それは紛れも無く誰かを問い質す鋭い口調のそれであった。
“何故生かした”
“何故生かし続けている”
“何故仮初めの生であることを伏せた”
声の主がガルアルスであることはすぐに判った。
対して口澱み、呻き声を上げ、そしてあまりにも儚くも苦し気なもう一つの声がバロウルのものであることも知った。今にも泣きだしそうなその声は、聞くだけでわたしまで悲しい気分になった。
夢か幻か、或いは私の“眠り”の最中に交わされた会話の断片が、何らかの原因で記録の中から染み出ているのか。
分からない。
私には分からない。
“貴様らが施した、死すべき定めの者を摂理を外れてまで生かす術を忌道と呼ぶ”
いつしかガルアルスの声からは苛烈さが鳴りを潜め、むしろどこか憐れんでいるかのような雰囲気を漂わせ始めたように感じられたのは、単なる私の気のせいであったのか。根拠など元よりありはしないが、少なくとも私にはそうとしか聴こえなかった。
“その魂魄は直に潰える”
改めて考えるまでも無く、それはガルアルスによる私への死亡宣告であった。
バロウルの息を呑む音だけが聴こえた。肝心の私自身はと云えば、当事者であるにも関わらずどこか他人事のように聞いていた。
既に生身の肉体を失っていると厳然たる事実を前に、我知らず心の奥底で時を置かずに死すべき定めであることを自認していたのかもしれない。
悟っていると言えば聞こえはいい。だが個人的には、私の心からそもそも“畏怖”という感情が消え失せているだけだという、ただそれだけの理由ではないのかとも感じていた。そうでなければただ狼狽して泣き叫んでいただろうと云う、嫌な確信めいた予感だけはあった。
だが、それらに対する自己嫌悪の念に溺れるよりも早く、更なる状況の変化が私を襲った。元々が、虚ろな夢のように取り留めのない黒い視界の中でガルアルスとバロウルの声だけが彼方より響いてくるという、曖昧模糊とした世界の内に私は居た。その黒く塗り潰された情景が前触れもなく唐突に切り替わったのである。
とは云え、視界が黒ではなくなったというだけで、依然として周囲一面が灰色一色の世界ではあったが。
そしてバロウルとガルアルスの気配と声もまた失せており、その代わりとして新たに無機質な声が周囲にこだました。
“もう粒体装甲を使わない様に”
その声は、私にとっては馴染みの声であった。これまで幾度となく私の疑問や探求心に対し、脳裏に情報を補足してくれた“声なき声”のそれであった。紛れも無く。
かつて“奈落”の底でナナムゥは私に対し、試製六型機兵の内に魂魄の存在を二つ感じると不思議がっていた。そして一つが私自身のそれとして、残る一つこそがこの声なき声であることを私は知っていた。
だが、今私に語り掛けて来た声なき声は、これまでの機械的な案内に留まっていたそれとは明らかな違いがあった。
声なき声が、初めて明確な自我を露わとし語り掛けて来たことを私は悟った。これまでは適時状況説明を行い、或いは私が念じた疑問への答えを返すだけの、まさに脳内放送でしかなかった声なき声。だが今私に忠告を与えるその声には穏やかさと、そして何よりも労りの念が込められている口調であることにも、私は気付いていた。
それが何故かは分からぬまでも。
“次に粒体装甲を使えば貴方は死ぬ”
先程のガルアルスの宣告と同じことを声なき声は改めて私に告げた。ただそれだけを伝える為だけにこの空間を設けたかのように、声なき声の気配はそのままプッツリと途絶えた――かに思えた。
否である。灰色の空間に最後に響いた声なき声の“置き土産”。それは私にとってはそこまで馴染み深くはなくとも忘れ難いものではあった。
『デモノバ』――試製六型機兵の機能を止め、強制的に“眠り”に誘う“指令”。抗うことのできぬその“指令”の前に、あっという間にわたしの意識が無くなっていくのが分った。
『死すべき定めの者を摂理を外れてまで生かす術を忌道と呼ぶ』
ガルアルスの憐みの言葉だけが私の心を呪いの様に浸食していく。
仮初めの命、マガイモノの命。これが無念ではなく何だというのか。
妹の亡骸をこの手に取り戻すというたった一つの願いすら叶えられずに私は――
私は――