鬼轟(11)
この世界の生きとし生ける者全てに“死”を与える――字面だけ見ると失笑ものの計画を遂行するにあたり、ザーザートは『大公の名代』としての立場を表立つことは極力避けつつ、しかし最大限に活用した。裏を返せば彼が暗躍できるのも『大公』という後ろ盾を持つ『名代』であったが故であり、その点からもザーザートは目先の復讐心で大公の命を完全に奪うことを自重した。全ての者に死を与えるという更なる復讐の為に、彼は己の『後ろ盾』である大公を後宮から出ることだけは無い『厄介な存在』として健在であると装う事にしたのである。
貴族達が強権を発動し大公への謁見を求めるという万が一の場合に備え大公の肉体だけは残した訳であるが、ザーザートの予想以上に大公健在の偽装は容易なことであった。
元より齢を重ねるごとに残虐な暴君の面を露わとしたクォーバル大公が、例えその嗜虐性は変わらずとも地下深くに引き籠っている状態は公国貴族達にとってもむしろ望ましい状態であった。その成立過程からしてクォーバル大公が“旗手”として鉱山ごとに割拠していた数多の“洞”を“暴力”で統合し、その富を吸い上げていたのがコバル公国である。大公が政務を放棄したところで、以前の“洞”単位の自治に戻るというだけの話ではある。
例え大公が真っ当な状態ではないことを察する貴族がいたとしても、むしろ地下奥底に籠った現状こそが理想の状態であり、口を突っ込んで藪蛇となることを避けたのだと言える。
かくして、大公不在であれ厳格な身分制度の定められたコバル公国における統治と搾取の体勢は不動のものであった。それ故にザーザートの計画――と暗躍――も変更を強いられることもなく、もしも全ての企てが露見した際の退避先として確保しておいた“賢者”ザラドという隠れ蓑とそれの率いる“救世評議会”という存在も意味を成さなくなった。
だが遅かれ早かれ――何らかの不慮の要因により――大公の逝去が表沙汰になるであろうということも、ザーザートにとっては至極当然の予想であった。そして今まさにその瞬間がこうして訪れたという訳であったが、既に商都ナーガスの会合衆をもその掌中に収めたザーザートは、妖精皇国に向けて新たな戦禍を広げるべく新たな兵を整えるまでの準備も終えていた。
実のところ、公国軍の士気に対してある懸念はあった。だが少なくとも大公崩御の報に関しては、それが広まろうが密かに喜ぶ者こそあれど進軍に大して影響はあるまい、その筈であった。
「全軍、公国に撤収せよ、と?」
遺児達の擬態した誰のものとも知れぬ無個性な顔を“仮面”として装着したままに、ザーザートはオズナに対してくぐもった声で改めてそう問い質した。
「そういうこと」
人払いは済んでおりそれに加えて旧知の仲であるザーザートが相手であるにしても、オズナの返事は特使にしては如何にも間の抜けたものであった。その気安さがまたザーザートの心を苛立たせた。
「知っての通り大公にお世継ぎがいない以上、これからの公国の在り方を急いで決める必要があるって宰相が言ってる。だから戻って来いってね」
今まで通り宰相が取り纏めればいいだろう――そう声の出かかったザーザートではあったが、直ぐに一つのことに思い至り言葉を呑みこんだ。その宰相の公国内での影響力を削ぐ為に、裏から様々な政治工作を行い遂には隠棲にまで追い込んだのが他ならぬ自分自身であったことを思い出した為である。
“洞”を単位とした寄合所帯を大公が“力”ずくで無理矢理纏めただけに過ぎないコバル公国。その統治形態の変革となると法による厳密な組織化――すなわち“貴族”を頂点とした資源の管理と人口の抑制こそがデイガン宰相の目指す『公国』の形であった。
その非道とも思える管理社会が、密閉されたこの世界で少しでも人々が生き永らえる為の方策であることを理解できた者は少ない。納得ともなると猶更である。
何れにせよ、絶対的な“王”としてクォーバル大公を据え、それを後ろ盾とするザーザートにとっては宰相の目指す変革は受け入れがたい施策であった。ある意味で宰相の目指す『小を殺して大を生かす』という覚悟を一番正しく理解している者こそザーザートであったのだろう。
大公の権勢、すなわちその“使い”である己の立場を護る為の裏工作であった訳だが、宰相の権勢を削いだことによる弊害が巡り巡って『戻って来い』という今の自分に因果となって帰ってきたという訳である。
幸先が悪いにも程がある――それが仮面の下のザーザートの貌が自己嫌悪めいて歪んでいる理由でもあった。
オズナに言われるがままの撤収など、元より聞ける話ではない。だが、だからといってこのままオズナを体よく追い払ったところで事態が有耶無耶になるとも思えなかった。
一代で公国有数の“貴族”にのし上がったデイガン・ケーン宰相。その孫であり“ケーン洞”の御曹司であるオズナは、両親を落盤事故で早くに亡くしたが故に祖父に――良くも悪くも――手厚く育てられてきた。身も蓋も無い言い方をすれば甘やかされて育ってきた訳である。
だが、生来の気性の弱さも合わさってただ日々をぼんやりと眺めていたオズナの両の瞳は、今は別人と見紛うばかりの強い意思の輝きを露わとしていた。
回りくどい言い方を好む者であれば『漢の目になった』などと分かったように評するところであろう。何れにせよ、ザーザートは知らぬ、知り得ぬ。そのオズナに決意を固めさせた契機となった者こそが、誰あろう己自身がその手で屠った“客将”アルスであることを。
真紅の少年の最期の飛翔は、紛れも無くオズナの心を雷撃の如く射抜いたのである。
(煩わしい……!)
今のザーザートの脳裏を占めているのは、まさにその一点のみであった。強い言葉と共にオズナを幕屋から追い返すこと自体は容易である。“お坊ちゃん”相手ならば力尽くである必要すらないだろう。だが、今の妙な使命感に駆られたオズナがそれで諦めるような手合いではないこともザーザートは理屈ではなく本能的に察知していた。
まず間違いなくオズナはザーザートによる“死の行軍”に未練がましく紛れ込みことだろう。そして本人にその気は無くとも何らかの重大な齟齬を彼の計画にもたらすであろうことも、ザーザートは予期するどころか半ば確信すらしていた。眩暈と共に。
「このような、何もかも半端な状態で軍を退くということは、却って大きな遺恨を双方に残すことになる」
まるで子供に言い聞かせる様に言葉を区切りながらゆっくりと話すザーザートは、同時に自分がどれだけ仮面の下で間の抜けた顔をしているのかという忸怩たる思いに囚われていた。素性を隠す為の“何者でもない”仮面の存在を今ほど有難いと思ったことは無かったかもしれない。
何れにせよ、此処を先途だと己を叱咤したザーザートは辛抱強く話を続けた。
「だから、今回の遠征が終わるまでは、むしろ大公の死を隠し通す必要がある。内にも外にも同じように。だから、今は退くよりも予定通り進むことこそが公国の為であると、そう宰相に伝えて欲しいのだ、オズナ・ケーン卿」
空々しい提案であることはザーザート自身も充分に承知していた。それでもオズナを合法的に追い返す理由付けとして、我ながら咄嗟に捻りだしたにしては妥当な口実だとも秘かに自賛する。
ただザーザートにとって不幸であったのは、オズナにとって『駆け引き』はまだ難度が高い――忖度して表現すれば“これから学んでいく立場”――であったということだろう。少しの間を置いた後にオズナが口を開いた時点で、その瞳に宿った強い意思の光を前にザーザートは己が徒労を無意識に予感していた。
「いや、それはできない」
珍しくもはっきりと拒否の意を口にしたオズナは、ザーザートが仮面の下で歯噛みしている事すら思い至ることなく生真面目な顏のまま先を続けた。
「それではただの子供の使いになってしまう。君が退かないなら退くところまではこの目で見届けるよ」
「……」
長い沈黙。
無理に追い払ったところで、オズナは――無駄で、無意味で、厄介な――責任感に突き動かされてザーザートの周囲をまとわりつくことは明らかであった。比喩でも何でもなく、大仰な言い方をすれば恐らくはその命尽きるまで。
「……分かった」
やがて発せられたザーザートの次なる言葉は如何にも苦渋に塗れたものであった。
「では、こうしよう」
*
オズナ・ケーンがザーザートの幕屋を出たのは、それから更に小一時間後の事であった。
退出する公国特使をわざわざ幕屋の外にまで出て見送るような真似を、無論ザーザートがすることなど無い。最初から最後まで自分の席に腰を下ろしたままのザーザートではあったが、あくまで大公の名代であるに過ぎないと“貴族”相手に用心深く遜ってきた彼にしては、それはそれで傲岸で不用心な振舞ではあった。
(煩わしい話だ……)
独り、溜息をつくザーザート。その疲弊の度合いは、人払いはしてあるとは云え彼がその仮面を外し素顔を冷えた外気に晒したことからも相当のものであることを窺い知ることができた。
そのザーザートの座ったままの身体がグンと沈んだのは、まさにその直後のことであった。
「――!?」
己が右足首を掴む暗黒の触腕の存在をザーザートは足下に認めた。床面を暗黒に染めそこより伸びる黒い“腕”が、強い力でザーザートのみならず彼の座る椅子すらもズブズブと地に引き摺り込もうとしていたのである。
(“亡者”め!)
己の置かれた状況を完全に把握したザーザートは、それ以上慌てふためきはしなかった。流石に仮面を被り直すまでの猶予は無かったとは云え、それでも何のつもりだと彼が問い返したと同時に、地の底から湧き出す鬱々とした声が幕屋の内に不気味にこだました。
“……何故殺さない……”
“亡者”メブカの呪詛にも似た詰問に、しかしザーザートは沈黙を保った。固い壁ではなく只の布で四方を囲んだ幕屋に声が幾重にも反射しているかのように錯覚してしまったのは、メブカが“死霊”の集合体であり、それ故に“声”が実際に幾重にも発せられたからだということもザーザートは承知していた。
そして平時はあくまで“メブカ”一個人の声として統一してきたにも関わらず、今その決まり事を投げ出してしまっているのはそれだけ“亡者”が激怒している証左であるのだということも。
床に染み出た暗黒の穴にそれまでザーザートの足首だけが浸かっていた形ではあったが、詰問に対する沈黙を前に更に脛の部分までが引き摺り込まれる。
“今更知己に情けをかけたなどとは言うまいな……!”
「違うな」
そこでようやくザーザートは言葉を発すると、吐き捨てる様にその先を続けた。
「殺すさ、例えオズナであろうと」
自分を地の底に引き摺り込もうという黒い“腕”の動きが止まったことを実感しつつ、ザーザートはそれにより生じた安堵をおくびにも出さず更に言葉を綴った。
「あの男にはまだ利用価値がある。妖精皇国への行軍が終わるまでは」
“…………”
「言った筈だ、妖精皇国までは兵を進めると。かの地にも悲嘆と絶望を撒き散らした後は、その時こそオズナを最初に血祭りとしよう」
老父の逝去と勤め先の部署異動が重なり落ち着いていません。
書けた分だけでも上げておきます。