鬼轟(9)
中庭にポツネンと二人残された寂しさと疲弊が、ここまで一気に骨身に染みるとは予想だにしていなかった。石の躰であるとは云え。
改めて振り返ってみるまでもなく、今回の“旅路”は長くそして苛烈に過ぎた。元より囮役として城塞を飛び発つ時には偽りなく『一たび去りて復た還らず』の覚悟であったし、一筋の光さえ射さぬ“奈落”での日々は――そもそも起動すらしなかった私は兎も角として――ナナムゥにとっては死地に等しいものであっただろう。
その意味でもナナムゥとバロウルと私、三人が誰一人欠けることなく無事に戻って来れたことは僥倖以外のなにものでもない。ファーラとガルアルスがいつの間にやら姿を晦ましたのは看過できない状況ではあるが、それでもナナムゥが一旦は浮遊城塞の自室に向かうことを選択したのは無理なからぬ話ではあった。
疲労を知らぬ試製六型機兵の私だとは云え、この後の工廠での全身の点検整備は必須であろう。その担当であるバロウルはより優先度の高い城塞の動力炉の確認に向かいはしたが、巨女の義務感も無尽蔵ではあるまい。彼女達二人を早々に休ませ、その間に私が独りでもファーラ達を探す心積もりではあった。
だが――
「急に姿を消す奴があるか!」
自室に一歩踏み込んだところで発せられたナナムゥの愕然とした叫びが、部屋どころか廊下中に響き渡る。
かつて所長の“館”でファーラを保護して以来、ナナムゥがその“監視役”を務めることになっていた。その兼ね合いから浮遊城塞内のファーラの寝所はナナムゥの部屋に同居する形となったままであったのだが、ファーラもガルアルスも正にそこに居たのである。当たり前のように。
「ごめんごめん。急かされちゃって」
俗な表現をすれば正にテヘペロといった体でファーラがナナムゥに詫びる。部屋の長椅子に座った彼女の更に奥にはガルアルスが、背を向けたまま仁王立ちしておりこちらに振り返りもしなかった。
ファーラが迎えの者、すなわちガルアルスの到来を待ち焦がれていたのは私も知っていた。そしてその願いが遂に成就したということになる。だが私は、戸口からファーラの姿を最初に目にした時に、何とも言えぬ強い違和感に襲われていた。
別に部屋の中のファーラとガルアルスが険悪な雰囲気を醸し出している訳でもない。あの聡いナナムゥがズカズカと無遠慮に部屋の中に踏み込んでいることからもそれは間違いないだろう。そして私自身もファーラを改めて観察するだけで、違和感の原因をすぐに把握することができた。
これまで常にファーラの額の宝冠の中央を飾っていた青い水晶球が、そのあるべき場所に存在していなかった。そこで初めて私は、こちら側に背を向けたままのガルアルスの体の影に隠れる形で何かが――と云っても状況的にその正体は一つしか有り得ない訳だが――激しく明滅していることにも気付いた。そもそも私が戸口から注意深く覗き込んでいれば、最初から子供の背丈でしかないガルアルスの頭越しにすぐにその存在を認知することもできていた筈なのだ。
『何をしておる』、そう言いかけたナナムゥを、ファーラが無言のまま手振りで制する。そして二人の少女は何やらコショコショと秘め事めいた耳打ちを交わすと、ナナムゥはようやく諦めたように長椅子のファーラの隣に自らも腰を下ろした。
それから5分か10分か、相も変わらず少女達は定期的にヒソヒソと――確実に他愛ない――耳打ちを繰り返しはしていたが、ガルアルスはそれをまったく意に介さず背を向けたまま仁王立ちの姿勢を崩しはしなかった。
そのような何とも形容しがたい微妙な雰囲気であったが為に、戸口の側に立ったままの私も又、事態の推移を黙って見守る他なかった。
と、前触れも無く部屋の片隅で繰り広げられていた、盛り場のミラーボールめいた明滅が収まる。フンと軽く鼻を鳴らしたガルアルスがようやくその場から身を翻し、薄い青い光だけを湛える水晶球が私達の前に初めて直にその輝きを露わとする。
「終わった?」
「第一段階はな」
無邪気に問うファーラに対し、ガルアルスは如何にも面倒くさげに応えた。
「このままこの地に固定し、後は待つだけだ」
「ふーん」
「待て待て待て!」
私の方へ――すなわちこの部屋を出て行こうとしたガルアルスをナナムゥが長椅子から飛び上がり慌てて制止する。
「説明をせい、説明を!」
「ルフェリオンに訊け」
あっさりとそう言い捨てて尚も立ち去ろうとするガルアルスであったが、しかし何の気紛れか急にその脚を止めた。
「――今、隣に貴方の部屋を用意させています」
穏やかに言葉を紡ぎながら、護衛のクロを伴った所長が新たに戸口に姿を現したのはまさにその時であった。
「貴様は……」
戸口を半分私が塞いでしまっていたせいもあるのだろうが、足を止めたままのガルアルスはその紅い三白眼で無遠慮に所長の貌をねめつけると、彼女に対し唯これだけを訊いた。
「貴様が城塞の長か?」
「いいえ、貴方と同じ客分です」
所長は穏やかな微笑みで返すと、真紅の少年に対し綺麗な物腰で一礼をした。
「私の友人達を助けていただき、感謝の言葉もありません」
「何を改まって言うのかと思えば……」
気圧された、などという気配は微塵も無いが、それでもガルアルスの所長に対する態度は――私達に対するそれとは明らかに一線を画した――ぞんざいには程遠いものであった。
「俺の気紛れがなかったとしても、死ぬまでには至らなかっただろうよ」
部屋の奥でそれを聞いていたファーラがニンマリ笑っているのが見えた。それは兎も角として、話は終わったとばかりに私の横をすり抜けて部屋の外に出ようとした少年を、しかし所長は逃しはしなかった。
「ガル=アルス卿」
少年の進路を塞ぐ形で立った所長が、改まってガルアルスの名を呼ぶ。その正式な名をいつ知ったのかと云えば、予めファーラに聞いていたのであろう。そもそも少年が敢えて自らは『アルス』とだけ名乗り、『ガル』という冠を――それが我々で云うところの名字なのか或いは二つ名の類いなのかまでは流石に私の知る由は無かったが――付けて呼ぶ者が現れたらファーラ所縁の者だとの区分けにしていたというのは後から知った話ではある。そのファーラ所縁の者と一度は認識したが故のけじめか、或いは紛れもない気紛れであったのか、ガルアルスは無理にでも押し通せた筈ではあるがそのまま無言で所長が次の言葉を繋ぐに任せた。
「あなた方が何を成さろうとしているのか教えてください。私も妖精皇国を束ねる『妖精皇』として、それを知る義務があります」
「……」
ガルアルスは所長の垂れ目の、しかし固い決意を湛えた瞳を前に、やがて深々と嘆息した。
「言うことを聞かない時のファーラと同じ瞳をしているな、貴様は」
あくまで微笑を崩さない所長に対し、ガルアルスが始めて感情らしきものを感じさせる声色で続ける。
「己の弱さを知り、それを知るが故の強さか、鬱陶しい」
悪し様に罵られながらも相好を崩さぬ所長のその姿勢こそが、ガルアルスの言う『強さ』なのであろうか。私がそれを判じるよりも先にガルアルスが相も変らぬ大仰な物言いで最後に一つだけ念を押した。
「いいだろう、ファーラに免じて説明はしてやる。だが憶えておけ、次は無いぞ」
ミィアーが呼びに走ったバロウルが部屋に到着するのを待ってから始められた――主としてルフェリオンによる――解説は、正直なところ私には表面的なことすら理解できなものではあった。
――“次元螺旋”――
――“超高次元の魔”――
――“偏在境界線”――
――“次界”――
所長とバロウルだけはその他諸々の専門用語の内の幾つかに聞き覚えがあるかのような反応を示しはしたが、彼女達でさえも到底理解に及んでいないことは明らかであった。
“それではファーラ様の要請にお応えして結論だけを述べさせていただきます”
ナナムゥの部屋のベッドの脇に浮かんだままであったルフェリオンは、ゆっくりと回転しながらも唐突に説明を纏めにかかった。その言葉通り、部屋に集った一同の中で一番ポカンとした顔をしていたファーラの要請によるものであったが、或いはそれは単なる口実で水晶球なりに無駄に頭を悩ませる我々を気遣ってくれたのかもしれない。
実際この時点でナナムゥとバロウルの疲弊は既に隠しようのない有様であった。
その様な状況下で始められた『まとめ』ではあったが、ルフェリオンの言うこの閉じた世界そのものが非常に不安定な状態の可能性があるという前提は、昨夜既にガルアルスから聞いた話ではあった。
それはこの世界に新たな犠牲者を引き摺り墜とす為に様々な“異世界”に一定周期で接触するよう、“彼等”によって組み込まれた“仕様”の結果であった。加えてガルアルスによればコバル公国の“紅星計画”――すなわち方術士ザーザートの構成した方術陣による“異世界”への無作為の“接触”によって、この世界の安定がたちどころに崩壊する危険すらあった。
その意味でも、カカトとナイ=トゥ=ナイによる公都地下深くの方術陣の破壊は、紛れも無くこの世界を救ったのだと言える。
今、水晶球が取り掛かった工程を端的に言うならば、浮島めいたこの閉じた世界を然るべき現世に永続的に固定するという、言わば基礎工事とでも呼べる行為であった。ガルアルスが行っていた“計測”も、その為の事前準備であったということになる。
丸二日、それがルフェリオンにより提示された『世界の固定』の完了予定日であった。それまでは“固定軸の起点”であるこの場所からルフェリオンは動けないという説明に対し、ナナムゥが愕然として発した抗議は至極尤もなものであった。
曰く、わざわざ人の部屋の中で始めることはないじゃろうと。