鬼轟(5)
ザーザートが遺児達を散らし、己の身を遮蔽する為の“壁”を作る。そして潔く議事堂へと身を翻した時には、既にモガミもまたティラムを再び抱き抱え脱兎の如く駆け出していた。ザーザートは無論のこと、突然の乱入者の動向を見定めることすらせず、商都の防壁の外に逃れようとケーブルを射出しひたすらに奔り続ける。
(……有り得ん……)
モガミも又、突如として姿を現した死んだ筈の男と、そして更にその後方に潜む者達の気配を感じ取りはしていた。だがかつての己の弟子が甦る、或いは――所長好みの――『実は生きていた』などという状況が有り得ないことを彼は承知していた。
彼の者の遺体が浮遊城塞オーファスの霊安室に収められた後、その遺体は“妹”であるナナムゥと融合しその幼女としての肉体を少女のソレまで急成長させた。身も蓋も無い言い方をすれば遺体はナナムゥに吸収されたということであり、復活しようにもその肉体が現存していないという何よりの証でもあった。
乱入者がその姿を模した意図は分からない。しかし何者かの手による策謀の確かな影をモガミは確信していた。
(だが今、優先すべきは……!)
目下の脅威であるザーザートが気狂いであることはこの目で確かめた。この世界に生きとし生ける者全ての命を奪う――そのあまりに単純で、単純であるが故に荒唐無稽な狂気の願いが本物であることを知った。そして狂気の眼差しの中に、しかし尚もザーザートが理性の光を宿していることも。
それこそがモガミがザーザートに対して感じる底知れぬ戦慄の源であった。
モガミは自分の中の懸念をこれまでと同じように冷徹に振り払うと、ただひたすらに駆け抜けることに専念した。専念しようと試みた。
商都の防壁の外へ。
擱座した浮遊城塞にいまだ留まっている、己が主たる所長の許へ馳せ参じる為に。
ザーザートより受けた痛打による後遺症に目が霞む。肉体的な損傷だけでなく、精神的な苦痛も又甚大なものであった。二度も不覚を取り、その二度共に予期せぬ介入によって命を拾った。普段であれば難なく果たせる筈の邪念の排除すら、今のモガミにとっては甚だ心許ないものであったのだ。
己の不甲斐なさによろめきながらもモガミが恥の重みに昏倒せずに済んだのは、胸に抱いたティラムの身震いによるものであった。自分より遥かにか弱き者の存在が、“忍”ではなく“男”としての彼の意地を奮い立たせたのである。
「……」
防壁までは超えられよう。だが致命傷ではないにしても、今のこの身でどこまで走り通せるか。撤退を指示した商会の者達と首尾よく合流できる可能性は低い。自分の事は気にせずに、兎に角商都からの迅速な撤退を最優先するように取り決めておいたからである。
ケーブルを射出し防壁を伝うモガミ。その顔のあまりの蒼白さに、しかし腕の中でしがみ付くだけのティラムが気付くことは遂に無かった。
*
「何をしようと無駄なことは既に分かっている筈だ」
右と左、ガッハシュートのそれぞれの腕から繰り出された紅銅鉱の紅刃によって頭から両断された“亡者”メブカは、その二度共に直ちに再生を果たした。
“再生”とは云っても二つに分かれた身体が元の一つに癒着するのではなく、断たれた体は床下にそのまま染み込むように消えていき、そして入れ替わるように新たなメブカがユラリと立ち上がるという悪夢のような光景であった。避けも防ぎもせずに無抵抗のままガッハシュートの紅銅鉱で両断される様は、敢えて己の不死性をガッハシュートに見せつける為の行為であることは明らかであった。
そして殊更にユラリユラリと躰を揺らしながら、“亡者”メブカは頭上の見えない足場に立ったままのガッハシュートに対し更に淡々と告げた。
「お前も不滅の身だとして、我らと異なりすぐには再生できないと見た。それを知りながら尚も無駄な抵抗を繰り返すか?」
(我ら、か……)
“亡者”を形造っているモノの正体を、ガッハシュートは既に見切っていた。移動図書館の“守衛長”として、同じく“司書長”であるガザル=シークエと共に検証を重ねその顕現を予測していた存在であった。
この世界において、“人”が強い未練を残して死ぬと貌も自我も何も残さぬ白い“幽霊”として地表に残留する。
余りにも強い恨み憎しみと共に果てた者だけがその理から外れ、あてどなく彷徨う黒い“亡者”をこの世に遺す。
それはこの閉じた世界を最初に造った“彼等”による、悪趣味な仕掛けの一つであった。そしてサリアの悲嘆によって世界が節目を迎える度に、大量に発生した“幽霊”を“亡者”が黒く染めあげながら諸共に地の底奥深くに流れ落ち、澱み、溜まっていった。
それはいつしか“奈落”と呼ばれ、この世界において断続する人々の営みの中で、不可思議にも忌むべき禁断の地として恐怖と共に伝承されていった。
そして長い年月を経て溜まりに溜まった“怨念”は数多の“亡者”と“幽霊”の集合体であるが故に、“憤怒”や“憎悪”だけではなくそれに匹敵する程の“畏怖”や“絶望”をも内包していた。ある意味相反する二つの感情である。巨大な“亡者”の集合体は“奈落”の奥底で怒りに吠え怖れに震えるだけで悠久に近い刻の中で無為に過ごした。
皮肉にもこの閉じた世界においては、蓄積された“怨念”は地下で蠢動するだけのまったくの無害の存在であったと言える。これまでは。そして移動図書館の予想ではこれからも。
世界が巡り新たな“亡者”が地の奥底に呑まれ消えていき、いつの日か“奈落”ばかりかこの閉じた世界から溢れ出るまでに“怨念”が誇大化するその日までは。
それを是非も無しと受け入れたのが司書長ガザル=シークエであり、良しとしなかったのが守衛長ガッハシュートであった。
何れにせよ、ソレが溢れ出すのは『いつの日か』という遥か先の日の話の筈であった。
しかし蠢くだけの“亡者”に何者かが目的を与えた。そして“怨念”の中の最も古く強い“亡者”に『メブカ』という名と人格を取り戻させた。“思い出させた”というのがより実情に近いだろう。そして全ての命を呑み込む為に“亡者”メブカはその不浄の暗黒の肉体と共に地上に這いずり出てきたという訳である。
(ザーザートか……)
それを成したのがコバル公国の名代を名乗る男であることをガッハシュートが突き止めた時には、巻き返しが難しい程に全てが後手に回ってしまっていた。ザーザートによってメブカが使役されている関係であればまだ――ザーザートさえ“排除”してしまえば――対処のしようもあったのであるが、これまでの邂逅でガッハシュートの見定めた限り両者は“主従”ではなく“盟友”と思しき間柄であると推測された。
それは“友情”などという儚き関係では無く、むしろ“共生”とでも呼ぶべきより強固な並び立ちであった。厄介なことに。
“亡者”を滅ぼすことがそもそも可能なのかはガッハシュートの“力”をもってしても確証は無い。だがこれ以上自分と同じ顔をしたモノの暴虐を野放しする事だけできなかった。
二度とこの世界に滅びをもたらしはしない――それがガッハシュートがコルテラーナと交わした誓約なのだから。
しかしメブカ自らが指摘してきたように、その場で直ちに再生する“亡者”に対する圧倒的な不利は否めないままであった。
しかし状況が一変したのは、ガッハシュートではなく意外にもメブカの側からであった。
「……」
不意に“亡者”はガッハシュートではなくモガミの脱した天窓の方を見上げた。そのまま一言も発することなく、完全にガッハシュートを無視した形でその身をグズグズに崩し、人の体から黒い不浄の粘着質の固まりへと形態を変えた。本来の“亡者”としての姿に戻ったという方が正解ではあるのだろう。何れにせよメブカであったモノは去り際に何か言葉を残すでもなく、そのまま再び床の下に染み込む形で吸い込まれ、そして最終的に完全にその気配を断った。
(目的を達したのか、或いはただの挨拶代わりか……)
その理由までは分からねど、ガッハシュートはメブカが唐突に退散したことを知った。
むしろ大仰な退場を果たしたのは“亡者”ではなくその場に残された絨毯を思わせる遺児達の方であった。いつの間にやらというべきか、遺児達は床の一部に開けた穴の中に濁流の様に消えていった。後には椅子やテーブルといった諸々の残骸と、商都の重鎮である会合衆達だけが残された。
いまだ用心深く空中の足場に留まったままだったガッハシュートが一瞥した限り、圧し掛かられたにも関わらず四肢が折れた様子もなく、揃って単に気絶しているだけなのではないかと思われた。何よりも無念の死を遂げたならば傍らに出現する筈の“幽霊”が一体も見当たらない以上、己の判断が間違っているとも思えなかった。
会合衆の救出に入るか思案するガッハシュートではあったが、結論を出す前に彼等を放置することが確定した。破壊された天窓の縁に立ち、新たに室外から彼に語り掛けてくる者が出現した為である。
白眼の部分の極端に少ない碧い瞳を持つその青年は、ザーザートに逃げられたことを悪びれる様子も無くガッハシュートに告げた。
「そうか」
短くただそれだけを応えるガッハシュートであったが、新たに己の配下である“守衛”となった青年を見上げるその目はどこか悲しげであった。
天窓から吹き込んだ風が、ガッハシュートの首に巻いたマフラーをバサバサと揺らす。憂いと共に絞り出されたガッハシュートの指示さえも、その強風によって掻き消えんばかりであった。
「――撤収だ、カカト」
*
「話が違うじゃろがい!」
地べたに直に胡坐をかいて座り、憮然とした表情で大声を上げるナナムゥを、私は黙って見守っていた。
今、と云うかここ二日ほど私達は街道から遥かに外れた人の踏み込むことも滅多に無いであろう山中にいた。“奈落”にいた時とは異なり、脳内の声なき声に対する問い掛けに答えが返ってくる状態にはなっていたので、私は自分達の居る場所がいまだ妖精皇国からはほど遠い、むしろ商都ナーガスに近い山中である事を知っていた。
もっとも、この世界で生まれ育ったナナムゥに言わせれば妖精皇国の周囲は広大な平野部であるので、このような深い山中というだけで妖精皇国からはだいぶ離れていることは明らかだということであった。
「ナナムゥ」
それまで私の背後に回り整備に専念していたバロウルが彼女を軽く窘めたのは、そのぞんざいな口調か無作法な態度か或いはその両方か。ナナムゥがカカトの遺体との“再構成”を果たしたことで幼女から少女へと肉体面で急成長を遂げた後には、バロウルがかつてのように彼女を『嬢』と呼ぶこともすっかり無くなってしまった。
“奈落”からの脱出の途上でガルアルスによって胸部装甲を剥ぎ取られ、そしてその当人によって応急処置的に『接ぎ直した』状態である私は、整備担当であるバロウルから見て到底看過できない状況であることは理解できる。そもそも“奈落”の中に整備も無しに長く居過ぎたのは言うまでも無い。
脱出できた現状だから無責任に言い放てるのだが、ナナムゥと二人で過ごしたあの短い静かな生活もわたしは決して嫌いじゃなかった。
私の感傷は兎も角としても、私の応急整備という『仕事』のあるバロウルに比べ、手持ち無沙汰であったナナムゥがその分ガルアルスに対して憤りの矛先を向けるのも分からないではなかった。
『早く乗れ。俺が運んでやる』――真紅の少年ことガルアルスは確かに我々にそう言い放ち、そして実際に“早馬”の荷台の残骸に私達を詰め込むとそれを持ち上げ飛んでみせた。有り得ないと驚愕する暇さえ私達には無かった。
そもそも始めから選択肢が与えられていなかった気もするが、一刻でも早く浮遊城塞に戻りたい私達にとっても渡りに船の話であったことは確かである。しかしガルアルスはコバル公国の支配地域を抜けた後、我々に一言のことわりも無く突如としてこの山中に舞い降りたという次第である。
それが昨日の話であり、我々だけをこの場に残してガルアルスは背中に紅い翼を広げ天に昇り、ほぼ丸一日降りては来なかった。遙か天空で少年が何をしていたのかは私の望遠機能を使っても視認はできなかった。
そして一夜明けた今日はと云えば、魔法としか形容しようのない紅い光でガルアルスは大地に深い穴を穿くと、そこに飛び込んで地の奥底に消えたという次第である。
少年にここで待っていろなどと指示された訳でも無い。その気になれば私達だけで徒歩で浮遊城塞を目指して出立する事も選択肢としてはあっただろう。しかしなまじ公国の支配地域からも逃れ出ることができた為か、或いは浮遊城塞に帰る目途がついて気が緩んだのか、ナナムゥもバロウルもそうとは口に出さずとも今は身を休めるのに精一杯なようであった。
ナナムゥがガルアルスに対して毒づき始めたのも、裏を返せば昨日今日とこの地で静養したことでそれだけ肉体的にも精神的にも回復を果たした良い証であったのだとも思う。
そして疲弊という点では、生身ではない故にそれとは無縁の筈の機兵もまた同様であった。それどころか、かなりの不調だとも言えた。一瞬とは云えしばしば意識が途絶えがちであることは早くから自覚していた。幾ら私の魂魄を宿しているとは云え、所詮この身は機兵という名の工作機械のようなものである。従来の毎夜の整備も無しに長期稼働させ続けていたに等しいのだから不具合が出ても当然であるのだと、私は――伝達する手段そのものが無いこともあるが――己の不調を周囲に悟られぬように苦心していた。
無意味な矜持の成せるつまらぬ意地であったとしても。
「――何を騒いでいる」
地面から少年の頭だけがひょっこりと覗いたのは、ナナムゥが幾度目かのぼやきを発した後であった。ほぼ一日土中にいたにしては、疲弊の色どころか目立った土汚れがその服に付着すらしてはいない。
個人的に色々とお辛いことがあり筆が止まってしまいました。
それはそれとしてこの作品で最も「クズ」なのはモガミだと思っています。