鬼轟(3)
ティティルゥの遺児達の名もその特性も、浮遊城塞に忍ばせておいた“草”経由でモガミも把握はしていた。体内に潜み、その“宿主”を操る忌まわしい“力”を有しているらしきということも。
油断していた訳ではない。結果として虚を突かれてしまった以上、慢心だと責められても仕方の無いことではあるが。しかしそれはそれとして、急にこのような雑で直接的な手段を強行してくるなどとはモガミは思ってもみなかった。
床や壁を覆う遺児達の群れ。床の所々にこんもりと盛り上がった固まりが散見されるのは、それが会合衆を遺児達が包み込んでいる跡だということはすぐに察しがついた。元々から高齢者の多い会合衆である。いまだ僅かにもがいているらしき揺れ動く塊も有りはしたが、その殆どは既に痙攣すらも止めていた。その生死までは流石のモガミにも判別はつかない。
遺児達が人に寄生しその動きを操る“力”を持つとは云え、バロウルの前例をみるにあくまでそれは肉体に対する強制力であり、“洗脳”の類ではないことをモガミは見切っていた。それが為に、今こうしてザーザートが会合衆を制圧したとして、商都を無傷で掌握するような策謀には結び付かないことが彼の疑念をより一層強めた。
身も蓋もない言い方をすれば、『訳が分からない』といったところである。
「モガミ!」
議事堂内で唯一遺児達の襲撃を凌いでいたティラムは、床下からのモガミの出現を前に一瞬だけ安堵に腑抜けた表情を見せた。だがそのまま安堵に泣き崩れるようなこともなく、むしろ一層表情を固く引き締めると己の対面に立ったまま黙ってこちらを見ているザーザートに対して懸命に声を張り上げた。
「本当に貴方はザーザートなの!?」
モガミにとって意外であったのは、かなり気を許した相手でない限り――そして今はヴァラムとモガミと、そしてほんの僅かの古参の使用人に対してのみである――酷い吃音を発症してしまうティラムが、特に言い淀むことも無く己が疑念を言葉として口にできたことであった。
まだ少女であったティラムがザーザートとは方術士としての同門であったことはモガミも聞き及んでいた。
亡き先代――すなわちティラム達双子の父親にあたる――が後見人として高名な方術士を師に付ける程の才覚と将来性を、ザーザートは見込まれていた。それが縁となって、ティラムとザーザートの両者は相応の時間の中で修行の苦楽を共にし、時として競い合った仲であったということも。
ザーザートが公国に戻ることで袂を分かった後に、両者が揃って心の中の大事なモノを破壊される運命を辿るなどとは誰に予想できるものでもなかったことではあるが。
同門として共に学んだが故に、ティラムは己が方術士としての実力がザーザートには遠く及ばないことを理解していた。今、自分とモガミとをグルリと円形の簡易結界が囲み、それに阻まれた遺児達が様子を窺うように蠢いている。しかしそれがあくまでも見た目だけの話であり、ザーザートが遺児達をその場に留めているからだということにも気付いていた。
彼女が張った略式の結界は透明な板を周囲に張り巡らしているだけに過ぎない代物である。物理的な圧力が耐久値を超えるだけで破壊可能な心許ない“障壁”であり、まして同門の方術士――それもティラムよりも優れた――ザーザートがそれを見抜けぬ筈も無かった。
手心を加えられている。己の都合の良いように解釈をすれば。そしてティラムはそのザーザートとの昔の誼に縋ったのである。
「ザーザート、何故こんな無茶を!?」
「……」
再びティラムの口から己が名を呼ばれてもザーザートは微動だにすることなく、ましてその口から返事が返って来ることもなかった。
そもそもが会談に先立ち公国側の特使の名が『ザーザート』であると告げられていただけで、その貌はティラムの知る『ザーザート』とは似ても似つかぬものであった。
特使として来訪する以上、流石に公都に滞在している時のように頭巾を深く被るような無作法な真似はせず、珍しくもザーザートのその貌は晒されていた。だがその貌はティラムの懸命な呼び掛けにも心動かされた様子が無いばかりか、そもそもが好悪すらも感じさせぬ捉えどころの無い貌――言うならば“無貌”をそのまま形にしたかのような固まった表情のままであった。それはまさに自分の声の届かぬ『ザーザート』の象徴であるかのようにティラムには思えてならなかった。
しかし、それでも“無貌”の視線がモガミではなくその横に並び立つ彼女に向けられていた事だけは確かである。ティラム自身はそうと気付くことはできなかったとは云え。
だが物言わぬザーザートの代わりにこの場に新たなさざ波を引き起こしたモノが別に居た。絨毯の様に議事堂の床を覆う遺児達の群れを割り割くように、地面から何モノかが隆起する。それは頭上を覆う遺児達をボトボトと振り落とすと、すぐに蒼白な顔をした青年の姿を形作った。色調だけは遺児達と同じ“黒色”でありながらも、明らかの別種の禍々しさで全身を覆いながら。
整った端正な顔立ちでありながら、精気の無い死人の如き悍ましさを併せ持つモノ――“亡者”メブカがユラリユラリと佇む姿がそこにはあった。位置的にはモガミ達を間に挟んだちょうどザーザートの反対側であり、逆に言えばモガミにとっては二人の“魔人”に挟撃を許す危険な配置であった。彼らが果たして“魔人”と云う範疇で収まる程度に“人”としての原型を残しているのかは、甚だ怪しい話ではあるのだが。
「――!」
常に冷静沈着を是とするモガミのこめかみを一筋の冷や汗が伝う。彼が単身であったならば、床下のメブカの不意討ちを凌いだ時点で手首の収納ブレスレットに隠し持っているワイヤーロープで天井を突き破り徹底しているところである。
だが今、彼の傍らにはティラムがいた。彼女を抱き抱えた状態で無理に脱出を試みたところで、それが致命的な隙を生み出す結果となるだけだという冷徹な判断を彼は既に下していた。
必ず訪れるであろう千載一遇の脱出の機を窺うモガミであったが、その“亡者”の顔が浮遊城塞に常に寄り添っているガッハシュートと瓜二つである事にも始めから気が付いてはいた。所長が浮遊城塞と関わりが深いが故にガッハシュートとも接触があり、それによってモガミもまたガッハシュートと直に相対したこともあったからである。それ故にガッハシュートの顔をモガミが見紛うようなこともないが、彼は一旦はその疑念を脳裏から完全に消し去ることに決めた。
熟達した忍びのモガミにとっても、それ程までに神経を研ぎ澄まさねばならない窮地であるという証であった。
「答えて、ザーザート!」
一方のティラムもまた別の意味で必死であった。
彼女の知るまだ若き頃のザーザートは物静かで控えめな、そして同時に誰に対しても一線を引いているような孤高の印象が強かった。ザーザートはしかし他人に対する嫌悪感を表に出すような愚は犯さなかった為に、それは謙虚な態度として目上の人間には受けが良かった。それ自体は傍で見ていたティラムにとっては良いも悪いも無い話である。だが公国に残してきた姉のことを僅かに語る機会があった時だけは、年相応にはにかみながらも熱の籠もった弁を振るう、そのような印象がティラムには強く残っていた。
おそらくは商都においてザーザートがそこまで気を許した相手はティラムだけであっただろう。それ故にティラムもまた、少なくとも今このような蛮行に及んだ“無貌”の者とザーザートが同一人物だとは認めたくないという願いを捨てきれないでいた。
実際、悪夢のような一瞬であった。議事堂に単身乗り込み、そして当たり障りの無い挨拶と共にザーザートが一礼を終えると同時に、そのローブの裾からそれこそ洪水の様にティティルゥの遺児達は吐き出された。無限の如き遺児達の奔流は黒い“布”の集合体でもある鎌首をもたげると、異常事態に言葉を発する間もなかった会合衆を頭から呑み込んだ。
今、遺児達の黒い絨毯の下で山と化している彼等の生死がどうなっているのかは無論ティラムにも分からない。ただ彼女の目の前でもうピクリとも動かないことだけは確かであった。
ティラムだけがその死の奔流を逃れ得たのは、彼女がザーザートの到来前から既に略式の結界を自分の周囲に秘かに張り巡らしていたからに過ぎない。それもザーザートによる強襲を予測していた訳ではなく、むしろ今回の会談で鷹派筆頭として全ての責任を押しつける為に――それ自体は決して的外れではないとは云え――会合衆による不意の拘束を懸念したモガミが、用心の為にそうするようにティラムに予め告げていたからであった。
皮肉にも身内の会合衆への警戒がティラムの身を救ったということになる。
「お姉さんが死んだせいでおかしくなったの!?」
「――!」
空気がざわめく――ティラムが放った新たな叫びは、まさにそう表現するしかない効果を場にもたらした。床に伏せていた遺児達が残らずその鎌首を垂直にもたげ、ティラムに対し四方八方から物言わぬ圧を与える。地獄の針山に放り出されたらこの様な感じになるのだろうかと、モガミは場違いながらもふと思ったほどであった。状況が悪化したことは事実であるが、何れにせよ始めから死地ではあったとモガミは納得する。
姉の死をティラムが知り得たのは、無論モガミによってもたらされた情報によるものである。とは云え、モガミの情報網でもそこまでは追えたのであるが、逆に言えばそこから先のザーザートの情報は途絶えてしまっていた。正確にはクォーバル大公により極刑を申し渡され“奈落”に墜とされたところまでは間違いの無い情報ではあったが、数年後にその大公の名代として公国の表舞台に再登場した経緯と、何よりも“奈落”に墜ちて後に如何にして生還したのかについてはまったくの謎であった。
普通ならば安直過ぎて一笑に付す『同名の別人』という公国の見解が、只の建前ではなくそう解釈する方が一番支障が無いのではないかとモガミが錯覚する程である。
何れにせよティラムの言葉に――否、或いはティラム自身がこの場に居合わせた事こそがザーザートの中に残っていた僅かな追憶を呼び起こしでもしたのか、真実は誰にも分からない。唯一つ確かな事は、ザーザートが始めてその“仮面”を外したということであった。顔から追加装甲とまやかしを兼ねた遺児達が剥がれ落ちるという、物理的な意味合いをもって。
「ザーザート……!」
これまでの誰のものとも知れぬ貌ではなく――幽鬼めいた近寄り難さを拭い切れないとは云え――旧知の見知った貌の出現に、ティラムは思わず喜色に溢れた声を漏らした。
(……素顔を出しただと!?)
ティラムとは対照的な反応を示したのはモガミの方である。それまで彼の意識はザーザートではなく、むしろ“亡者”メブカの方に向いていた。それだけ底知れぬ畏怖の存在であるということを忍びの本能として感じ取っていた訳ではあるが、チラとザーザートの露わとなった素顔を盗み見たことで彼の全身は総毛立ったのである。知らずの内に。
ザーザートの素顔そのものが問題なのではない。その瞳に確かな理性の色を認めた為である。
(単なる物狂いかとも思ったが……)
これまで、今ひとつ捉えどころの無い公国の軍勢の動きと、それを裏で操っていると思しきザーザートに対してモガミの下した判断はそれであった。安直ではあるが、彼にとっては一番腑に落ちる憶測でもあった。
しかし、ザーザートの目には紛れもなく知性の光が宿っていた。そしてそれを裏付けるかのようにザーザートが発したティラムに対する初めての返答は、憤怒や怨念に塗れたものではなく、むしろ淡々としたどこか噛んで含めるような物言いであった。
「そうだ、君の言う通りだ、ティラム」
「――っ!?」
待ち焦がれていた筈のザーザートの返答のあまりの声の冷たさに、ティラムは我知らず身を固く身構えてしまった。
「姉は苦しみ抜いて死んだ。殺されたんだ。だから、この世界の全ての者にも同じ苦しみを味わって貰う」
「ザーザート……?」
「その手始めにこの商都ナーガスを焼き、妖精皇国を蹂躙し、最後に公国を崩落させる」
「ザーザート!」
「この逃げ場の無い閉じた世界の中で、全ての者は姉と同じ様に、この世に生まれたことを呪いながら死んで貰う、それこそが我が望みだ」
「ザーザート!!」
手首をモガミに強く掴まれていなければ、ティラムはかつての同門の許に思わず駆け寄ってしまっていたことだろう。変わってしまった――否、狂ってしまっているのだと云うかつてのモガミと同じ結論に達したティラムに対し、それまで淡々と、まるで判決文でも読み上げているかのように己の目的を語っていたザーザートの口上が不意に止んだ。
“亡者”そのものであるかのようなザーザートの昏い瞳に初めて僅かに逡巡の色が走り、再び発せられたその言葉にも幾ばくかの揺らぎがあった。もしモガミにそう伝えれば直ちに否定されるであろう気の迷いでしかなかったのかもしれないが、少なくともティラムにはそう思えてならなかった。
しかし、ザーザートのその言葉の内容は、ティラムの期待とは相反するものであった。
「だからティラム、昔の誼として、この世の地獄を見なくて済む様に、今ここで楽にしてやる」