鬼轟(2)
一方、攻め手である公国軍の目論見としては――統率の取れていない寄せ集めの集団ではあるが――商都の地下を掘り進むことで厚い防壁を無力化するということでは――ぼんやりとではあるが――一致をみていた。元が鉱夫上がりの軍勢である以上、それは必然であるとも言えた。
だが、彼等の坑道さえ掘ればどうとでもなるだろうという楽観的な予測と異なり、商都の地下には遺構と呼んで差し支えの無い程の大迷宮が広がっており、加えてそこに潜む迎撃者はその構造を完全に把握していた。幾ら岩盤をも掘り進む地蟲を戦線に投入したところで、元より掘削済みの地下迷宮では何の意味も無い。公国の先遣隊――と呼べるほどに組織立ってはいないことは先に述べた通りであるが――はモガミ達シノバイドの前になす術なく潰走を重ねていた。
だが如何に商都の命運に関わる前哨戦で勝利を重ねようとも、所詮はシノバイドはモガミの私兵でしかない。地下迷宮の攻防を始めとする防壁を守護する為の戦いは孤軍の、そして決して表沙汰にはできない類の戦果であった。
元より頭領であるモガミが下した孤高の闘いである。彼等の挙げた戦果に対し独断専行であると吐き捨て、足を引っ張ろうと企てる者さえいたが、それによりシノバイドの士気が下がるようなことはない。だが彼等の挙げた戦果に正に反比例するかのように、会合衆の間で厭戦の気配が広がるのはモガミの想定より遥かに早いものであった。半包囲に過ぎないとは云え、物流が停滞していることによる不満が噴出しているだけではない。会合衆の中にも元々取引を通じてコバル公国に縁の深いも多く、何よりも公国側の何者かが会合衆の切り崩しに掛かっていることは明白であった。
『何者か』――実際の所、表立ってはまだ姿を現さないものの、“洞”ごとに独立の気風が高く連帯も何もない公国の軍勢を取り纏めつつある人物の気配はあった。散発的に、しかしそれなりに発生していた小競り合いがここ数日で目に見えて減少を始めたからである。そして該当者と思しき者の名だけは、シノバイドの諜報網を元にモガミの耳にも届いていた。
(方術士ザーザート……)
クォーバル大公の名代であるその青年が具体的に今どこに居るのかまでは流石のモガミでも把握はできていない。例えできたとしても、今すぐにモガミがザーザートに対して手を回すつもりも無かった。要は様子見を決め込んだのである。自分だけでなく妻にとっても決して浅くはない因縁を持つ者であると知りながらも。
もし後世の歴史家に批評されるような事態になれば、自分達は随分悪し様に語られるだろうとモガミは思う。
想定よりも早く商会への突き上げが激化しただけで、彼の計画そのものが破綻した訳ではない。己の背後に座す主君――モガミにとっては永遠の姫君――の為にカルコース商会も、手塩にかけた“子供”に等しいシノバイドも、商都ナーガスとそこに暮らす住民そのものすらも“盾”とすることを誓った身であるからには、会合衆の間での商会の求心力の低下など些事ですらあった。
本当の意味での商会の後継者である姉妹と新たに授かった仔に負い目を感じない訳など無い。しかし、それこそが都合の良い『甘え』であることを、モガミは自身の肝に固く銘じていた。
例え今回の交渉の場で何らかの手打ちが成立し、自分達シノバイドが撤収を厳命されたとしても構わない。みすみす公国の軍を商都に招き入れ、それがそのまま暴徒と化してもむしろそれはモガミにとっては望む展開である。忍びとは常に日陰にある者にして、市街地での遊撃戦こそが真価を発揮する闘いの場であるのだから。
既に――小賢しくも――商都を素通りして妖精皇国へと向かった輩に関しては、“旗”を与え“旗手”としたミィアー独りで対処できる筈であった。念の為に、己が副官の一人であるナプタも側に付けているからには不覚を取る事もないであろう。
そして妖精皇国の所長のお膝元にこれ以上の公国の進軍を断ち切る為にも、商都に招き入れ延々と泥沼の如き消耗戦に引き摺り込むのが時間を稼ぐ意味で最も効率が良いことをモガミは承知していた。
尤も、彼がこれまで敢えてそうせずに水際である地下迷宮の攻防で凌いでいるのは、所長が商都の住人を道連れにする策を決して許しはしない事を知っているからである。
或いは例え何かの間違いで会談の結果このまま公国の軍勢が全て撤収を決め込んだところで、モガミは背後からそれを襲撃し殲滅する心積もりであった。
無傷で帰したが最後、味を占めて同じことを繰り返すのが目に見えているからであるのは言うまでもない。
「……」
独り議事堂の床下に潜むモガミは、身動ぎ一つせずに会談の始まりを待っていた。言うまでもなく、会合衆の面々には話も通していない非合法な潜伏である。
入り婿であるモガミがカルコース商会の代表として振舞うことに対し、良い顔をしない会合衆は少なくない。図らずもそれは皇室警護の忍びの出として常に裏の世界に身を置いて来たモガミにとっては、渡りに船の話ではあった。
今、彼の直上の議事堂内にはカルコース商会の代表としてティラムが席に付いていた。今回だけではなく、これまでの会合衆の会合全てにおいても出席したのはモガミではなくティラムであった。続々と集結する公国の軍勢を前に、街の門を堅く閉じこちらからは決して交渉を持ち掛けない――改めて思い返すと随分と無茶な説得をよくも会合衆相手に熱弁してくれたものだと、モガミはティラムに対して感謝の念に堪えない。年齢的にも目上の者しかいない会合衆相手にあまりに熱のこもった答弁を繰り広げたが故に、口頭の最中に本人も気付かぬ内にどもりが無くなっていた程である。
答弁の草案を――諜報活動によって得た情報と共に――作ったとは云え、カルコース商会が独自で活動することへの暗黙の了解を得るという厄介事を妻に丸投げしたことに変わりはない。ましてその目的が商会にとっては害しか生まないことを承知しながらも、モガミはそれを託してしまった。
だが、それでもモガミは己の選択に対し今更迷うことなど有り得なかった。
『貴方の役に立てるだけで嬉しい』――ティラムがモガミの心の臓に対して打ち込んだ言葉の刃の鋭さを、その毒の鮮烈さを、果たしてティラム自身が自覚していたのかどうか。
「……」
場所的に直接その目にすることはできないとは云え、携帯した集音器から伝わる僅かの騒めきは、公国からの特使がまだ到着していないことを告げていた。
モガミが潜伏場所として見通しの良い天井裏ではなく床下を選んだことには無論相応の理由がある。いつの時代に誰が建造したのか、その由来については口伝一つ残ってはいない商都地下に広がる大迷宮。それをシノバイドの修練を兼ねて踏破を終えた今、そこはモガミ達にとって何よりの地の利を得た、格好の逃走経路であり潜伏場所と化していた。
例え公国の軍勢が商都内に乗り込んで来た展開となったとしても、この地下迷宮を自由に出入りすることで今のシノバイドの数でも公国軍を撃滅する自信はあった。またいざという時の商都の住人の避難場所として使えるように、ティラムの発案により最低限の居住環境も整えてあった。
斯くの如くモガミ達シノバイドにとっての生命線とも言える地下迷宮であったが、唯一つだけ問題があった。気が付くといつの間にやら地下迷宮に潜り込んでいる機兵の存在である。
その硬貨の様な平たい形状をした、どこか蟹を思わせる小型の機兵が『三型』と呼ばれる汎用型であることをモガミは承知している。
それが、この閉じた世界の至る所に潜んでいる事も。まるで、誰がしかの監視の“目”でもあるかのように。
『三型』以降の機兵の全てが、彼の主である所長保有の宇宙観測船『瑞穂』の技術と、コルテラーナ率いる浮遊城塞オーファスの魔導との結合品である。モガミがまだ所長の護衛の任を解かれる以前の話であり、それは間違いのない事実であった。その最中にコルテラーナより――盗み――聴いた“忌導”なる言葉の意味するものはいまだ明らかではないが、何れにせよ所長が機兵を己の“目”として世に解き放つなど断じて有り得ない話であった。
(であれば、『三型』の主とは――むっ!?)
モガミの忌むべき推測は、しかし集音器から不意に伝わるどよめきにかき消された。議事堂内に広がる喧騒が、しかしすぐに一斉に止んだところから、モガミは公国からの特使がようやく到着したことを知った。
モガミも決していたずらに思案に耽っていた訳ではない。彼はこれまで己の脳内を占めていた懸念を完全に意識の片隅に積み上げると、会合衆と公国の特使とのやり取りを聴き洩らすことの無いよう――集音器でも録音しているとは云え――意識を研ぎ澄ませた。
まずは特使の自己紹介が聴こえる。単身議事堂に乗り込んで来たと思しきその特使こそ、件のクォーバル大公の名代であるザーザートであることをモガミは知った。
ザーザートの名はモガミにとって、公国軍を影ながら纏め上げていると思しき要注意人物以上の意味を持っていた。シノバイドには成らなかったとは云え、間違いなく愛弟子の一人であったカカトを斃した者の名であることを、彼は忘れたことはなかった。
かつてバロウルだけがその場に居合わせ、結果としてその最期を見届ける形となったカカトの死因をモガミが聞き及んでいるのは、バロウルから直接聞く機会があったからではない。城塞の住人として潜り込ませているシノバイドからの報告によるものである。カカトの件だけではない。手練れのシノバイドの数は限られている為に主に所長に関わりのある要所にしか潜ませてはいないが、それを別としても彼の独自の情報網によって、城塞の事実上の主であるコルテラーナがその命を落としたことも、ナナムゥとバロウルが捕囚として公国公都に連行されたことも、一度は逃げ去った浮遊城塞が最終的に擱座したその位置すらもモガミは正確に把握していた。
客観的に見ても今の閉じた世界の情勢を最も把握できているのが自分であると自負している――その意味において、いまだ全貌の知れぬ移動図書館をコバル公国以上にモガミは警戒していた――が、それが故にあまりに場当たり的であり各々の連携すら取れていない公国の挙兵の真の意図を計りかねている事も事実であった。
故にモガミは、こうして会談に赴いて来た特使の――それがザーザートであることまでは確証は持てなかったのだが――口上や声の抑揚そのものから、少しでも公国の真意を読み取ろうとわざわざ床下に潜んでまでその場に居合わせることに拘ったのである。
「――!?」
それは第六感、或いはそれをも超えた第七感とでも呼ぶべきものであったのだろうか。
今回モガミが床下に潜伏したのは、表立って行動すると色々と差し障りがある立場でありながらも直に会談を聴いておきたいが為の妥協案であり、逆に言えば絶対に他の会合衆に己が存在を知られてはいけないということでもあった。
だがそれでもモガミは、万が一も有り得ないと思っていた直上の床板を突き破り上に逃れた。殺気が――それも研ぎ澄まされた刃のように冷たい殺気が、唐突に己の足下に沸いて出たからである。
(――そういうことか、マグナ!)
長距離砲損壊の忍務達成の為にマグナが我が身諸共自爆したところまではモガミにも把握はできていた。そもそも事前に砲台の警護の兵の数がそこまででもないことの確証があったからこそ、マグナに忍務を一任したという事情もある。
だからこそ、モガミには一つの大きな疑念があった。マグナは確かに己の身を犠牲にしてでも忍務を果たした。だがそうそう不覚を取るような者ではないのだ。何かが、マグナとそしてモガミの想定を上回る何かが公国の軍勢に潜んでいる可能性をモガミは考慮せざるをえなかった。或いはソレが、公国が標榜していたという紅星計画――その全貌も進捗具合も杳として知れず、モガミ自身はそれを出兵を隠匿する為の目眩ましではないのかと推察していた――の切り札である“客将”ではないのかと思い至りはしたが、全ては遅きに失していた。
だがその謎の存在の可能性をモガミは心に固く留めておいた。それが故に彼は突如とした真下からの殺意に完全に虚を突かれることなく、後先考える余裕すら無く広い空間を確保できる議事堂内に逃れたという次第である。
もしマグナの件が無ければ、幾らモガミと言えどもその兇刃の前に不覚を取っていたことだろう。それこそマグナと同じように。
マグナに致命傷を与えた必殺の黒き刃は、しかし既にモガミが飛び出た後の虚空を薙いだ。辛うじて危機を脱したモガミであったが、退避した先の議事堂内も又すでに地獄絵図の様相を呈していた。
万が一を考えて予め頭上に準備しておいた抜け穴から勢い良く議事堂内に飛び出したモガミは、器用に宙で身を捻ると妻であるティラムの前方に着地した。無論それは偶然そうなったという訳ではなく、会合衆の会合において厳格に席次の定まっていることから逆算して脱出口の設置場所を決めていたからである。
だが今ティラムは己の席から立ち上がり、蒼白な表情で方術による略式の結界を張っている最中であった。脱出口はその結界内に開いていた為にモガミは弾き出されることこそ無かったが、状況の危機を知るには充分であった。ティラムを背に庇う形でトンと着地したモガミであったが、顔は動かさずに五感だけを総動員して状況を把握することに努めた。シノバイドである彼にとっては僅かな一瞬のことである。
議事堂内には十数人の会合衆の面々がいた筈であるにも関わらず、シンとした死の静寂に包まれていた。聴こえるのは背中に庇ったティラムの緊迫した荒い吐息と、入り口の向こう側で流石に異変を察知したのか、扉をこじ開けようとしていると思しきくぐもった音だけが漏れ響いていた。
扉は開きはすまいと、モガミは冷徹に判断する。議事堂内部――すなわちモガミ達のいる側から黒い絨毯のようなモノがガッチリと抑え込んでいるのが視えたからである。
「ティティルゥの遺児達……!」