奇郷(9)
「ヴ…」
私は改めて流星群へと視線を転じた。南から北へ――この閉じた世界においても、便宜上方角は定められていた。無論“東西南北”ではなく独自の単語が用いられているが、直感的に分かるよう私は声なき声に太陽の軌道を基準に“東西南北”と訳すよう調整した――長い尾を曳き墜ちていく流星の群れ。
私自身には、未だに墜ちて来た時の記憶は無い。
流星と化して墜ち行く者の殆どが何らかの外傷を負っており、コルテラーナの弁によると生き延びることができずにそのまま果てる定めであるという事しか、知識としては知らない。
故にこれだけの数が流星群として同じ方角にまとまって墜ちるのならば、手を取り合うことで幾らかは生存の可能性が上がるのではないかと、願うことしか私にはできなかった。
(――同じ方角?)
ふと私はある事に思い至り、バロウルへと何の気なしを装って尋ねた。
『北には何が有るのです?』
「お前…!?」
何か思惑を巡らしていたバロウルが、弾かれたように私を見る。その切れ長の瞳には驚愕と、そして何よりも警戒の色があった。
「……」
しばしの沈黙の後、バロウルはようやく私にこう応えた。
「コバル公国と救世評議会……北にはいずれも六旗手の治める国が二つ有る」
突発的に北への質問を投げかけた時は、私的には悪くない着眼点ではないかと思わぬでもなかった。だが、その程度の考えなどは始めから考慮の内であったのだろう、バロウルはすぐにその先を補足した。
「コルテラーナも言っていた。どちらかの旗手が、手段はどうあれ故意に呼び寄せている可能性があると」
「ヴ…」
もしもその推測が確たるものであるとしたら、この世界の新参である私でもそれが由々しき事態であることだけは分かる。
自国の手勢を増やす目的か、或いは更に悍ましい所業を成す為の補充なのか。
私は脳裏の声なき声に、分かる範囲の情報を求め問い掛ける。
コバル公国の王――もう少し名前を捻っても良いであろうに――クォーバル大公。
救世評議会の議長――何故こうまで胡散臭い響きなのか――“知恵者”ザラド。
この密封世界において、現時点で『国』として認知されているのは北に二国、南に一国の三つだけのようである。
その残る南の一国は、今居るこの地の目と鼻の先である――真夏の夜の悪夢というわけでもあるまいに――妖精皇国、六旗手の一人である妖精機士ナイ=トゥ=ナイが守護する国だと声なき声が告げる。
これ以上は、居城に戻りコルテラーナに詳細を尋ねた方が無難であろう。憶測のみでは動けない。
「……」
頭上の怪異を前に自然と場の言葉は失われ、ただ焚き火の爆ぜる音だけが宵闇の中に響くのみであった。
(しかし……)
正直なところ、私には腑に落ちないことが一つあった。懸念と云ってもいい。
(もしもこの世界を造った“彼等”が実在するとして、召還は“彼等”が看過しうる行為なのだろうか?)
コルテラーナは“彼等”には悪意しかないと言っていた。それが事実だとしたら、『遊戯の駒』であろう六旗手が独自に新たな犠牲者を呼び寄せているという行為は、『遊戯』の根幹を揺るがす所業ではないのか、と。
(或いはそれすらも“彼等”には織り込み済みなのか、それとも――)
「なーに、心配無用じゃ!」
それまでただ沈黙を保ったままの私とバロウルの顔を交互に窺っていたナナムゥが、突如として甲高い声を張り上げる。
「カカトが北から戻ってくれば何もかも大丈夫じゃ!」
幼く明るく、そして気丈な声。彼女なりに気を回した結果だというのは明らかであった。
賢い幼女だと私は思う。そして私にとっては好都合であろうとも。
「そうか…そうだな、お嬢」
「な!」
笑みを交わすナナムゥと褐色の雌ゴリラ。その微笑ましい光景を遠目に見ながら、私は自分の内面で暗い思惑を巡らしていた。
口には出せない。バロウルの持つ端末に私の思考が表示される仕様である以上、胸中とは云え決して口に出す訳にはいかない。
私は破廉恥な男だ。
そしてその慚愧の念とはまた別に、私は自分の無知さを改めて痛感していた。
北にあるという二つの六旗手の国。ナナムゥがしばし口にする――間違いなく六旗手の一人であろう――カカトという名。
そして昼に狩り集めた“幽霊”の行く末。
私にはまだ、知らないことが多過ぎる。
脳裏の声なき声に問うたところで、望む回答が芋づる式に表示される訳ではない。ちょうどネット上で一つ一つ関連単語のリンクをクリックしていく、その様な面倒な手順で追っていかねばならなかった。
言葉さえ発する事ができればと、歯痒い思いは増すばかりである。
筆談の可能性はとうに潰えた。実の所、今日の昼間に“狩り”に向かった際に、バロウルの目が届かぬのをよいことに秘かにナナムゥ相手に試してはみた。
だが私が地面に掘ることのできた文字は――当然と言えば当然の話だが――漢字であり、そしてひらがなという一連の日本語の文字だけであった。無論ナナムゥに解読できる筈もなく、私の試みはまったくの徒労に終わった。
人の話し言葉は声なき声によって日本語に翻訳され、私の脳裏に届けられる。
だが書き文字に関しては、幾ら脳裏にこの世界の文字の対応表を念じてみても、一切の反応は返ってこなかった。
各所で目にする壁の注意書きの類には、丁寧に日本語の脚注を視界の内に表示してくれているにも関わらず、である。
得られる知識に何らかの制限がかけられていることを、私は既に確信していた。
道理の通らない話だと、自分でも思う。だが今は、その事実だけを受け止めるより他の術は無い。
「では、参るとするか」
迂闊な話ではあるが私は思考を巡らすあまり、ナナムゥが自分の背中の座席にいつの間にやら跨っていることに気付きもしていなかった。
触感の無い事による障害だとしても、あまりにお粗末だと自省せざるを得ない体たらくである。
「お嬢、あまり遠くには行くなよ」
特に咎めるでもなく、バロウルが軽い注意を述べるに留まる。良くある話なのか、或いは始めから諦めているのか。
「大丈夫じゃ、今日はこやつがおるからな。バロウルはゆっくり留守番しててよいぞ」
「そうか…そうだな」
私の後頭部をペシペシと叩きはしゃぐナナムゥとは対照的に、何故かバロウルは口ごもり僅かに瞳を逸らした。
それ程までに“護衛役”である私に信用を置けないということだと、私は解した。確かに逆の立場で考えると妥当な懸念ではある。故に私は取り立てて抗議の素振りは見せなかった。
「――六型」
ほんの一瞬、躊躇の表情を浮かべた後、バロウルはナナムゥではなく私へと告げた。
「用心の為に、三型を一つ持って行け」
「ヴ?」
バロウルが何を懸念しているのか私には分からない。コルテラーナの云う魔獣なり忌まわしき“合いの仔”なりにしては、バロウルの躊躇いの口調が妙に気にかかった。
持って行けと言われて、困るものではないにせよ。
心配性じゃのと笑うナナムゥを背に乗せたまま、私は焚き火の前へと一歩進み出た三型を一台、両手でお盆を持つような形で抱え上げた。
「お嬢、適度に切り上げて早く帰ってこい」
それ以上は何も言わずに黙って見送るバロウルを背に、私はナナムゥと共に夜の帳の中へ歩み出した。
昼の間に“狩り”と称して林を出入りしていた時の光景の中におあつらえ向きの場所があったのだろう、ナナムゥがベシベシと私の頭部側面を叩きながら指し示す道のりに迷いは無かった。
頭上の流星の群れはかなり落ち着いてきたとは云え完全に絶えるまでには至らず、私とナナムゥはその箒星の灯りの下を粛々と進んだ。
敢えて私は暗視機能を使わなかった。
父と母と妹と、蛍を見に行った幼き日の田舎のあぜ道。不意にその穏やかな情景を、今の自分の置かれている状況に重ねてしまったからである。
夜の闇すら心躍らせた、家族で過ごすあの幼き幸せな日々に。
望郷の念は無論有る。人ではなくなったこの躰では、二度と戻ることは叶わぬといえども。
妹の亡骸を見つけ弔った先の事など、今はまだ思いを巡らす事すらできない。
ましてや、滅びの約束されたこの世界で。
「ここじゃここじゃ!」
ナナムゥが消沈する私を導いたのは、小高い丘の上であった。
隙あらばすぐに私の頭によじ登ることと云い、どうにもこの幼女は高所の類が好きなようである。
「バロウルが五月蠅いから、とっとと始めるかの」
今も既にナナムゥは私の右肩口の上にすっくと立つと、これまでの幼児丸出しの駄々っ子っぷりからは想像もできない程に厳かに、夜風に乗せて唄を歌い始めた。
私は単眼を右横にスライドし、ナナムゥの姿を仰ぎ見た。夜空を見上げ、懸命に歌う己が幼主の御姿を。
それはまさに私に、霊験あらたかな巫女による神事の類いを連想させた。
歌詞の内容そのものは分からない。声なき声に尋ねてみても、訳した言葉は表示されない。そもそもがナナムゥの歌声自体が歌詞というものを意識させない、どちらかというとハミングに近いものであった。
私は音楽には――音楽にも、というべきか――明るくない。故に無粋な表現をするならばカラオケで2曲分程の長さを歌い切ったところで、ナナムゥは一つ大きな息を吐いた。
一通り歌い終わったというところであろうか、彼女は私の頭部に小さな背中を預けると、そのままだらしなくもたれかかってきた。
「……お主も、あの流れ星の一つとなってこの世界に墜ちて来たんじゃな……」
夜空の流星を見上げたまま、ナナムゥが不意にポツリと呟く。
「わらわもカカトもバロウルも、みんな密封世界で産まれた。じゃから落ちて来たお主達の事はよう分からん。じゃがの…」
手持ちぶさたに私の頭部をゆっくり撫で回しながら、ナナムゥが天を走る流星を――この密封世界に新たに墜ち行く哀れな魂を――見上げながら寂しげな笑みを浮かべた。
「じゃが、誰かが見届けてやらねば可哀想じゃものな……」
「ヴ」
私は、ナナムゥが唄う理由が憐憫であることを知った。『見届ける』と彼女は言ったが、それは『看取る』という表現を知らぬが故だと私は推測した。
それは幼さ故の純粋さか、或いは彼女もまたこの世界の過酷さを、そして墜ちて来た者達の殆どに訪れる『死』という概念をその幼さにも関わらず正確に理解できているとでもいうべきか。
(賢い幼女だ……)
いつか、この優しき幼女の心もこの未来無き世界に蝕まれ、賢しさ故に荒んでいくのだろうか。
それは悲しいことだとわたしは思う。