稀謳(21)
「オズナの祖父であるデイガン宰相が、私を救ってくれた……」
浮遊城塞オーファスの工廠長バロウル――彼女自身はまったく意識してはいなかったが、その名はこの閉じた世界において本人の認識よりも遥かに広く知れ渡っていたのである。
そもそも浮遊城塞オーファス自体が天を翔る唯一無二の存在として知らぬ者が無かったということもある。世界のあちこちを気ままに渡り歩き、弱気を護り悪しき魔獣を斃し去っていくカカトもまた、表向きは浮遊城塞を率いる『英雄』として半ば伝説めいて語られていた。お供の妖精と共に。
無論、城塞の住人である私達は真の主がコルテラーナであることを知っている。しかしコルテラーナ自身が必要最低限しか表舞台――城塞が交易の為に各地に点在する湖に着水した時にのみ、心療術士めいた診断を行っていた――に出ることを忌避していたが為に、バロウルの名は機兵の技師としてカカトに次ぐ知名度であったということになる。特に冶金が産業の根幹を成すコバル公国においては、“洞”の主である貴族達の間でバロウルは広くその名を知られていたのであった。
褐色の肌の偉丈夫と云う身体的な特徴に恵まれていたことも幸いした。晒しモノとしてナナムゥと共に檻に入れられ公都に護送されるに際し、その巨女こそが浮遊城塞の工廠長だと気付いたデイガン宰相がバロウルの保護に動いた――身も蓋も無い言い方をすれば“確保”であろうが――というのがバロウルの語る事の顛末であった。そして宰相としての強権を発動して、その手の者が“奈落”の入り口に雪崩れ込んで来たという訳である。
だが、私達にとっては与り知らぬ話ではあるがデイガン宰相も又、近々その地位を退き隠遁を待つだけの身であった。その影響力が衰える一方であることは自明であり、強引な手段で“確保”したとは云え、バロウルをいつまでも手元に留めておけるかは不透明であった。貴族達の目が主として商都や妖精皇国の方に向いているとしてもである。その為にデイガン宰相がとった手段は些か――かなり変則的なものであった。
それがすなわち、バロウルを技師として傘下に収めるのではなく、孫であり一族の“洞”の現当主でもあるオズナ・ケーンの配偶者として迎え入れるという奇策であった。婚約の儀――私の理解の範疇で表現した場合、結納でいいのだろうか――まで執り行ったと聞けば、宰相の力の入れ込みようが窺えるというものである。
そのような搦め手――私に言わせれば驚天動地――によって身の安全だけは保障されたものの、それがすなわちバロウルが自由に公都を動けるという訳ではなかった。まして私達が墜ちて行ったのは死地と呼ばれた“奈落”の奥底である。生半可な準備で救助に乗り込むことは自殺行為以外の何ものでもなかった。
途方にくれるバロウルであったが、程なく状況が一変する。公都にも例外なく存在する移動図書館の支所より秘かに接触があったのである。事実上の治外法権であり独自の情報網を持っていることは明らかだとは云え、移動図書館が如何にしてそのような確信を得たのかは定かではない。兎も角、移動図書館から遣わされた“司書”の言により、バロウルは“奈落”の底で試製六型機兵が再起動したことを知ったのである。そして地表を目指して移動を始めたことも。
それが、私とナナムゥが“奈落”に墜ちてから33日後のことであった。
「なるほどのぅ……」
その頃には、警戒していた追手の気配も皆無であったこともあり、私達は早足すら止めて完全に徒歩になっていた。終点までの距離が定かでない以上、いざという時の余力を残しておく意味でも必然ではあっただろう。特にガルアルスと遭遇してからまともに休息らしい休息も取れていないナナムゥにとっては尚更である。
だが私の懸念とは裏腹に、ナナムゥは速度を緩めはしたが休息ではなく、考え考え歩を進めているように見えた。
「それで、わしらが“奈落”から脱出して来るのに備え駆け付けたという訳じゃな?」
今や完全に足を止めたナナムゥは、半ば独り言めいてそう呟いた。発光キューブと共に先頭を行く彼女が歩みを止めた為に、後続である私達も自然とそれに倣った。
「……バロウル、お主、まだ何かわしらに隠しておるな?」
ナナムゥの不意の問い掛け。その効果は覿面であった。バロウルの大きな体が殊更小さく萎縮して見えたのは、決して褐色の肌と周囲の薄暗がりによる目の錯覚だけではあるまい。
だが問い掛けの効果は置くとしても、ナナムゥがバロウルを責めているのではないことはすぐに判った。その口調からは怒りも苛立ちも微塵も感じ取ることはできず、唯々深い悲しみの響きだけがあった為である。
「移動図書館がらみじゃな?」
ビクリとバロウルが身を震わせる様は、普段の浮遊城塞の日常であれば滑稽なものだっただろう。しかしこのいまだ隔絶した地下の隠し通路の中においては、無抵抗の者をいたぶるような気まずさもまた期せずして存在していた。
(移動図書館……)
ナナムゥがその名を挙げた事により、私も改めてバロウルの語った話の矛盾に気付いた。あたかも移動図書館からの情報提供がまったく予期せぬものであったかの様にバロウルは語っていたが何のことはない。囚われて後の早々にバロウル自身がナナムゥに語っていた事であった。
直に移動図書館の“守衛”が迎えに来るであろうと。
あの人の好さげなオズナ・ケーンが移動図書館の“守衛”などである筈もない。ガルアルスにしてもその様な名称で定義付け可能な容易な存在ではあるまい。
バロウル自らが私達を迎えに現れたということは何らかの計画の齟齬があったのか、或いは始めから全てが移動図書館の掌の上であったのか。
私も直に謁見の機会を得た、六旗手の一人でもある移動図書館司書長ガザル=シークエの。
「バロウルよ」
しかしナナムゥが次いで口にしたのは、私にとっては些か意外な名前であった。
「コルテラーナももうおらん」
「……」
「お主が遠慮しておった者がいなくなっても、それでも話してはくれぬのか?」
「……」
バロウルはただ、面を伏せたままに沈黙を守った。僅かに――そう、僅かに肩を震わせて。その様があまりにも悲痛であったが為に、それを見るナナムゥもまた瞳に哀しみの色を湛えた。或いは私とは異なりバロウルの顔を見上げる形であったナナムゥは、その伏せたる貌に浮かんだ表情の前に心打たれたのかもしれない。
「まぁ、まずは浮遊城塞に戻ってからじゃな……」
甘いのだろう。
甘いと窘めるべきなのだろう。
だがナナムゥにとってバロウルはかけがえのない家族であり、断罪するには忍びないのであろうことは痛い程に良く分った。私にとって妹がそうであるように。
「よし、休息も終わりじゃな!」
ナナムゥは陰鬱な雰囲気を振り払うが如く殊更に大きな声を上げると、返事を待つこともなくズンズンと先に進み始めた。
「ヴ」
私もまた、如何にも何事も無かったかの素振りでその後に続いた。
そしてバロウルも。
だがこの時の私達は、バロウルの沈黙が真に意味することに気付いてはいなかった。
*
公都の郊外に続いていると事前にオズナから教えられていた通り、隠し通路の終着点に到達するまで――途中から徒歩になった為でもあるが――二時間近くはかかったのではないかと思う。
行き止まりにそびえ立つ取っ手も何も無い一枚の鉄の壁。その脇には一本のレバーがこれ見よがしに備え付けられているだけの簡素な風景であった。入り口にあった七体の像による仕掛けと比べるとあっさりとし過ぎではないのかという疑念が脳裏を掠めはしたが、それが無用な感傷であることも理解していた。隠し通路に無駄な浪漫を求め過ぎたと言うべきか。
ナナムゥとバロウルを背後に守りつつも、私はそのレバーを――最後の最後で妙な罠が発動しないように祈る気持ちと共に――ゆっくりと押し下げた。
当然としか言い様もないが、特におかしな挙動をすることもなく、鉄の壁が外部に向けて上側に開く。ちょうど屋根の庇の形となった開口部から、止める間もなく真っ先にナナムゥが飛び出していった。その後ろにバロウルが依然として無言のままに続き、最後に私が通路の外に半身を乗り出した。僅かに危惧していたような、レバーから手を離すと途端に鉄の壁が閉まるようなこともなく、開口部から私の巨体が完全に外に出た時点でもその“庇”は上に開きっ放しであった。
(……面白くはないな)
その状態のまま放置する訳にもいかず、試しに“庇”に手を掛け押し下げてみると意外とスムーズに元通りに閉める事ができた。それが正規の閉め方かは知る由もないが、自己満足であるにせよ何者かが追い縋って来る可能性を少しでも減らせたのだと思いたい。
私達が隠し通路から歩み出したその先は、やはりこれまでと同じく洞穴の中であった。しかし長きに渡り私達が潜んでいた地の底深くに比べると、そこかしこに地表のものと思しき草が生え茂っているのが視えた。目の間に広がる上り斜面を先頭で行くナナムゥが、まるで私の憶測を裏付けするかのようにスンスンと鼻を鳴らし、そして声を張り上げた。
「……風の匂いじゃ!」
バロウルと再会した時のように無闇に駆け出すようなことはしなかったが、それでもナナムゥは上り斜面を先陣を切って進んで行った。隠密であるにも関わらず彼女が歓喜の大声を上げてしまったのも、おそらくは石の肌を持つ私には感じ取ることの叶わない久方ぶりの外気に触れたことがそうさせたのだと思う。
そもそもが私もナナムゥも一ヶ月もの間、陽の射さぬ地の底の底で過ごさざるを得なかった身である。如何にいまだ陽の下ではなく洞穴の中にいるとは云え、目が眩まないこと自体が奇跡的であることに私は思い至った。私が機兵であり、ナナムゥが所長の言う“生体兵器”であったことがもたらした僥倖であるのだろう。しかし私にとって今はその幸運を素直に喜ぶような気分ではなかった。
「……」
改めてバロウルの横顔を盗み見てしまった理由は自分でも釈然とはしない。彼女が何か私に対し重大な隠し事をしているのは以前から確信していたので、裏切られたなどと憤慨するのも今更の話である。だが、疑念は疑念として確実にあることに変わりはない。
(『武士の情け』か……)
私は自身に言い聞かせるように、それだけを胸にバロウルの後に続いた。ナナムゥの言う通り、まずは浮遊城塞オーファスに戻らねば何も始まらない。
(だがその浮遊城塞も、果たしてどうなっていることか……)
あくまで『部外者』でしかない所長とファーラ――本命としてはそのお目付け役である水晶球であるが――に託して来てしまったが、まずは六旗手ナナムゥを文字通り“旗印”として再び移動城塞を纏め上げなればならない。
あの惨状である。浮遊城塞としての機能がどれだけ健在かとなるとかなり怪しい話ではあるが。
正体不明を装いつつも常に浮遊城塞を影ながら守護してきたとしか思えないガッハシュート――後にして思うと詮無き願いではあったが、この時の私はその白銀の守護者の助力に全ての希望を託すしか術はなかった。
「ヴ……?」
柄にもなく真剣に今後の事を思い巡らす私であったが、浮遊城塞の面々において消息不明のままの重要人物がいることにようやく思い至った。移動図書館から常駐として派遣されたと後に聞いた、“老先生”という呼称しか知らぬ背の曲がった小柄な仮面の“司書”。
“亡者”メブカの襲撃の最中、いつしか行方が知れなくなっていたその老先生が、果たして生きているのか死んでいるのか。その消息についての思案を巡らす機会を逃したことは私達にとって幸であったのか不幸であったのか。何れにせよ、外界の気配を前に遂に我慢できなくなったのか、私達を振り切ってナナムゥが斜面を上りきったその小気味良い足音に私の思考は中断された。
今の私の位置からも洞穴の入り口付近にはうっすらと陽の光が射しているのが視えた。久方ぶりの陽光を全身に浴びたナナムゥが何か感極まった歓声を上げるものだと、私は無意識の内にそう確信していた。彼女の素直な性格からしてそうであろうし、実際に先程その身に風を感じた時点でそうであったのだから。
しかし隠し通路の出入り口自体を隠蔽する為であろうこの洞穴から、待ち望んでいた外界にようやく飛び出たにも関わらず、ナナムゥからは如何なる歓喜の声も聞こえてはこなかった。消沈していたバロウルですらも訝しく思ったのだろう、私達はどちらともなく顔を見合わせ頷き合うと、こちらからは直接姿の見えなくなったナナムゥを護るが為に揃って斜面を駆け上った。
予想していた通り、洞穴の出口は道らしき道も見当たらぬ鬱蒼とした森の中に通じていた。今度こそ、私達は地表に到達したのである。
山岳地域であるコバル公国にとって幾ら道が見当たらないとは云え“森”という存在自体が珍しいものである事は容易に想像できた。何かを採取に来た人間にいつ不用意に遭遇してもおかしくない状況である。或いはそれを見越して始めから大公直轄の“御禁制の森”であるのかもしれない。もしそうであるならば、逆に警備の巡回に出くわしてしまうかもしれない。
早急に検討すべき様々な事柄が私の脳裏に浮かんでは消えたが、しかしそのような思惑の全てが一瞬で無意味なものと化した。
「遅かったな」
私達の目の前にそびえ立つ巨木の幹にその少年は腕を組んでもたれかかり、こちらを直視することも無くただ淡々とそれだけを呟いた。
真紅の髪に真紅の衣。改めて言うまでも無く、後宮が火に包まれた後にいつの間にやら私達の前から消え失せていたガルアルスの姿がそこにはあった。
私達とガルアルスの間に独り立ち尽くすナナムゥの髪が、文字通り怒髪天を突いていることが後姿からも判った。その身体が小刻みに震えていることも、怒りのあまり言葉すら失ってしまっていることも。
だが意外にも先にナナムゥを宥めてきたのは、これまで通り涼しい貌で無視を決め込むかと思っていたガルアルスの方からであった。
「怒るな。会いたくない男の気配がしたからな、少し身を隠していただけだ」
「お主がか?」
予想だにしなかった妙に俗っぽいその弁明に、ナナムゥは一気に毒気を抜かれたように見えた。その間に彼女の横に並び立った私にも気付かぬ様子で、ナナムゥは心底驚いたように翠色の眼をパチクリと瞬かせ、少年の顔をマジマジと見つめていた。
「顔を合わせると色々と面倒くさいことになるからな」
これまでのようなどこか超然としていた態度とは異なり、ガルアルスが心底呆れた口振りであったように聴こえたのは私の気のせいではあるまい。
「ファーラと同じ類の馬鹿だな、アレは」
次回で八章終了の予定です