稀謳(20)
地下の岩盤をくり抜き石材で舗装と装飾を施した地底の後宮が、さしたる可燃物も無しに炎に巻かれて轟々と燃えているというのは些か不可思議な光景に思えた。“燃焼”という現象については異世界においても不変の法則の上に成り立っているという、妙な信頼感があった為である。原理現象は兎も角として、ガルアルスが炎を放った理由の一つには建材の隙間に潜んでいる遺児達を殲滅するという目的があったことは間違いない。実際、私達が逃げる通路のあちこちに、逃げた遺児達の成れの果てであろう燃え尽きた短冊形の焦げ跡を幾つも見て取ることができた。
何れにせよ、地底の大火による酸欠を危惧して私は逃走の脚を速めてはいた訳だが、先程も述べたように冷静に考えてみるとガルアルスの放った火球が私の知る物理法則――すなわち酸素を消費して燃え盛っているのかというと些か怪しい話ではあった。だからといって足を止める訳にもいかず、只々慌てふためいて元来た道を戻るしか術はなかった。
一方、私の前を走るナナムゥが顔を真っ赤にして憤慨しているのは、この事態を招いた当のガルアルス本人がいつの間にやら姿を消していたことに起因していた。“館物”のオチではあるまいし、自らが放った炎の中にその姿を消したなどとは到底思えないが、不意に少年が一言の断りもなくその姿をくらました事だけは事実である。
少年に対し、見捨てられたなどと憤慨するのはそれこそお門違いであろう。その道理も判らぬナナムゥではあるまいがそれでもここまで彼女が怒り心頭であるのは、これまでファーラが熱弁していた『救世主』像が――その時は笑い飛ばしていたとは云え――ナナムゥの中でそれなりに強く印象付けられていたからに違いあるまい。ましてこの閉じた世界の救世の預言――『真紅の流星が夜の帳を翔る時、この閉じた世界の殻は砕け、再びあるべき大地へ還るであろう』という伝承の象徴でもある『紅い』姿が、まるで少年を指しているかのように完全に一致していたのだから。加えてあれだけの“力”である。
その意味で『救世主』としての秘かな期待を裏切られたとナナムゥが憤慨しているのも、無理も無い話ではあった。
ハリウッド映画であれば、私達が逃げる端から足元が背後から崩れ落ちていく場面なのであろうが、有難いことにそのような派手な崩落は起きてはいない。これまでの鳴動が今頃は公都を騒がせてはいるのだろうが、そもそもあまりに派手な崩落が最深部の後宮で発生すれば、それはそのまま直上にあたる公都の土台をも崩す大災害に繋がるであろう。
崩落の兆しが無いことに安堵する私が、今頃は大公の遺骸を焼き尽くしているであろう炎の渦が背後から迫って来る気配もまた皆無であることに気付いたのは、この時ようやくであった。足を止める理由にはならないが、悪い話ではなかった。
私が最初に意識を取り戻した場所に辿り着いたのは、行きと比べ果たして長いのか短いのか必死だった私には判別しかねた。ガルアルスが“奈落”から脱出する際に開けたと思しき大穴が依然として黒々とした大口を開けてはいたが、今更そこに飛び込んで“奈落”の奥底に向かって一目散に逆行するなど考えるまでもなかった。
大穴を無視してそのまま通路を駆け抜ける私達の前に、この後宮の領域を外部より隔てる“正門”でも言うべき跡地が姿を現したのは、それからすぐのことであった。
如何なる仕掛けによるものか、壁面の上部から照らされる幾筋かの弱い光。一方の壁面に沿う形で衛兵の詰め所らしき平屋が併設された門ではあるが、“跡地”と表現したのには無論理由がある。かつては固く閉じられていたであろう巨大な鉄の門は、今は私達から見て外側に向けて――要は私達が逃げて来た後宮側から加えられた何らかの“力”で――蝶番の部分ごと二枚とも倒れていた為である。事実上破壊されたも同然の有様であった。
(まさか……)
私達に先んじてその様な離れ業が可能な人物となると、この公都においては唯一人しか思い浮かばない。言うまでも無く姿を消した筈のあの少年である。同じ結論に達したのであろうナナムゥと思わず顔を見合わせる私であったが、それも束の間の困惑であった。
前方、すなわち私達が向かおうとしていた公都側より近付いて来る、車輪と思しきガラガラという轟音。ナナムゥが素早く両手を広げたのは“糸”により何らかの“罠”を張ろうとしたのだと私は直感した。
だがそのナナムゥの奇怪な腕の動きも、車輪の音に負けず劣らずに響いてきた必死な叫び声の前に止まる。
「――ナナムゥ! キャリバー!」
私達の耳に届く聞き憶えのある女の声。ただでさえ白目の少ないナナムゥの瞳が、驚きのあまり極限にまで見開かれた。
「バロウルか!?」
ナナムゥの甲高い大声に呼応したのか、車輪の急停止の音が響く。次いで何者かが駆けて来る足音が、それと入れ替わるように響いて来た。
黒い肌を持つ巨女の許に脇目も振らずに駆け出したのは、ナナムゥにしては迂闊に過ぎたとは思う。実際にバロウルの背後には見知らぬ小太りの男の姿があったのだから。
それでも私はナナムゥを咎める気にはなれなかった。感極まったナナムゥがピョンとバロウルの上半身に抱き着く様を見守るだけで、心のどこかでは諦め気味であった再会に胸を撫で下ろす自分があった。私が“奈落”の底で長い沈黙の後に再起動した時のように号泣するまでナナムゥは取り乱しはしなかったが、これまでの苦労が無駄じゃなかった気がしてわたしはとてもとても嬉しかった。
「あの…そろそろよろしいですか?」
それまでバロウルの後方に控えていた見知らぬ件の小太りの青年がおずおずと話しかけてきたのは、それなりの時間が経ちナナムゥの興奮が収まってからの事であった。
青年が自らの名をオズナ・ケーンと名乗った時には、私にとってもナナムゥにとってもそれは単なる自己紹介以上の意味を持たなかった。コバル公国宰相デイガン・ケーンの孫であるとのバロウルの口添えがあって、ようやく彼が良家の御子息だと認識したくらいである。
明らかに人の好さげな、そして同時に押しにも弱そうなオズナの顔を見るだけでナナムゥも毒気を抜かれたのであろう、普段であれば絶対にオズナに食って掛かっていたところをナナムゥはそうはしなかった。
無論、オズナがバロウルを連れていることに対してである。
或いはバロウルの見た目が如何にも捕囚めいたみすぼらしい――もっと言うならば辱められた――ものであったならばナナムゥも黙ってはいなかったであろう。しかし少なくとも今のバロウルの外観は――“奈落”の口で彼女と生き別れてから仮に一ヶ月程度と仮定すると――男物の作業着にしか見えないまったく色気の無い服装ではあったが、下ろし立てのこざっぱりとしたものであることは誰の目にも見て取れた。
喜ぶべきことであろう。ナナムゥに負けず劣らず。命も尊厳も――あくまで外見からの勝手な判断でしかないが――失うことなくバロウルが生き永らえていてくれたことを。
だが根本的な問題としてあの状況下――己が身を挺して“奈落”に私とナナムゥを逃してくれた決死の状況から如何にしてバロウルが危機を乗り越える事ができたのかという疑念が抑えきれないのは、単に私の性根が捻くれているからという理由だけではないだろう。
しかし何れにせよ、それをこの場で問い質すだけの猶予は私達には与えられてはいなかった。大公と後宮を燃やし尽くしたであろう炎の舌がそこから更にこちらに向かって迫って来る気配は依然として無かったが、それでも後宮のあった最深部からの鳴動が断続的に足元を揺らしていた為に、ここが安全であるなどとは到底断言できなかった為である。
だがこのまま公都の方に向かうにせよ、そこに紛れ込むには私の機体はあまりに大き過ぎた。
「こっちです、急いで!」
無駄に奥ゆかしく言い出す機会を窺っていたのであろう、不意にオズナが私達を差し招いた。今更罠を疑ったところで仕方がないこともあり、ナナムゥとバロウルは軽く頷き合うと素直にその後に続いた。
とは云え、何もわざわざ遠方に導かれた訳でもない。地下空間であるが故に妥当な表現かどうかは自分でも自信は無いが、後宮を神社の本殿とするならば、せいぜいが境内から更に参道入り口の鳥居の場所まで移動したといったところであろうか。
一見すると人の頭頂程の高さの巨大な獣の彫像が並べられただけにしか思えない壁面の一角に、オズナはスルリと潜り込んだ。正確には像の裏側に回り、その幾つかの下部に手を差し入れ何かゴソゴソと動かしていた。それが覗き込む私達からは死角にあたる位置に巧妙に隠された、数字を刻んだダイヤルを回しているのだと知ったのはオズナが三体目の像に取り掛かった頃にようやくであった。
所々でオズナがおやっとばかりに小首を傾げてみせるのが如何にも頼りなさげではあったが、その三体目の操作が終わったところで一番端の獅子を思わせる像が重い音と共に横にスライドした。
数えてみると像の数は全部で7体あり、仔細に観察するとその全てに同じようなダイヤルが設置されていた。結果としてオズナはその内の三体しか触らなかった訳であるが、残りの像は単なるダミーか、或いは触ると仕掛けそのものが開かなくなる類のものかもしれない。呑気に検証などしている場合ではないが好奇心を刺激されたのも確かである。
その隠し通路の口が開いた時に、一番安堵していたのは誰よりもオズナ本人であったように見えた。これまでの挙動から察するに、おそらくはオズナ自身も初めて目にする仕掛けだったのだろう。それは次に本人が屈託なく漏らした言葉からも明らかであった。
「この隠し通路は公国でもほんの一握りの者しか知らないと教えられました」
どこか誇らしげなオズナを前に、私は改めて青年が宰相の家系の出という血統の良さであること再認識した。公国の宰相が世襲制かどうかまでは知らぬとは云え。
「ここを抜ければ公都の郊外に出ることができます」
そこまで話してから、オズナは急に思い至ったように周囲を見渡し声を潜めた。
「残してきた私の供の者が様子を見に来るかもしれません。だから急いで!」
オズナがそう私達を急かすやや上ずった真剣な声からも、彼の話に偽りは無いのだろう。本当に自分の部下をどこかに待機させているのか、或いは強引に撒いてでも来たか。捕囚として公都まで連行された私達のことがどこまで知れ渡っているのかは定かではないが、その供の者に見つかった場合、この石の巨体が悪目立ちすることだけは明らかであった。
何れにせよ、私達に選択の余地があるとは思えない。オズナの提案に素直に従ったのは、まずバロウルを連れて来てくれた恩人であることと、本人の人の好さそうな態度にもあった。
更に私達の決断を後押しするかのように、オズナの手で露わとなった“隠し通路”はその名前に反して縦も横も私の巨体が楽に通れる程の広さを保っていた。それはこの隠し通路が紛れも無く、私以上の巨体であったクォーバル大公が逃走する為に用意されたものであるという説得力に満ち溢れていた。
「分かった、恩に着るぞ!」
事ここに至り、ナナムゥに迷いはなかった。オズナに対し短い謝辞と共に彼女が率先して隠し通路に身を躍らせる。その判断に異論は無い。私もその後に続いたのは必然であった。
「ヴ!」
私には感謝の意を口にする発声機能は無い。ならば今は無理でも何時かはこの恩に報いる日が訪れることを、心の内に願うしかない。
(借りばかりが増えていく……)
忸怩たる思いを胸に、私は当然後ろに続いているであろうバロウルへ――私なりの気遣いとして――振り返った。
しかしバロウルは――バロウルだけは隠し通路の入り口でその足を止めていた。
「オズナ、私は……」
「気にしないでください。お互いに、やるべきことをやりましょう。祖父には私から上手い事言っておきます」
早口で一気にそれだけを言い終えてから、オズナがニコリと微笑んだ。照れたように、そして困ったように。
私は初めてオズナという人間と、その行動原理を理解できた気がした。私に似ているのだ、気の小ささと、そして気の小ささが故に“善人”としてしか生きていけない弱さが。
私の向ける同情と苛立ちの視線など無論気付くことも無く、オズナは更にバロウルに対しこう付け加えた。
「それに、この隠し通路を教えてくれたのも祖父ですから、たぶん、そういうことなんだと思います」
「宰相が……?」
バロウルは俯いていた顔を上げると、絞り出すような一言を発した。そして未練を断ち切るかの如く、私達の後を追って隠し通路に乗り込んで来た。
言葉の内容までは聴こえずとも、それが『ありがとう』の類の一言であることは分かった。思い返してみれば、この世界に墜ちてから気心が知れる――知れる気がする――程度には共に過ごしてきたのだから。
私達が三人揃って隠し通路を進むのを見計らったのか、再び重々しい音を上げて入って来た通路の入り口が閉じる。向こう側からオズナが閉口の為の像の仕掛けを操作したのであろうことは察しが付いた。同時にこれで、
追手が掛かることなく公都を脱出する目途が付いたということになる。
「……」
クォーバル大公用の隠し通路とは云え流石に光源までが完備されている訳も無く、私達はナナムゥの腰の発光キューブの灯りを頼りに先を進んだ。私もナナムゥも程度の差はあれ夜目が効きはするが、バロウルだけはそうもいかない。隠し通路全体の長さが知れないこともあり、我々の足取りは全力疾走ではなく早足程度に留まった。
「……」
先頭を光源を持つナナムゥに任せ、私は自然と最後尾に己の位置を定めた。バロウルはと云うと、隠し通路に入ってから一言も発することなく半ば並走するような形でナナムゥのすぐ斜め後ろを進んでいた。
ナナムゥがチラチラと心配げな碧色の瞳を向けていることに気付いたのであろうか、やがてバロウルは早足の速度をやや落としながらこれまでの経緯を端的に私達に語り始めた。
気が付けば一大目標であった「ブクマ10」達成できまして、「もうエタってもいい……」という心境です
戯れ言は兎も角としましてブクマしてくださった方々には感謝の念に堪えませんがその内の何人が身内のお情けかと思うと恥の炎に身を焼かれる思いです