稀謳(17)
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まずは、『熱い』と云う感覚があった。痛みまでは伴わない、しかし私にとっては強烈な眩さ。
試製六型の起動を告げる、いつもの無機質な音声は響かなかった。熱さがその代わりと言っていいのかどうかまでは分からない。
私にとっては微睡みの場でもある、文字通り無明の闇の中に自分の魂魄が漂っている、あの泡沫の一時すらも経由することなく唐突に私は目覚めた。
(私は……?)
呆け過ぎだと責められても仕方のない、我ながら随分と間の抜けた疑念。直前まで地獄の責め苦めいたそれの前に“死”を迎える寸前であったにも関わらず、私の意識は弛緩しきっていた。激痛など欠片も残ってはおらず、まるで二度寝が許された時の心地良い気怠さの中にあるような、薄ぼんやりとした夢見心地の中にあった。
如何に取り繕ったところで、要は寝ぼけていたことに変わりはない。
「キャリバー!!」
私の場違いな安穏を終息させたのは、またしても我が主たるナナムゥであった。先日の“奈落”の底でのあの号泣には到底及ばないにしても、嗚咽交じりの大声と共に彼女は体ごと私に飛び付いてきた。いまだに自分を取り巻く現況の把握にすら考えが回っていない私であったが、前回から時を置かずしてまたナナムゥを泣かせてしまったという罪悪感が、まずは私の心を責め立てた。
ナナムゥの小さな体を抱きとめるに際し、ようやく私は自分の機体が地に寝そべっているのではなくブロック状の壁際に寄り掛かった体勢であることに気付いた。臀部を地に付け、両脚を前方に投げ出した如何にもだらしない格好である。
加工された岩壁という認識は私の錯覚ではない。意識が途切れる寸前まで居た地下大空洞の剥き出しの岩肌ではなく、ブロックが積み上げられた確かに人の手が入った岩壁であり、それに合わせるように床面もまた無骨な大きめの石畳によってあまねく舗装されていた。
ここが何処だか知れたものではないが、地下大空洞から大きく場所を移したことは間違いない。だが意識を失い崩れ落ちたこの巨体を動かせる者ともなれば――
「問題無いと言っただろうが」
突如として薄暗がりの中から響く少年の声。初めて聴くどころか、忘れる筈もなかった。信じたくもなかったが。そして私の単眼の視界が全身を真紅の装いで固めた仏頂面をした少年の姿を捉えた時、私は声から予測しながらも尚、驚愕のあまり蛇に睨まれた蛙と同じく全身が固まってしまっていた。
私とナナムゥを易々と打ち据えた、年端もいかぬ少年の威容の前に。
*
普段は決して世の表に出る事のない移動図書館ではあるが、今は珍しくも依然として“黒き棺の丘”に鎮座したままであった。コルテラーナを始めとする浮遊城塞オーファスの一行の助勢に現れて以来不動である。
そして移動図書館に属するモノの中で最も後に生み出された“司書”である褐色の肌を持つバーハラもまた、今は丘の中心を半円球状に覆う黒い“闇”の帳を前に独り泰然と佇んでいた。
“棺”――それが移動図書館における、この世界の中心点である暗黒の閉鎖空間の呼称であった。この世の中心の中心である以上、閉じた世界そのものであると言っても過言ではない。
周辺を覆い隠す黒い森に潜む魔物のおかげで、常人であれば到達する事すら困難な禁断の地であることは間違いない。しかしそのような魔境でありながらも、如何にも場違いにぽつねんと建てられた頑強な造りの小屋の傍らに、バーハラは直立のまま待ち続けていた。その手の中には綺麗に折り畳まれた青い布が握られている。
この閉じた世界の内であるならば如何なる場所にも顕現することが可能な移動図書館ではあったが、それでも進入が許されぬ禁断の地が二箇所存在するということをバーハラは聞かされていた。司書長ガザル=シークエ曰く、一つはコバル公国の地下深くに広がる“奈落”、そして残るもう一つが彼女の目の前の聳え立つ他ならぬ“棺”であった。
“奈落”に関して移動図書館が不干渉を貫く明確な理由をバーハラは知らない。『行けぬ』という話を聞いたこともない。ただ館長により『行くな』と厳命されているとの言伝だけがあった。
しかし“棺”に関しては“奈落”とは異なる明確な理由があった。“司書”にせよ“守衛”にせよ、移動図書館に属するモノは“棺”を蓋う暗黒の帳からは干渉することを完全に拒絶されていた。この世界に生きる常人が“棺”内部への侵入自体が可能である――内部を充たす“闇”の重圧により遅かれ早かれ生命を落す定めではあるが――のとは異なり、“棺”の表面に触れることすら不可視の力場に弾かれ拒絶されてしまうのである。それはバーハラ自身も己の身をもって体験済であった。
『一度産み落とされた赤子が再び母親の胎内に戻ることが許されないのと同じこと』――司書長ガザル=シークエの語る“道理”そのものに、当事者である“司書”バーハラにも異存は無い。
だがもう一つ、戻る事が許されないというのが“道理”であるならば、裏を返せば移動図書館員が“棺”の中から出て来ることは許されるというのもまた“道理”であった。
(……“棺”こそ我らが“揺り籠”……)
司書長の語る“道理”など単なる言葉遊びでしかないと、識者であれば笑うであろう。しかしバーハラはそれが真実であると知っていた。そして彼女が独り待ち続けているのもまた、再誕するモノを司書長の命により迎える為であった。
(……来た!)
“棺”の闇の帳の表面に幾つもの波紋が浮かぶ。バーハラ自身は自分が産み落とされた瞬間など朧気なものとしてしか記憶してはいないが、“司書”や“守衛”が新たに顕現する場所だけはいつも一定であるのだという。それこそがバーハラと移動図書館が“黒き棺の丘”のこの場所に留まり続けている理由であり、そもそもがこの小屋自体が新たに――或いは再度――産み落とされた図書館員の待機場所として司書長により設置されたものでもあった。
バーハラが見守る中、最初に“闇”の帳の向こうから現れたのは手であったか足であったか、何れにせよそれは生身の肌ではなかった。義手義足を兼ねた白銀の手甲と脚甲が、陽光を受けてバーハラに対し眩い煌めきを放つ。
そのまま全身を余すところなく晒した青年は、全裸であるにも関わらず動揺の色も無く涼しい顔を保っていた。彼の四肢に限らず背中の一部も機械化されているのは一目で知れるが、それでも残る全身を見た限りでは胴体を含む殆どの部分が生身であり、局部もまた男性のソレを露出したままであった。
むしろ青年本人よりもそれを出迎えたバーハラの方が狼狽しているような、どこか牧歌的で珍妙な光景をも思わせた。
とは云えバーハラの動揺は、青年が全裸だったことに起因する羞恥心からではない。一糸まとわぬ姿のモノと邂逅することは始めから分かっていた。
“棺”より産まれ出てくるモノは――バーハラ本人も含めて――如何なる理由によるものか等しく全裸であった。彼女達の横に佇む小屋の中に一通りの服や靴が収められているのも、それら新生――或いは再生――する移動図書館員に対する待機小屋としての備えの一つであった。
実際に、青年は迷うことなく着替えの為に小屋の中に入っていった。それを黙って見送るバーハラもまた、ようやく少しは落ち着きを取り戻したように視えた。彼女が一時とは云え何故そこまで挙動不審に陥ったのかというと、無論明確な理由がある。“司書”としては――今のところ最後に産まれた身であるだけに――日の浅い彼女にとって“再誕者”を目にするのが二人目にして、“再誕”の場に直に立ち会うのがまさに初めての体験であった為である。
今回の出迎えにあたり、バーハラも司書長ガザル=シークエより事前に一通りのことは聞かされていた。一度“司書”や“守衛”としての肉体を喪ったモノは、よほど館長の不興を買っていない限りやがて“棺”の内にて再構築が行われ、そして再び闇の帳を抜けて“再誕”するのだと。そうして甦ったモノは“二代目”ではなく、以前の記憶をそのまま保持した“同一人物”であるのだと。
(記憶だけを受け継いだ個体を、本当に“同一人物”とみなしていいのだろうか……?)
司書長の言葉に、バーハラが内心で納得し兼ねているのは“司書”としては失格であるだろう。さりとて我が身を滅して“同一人物”として再誕するものなのか自ら試してみる訳にもいかず、バーハラは割り切れぬ心のまま今回の出迎えに臨んだという次第であった。
実際の所、バーハラが事前に守衛長から直接後事を託されていたのでなければ、ガザル=シークエも別の“慣れた”司書を立ち会わせていたのかもしれない。
さしてバーハラを待たすことなく、移動図書館の標準的な制服を――暫定として――纏った青年が、小屋の扉を開けてその姿を現す。時を置くことでようやく精神的にも有る程度の均衡がとれたのか、青年の顔からはそれまでの茫洋とした印象は影を潜め、バーハラの良く知る輝きに溢れた快活な貌へと変貌を遂げていた。そして青年はバーハラの手にした青い布に目を留めると、初めてその口を開いた。
「……手間をかけさせたな……」
「い、いえ、このくらいは」
慌てて頭を下げるバーハラであったが、かつて知る青年の声と寸分変わらぬその温もりに、ようやく司書長ガザル=シークエの言葉が真のことであったことを実感できた。青年もまた記憶と、そして意思を引き継いだ“同一人物”であるのだと。
移動図書館の“守衛長”ガッハシュートが、今まさに再誕したのだと。
「例の欠片は?」
「御指示いただいていた通り、現存していたものは回収済です」
そこまで述べてから、慌ててバーハラは声を潜めた。
「保管場所も含め、私だけしか知りません」
「そうか、何から何まで助かる」
謝意を述べるガッハシュートも、またつられたように小声であった。彼はバーハラが差し出した青い布を受け取ると、“弟子”とも言えるカカトの遺品でもあるそのマフラーをシュッと器用に首に巻いた。
それだけでまるで生命を得たものであるかのように、マフラーは仄かに煌めきながら風の中にはためき始める。その動きを整えながらも、ガッハシュートは目の前にそびえ建つ移動図書館を見上げ、そして最後にこう訊いた。
「浮遊城塞はどうなった?」
「それは――」
僅かでも言い繕うことも忘れ、バーハラは素直にも回答に窮してしまった。移動図書館の“守衛長”という要職にありながら、ガッハシュートは浮遊城塞オーファスに常駐し影ながら守護する道を選んだ。彼の愛したその浮遊城塞が紆余曲折の逃避行の後に今は妖精皇国に辿り着くことなく擱座してしまったなどと、バーハラは己の口から正直に答えることを躊躇してしまった。
「それも含め、御前にて司書長が説明するとのことです」
事前に当の司書長に教えられていた通りの言伝を、何とかバーハラは口にすることができた。ガッハシュートが大仰な出迎えを嫌うが故に、案内役として彼女一人を小屋の前に配したのも司書長の計らいであった。
喰えぬ御仁だと、バーハラは司書長ガザル=シークエを評し、そして畏れてやまない。ガッハシュートに秘密裏にと念を押された上で回収した例の欠片のことすら承知の上であり、全てを知りながら適当な口実で私を単身この場に配したのではないのかと。
「そうか……」
ガッハシュートは物憂げにそれだけを呟くと、チラリと背後に――自分がつい先程出現した“棺”の暗黒の帳に目線を向けた。新参であるバーハラとは真逆の最古の“守衛”であるが故にガッハシュートは館長と並び、図書館員の誰が“死”に、誰が“再誕”したのかをある種の“直感”として予期することができた。それ故に先んじて“再誕”したモノが司書長を伴い自分を待ち受けているのであろうことも、彼は十二分に予測できていたのである。
口を噤んだガッハシュートに対し図書館内部へとバーハラが再度促すよりも早く、ガッハシュートの方から彼女に改めて口を開いた。瞳には哀愁の色を残したままに。
「悪いが、こいつの案内を頼む。図書館員としては、お前の初めての後輩になる」
「は……?」
困惑するバーハラの前で、再び“棺”の黒い表層が揺れた。そしてさしたる溜めもなくそこからすぐにもう一人の全裸の青年が勢い良く出現する。その貌は、バーハラにとっても決して見知らぬモノではなかった。
「……!」
奇縁であろうか。だが新たに出現した青年を見、次いで青いマフラーをなびかせるガッハシュートの顔を反射的に見比べた時に、ようやくバーハラは理解した。ガッハシュートが自らを含む“守衛”を『紛いモノ』と称して自嘲していたその理由を。同じく司書長ガザル=シークエもまた自らの“司書”としての成り立ちを“絵空事”と評して自戒していたその訳を。
「知ってはいる筈だが、一応紹介しておこう」
努めて明るい口調のガッハシュートであったが、その心境を思うとバーハラの胸は痛んだ。
「移動図書館の新たな“守衛”だ」
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私が我を取り戻し、ナナムゥもまた滲んだ涙を袖で拭くまでにそれ程の時間はかからなかった。直前の状況が状況であったことはすぐに思い出しはしたし、そもそも私の意識が途絶えてからどれ程の時間が経過し、そしてどういう経緯で見知らぬこの場所の壁面に寄り掛かっていたのかを疑問に思わぬ訳がない。“奈落”の底から逃れる退路として利用した洞窟自体が何者かが人為的に穿ったものであったとは云え、それでも地下の大空洞を経由して進んでいた時に比べ、今は明らかに周囲が人工の建造物であることが明白であったからである。
だが目の間に仁王立ちし、依然としてつまらなそうに壁際の私の貌を見上げる紅い少年の姿の前には、全ての疑念が些事として吹き飛んでしまっていた。
試しにギッと恐る恐る上半身を揺する私は――恥ずかしながら――ついつい少年から単眼を逸らしてしまった。少年の初撃によって肘から切断された筈の左腕も、同じくトタン板のように引き剥がされた胸部装甲も、少なくとも見かけ上は元に戻っている事に今更ながらに気付いた程であった。
「憶えておるかキャリバー。ファーラが言っていた迎えのことを」
少年に対して横目で些か憮然とした視線を送りながら、私の傍らに留まったままのファーラがそう耳打ちする。私が改めて記憶を手繰り寄せる必要がなかったのは、ファーラの話があまりにも大仰であった為に強く印象に残っていたからであった。
『私を迎えに来るもの』――そして『この閉じ込められた世界を救う者』
ファーラが事あるごとに吹聴していた話を改めて思い起こしてみれば、確かに紅い紅いと連呼していた気もする。だが私が最初に目の前の真紅の少年に強襲された時にファーラのその“法螺話”と結びつけることができなかったのは、まさかその『救世主』がこんなに幼いとは予想もしていなかった為である。
最も重要な特徴にまったく言及しなかったファーラにこそ非が有ると断言してもいいが、確かその名を――
「あやつがそのガルアルスじゃ」
ナナムゥがいまだに壁際に寄り掛かったままの私の耳元で少年の名を告げた時に、私自身もようやくファーラの吹聴していた呼び名を完全に思い出していた。
『ガル』――確かに短い名であったが、要は愛称の類であったのだろう。
「ガルアルスよ」
改めて真紅の少年の名を呼ぶナナムゥの声には、明らかに緊張の色があった。ナナムゥにしては珍しいことだが、出会い頭にあれだけ一方的に蹂躙されれば、それも仕方のない事ではある。
「キャリバーに状況を説明せねばならぬ。しばし時間をくれぬか?」
「好きにしろ」
地下空洞で私とナナムゥを安々と叩き伏せた時と同じようにまったく意に介した様子も無く、ただそれだけを少年は口にした。一見すると感情が根本的に欠けているようにも見受けられたが、ファーラが彼のことを楽し気に話していた様子からも単に極端な口下手であるだけだと祈りたい気持であった。
少なくとも私を殺さずに慈悲をかけてくれた程度には話が通ずることに縋るしかない。
私が壁際から身を離しゆっくりと立ち上がるのを見届けてから、ナナムゥは私が意識を失っていた間のことを語り始めた。
老父の余命半年とかでまぁお辛い、そんな感じです