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稀謳(15)

 (集中しろ……!)

 胸中で己自身を叱咤しながら、私は腰を僅かに落とし握り拳の親指側を上向きの形で右腕を引いた。

 練習中に貧血を起こし、子供の時分のほんの短い期間しか学ばなかったとは云っても、ここ一番にはどうしてもこの身に沁みついた空手の型を取ってしまう。

 母が乗り気でない私に無理に習わせた、所詮は付け焼刃のものではあっても。

 「――ヴッ!!」

 気合と共に真っ直ぐに突き出した右拳が――この至近距離だと流石に――狙いを過たずに目の前の“壁”の表面を打つ。だがその直前、念の為に遅延をかけておいた視界の内で、“壁”の表面に一つの文字が浮かび上がるのが視えた。

 (――何っ!?)

 拳を止めねばと反射的に迷いはしたが今更どうなるものでもない。視界がスローモーションになり私が対象を視認できるようになるというだけで、実際に刻の流れを遅くしている訳ではないのだから。しまったと胸中で叫ぶ暇すら無く、私の拳はそのまま無駄に綺麗に“壁”を打ち抜いた。改めて言うまでもなく、魔晶弾倉の“力”によるものである。

 「やったか!?」

 魔晶の過剰出力の余波か或いは“壁”の砕ける土煙か、私の視界が一瞬ブラックアウトする中、背後からナナムゥの声だけが響いた。彼女を結構な後方に下がらせたのは万が一の崩落を恐れてのことではあったが、私の魔晶弾倉の一撃は見事に“壁”だけを打ち砕いたようであった。

 だが、それを幸運だと喜んでばかりもいられないことも重々承知していた。それは“壁”と洞窟とが完全に別物――すなわち洞窟の出口を塞ぐ為に“壁”が後から据えられた蓋であるという証でもあったのだから。

 この洞窟を穿った“奈落”からの脱出行の先人が塞いだものならばまだ良い。それが“幽霊”なのか或いは私の知らぬ更に悍ましきモノなのかは想像もできないが、後を追って這いずり出てくるモノを阻止する目的で蓋をしたのだろうと推測と納得ができるからだ。

 けれどももし、もしまったくの第三者による“封印”であるとしたならばどうか。そしてその可能性が決して低くはない事も私は知っていた。

 “壁”の表面に浮かんだ赤い文字は、それまで目印代わりとしていた数式のソレとは明らかに体系の異なるものであった。例えるならば、それまでアルファベットだけで綴られていた文章に、いきなり画数の多い古めかしい漢字が一文字捺印されていたかのように、素人の私でも判る差異があった。

 それを勢いに任せて打ち抜いてしまったのである。

 (やらかした!)

 後にして思うと、焦りのあまりに無策に飛び出したことこそ本当の意味での“やらかし”ではあった。第三者の存在を予感していたならば、洞窟の外に飛び出す際にせめて粒体装甲を稼働させる程度には警戒するのが当然であろう。結果だけを言うなら過度な用心であったのだが、如何にも素人丸出しの動きに我ながら反省するより他はない。

 「……?」

 私にとっては幸いなことに、洞窟から転がり出た先の新たな地下大空洞には、特にそれ以上我々の行く手を阻むおかしな障害は存在しないように視えた。私がその存在を懸念していた第三者の姿もまた同様に何処にも見当たりはしない。

 だが、確かに“障害”は存在しなかったとは云え、驚くべきモノ自体はあった。頭上より降り注ぐ大空洞全体を照らす輝き。それは薄い影ができる程度の淡いものではあったけれど、それでもこれまで発光キューブの小さな灯りを頼りに地の底深くを進んで来た私にとって、まるで眩い別世界に迷い込んだかのような錯覚を一瞬ではあるが与えてくれた。惑わされたと言う方が正確かもしれない。

 淡い光の源は、大空洞の天井近くに浮かぶ文字通り“鬼火”としか形容しようのない代物であった。如何に単眼の視界を拡大してみたところで、下から見上げるしかない現状ではそれが私の知らぬ自然現象なのか、何者かが設置した人口の照明であるのかまでは私には判別できなかった。

 それに加えて状況的にも、真っ先に目に入ったとは云え頭上の光源にのみそれ以上固執するという訳にもいかなかった。

 私が何の合図も寄こさなかったせいであろうが、なんじゃなんじゃと私の後から空洞に乗り込んで来たナナムゥが、たちまちの内にその言葉を失う。しかし彼女の大きな碧色の瞳は頭上の光源よりもむしろ目の前に広がる轟音の主へと向いていた。“壁”越しに彼女が耳にした水の流れる音の源でもある。

 地下空洞に轟く水音――それこそが三階建てのビル相当の高さから絶え間なく降り注ぐ滝の流れと、そして大空洞の地面の半分以上を占める巨大な滝壺が発する音であった。

 とは云え滝の高さは兎も角として幅だけを言えば、大瀑布どころか単なる瀑布と呼ぶのも憚られる、観光地に良くある程度の規模でしかない。その証拠に、渦巻く滝の直下は別として滝壺自体は至って平穏なものであるし、そこからまた地下の何処かへと流れていく川の支流も急流ではあるのだろうが、それでも呑み込まれたら二度と浮かび上がれぬといった迫力には程遠い。

 「ぁははははははっ!」

 ナナムゥが多少の狂気すら感じさせる高笑いと共に、制止する間もなく私の脇を駆け抜けて行く。普段の彼女ならばここまで不用心な行動に奔ることなど有り得ないのだが、私はそれを咎める気にはなれなかった。

 走りながらも器用に服を脱ぎ散らかし、滝壺の中に全裸の尻から飛び込むナナムゥ。“奈落”に堕ちてから半月、或いは最悪一ヶ月は経過しているのかもしれない。文字通り泥水を啜る生活を強いられていたナナムゥにとって、清水の魅力に抗えなかったことは責められない。

 溜まりに溜まったナナムゥの垢は、ほのかに暗い空洞の中、川の流れに呑まれてあっという間に消え失せた。川の流れが更なる地の底に向かっていると思しき以上、誰がしかの生活用水に混ざりはすまいと己に言い聞かせるしかない。

 今日はここで野営する方が良いだろうと、ナナムゥが脱ぎ捨てた衣服を拾い集めながら私は思案する。私自身に嗅覚は無いのでこれまで問題にはならなかったが、公国の公都に潜入する前にナナムゥの臭気を落し身体を清める必要があったのは確かである。

 かつて幼女だった時のノリそのままに大きな歓声を上げはしゃぎながら滝壺を泳ぐナナムゥの姿を、私は面映ゆく見送っていた。流石に子供とは云え全裸で泳ぐ姿をまじまじと見つめる訳にもいかず、正直困惑の極致にあった。

 様々な異界から墜ちて来た者達とその子孫から成る寄居所である閉じた世界(ガザル=イギス)においては、当然貞操観念――少し仰々しい言い方ではあるのだが――も千差万別である。だが個々人によってそれぞれ忌避する一線は有るとは云え、盥に水を張り全裸で行水する光景などは極々普通に見受けられた。その意味ではあくまで私から見ると羞恥に関してはかなり大らかな世界ではあった。

 だからと言って、『紳士』でありたいと自認する私にとって、中途半端に育ったナナムゥの全裸をまじまじと観察することなど禁忌の域に達する行為でしかない。例え護衛役としてもである。

 そういう心境だということもあり、取り合えず私は滝壺の淵から少し離れた乾いた土の上に背負った荷物と拾い集めたナナムゥの服を置いた。古き良き冒険活劇物ならば滝壺の主的な化け物がナナムゥを丸呑みにしようと出現する状況(シチュ)ではあるが、そんな様子も微塵も無さげだと確信したからでもある。半分与太話じみた懸念であるし、もし実際に水辺の主に一呑みにされるような輩がいるとするならば、それこそ昔話の寓話めいた、悪徳に塗れた人間への報いとしてであろうと私は思う。

 今は待ち望んだ清流に我を忘れているナナムゥではあるが、やがて落ち着きを取り戻し服を洗う必要に思い至ることだろう。それまでは彼女の好きにさせておく方が良い。

 片や私の方はと云えば、わざわざ沈む危険を冒して同じように滝壺に身を浸す必要も無い。石の身体に苔が生えた訳でもない。故に我々にとって一番有用と思われる行為――すなわち周辺の哨戒に赴く事にした。

 考えるべき今後のことは枚挙に暇が無い程にあった。一旦それら諸々の問題を頭の中で落ち着いて整理する為にも、私は地底の川の流れに沿って半分散策気分で歩き始めた。今居るこの地下空洞が地表に対してどの程度の位置にあるのか正直予測しようもないが、それでも地下水が川となって流れている以上、何かしらの生態系が存在し何かマシな食料を得る事ができるかもしれないという期待はあった。身を清めて腹を充たしさえすれば、今でこそのぼせ上がってしまっているナナムゥも、服を乾かす間にでも今後の計画を再検討する余裕も生まれるだろう。私は単なる聞き役でしかないのだが。

 滝壺の直上だけでなく、まばらであるとは云え空洞上部のあちこちに浮かんでいる“鬼火”の光を見上げながら、私は川沿いに行けるところまで行ってみようかという気にもなっていた。

 浮ついていた訳ではない。少なくとも自分では自戒も込めてそう意識を保つようにはしていたが、反面“奈落”からの脱出行の一番きつい部分は超えたのではないのかという――願望交じりであることは否定しないが――そこはかとない手応えを感じていたのも事実である。

 (後は……)

 私は何か魚や茸のような食材になり得る物が発見できないか周囲を見回しながらゆるゆると川の下流へと歩を進めた。ついつい気が緩みがちではあるが、これまでの大空洞でもそうしてきたように、入り口に数式の刻まれた地表に続く新たな洞窟の入り口を見つけねばならないという別の目的もあった。

 (そして何よりも――)

 幾ら自分に都合の良い解釈を重ねてみようとも、心の奥底では承知していた。これまで私達が洞窟を後追いで辿ってきた時には影も形も無かった第三者が――例の“壁”で我々の行く手を塞いだ何者かが存在がしているのだということを。それがいまだにこの地下大空洞に存在しているのかは定かではない。願わくば、その正体が洞窟を塞ぐ命を受けて公都から派遣された誰がしかであれば一番良い。逆説的に今居るこの大空洞が目的地である公都を臨める位置にあることを意味するからである。もし本当にそうであるならば重畳どころの――


 ――カツン……!


 「ヴ!?」

 唐突に耳に届いた足音に、私は驚愕と共に思わず脚を止めた。


 ――カツン……!


 (何だ!?)


 ――カツン…!!


 (何だというのだ!?)

 そもそもそんな足音が聴こえる筈がなかった。私のすぐ横を流れる川の音は確かに周囲の音を掻き消すには些か頼りない程度でしか響いてはいない。しかしそんな事よりも何よりも、遠くから聴こえる足音がそんな響きを立てる筈が無かった。まるで磨き上げられた大理石の床の上を上質のブーツで歩いてくるような小気味の良い硬質な音。

 有り得る筈がなかった。私達の足元を占めているのは、荒削りの石塊がその剥き出しの頭を土の間から覗かせるだけの荒廃した大地であるというのに。

 遥か前方にボゥと炎が燃え上がる様を認めた時に、そしてそれがゆっくりと自分の方へ例の足音と共に歩み寄って来ていることに気付いた時に、ようやく私は合点した。ようやくわたしは音の意味が分かった。

 あの硬質な足音は、単なる“足音”ではなく“先触れ”なのだということに。抗いようのない存在の到来を告げる()であるのだということに。

 異様な前触れであることを差し引いたとしても、私はこの時点で気圧され一歩も動くことができなかった。

 それ(・・)を“炎”だと認識したのはあくまで私が初見の印象を引き摺っただけのことに過ぎない。だが単眼に捉えたその実体が全身を真紅の装いで固めた、それも10歳程度の子供であると知った時にも、それ(・・)が“炎”であるという認識に変わりはなかった。

 視界を拡大して細部を確認することも、ましてや遅延をかけてその到来に備えることも忘れて、私は自分でも理解できぬままに只々ひたすらに恐れ慄いてしまっていた。

 真紅――真紅である。髪も、瞳も、身に着けている衣装の上から下まで何もかも。人と同じ肌の色と、側頭から後ろに伸びる二対四本の角だけを除いて。

 その真紅の少年は私の正面に立ったままその歩みを止めると、面白くもなさそうにジロリとその三白眼で私の貌を仰ぎ見た。


 「……貴様か、封を破ったのは?」


 外見に違わぬ公子めいた少年の声が、抑揚も乏しく私を詰問する。改めて考えるまでもなく、少年の言う“封”が洞窟を塞いでいた“壁”であることは明白であったが、私は如何なる反応も咄嗟に返すことができなかった。否、それどころか、己のすぐ横を流れる川の流れる音すらも、既に私の耳には届いてはいない程に圧迫されていた。

 「貴様、以前に見た覚えがあるな」

 スッと、少年の赤い三白眼が細まる。その一方的な物言いは、私が凝固してしまっていることなど少年が端から気にも留めていないことを示していた。

 「そうか、貴様、“忌道”か……」

 不意に少年が訳知り顔で口にした言葉は、私には聞き覚えの無い単語であった。そもそもが少年は私に見憶えがあると言ったが、私にとってはまったく身に覚えのない話であった。

 だが、これまでの閉じた世界(ガザル=イギス)に墜ちてからの記憶を私が辿るよりも前に、少年が再び尊大な口調で私に語り掛けてきた。

 「哀れだな。己がまやかしの生であることも知らぬとは」

 それが私に対する問い掛けであることは理解できたが、だからといって怖れによって動けないことには変わりない。まして、少年の言葉の意味することなど一片たりとも理解できない。

 少年はしかし無反応な私に対して気を悪くする様子を見せるどころか、むしろ淡々と私に対して宣告した。


 「ならば死ね」


 「――!?」

 咄嗟に、本当に今後の旅路の為の温存など一切思い浮かばずに咄嗟に粒体装甲を発動できたのは、紛れもなく本能をも超えた火事場の馬鹿力以外のなにものでもなかった。既に折った頭頂部の角が立ち上がることこそなかったが、地を蹴り宙に舞い上がった少年が眼前に迫るまでには、私の周囲を覆う“障壁”は間違いなく展開を終えていた。

 だが次の瞬間に私は、自分がなぜ少年を前に無意識の内にあれほど恐れ慄いてしまったのかを改めて思い知らされることになった。

予定を大幅に遅れてようやく主役の登場です

これから巻いていかなければ…

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