稀謳(11)
ところが、ところがである。
「いよいよ、こっからじゃ!」
私の“収納庫”をゴソゴソと探っていたナナムゥが、歓喜の声と共に高々と掲げて見せた物、それは“奈落”の暗がりの中で眩く輝く光の珠であった。
「――ヴ!?」
私が見紛う筈も無かった。ソレが“旗”が変じた光珠であることを。これまでナナムゥの側に侍りさんざ目にしてきたのだから。
だが例え現物を前にしても、“旗”がここにあるという事実を私は直ちに受け入れる事ができなかった。“旗”は“早馬”が撃ち込まれた麻痺弾によって墜落した時に奪われ、“奈落”の淵で私が目覚めた時にその所有権を巡って公国のお偉方が内輪揉めしていたのではなかったのかと。
私の狼狽を汲み取ったかのように、ナナムゥは私に対して改めてキシシという悪童めいた笑みを浮かべて見せた。その満面の笑みは幼い弟に対しおしゃまな姉が訳知り顔で自慢する様にも似ていた。
「『こんなこともあろうかと』その一で、始めからわしの“旗”をお主のお腹の中に隠しておいたのよ!」
胸を張るナナムゥが同時にその手の中でわざわざ“旗”を青い電楽器の形態に変じてみせたのは、私の疑念を晴らす為の念押しであったのだろう。
「ヴ…ヴ!?」
だが実際に電楽器を見せつけられたところで、私の困惑の全てが治まる訳ではなかった。確かに“旗”は本物なのであろう。それ自体は誰あろう私自身の内に秘匿されていたのであろう。そこまでは理解できる。納得もいく。
だが、浮遊城塞を飛び発った“早馬”の上でナナムゥが振りかざしていた旗指物もまた確かに“旗”の変じた物であったことを、私はこの単眼で視認した。そして何よりも奪った“旗”という現物があったからこそ、私達を捕らえた公国の者達は私達をそっちのけであれだけ所有権で揉めていたのではなかったのか。
「まあ待て、まあ待て。今から説明する」
混乱のあまり赤い光を単眼に明滅させる私に対し、ナナムゥは再びキシシと笑ってみせた。痩せ衰えた身体と垢で汚れたみすぼらしい風体であったにも関わらず、かつて浮遊城塞で子供達を率いていた頃と何ら遜色の無い明るい笑み。それはこの地の底の私にとって何よりの希望であった。
だが感銘に打ち震えていたのは私の方だけで、肝心のナナムゥの方はというと電楽器を握っていない空いている方の手に何時の間にか大事そうに何かを握っていた。それがかつて妖精皇国の街に繰り出した時に子供達の土産として買ったこともある花糖菓子である事にようやく私が気付いたところで、ナナムゥによる解説が始まった。手にしたその花糖菓子を行儀悪く齧りながら。
ねぐらである洞窟内で腰を据えて語られたナナムゥによる“旗”の『種明かし』は、実際のところすこぶる明解な話であった。
貴族達の裏をかいて偽物と入れ替えたなどという奇抜な策を用いた訳ではなく、単にナナムゥが一時的に“旗”を二本所有していたというだけの単純な話である。
そこまでドヤ顔で説明して貰ってようやく私は、猛禽に“寄生”し遥か空から前哨戦めいて襲撃して来たティティルゥの遺児達と、それを追ってナナムゥが一旦我々の側から離脱していたことを思い出した。あの時に、ナナムゥは遺児達を撃退するどころか“旗”まで奪うと云う大金星を上げていたのである。
だとしても、何故それを早く我々にも告げてくれなかったのかという不満を私はすぐに呑み込んだ。私に抗議の声を上げる機能が無いと云うのもあるが、そもそもが“亡者”メブカなる者によってコルテラーナの生命が奪われた惨状の只中である。話す暇が無かったことは理解できるし、また私自身も公都に連行されている間は“眠り”に就いていたのでその戦果を聞く事自体ができなかった。
ナナムゥの性格上、私達を驚かせる目的で敢えて黙っていた可能性には言及すまい。
それは兎も角としても、バロウルは捕囚として連行される途上でナナムゥから“旗”が二本あることとその所在を耳打ちされてはいたのだろう。彼女が私達を逃す目的で敢えて“奈落”に堕ちるように取り計らったのも、“旗”が私の体内に秘匿されている――尤も、私が“再起動”するまでは文字通り“死蔵”であったのだが――という『保険』があったが故の決行だったのだろうと今ならば多少は分かる。身を捨てたバロウルの決意も。
それが最上の手段であったのかまでは私如きに判る筈も無いが。
再び“旗手”となったナナムゥの“力”によって、場所までは特定できていた右腕の回収作業もそこまで困難なものではなかった。恥を忍んで白状してしまえば、私の果たした役割などちょっとした瓦礫を撤去した他は、ナナムゥの持つ例の発光キューブを掌に乗せて彼女が右腕を釣り上げる為に“綱”を垂らす際の手元を照らし出す係となった程度であった。
肩口から伸ばした“紐”によって再び回収した右腕を装着した私は、拳の開閉を始めとする動作確認をすぐに済ませた。右腕に限らず残りの四肢も頭部も全て正常に稼働している――少なくとも今は――ことからも、“奈落”に堕ちる瞬間に発動を念じた粒体装甲の“障壁”は私の五体がバラバラになり意識が“眠り”に就いたにも関わらず無事に作動したのだろう。後は両腕に内蔵された魔晶弾倉の動作確認を残すだけだが、元々が私の機体が突貫的な整備の只中だったということもあり、両腕には肝心の魔晶そのものが装填されてはいなかった。
「これで脱出の準備は整ったな」
“奈落”の開けた場所で四肢の動作確認を続ける私に対しナナムゥは感慨深げに呟くと、次にその視線をとある方角へと向けた。私達が墜ちて来た遥か頭上にではなく、むしろ更に暗がりの奥に向かう下り坂に。
まだ私が足を踏み入れたことの無い未知の領域に。
ナナムゥの表明した『“奈落”からの脱出の準備』――元よりバロウルが口にしたと云う移動図書館からの救援をナナムゥがまったく当てにしていないことは、特に口に出されずとも彼女の行動の端々から感じ取れた。
ナナムゥ本人だけならば兎も角、巨体である私が自力で地表まで辿り着ける何か目途でもあるのかは分からない。それでもナナムゥが移動図書館に頼らず自分だけで脱出しようと考えているのは、実はバロウルを助けに行こうとしてるんじゃないかとわたしは推理していた。少なくとも私達が知る限り私達の後からバロウルが――或いは他の誰がしかが――“奈落”に堕ちて来たということも無い以上、例えどのような境遇であるにしろバロウルは地上に居るのではないかと推察された。
堕ちる最中でどこかの崖の出っ張りに打ち付けられたり、或いはわざわざ“奈落”に墜とさずにもっと簡易な“処理”をされた可能性もかなり高いであろう事は理解している。それでも、無事でいて欲しいと願う心は私もナナムゥに劣らずに抱いていた。嘘偽りも無く。
だが、ナナムゥがバロウルの救出を第一目標としているという推測に間違いはなかったが、彼女が更にもう一つ大それた企みを胸の内に秘めていたなどとは、この時の私には予想すらできていなかった。
ナナムゥの秘めたる企みは一旦置くとしても、地表への帰還という一大目標が有ることもあり、私が目覚めてから“奈落”で過ごした期間は僅か数日程に過ぎない。
ナナムゥの体調を慮ったというのもある。私がこの目で見た限りではナナムゥは泥水としか形容できない溜水を啜り、茸なのか肉厚の苔であるのかすら判別し難い群生する植物を齧って餓えを凌いでいた。もとを正せばその植物の養分となった有機物が何であったのかなどは想像すらしたくもないが、ナナムゥが衰弱の際にあることは明らかであった。かつて彼女が自ら語っていた黒い森で獣のような生活を送っていたと云う過去が今回の悪食によって図らずも証明されたという訳だが、ファーラが私の“貯蔵庫”に仕舞っていた花糖菓子を貪るように食していたことからもかなり瀬戸際の状態でもあったのだろう。まして本来なら口に入れるのもおこがましいモノしかないこの“奈落”での生活にバロウルが――と云うか、ナナムゥの方が例外中の例外であろうが――耐え切れなかったであろうことは想像に難くない。
しかしである。飲食の件はほんの一端である。“再起動”を果たし短い期間であるとは云えナナムゥと共にこの“奈落”で過ごした私にとって、どうしても拭えない別の違和感が常に付きまとっていた。
ただ静寂に充ちた死の世界。
ナナムゥだから『もった』だけで、常人ならば時を置かずに餓死なり渇死する魔境ではある。ここに動物の姿を見ることは無い。魔獣妖獣の類ですらも。ここが光の射さない真の闇の中であることを差し引いたとしても、私達が目にするものは辛うじて出来損ないの植物めいた物だけであった。
ナナムゥ曰く、片腕の長さ程度の奇怪な蟲ならば存在するらしいが、おそらくはここに墜ちて来た者の死肉を喰らっていると思しきその蟲達が向こうから襲ってくるようなことは無いとのことでもあった。焚火やナナムゥの持つ光るキューブを前にするだけで途端に退散する習性らしく、外観が奇怪なだけで直接の脅威には成り得ないと聞いていた。
そのような植物や蟲を除くと、他に“奈落”に存在するのはあてどなく彷徨う白や灰色をした例の“幽霊”の姿だけである。明確な意思を持たない“幽霊”の危険性など言わずもがなである。わたしはあんまり詳しくないけれど、ここを地獄だと呼ぶにはあんまりにも静か過ぎるとさえ思った。
例えるならば地獄ではなく、その手前にある賽の河原や辺獄の趣に近しいのではないのかと、私はそう強く印象付けられた。ただ暗闇と静寂のみが広がるこの地の底の底には、寂寥感こそあれ“奈落”の名に相応しい苛烈さが皆無であるが私の違和感の正体であった。
確かに私の単眼に備わる望遠の機能を用いても、遥か頭上にも地表に繋がる口は視認できない。飛べない限りは脱出不可ではないのかと思えるこの深淵さだけは“奈落”と呼ぶに相応しくはあるのだろう。だが“奈落”の名と共に密やかに伝えられる魑魅魍魎の蠢く魔境という伝説と、それに対する覚悟完了していたこの身からすれば――良い意味ではあるが――拍子抜けもいいところではあった。
まったくの無責任な噂話が積もり積もって在りもしない魔境の伝説を形作ったとでもいうのだろうか。だが私は火の無い処に煙が立ったとはどうしても納得しきれなかった。
それ故に私自身が釈然としない心持であったことは別として、この静謐な地下世界で過ごした日々についてそれ以上特筆すべきことは無い。そもそも定住を目論んでいる訳ではない一時しのぎの仮の住処としては、私が眠っている間にナナムゥが全ての基盤を整え終えていたというのもある。
そこまでねぐらを確保できているのであれば、本来ならばおとなしくそこに籠っているべきであろう。山で遭難した時と同様である。何よりもバロウルの言を信じるのならば、その内に移動図書館から救援の手が差し伸べられることが分かっているというのもある。
にも関わらず、ナナムゥが自力でこの“奈落”を脱出する道を選んだのは先に述べた通りである。移動図書館に命運を託すことを嫌ったことと、何よりもバロウルを救出する為に。
非常に冷淡な言い方をするならば、我々が“奈落”に堕ちてからどう考えても10日以上は経過している。今更数日を惜しみ地の底から懸命に脱出したところでバロウルの命運が――彼女に対する下世話な想像はすまい――劇的に変化することはないであろう。だがそれでもナナムゥが自らの手による救出にこだわったのは、バロウルを犠牲したという負い目によるものであったのだろう。
そして、移動図書館そのものへの不信感も既に拭いきれぬまでに膨らみつつあった。
私は“黒き棺の丘”で目の前に移動図書館が出現した時には、何も不審に思わなかった。今にして思えば、私達の様子を窺っていたとしか思えぬ絶妙のタイミングである。それに加え、司書長ガザル=シークエは機兵の応急整備の場を提供するだけでなく、私達が一刻でも早く浮遊城塞に戻れるよう貴重な空飛ぶ“早馬”とその操縦士としてバーハラなる『司書』まであてがってくれた。これまで一切の接触が無かったとは思えぬ程の厚遇ぶりである。
無償ではあるまい。そもそも移動図書館もまたこの閉じた世界に囚われた身である以上、コルテラーナによる“黒き棺の丘”の暗黒領域の探索と破壊に助力することは別におかしな話ではない。そこまでの厚意というものを私が個人的に信じられないというだけの話である。
だが、性根の捻じくれた猜疑心の固まりであると自負しながらも私は、移動図書館の厚意をおかしいとは勘ぐることをしなかったのである。今の今まで普通に受け入れてしまっていた。
おかしいと、今更ながらに私は首を捻る。おかしいと思わなかったこと自体をおかしいと。そもそも厚意云々以前に、普段は何者の手も届かぬ別空間に姿を隠し、この世界の基本通貨を鋳造し経済の根元を握る浮世離れした移動図書館の在り方そのものがおかしいのだ。俗な表現をすれば露骨に怪しいどころか怪しさは大爆発の域にすら達している。
スランプというか、次々回辺りで「主役」が復帰するのでそれまでは……