稀謳(7)
シノバイドの頭領として配下に密命を下す為に用いられている私室であるが、それでもあくまで表向きはカルコース商会の主人であるモガミの書斎という触れ込みである。彼の『正体』を知らぬ使用人等が日常業務の一環として様々な許可や同意を取り付けに来る事はむしろ必然であった。それも踏まえてモガミの書斎には抜け道や隠し扉を始めとした様々な仕掛けが施されているが、その内の一つが文字通り“鳴る廊下”であった。それ自体は古から伝わる技巧ではあるのだが。
「……」
モガミはノックを鳴らした者に入室を促す代わりに無言のまま自ら扉の前まで歩み寄り、密やかに“彼女”を招き入れるべく扉を開けた。
幼き頃より皇室直属の忍びとして過酷な修練を積んできた彼にとって、鳴る廊下の上での足の運びだけでこの書斎を訪れた者が何者であるのかを事前に言い当てる事ができた。例えそれが姿形の酷似した双子の姉妹であったとしても、モガミにとって姉妹の何れかの来訪であるのかその判別は容易かった。
モガミの予測に寸分違わず、開けた扉の前には彼の妻の片割れがいた。配下のシノバイドにコバル公国軍への夜襲を指示するモガミに代わり、会合衆の会合に出席していたティラムである。
「ん……」
見るからに疲弊の色の濃いティラムであったが、それでも彼女が最初にしたことは健気にもモガミに対して両腕を掲げる事であった。
「……」
モガミもまた、無言のままにティラムの背に腕を回しそっと彼女の華奢な身体を抱きしめ、そのまま書斎の内へと招き入れた。
「苦労をかけるな……」
抱擁の姿勢を崩さずに、しかしモガミは器用にもティラムにそれと気付かせることなく扉を閉めてみせた。その口から発せられる労いの言葉に、ティラムの青白い貌にわずかに赤みが戻る。
カルコース商会どころか商都ナーガスそのものを己のかつての――そして永遠の主である妖精皇を護る為の“盾”にする決意を胸中に秘めたモガミであったが、それでも妻にかける労りの言葉に偽りは無かった。
長い抱擁の後、先にその身を離したのはティラムの方からであった。張り詰めていた緊張がほぐれたことと、それに伴いモガミの代行としての己の使命を思い出したのだろう。彼女はソファーに腰を沈めると、夫が手ずから用意してくれたお茶に口を付けながら、協議の内容をつぶさに語り始めた。
いまだに人前では吃音の激しいティラムではあったが、モガミの前ではそのような気配は微塵も無かった。
だが流暢な報告とは裏腹に――事前に予想はしていたとは云え――会合衆達の出した結論はモガミにとって望ましいものではなかった。
「このまま街道を封鎖されたままでは埒が明かないから、代表を立てて折衝の場を設けることが内々に決まったわ」
「妥当だな」
ティラムの報告を聞いても、モガミは決して失意の色を表面に出さないように努めた。その決定を阻止できなかったティラムを責める気なども毛頭無いし、全てが想定の範囲内であるかのようにわざわざ口に出して応じてみた程である。自分の貌が僅かでも陰りを帯びるとティラムがそれを異常に気に病むことをモガミはこれまでの夫婦としての営みの中で痛感していた。
実際、裏工作に専念している自分に代わり、ティラムは良くやってくれていることとモガミは掛け値なしに賞賛していた。
本来ならば協議の場に出るべきモガミの代わりにティラムが始めて会合の場に姿を現した時に、並み居る会合衆が例外なくどよめいたのは事実である。モガミが婿入りの立場である以上、そもそも先代の実子であるカルコース姉妹が商会の代表として会合に参加することは不自然なことではないし、双子の妹であるヴァラムが出席することも珍しくはなかった。むしろモガミが出席する方が稀ですらあった。
だが姉のティラムの方となると話は別である。彼女が秘密裏の協議の場どころか単なる懇親会にすら顔を出す事はこれまでに皆無であり、何よりもかつて郊外でならず者に襲われ“傷もの”にされて精神を病んだという口さがない噂は会合衆全員が密かに知るところであった。
始めはその物珍しさと、何よりもモガミではなくティラムが出てきたことへの真意を計りかね、当初の協議の内容はかなりの『様子見』を加味したものになった。
吃音であるが故にティラムの懸命さが鬼気迫る領域にまで及んでいたという事情もある。それによってモガミが主張するところの固く門を閉ざし、公国の要求に対し妥協どころか一切応じないという強硬な態度で挑むという方針を会合衆に堅持させることもできた。
モガミにとって唯一誤算であったのは、コバル公国の軍勢に明確な『頭』――すなわちそれを取りまとめる盟主たる人物が不在であったということである。
元より公国の成り立ちが、バラバラであった“洞”を“旗”を手に入れ“旗手”となったクォーバル大公が“力”尽くでまとめたという経緯であることは広くこの閉じた世界で知られた話ではある。その様な寄せ集めの“国”であると知っていたが故に、軍勢を出すと云うことは例え表舞台に大公自らが姿を現すとまではいかずとも宰相なり或いは新たに任命された将軍職なりを据えてのものだとモガミは踏んでいた。そして自らの間諜網にその人物が何者であるのかすら明らかとならないのは、それだけ厳重に緘口令がの戒厳が敷かれている証左であると警戒を強めていた。
まさかそれが初めから総指揮官などが存在せず、隣の“洞”に後れを取るななどと云う非常に場当たり的な動機と衝動でてんでばらばらに商都ナーガスに集っただけなどという状況をいまだに完全には信じられない、信じたくないというのが正直なところである。シノバイドの頭領として隠匿されている筈の――そもそも存在しなかった――情報を重点的に探っていたモガミは完全に虚を突かれた形となってしまっており、彼をして後手後手と成さしめてしまった原因でもあった。
そしてそれは同時に、いざとなれば自らが夜陰に乗じて軍勢の『頭』を秘かに排除するというモガミの当初の目論見が破綻したことをも意味していた。
状況はあまりに混沌としたものとなった。そして今まさに会合衆は折衝の場を設ける方向に動いているとティラムは言う。総指揮官が存在しない以上、その会談の席に着くのはかねてより何処かの商会が懇意にしている“洞”の主となることだろう。そして始めから誼を通じた面子による茶番じみた会談である以上、そこを皮切りにズルズルと妥協と譲歩を迫られることとなるだろうとモガミは看破していた。例えそれが商都の開門そのものまでには及ばないとしても。
会合衆にとって僅かの『駄賃』で公国軍の撤収を願えるのならば、確かにそれは無為な会談ではあるまい。今回だけに限って言えば。これに味を占めた公国軍は、恥を知らぬ獣のように事ある毎に強請りたかり訪れるようになるだろう。
それを予期できない会合衆でもあるまいが、ならば今後その恫喝にどのように対処する心積もりであるのかまでは、流石のモガミにも現時点では知る術は無い。一つだけ確実であることは、少なくとも今回の“不手際”の全ての責任を主戦派の自分に被せられ、それで“手打ち”となるということだけである。
妖精皇の“盾”として商都を利用しようと目論む“恥知らず”を自覚しているとは云え、カルコース姉妹への愛情も先代への恩義もモガミが無くした訳ではない。戦場で果てる定めの己と配下のシノバイド達は兎も角、カルコース商会まで巻き添えとすることは彼の本意ではなかった。
それはあまりにも虫の良すぎる言い様であろう。商都ナーガスに対する二律背反――妖精皇こと所長がモガミに不興を覚える所以である。
なればどうすべきか。
公国軍を一度追い落としさえしてしまえば――モガミのそもそもの調略の起点はそこにある。一旦矛を交えた後に撤収へと謀りさえすれば、洞の間で“戦犯”を押し付け合い――シノバイドを使い焚き付けるのは無論の事である――当面は外征などに割く気概も霧散するというのが当初のモガミの描いた顛末であった。
威力偵察を兼ねた夜襲を仕掛けてはいるが、公には前哨戦すら始まっていない現状である。謀を成す余地はまだ充分にあるのではあるが、モガミは今回の戦に密やかな戦慄と危惧を覚えていた。
結局のところ、二国間での戦争に関する取り決めや暗黙の了解すら存在しないままである。明確な総指揮官も定めぬままに商都の周囲に陣を張り、そして互いの様子を窺い今度は動こうともしない有様は、コバル公国の“貴族”達が今度の出兵を洞同士の小競り合いの延長としか考えていない証でもあった。
大らかな時代の戦の再現だと言えば聞こえはいい。だが何の取り決めも無くただ偶発的な切っ掛けに多大な影響を受けるその危うさをモガミは懸念していた。商都に公国軍を釘付けとすることを至上の目的とするモガミが言えた義理など無いのだとしても。
「モガミ……」
茶を飲み干したティラムは茶碗をそっと机上に戻すと、今度はモガミの座る向かい側のソファーへとテテと移動した。夫であるモガミの横におもむろに座ると、コロンと寝転んで頭を彼の膝の上に乗せる。
まるで猫の様だと――モガミの知る『猫』はこの世界にはいないようだが――ティラムを見下ろすモガミの目は優しい。その妻の頭と艶やかな髪を、彼はただゆっくりと撫でた。
「……」
そのまま瞳を閉じ満足げな微少を浮かべるティラムの横顔を見やりながら、再びモガミは考えを巡らす。
公国軍に『頭』がいないことは間違いない。大公も宰相も公都に引き籠ったままであり、敢えて言うならば宰相の孫が一時期商都に滞在していたくらいであるが、そのオズナ・ケーンなる人物が人畜無害で謀事の類に無縁であることは既に集めた情報からも確かであった。
シノバイドの頭領として公国軍の総指揮官を探っていたモガミの耳にもう1人、各所の洞をそれとなく巡っている男がいる情報は届いてはいた。
大公の名代である方術士ザーザート。
その名を聞くのは実はモガミにとって初めてのことではない。しかもそれはシノバイドとしての諜報活動とはまったく無縁の筋からもたらされた縁であった。
妻であるティラムもまた、あの不幸な事件で心身を病むまでは方術士としての修練を重ねていた。自分にとってはそもそも耳慣れぬ『方術士』なるものが、自分の世界で伝えられているところの魔術師の類であるのだとモガミは解していたし、そして己自身が半ばおとぎ話めいた忍びであることからも、『魔術師』の存在を一笑に付したりもしなかった。
ザーザートこそが方術士としてのティラムの同門であり、商都ナーガスにモガミが流れ着く以前の話ではあるがカルコース商会が門徒の中で頭角を現しつつあったザーザートの後見人となっていたのだという。それが何の折の昔語りの中で語られたのかまではモガミも記憶してはいない。だが彼がその名を憶えていたのは忍びとしての慣習がその理由ではあるが、それに加えて招来を先代に才を見込まれた若い方術士がしかしある日忽然と商都より姿をくらましたというその結末によるものであった。
その――おそらくは同一人物で間違いない――ザーザートが今はコバル公国の大公付の名代として姿を現したことを、モガミはティラムには伏せたままであった。昔語りの時の口調からも、ティラムがザーザートの行方に心を痛めていることは明白であり、モガミはその妻を気遣ったのである。
姿を消したザーザートがよりにもよって敵国と化したコバル公国に属し、それに加えて何やら怪し気な動きをしていることを、ただでさえ己の代理として負担を掛けてしまっているティラムに告げて心労を増す訳にはいかなかった。
或いは――或いは今後そのザーザートが商都ナーガスを害する者として本格的に表舞台に姿を現すような事態となったならば、ティラムの耳に入る前に自らの手で極秘裏に葬り去る算段すらモガミは考慮に入れていた。
まさかそのザーザートこそが、弟子であるカカトを屠った張本人であることまではモガミは知らぬ。無論、カカトの仇の正体をモガミも懸念してはいたが、混迷する現状においてはまず所長の安否と所在を確認することを最優先とせざるを得なかったのである。
(あの御方を御守りすることが全てに優先する……)
節々で己が妻を如何にも気遣っているかのように振る舞いながらも結局は所長を最優先とする自分を、偽善であろうとモガミは自嘲する。愛情に偽りは無いといいながらも、彼女を賊から救えなかった負い目でしかないのではあるまいかと。
「ん……」
と、不意にムクリと身を起こしたティラムが、再びモガミに身を摺り寄せた。
ここまでティラムが甘えてくるのは珍しいことではある。だが、抱き寄せたその身が小刻みに震えている事を知り、モガミは妻の抱く予想以上の不安を痛感した。
これから商都を巡る事態がどのように推移するのかはモガミにも分からない。この閉じた世界に囚われている、何れの者にも分からないであろう。
ただ一つモガミにとって永遠不変である事は、主である皇女の為に生き皇女の為に死ぬことこそが己に課せられた運命なのだということのみである。
自分は地獄に堕ちるだろう、その想いと共にモガミはティラムを強く抱きしめ、そして唇を重ねた。
*
「ふはは……」
コバル公国のとある廃坑の中で、ハンガン・ホゥは高揚した、しかしどこか泣き出しそうなまでのヒステリックな笑い声を響かせていた。
「ふははははっ!!」
ホゥの足元には事切れたマルゴ卿の死体が流血の澱みの中に転がっていた。彼ばかりでなく、その護衛の兵の二人の死体も共に。
辛うじて判別がつく、などというところまで凄惨ではないにしても、何れの死体も酷い有様ではあった。その表面は焼け焦げ、そしてズタズタズタに引き裂かれており、柔な者であればこの場で嘔吐していたことだろう。