稀謳(5)
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ヒロカ村――
妖精皇国領の影響下にある、ポツポツと点在する小さな集落の中の一つである。商都ナーガスからみて南、妖精皇国から見て北というちょうど二大都市の狭間に位置するこの村が、それでも妖精皇国の庇護下にあると明示しているのには相応の理由がある。無論、単に距離的に妖精皇国の方が近いというのが最大の理由ではあるが、それに加えて俗に言う『人』とは決して相容れることのない凶悪な『猿人』に対する備え――遥か南の果ての地に追い落としたと公には喧伝されているのだが――として、妖精皇国には妖精機士という兵団が常備軍として存在しており、その加護を頼ったという事も大きい。
妖精皇国の庇護下であるという申請は、妖精機士団の巡回ルートに組み入れて欲しいという要請も兼ねていた。機士団と言っても巡回に赴くのはせいぜい妖精機士一機に随伴数名といった小規模単位ではあるのだが。
それでも猿人の一大集落を攻め落とし駆逐した妖精機士団は、閉じた世界において類まれなる戦闘集団として名を馳せていた。猿人討伐を指揮した初代機士団長は妖精皇によりとうの昔に放逐されてはいたが、それが表に出る事はない。まして機士の整備や動力素の補充が浮遊城塞オーファスの工廠に依存していることは秘中の秘として伏せられていた。
かくの如く勇名だけが喧伝された妖精機士団であったが、ヒロカ村は要するに帰属意識ではなくその機士団に対する打算で動く、その程度の集落であった。悪い意味でも何でもなく、単に良くある話ではある。
ティエンマ湖から浮上し飛び発った浮遊城塞オーファスが、地を掠めるような大回りの移動の果てに、妖精皇国での停泊地であるルーメ湖に辿り着くことも叶わず遂に断崖に寄り添うように接地してしまったことも、商都ナーガスとそれを取り囲んでいるコバル公国の軍勢との間で遂に小競り合いが散発的に始まったことも、ヒロカ村にはまだ風の便りとして届くのみである。ましてや商都ナーガス内部で指導者層である会合衆の間で不協和音が漏れ始めたことなど伝わる由も無い。
とは云え、立地的にも距離的に断絶している訳ではないので、流石に遠い異国の地の出来事とまではいかない。それでも集落の民にとってはあくまで“他人事”の範疇である風の噂に過ぎなかった。
これまでは。
「――」
今、長い間放置されてきた獣道にも劣る旧道沿いの茂みの陰から、秘かにヒロカ村を窺う一党の姿があった。
10日程前に浮遊城塞攻略の為に方術士ザーザートよりティエンマ湖に遣わされた三人の貴族がいた。その内で早々に戦況に見切りを付けて戦線を離脱したタウル・バーンズとその一党である。
猫目のタウル自身はこの閉じた世界で生を受けた身であったが、バーンズ洞を預かる“貴族”である以上、その先祖は古参として――その肯定的な表現が妥当かは兎も角――この世界に墜ちて来た一族であることは間違いない。
だが古い家系であるが故に、自分の祖先が元はどのような世界から落ちて来たのかをタウルは逆に知らぬ。口伝として或いは何代かに渡っては伝えられていたのかもしれないが、少なくとも彼の代では完全に絶えてしまっていた。唯一確かであることと言えば、剥き出しの岩盤に囲まれた肌寒いコバル公国は彼等バーンズ一族にとっては決して居心地の良い環境では無かったということである。
猫目洞が公国の内でもかなり古い家系でありながらも“貴族”の中では特に目立つことも無い傍流に甘んじてきたのも、根底にその“疎外感”のようなものが根付いていたからだと、今ならばタウルは心の底から理解できた。
(寒々とした公国に比べ、この木々と草原が彩る地のなんと心地よい事かしら!)
胸中で惜しみない賞賛を並べるタウルの心に嘘は無い。
行軍と野営をこなしつつ敵地深くに身を潜めながらも、タウルは自分でも意外な程に森林に馴染んでいることへの感動に身を震わせていた。
当初の目論見では妖精皇国内の僻地に身を潜め、戦乱の機を見て集落を素早く巡り可能な限りの“徴収”を終えた後に速やかに撤収する腹積もりではあったが、タウルはここに来て己の中で急激に山っ気が頭をもたげてきているのを日増しに強く認識するようになってきていた。
「ベク、あの村が白朧蓮の産地で間違いないわね?」
タウルは傍らに控える初老の従者に改めて念を押した。台帳を手に無言で頷いて返す従者に対し、猫目のタウルは嬉々とした満面の笑みを浮かべて応じた。
白朧蓮――桶に張った清水にその円筒形の蓮根を漬けておくと冷やりとした心地良いその名の通り白い霞を周囲に充満させ、そして一昼夜の後の真夜中に紫煌花をひっそりと咲かせる、知る人ぞ知る妖精皇国の特産品の一つである。
何故そのような奇妙な特性を有するのかを解明するような余裕がこの世界の住人にある筈も無く、白朧蓮は植物としてではなく完全に珍奇な嗜好品として認識されていた。
流通上の分類は兎も角として、コバル公国の貴族達にとってはこの白朧蓮の需要は確かにあった。開花後にたった一夜で枯れ果てる紫煌花には鑑賞する以上の価値は無いが、前後二昼夜に渡って放出される清浄な霞の気が、基本的に地下暮らしである公国の貴族にとっては最高の贅沢であったということである。
泥で包んでおけば完全に干上がりでもしない限り地下暗所の湿り気程度の環境で優に10年以上は保管が効くこともあり、今からタウルが“徴収”したとしても公国に持ち帰るには充分に取り回しが可能な、白朧蓮はそういう意味でも理想的な代物でもあった。
妖精機士団は商都周りの争乱の余波に備え街道沿いに張り付いており、今は巡回に割く人員の余裕も無いだろう事は戻って来た物見の話からも明らかであった。
後は満を持してヒロカ村を占拠制圧するだけである。だが――
「本当に根こそぎ持っていくつもり?」
副官である――そしてタウルにとっては歳の近い従兄弟でもある――ギギインがどこか落ち着かなげにタウルに尋ねる。
「ある程度残しておかないと、下手すればそれが原因で白朧蓮が全滅しちゃうんじゃないの?」
バーンズ洞の貴族――俗に言う“猫目の一族”特有の癖のある口調。先祖が元居た世界の記憶は失われても、細やかな慣習や言い回しだけが意味も無く残り続けるのはこの閉じた世界では珍しい話ではない。タウルとギギインが男とも女ともつかない珍妙な話し言葉を使うのは、特に両性具有だというような奇異な原因がある訳ではない。
「いいわね、その見識の高さ。嫌いじゃないわ」
茶化す様にタウルが答えたのも、従兄弟のギギインとは幼少期から共に育った気心の知れた仲ということもあるのだろう。だが流石にギギインが少々気を悪くしたのを見て取って、改めて真顔で逆に問い掛けた。
「デイガン宰相が口を開けば煩く言っている、この世界の資源が尽きてどうこうって話の受け売りでしょ?」
口を開かずともギギインの瞳に同意の色が浮かんだのを見て、タウルは更にその先を続けた。意地悪く、そしてどこか得意げに。
「で、その資源が尽きるってのはいつなの? 一年後? それとも十年後?」
うっと回答に窮するギギインに対し、タウルが更に間髪入れずに畳み掛ける。
「我らがコバル公国については確かにまぁ、空いてる土地はもうたかが知れてるでしょうよ。でも南部は? 今は猿人が逃げ込んだ魔境だとしても、皆殺しにしてその土地を奪えばいいだけの話でしょ?」
滔々と持論を語っている内に興が乗って来たのか、遂にはタウルが身振り手振りを交え出す。獣も通らぬ廃道とは云え無遠慮に茂みを揺らすその様に、老従者のベクが――背後で秘かに――眉を顰めてみせる。
「有り得ないのよ、我々の子の代とか孫の代でこの世の終わりが来るなんて。そんないつになるか分からない先の事を今から私達が心配する義理なんてある筈無いでしょ!」
したり顔でニィッと笑うタウルは、自分の考えが公国の貴族においても至極当然の認識であることを知っていた。
だからこそ老宰相デイガンは公国内での支持を失い、遂には失脚する顛末となったともタウルは見ていた。それでなくともデイガンに対する陰ながらのやっかみは元より強いものであった。若い頃にこの閉じた世界に新たに墜ちて来た一介の鉱山人足に過ぎない――そしてそれはコバル公国においては奴隷であることと同意義であった――デイガンであるが、元より技師として『穴堀』に精通していた彼はたちどころに頭角を現した。そして最終的には身一つで宰相にまで昇り詰めるまでになるのだが、それを面白く思わない貴族は皆無であったと言ってもいい。
デイガンの青年期の立身出世物語はこの際置くとしても、鉱物資源こそ豊富であったが根本的に衣食住が欠乏していた公国を、享楽に耽るだけのクォーバル大公に代わり少しでも豊かにするべく老宰相が奮闘してきたことだけは疑いようのない事実であった。
バラバラだった“洞”を一つの“国”としてまとめ上げる為に、時として強権を発動までしてきたそのツケが今になってデイガンの孤立に繋がったのだとしても、裏を返せば貴族達がその往年の恨みを意趣返しできる程度には公国が安定期に入ったということでもある。デイガンにとっては皮肉にも。
それに加え、デイガンが追い求めた厳格な階級社会を――その目的は消費を抑える為の管理社会である――構築する為に、貴族に兵役と常設軍を課したことが元々は“山師”の集まりである“貴族”の増長を招いたのもまた事実であった。
デイガンが有事に備え引き絞ったままに留めるつもりであった『弓矢』で、せっかくだから何かを射抜いてみたい、そもそもその為の『弓矢』でないのかという欲求は、“人”として逃れられぬ性であったのだろうか。
その思い上がりの行き着いた果てが今回の商都ナーガス、そして妖精皇国へ向けての無秩序な進軍であった。その背後で言葉巧みに貴族達を戦場へと駆り立てる、ザーザートの暗躍があったのだとしても。
今こうして熱弁を振るっている猫目のタウルも、賢しいつもりではあるが充分にザーザートの手の上で踊らされているに等しい。
「いつかも分からぬ未来よりも、私達にとって一番大事な時は決まってる!」
己がそんな滑稽な立場であるなどとは露とも知らず、タウルは得意げにギギインの胸を小突いてみせた。
「今よ!」
完全に納得した訳ではないことは、ギギインがハァと溜息をついたことからも分かる。それでも副官という立場上、彼はそれ以上異を唱えることはせずに一つだけ念を押した。
「奪うもの奪った後に住人は皆殺しにするとか言わないでくださいね」
「当り前じゃない!」
渋々といった感じのギギインに対し、タウルは調子よく自ら太鼓判を押して見せた。
「これから幾つも村を回るのに、初手からそんな目立つ立ち回りはしないわよ」
*
商都ナーガス近郊――
集って来たはいいもののそれを統括して総指揮を執る者も無く、さりとて自分だけ分け前を取り逃すことがあってはならないと小分けに合流を重ねていくだけのコバル公国軍。
そのような状況であるからこそ自ら進んで商都の厚い防壁に挑む者も無く、今は何かの切っ掛けを待ちつつ商都近郊にそれぞれ好き勝手に野営地を設けているという混沌とした様相であった。
その中にあってマルゴ洞に属するカアコームの砲兵隊は、それよりも更に後方の高台に単独で陣を張っていた。
実のところ、カアコーム自身が指示を出しながら構築を進めている砲台用の陣地はあくまでも第一陣でしかない。ここより更に遠方、カアコームが組織し指導した測量隊が最適の場所を探している最中ではあるが、言わば本命とも言える第二陣を別途に構築する手筈であった。
主であるマルゴ卿は良い顔をしなかったが、長距離砲である“カアコーム砲”を友軍の目に触れることの無い最後方の第二陣に据えることだけはカアコームは頑として譲りはしなかった。
元来が『変人』として知られていることを差し引いても、カアコームが第一陣の砲台の造りを確認し、必要に応じて改善の指示を出しているその様は――マメではあるのだが――如何にも精彩を欠いていた。
「あー、嫌よや、嫌よや……」
主――より正確には後援者とでも言うべきか――であるマルゴ卿がホゥ卿の一党と共に公都に戻ってしまってもう10日にもなる。
実のところ、その不意の帰還をマルゴ卿が言い出した時にもカアコームは止める素振りすら見せはしなかった。浮遊城塞オーファスから飛び発った空飛ぶ脱出機を麻痺ガス弾により撃ち落としたのは紛れもなくカアコームの手柄である。だが墜落した脱出機の乗員を――カアコーム自身は高度的に即死してもおかしくないと踏んでいたのだが――横取りの形で確保したのがホゥ卿であり、その揉め事を抱え込んだままの揃っての帰還であった。
その際の“旗”の所有権がどうだなどという話は、カアコームにとっては一顧だに値しない類のものである。
兎にも角にも急遽留守役として砲台の陣地構築を任されたカアコームはこれ幸いとばかリ、預かったマルゴ洞の兵士や人足を浮世離れした言動で煙に巻きつつ、全てをダラダラと先延ばしにしているといった次第であった。
カアコームの怠慢の理由は、突き詰めれば至極単純な理由である。単に面倒だからなどという、『変人』としては有り得そうな理由では決して無い。
こんな地面の防壁に撃ち込む為に砲術の研究を重ねてきた訳ではない――何人を相手にしてもそう言い切れるまでの確かな自負がカアコームには有った。我が砲弾はこの世界を塞ぐ天の覆いに向けて撃ち込まれるべきものであると。
それをこの閉じた世界の救済だなどと胸を張って誇るまでにカアコームは己の所業が善きものだなどと自惚れてはいない。単なる趣味の延長でしかないからである。だが天の覆いを破るという志だけは違えたことはない。誰からも変人の戯言だと謗られようと。
儂が悪いのではない。儂のこの手が勝手に(チャージアックスを)