稀謳(4)
ホウの嘲けり混じりの宣告に、むしろざわめいたのは周囲の衛兵達の方であった。それも尻馬に乗って囃し立てる類のものではなく、気まずさや気後れといったものを感じさせるどよめきであった。傍らのマルゴ卿すら判然としない表情を浮かべているにも構わず、禿げ頭のホウは更なる挑発の言葉を私達に向けて言い放った。
「上手く大公の寵愛を得ることができれば、少しはマシな扱いをしてもらえるかもしれんぞ。裂けるまでの間だろうがな!」
(この男……!)
殺意の域にまで達したとは云え、私は『怒り』で動きはしない。そう母に躾けられたからである。
クォーバル大公の青髭めいた不穏な噂は私も聞き及んだことはあった。流石に浮遊城塞でナナムゥが率いている子供達が唄っているような場面には出くわしたことがないが、大公の所業を揶揄するわらべ歌が陰ながら存在することも知っていた。つい先日まで幼女であったナナムゥがホウによる品性下劣な煽りをどこまで理解できているのかは定かではないが、その肩が、背中が怒りの為かワナワナと小刻みに震えているのが私からも確かに見て取れた。
私の乗せられたトロッコのすぐ目の前まで転がされた以上、既に“糸電話”を用いる必要も無い。ナナムゥは気取られることを避けてか私に対して直に顔を向ける事はしなかったが、それでも小声で直接私に語りかけてきた。
「キャリバーよ、お主の使命を忘れるな。お主だけは絶対に逃げ延びよ。粒体装甲ならば、例え“奈落”に落とされようと無傷で済む筈じゃ」
「……」
ナナムゥの言葉は妄言や願望の類では一切ない。世界の中心である“黒い棺の丘”の更に中心点に到達することを目的に造られたこの石の躰であれば、“奈落”であろうと耐えるだけなら充二分に可能であろう。むしろ問題は“奈落”の奥底に私一人逃れたとしてその後のことであるが、それすらもすぐにナナムゥの口から提示された。
「じきに移動図書館の“守衛”とやらが迎えに来るそうじゃ。それまで大人しく身を潜めておればいい」
完全な断定ではないところを見るに、それはナナムゥではなくバロウルが――その手段や伝手を今は問うまい――算段したものであろう。それをナナムゥが惑い無く指示するということは、私が“眠り”に落ちていた間にこれからの段取りの密談がナナムゥとバロウルとで済んでいたということでもある。
だがそれが私を逃す為の単なる算段に留まらず、二人にとってはある種の覚悟をも強いたものであることを、私は否が応でも悟らざるを得なかった。
愉悦の内にあるホウ達が無駄な注意を引かぬように用心する必要もあり、私もあからさまに何かの意思表示をした訳ではない。にも関わらず、ナナムゥもまた私の心情を悟ったかのように始めて私の顏を見上げ、そして笑った。
「わしはちょっくらひと暴れしてくる。バロウルを見捨てる訳にもいかんしの」
それまでの半ば地に転がったままの体勢から、ナナムゥは如何にもヨロヨロといった体で片膝立ちまで身を起こした。遠巻きにしている衛兵達がそれでも短槍を構えるのに対し、後ろ手に嵌められた枷を窮屈そうに揺らして見せる。だがその『手も足も出ない』ポーズがナナムゥによる敢えてのものであり、既に枷による拘束を彼女が何とか克服しているであろうことを私は確信していた。
その時、不意にわたしの頭の中に一つのいいアイデアが浮かんだ。確かにピンチだけど、逆にわたし達三人揃って“奈落”に逃げ込んで助けを待つだけでいいんじゃないかと。墜落する“早馬”の衝撃からも私の粒体装甲の結界は全員を護り通してくれた実績がある。ならば例え“奈落”の底への高々度からの落下であろうとも、そしてその死地で何が待ち構えていようとも、身を護るだけならば粒体装甲で何とか凌ぐことが可能ではないのかと。
その時、まるで私の浅薄な考えを読んだようにチラとナナムゥが横目で私を見上げた。
「よいか、わしらに構わず一人で行くのじゃ。先に言っておくが、わしらでは“奈落”の環境に耐えられまいよ」
「!」
正直なところ、本当のことだろうかという疑念はある。特にナナムゥはコルテラーナに拾われるまでは黒い森でカカトと共に獣のように暮らしていたと自ら語っていた憶えもある。確かにバロウルには厳しい試練となるかもしれない。だがナナムゥと共にいるのならば――
そんな私の拙い願いを、しかしナナムゥは矢継ぎ早に断ち切ってみせた。
「それに、お主は大き過ぎるからわしらにとっても足手まといじゃ」
ニィと屈託の無い笑みをナナムゥは浮かべた。浮かべて見せた。私に対し。
『足手まとい』――それがナナムゥの本心ではないことに私は気付いていた。賢いナナムゥのことだ。私が彼女が本心ではないと気付いていたことにも気付いていたに違いあるまい。
「じゃからキャリバー、バロウルのことはわしに任せて逃げ延びよ」
繰り返し『任せよ』とは言うものの、果たしてナナムゥに何か具体的な打開策があるのかというと、私は甚だ疑問であった。それこそ彼女一人であるならば例え“旗”を奪われ“旗手”としての“力”を失っていたとしても何とかしてしまえるだろうという確信はある。生来のものである“糸”は依然として健在であるし、何よりもナナムゥ自身が敏捷い。それに加えて血肉と化して引き継いだカカトの知恵と知識もある。
だが、これまた2mの巨女であるバロウルを連れてとなると、それは非常に難事であろうことは改めて言うまでもない。
結局のところ、一番『効率の良い』策となると、私とナナムゥだけで単身地下の穴倉に――例えそれが“奈落”として怖れられる死地であろうとも――逃げ込むことであるのは誰の目にも明らかであった。
バロウルを独り、この断罪の場に残し。
「わしが合図をして飛び出すから、お主は後ろで陽動として暴れるふりをしつつ“奈落”に飛び込め。その騒ぎに乗じて、わしの方も何とかしてみせる」
妥当ではあるが最後だけは実に雑な流れを命じつつ、ナナムゥはもう一度私に重ねて念を押した。
「段取りはこれで終いじゃ、良いなキャリバー」
私はいつもの如く単眼の光でそれに応じた。『肯定』を示す“青”ではなく、『否定』の色である“赤”の灯によって。
妹を喪い、カカトを喪い、ナイ=トゥ=ナイは牙を剥き、そして遂にはコルテラーナまで喪った。喪ってしまった。誰一人この機体で護ることも叶わず。そして今またナナムゥとバロウルまでをも見捨てよと云う。
例えそれで試製六型機兵独り逃げ延びたとしても、どちらにせよ“黒い棺の丘”に対する探究は中止になるだろう。浮遊城塞オーファスが――コルテラーナもバロウルもいない以上おそらくは――二度と自由に空を飛べないということだけではない。今度こそ、間違いなく、私の心は折れるだろう。二度と立ち上がる気力を失うだろう。良くて所長の館の裏庭で墓守として朽ち果てる他なくなるだろう。
駄目だ
駄目に決まっている
……怖い
私が単眼に灯した『拒絶』の赤い光に対し、ナナムゥは驚愕に目を見開きはしたもののそれは一瞬のことであった。大きな碧の瞳を瞑り、フと一つ大きな溜息を吐いてからそして私の貌を見上げた。苦笑と共に。
「――ゆくか」
「ヴ」
そういうことになった。
後は機会を窺うだけである。私達のボソボソとした――そして生涯忘れぬであろう――秘かなやり取りを万策尽きた絶望故の嘆きとでも捉えたか、依然としてホウは勝ち誇った笑みでこちらを見下したままであった。
だが私達の待ち望んでいた好機は突然、意外な形でもたらされた。突如として私達の頭上――すなわちホー達がバロウルを引き据えて立つ上座の更に奥から、場違いなまでに甲高い声が前触れも無く響いたのである。
「デイガン宰相の使いの者です!」
何か拡声器のような物を介しているのか、その甲高い男の声がワンワンと地下空間にこだましていく。
「一体誰の許可を得て“奈落”への扉を開いたのか窺いに参りました!」
青年のものと思しきその妙に馬鹿丁寧な物言いに、平時であれば私もナナムゥも苦笑の一つでも浮かべたかもしれない。だが今重要なことは、その『宰相の使い』なる口上に加え、奥にあるのであろう出入り口の扉を殴打していると思しきくぐもった音に、周囲の衛兵達の意識が揃ってそちらに向いたということにあった。
“斬糸”――それがカカトより引き継いだ知識の産物であるということは後から聞いた話だが、ナナムゥの手枷が切断されてゴトリと落ちる。私の方はと云うと、まずは無計画に駆け出す前にバロウルの様子を再び遠視で探った。或いは上手くいけば二人の“貴族”の内のどちらかでも逆に人質として確保できるかもしれないという、拙い希望も無いではなかった。
そして、私は視た。拡大した視界で。バロウルがまた同じように私の方を見ていることを。そしてその貌に澄んだ――不自然なまでに澄み渡った満面の笑みが浮かんでいることを。
「……セイレーヌ」
バロウルの唇が動くのが視える。距離的にも、そして周囲の喧騒的にも彼女の声が私の耳に届くことは有り得ない筈であるのに、しかしその紋言は確かに私の脳裏に響いた。
「ザウハー……」
『デモノヴァ』――かつて私が“ティティルゥの遺児達”に半身を乗っ取られた時にバロウルが口にした私を停止させる為の定型紋言。それは私の意志とは無関係に私の機体を強制的に固定し活動を停止させる為に用意された単語であった。
だが今バロウルが新たに唱えた『セイレーヌ・ザウハー』なる紋言はそれを更に上回る強制力を持っていたことを私はその身をもって思い知った。
私の――憶測混じりの――理解によれば私の身体は動力素を用いた動力源を中心に、ナナムゥの編み出した“紐”が骨格と神経を兼ね備えた私の”芯“となり、それに文字通り『紐付ける』形で四肢や頭部を後付けで接続するブロック構造であった。それが試製六型機兵の四肢の交換が容易に可能である理由でもある。
そのブロックが――四肢や頭部、挙句に腰部に至るまでの全ての結合がバロウルの紋言と共にその力を失った。要は各部がバラバラに分解されたに等しい。
幾ら入り口の来訪者に皆の意識が向いていたとは云え、私の巨体がぐらつく様はあまりにも悪目立ちし過ぎた。只でさえ私達のいる“奈落”に張り出した“飛び込み台”には緩やかな傾斜があり、そのまま放っておいても私の各部のパーツは“奈落”へと転がり落ちる運命は変えようが無かった。
その“飛び込み台”の端を固定し何とか水平に留めていた鎖の留め具が外され、ジャラジャラと一気に伸びた。恐慌に陥った衛兵が独断で操作したのか、或いはホーによる咄嗟の合図があったのかは今となっては詮無いことではある。確かなことは“飛び込み台”が根元から折れたという一点だけであった。
だがせめてナナムゥだけでも、という私の淡い願いもすぐに打ち砕かれた。ナナムゥが私との意思伝達に使っていた“糸”は依然として私の身体のどこかに結ばれたままであったらしく、私の巨体そのものが“重し”となって、足下に口を開く“奈落”へとナナムゥを引き摺り落とす形となってしまっていた。
おかしなもので、普段は愚鈍な私であるがこの時の何故私に繋いだ“糸”を切らないのかという自問に対する自答がすぐに浮かんだ。
ナナムゥは無謀にも、私の身体がバラけないように自らを中心に“糸”を“網”として張り巡らしたのではないのかと。
私の耳に何かを突き破ったような大きな音が響く。おそらく宰相の使いを名乗る青年とその手勢が乗り込んで来た音であろう。そしてそれが私の耳に届いた最後の音であった。
虚しい抵抗としてかろうじて拡大した私の視界が最後に捉えたのはバロウルが顔の前で両の指を組んだ姿であった。
神無きこの閉じた世界で、しかしそれが祈りを捧げている姿であることを私は本能的に理解していた。私の世界でも見慣れた祈りのポーズであったこともあるだろう。
何に向けて祈っているのかは分からない。だが何を祈っているのかは悟った。確信できた。
私達の無事を祈っているのだと。
粒体装甲…せめて最後に粒体装甲を展開してナナムゥを護らねば……
遂に頭部が完全に“紐”から外れたのか、私の五感は全て等しく失われた。
そして私の意識すらも“闇”に包まれ失せていく。
この身が“奈落”に堕ちるに等しく……