稀謳(3)
ナナムゥとのやり取りは双方向でないとは云え、少なくとも孤軍奮闘を強いられる羽目とはならないことを私は知った。
そう安堵したことでようやく私は冷静に周囲の様子を観察することができるようになった。覚醒直後のどこか霞がかかったような乱れた視界も、この頃にはようやく回復の兆しを見せていた。
鎖に雁字搦めに縛られ“奈落”の縁にトロッコごと据えられた私ではあったが、再起動し身動ぎした際に周囲が僅かにどよめきはしたもののそのまま捨て置かれた理由もようやく判った。
衛兵がすぐにでも駆け付けない筈であった。私がいる淵の部分は“奈落”の口に対し飛び込み台のように張り出したものであり、傾斜が付けられていることもありそのままだと私の乗ったトロッコは“奈落”に自然と滑り落ちる造りとなっていた。それを防止する為に“飛び込み台”の両端には太い鎖が繋がれており、それが“奈落”へと直行する死の傾斜とならぬようあたかも跳ね橋のように引っ張り上げる形となっていた。
私が拘束を引き千切るような有事の際は、その“飛び込み台”を押さえる鎖を緩めることによって私の身体はたちどころに“奈落”へと落ちていくことになるのだろう。そういう仕掛けであると知るからこそ、巻き添えを恐れ誰も私には近付いて来ないという訳である。
だが、私の置かれた状況などこの際大した問題ではない。何よりも私の目を引いたのは、上座とでも呼ぶべき場所で醜く言い争っている二人の壮年の姿であった。
服飾の知識など心得すら無いが、それでも彼らが周囲の衛兵達とは一線を画した身なりの良さを誇っていることだけは分かった。俗な言い方をすれば両者揃って『使う側』の立場の人間であるということが。
そこまで思案した後に、コバル公国の支配者層がそれこそ“貴族”を称しているという話を遅まきながらに思い出す。
その口論を重ねている貴族と思しき一人は見事な禿げ頭であり、それに盛んに抗議しているもう片方の男の方は見るからに神経質そうな顔立ちをしていた。
だがその二人が私の気を引いたのはそこまでであった。既に私の意識はその二人の貴族ではなく、彼等の足元に引き据えられている褐色の巨女へと新たに向けられていた。
改めて言うまでも無くバロウルである。ナナムゥと同じく手枷を嵌められた状態ではあったが、それでも彼女の健在な姿を目視できたことで、私は自分でも驚く程に深い安堵を覚えていた。
元来が性格的に常に前向きなナナムゥと異なり、バロウルが非常に内向的であることが私にとっては非常に気掛かりであったのだと、この時始めて私は理解した。我が事ながら。
私自身が誰よりも内向的であったし、私と違い父に似て人好きのする妹も結局は内弁慶を抜けきれなかった。兄妹揃ってそうであるが故に、私にとってバロウルに対し知らず知らずの内に同族意識のようなものが芽生えていたのだとも思う。
無論そのような感傷的な理由の他にも、遺児達に寄生された影響で浮遊城塞を“早馬”で脱出した時ですらバロウルが体調を崩したままであったことが単純に気掛かりだったということもある。
兎も角、その安否を案じていたバロウルの姿が確かにそこにあった。ナナムゥと同じく私に対し半ば背を向け座り込んでいた体勢の為、伏せたその貌を窺うことは叶いはしなかったのではあるが。
何れにしても、距離はあった。上り坂であることを差し引いても単純に、一足飛びでは駆け付けることの叶わぬ絶妙な距離が。加えて私自身は放置されてはいても、ナナムゥとそしてその先のバロウルは捕囚であるが故に、多勢ではないとは云え衛兵達によって抑え込まれていた。
見事なまでの窮地である。
だが窮地であるが故に、視界と同じくどこか呆としていた己の意識が研ぎ澄まされていくのが自分でも分かる。呆けている場合ではない。少なくとも己が置かれたのっぴきならない状況が明らかになったことで、少しでも付け入る隙を窺おうと周囲に対し意識を集中させていく。
“醒めた”、というやつである。例え全てが手遅れで私の手には余る状況に見えようが、それでもこの世に“絶対”という言葉は無い。それが母が私に遺した言葉でもあった。
もし…もしもこの地下に居る衛兵が本当に数える程度の少数であったならば、或いは私は無謀にも先走ってナナムゥとバロウル目掛けて遮二無二突進していたかもしれない。この身を縛る鉄の鎖を引き千切り、それを鞭のようにブンブンと振り回しつつ。
だが、そんな漫画めいた劇的な行為が通じるような甘い話は無いことも私は誰よりも理解していた。衛兵が単純に一ヶ所にまとまっている訳ではないことに加え、何よりも私一人では『からっきし』だという残酷な事実を覆しようがないという現実があった。
好機が訪れるとしても一度きりであろう。なれば出来もしない妄想にのぼせ上がることなど許されはしない。今はナナムゥを信じて、機会を窺うしかない。
男として、情けない話ではある。だからこそ、今自分に出来る事を見定めねばならない。
私は再び単眼を先程から言い争っている上座の二人の男へと向けた。言うまでもなく望遠による観察である。人に非ざる機兵の貌であるが故に、目線を気取られ難いというのは長所である。
まず最初に、私は彼等自身よりもその足元に繋がれているバロウルの姿を確認した。私が“眠って”いる間に体調が少しでも回復したのか、或いは捕囚となったことでむしろ悪化したのかはその褐色の貌からは良く読み取ることはできない。だがバロウルの方もまた二人の男には一切の注意を払わず、チラチラと――彼女から見て足元の位置にあたる――私達へ沈んだ視線を向けていることだけは判った。
それが、その固い表情が、バロウルがある決意を胸中に秘めたが故のものであることに私は気付きはしなかった。気付いておかねばならなかった。
私が自らの意志で拡張できる五感は視覚だけであるのだが、それで不足はしなかった。どちらも必要以上に反目しているのか、一旦片方が口を開けば始まる罵り合いの声は地下空間内に幾重にもこだました。すり鉢状の窪みの底に居るに等しい私の耳にまで容易に届くまでに。
その口論の内容は、逆に耳を塞ぎたくなるような俗なものではあるのだが。
手柄の奪い合い――身も蓋もない言い方をすればそれだけのことであった。どうやら主導権を握っていると思しき禿げ頭こそが墜落した私達を捕え公都に護送して来た男であり、片やそれに食って掛かっている男の方は私達の“早馬”を撃ち落とした側の主であることはすぐに知れた。要は実際に私達を撃墜したにも関わらず禿げ頭に手柄を横から掻っ攫われたと激昂しているのだということは、私の頭を邪推で悩ますことなくスッと胸の内に納まった。
もし私の理解に誤りがなければ、あの時我々に麻痺ガスの砲弾を撃ち込んできたのはその神経質そうな男の率いる軍勢によるものだということにもなる。だが自分でも驚く程に、私の胸の内でその男に対する怒りや憎しみの念は湧いては来なかった。
『他者を赦しなさい』――それもまた母が私に遺した教えの一つである。それを忠実に守った…などという殊勝な想い故ではない。その醜く喚き散らす痴態を前に、脱帽するしかないまでに的確に私達を無力化し撃墜したその手腕にどうしても結び付かなかったからである。要は“仕掛け人”が別にいることを、私は否が応でも実感せざるを得なかったという状態であった。
今更誰が私達を撃墜したのかを問うのは詮無いことではある。それよりも今は何か少しでも勝算を見出すとすれば、彼等の不仲に付け込むしか術は無い。
例えるならば『ブレーカーが落ちた』状態で停止した私が自力で再起動するまでに要する時間は、予め設定されていると考えるのが妥当であろう。だからこそナナムゥは事前に私の身体に“糸”を接続し、すぐにでも自分の指示を伝えられるように備えていたとしか考えられない。或いはこの地下最深部に連行されるにあたり、ナナムゥは私が目覚めるまでの時間稼ぎすら行っていたとしても不思議ではない。
そこまでの算段を済ませていた為であろうか、ここにきてようやくナナムゥは上座の険悪な雰囲気のままの二人の男に始めて大きな抗議の声を上げた。
「“旗”を差し出した以上、もうわしらに用はあるまい!」
(――“旗”を差し出した!?)
一瞬ギョッとした私ではあったが、そもそもその“旗”を釣り餌として陽動をかけたのだからそうなるのも覚悟の上だったのかと思い直す。そして、幾ら手柄争いとは云え上座の二人が何故あそこまで醜く揉めているのかという疑問にもようやく納得がいった。
どちらかが“旗手”となれる――それに伴う重責を考えると正直に言って私には理解出来ない争いではあるのだが、そのような栄達に強い拘りを持つ人間が当たり前のように存在することも理解はしているつもりであった。
「それが何で底無しの穴まで連れて来られたんじゃ、ホーよ!」
そこまで一気にまくし立てたところで、ナナムゥの声は一旦途切れた。息切れした為か、或いは傍に控えていた衛兵達に押さえ付けられでもしたのか。
ただその口振りからナナムゥも“奈落”の存在を知っていることは分かった。事によるとこの最深部に連れて来られる前に“奈落”に絡めて何か脅された可能性もある。
「……“旗”?」
それまでの罵り合いをピタリと止め、ナナムゥにホーと呼ばれた禿げ頭が大仰に頭を振る。呆れたことにもう片方の神経質そうな男の方もそれに同調して白々しくもこう吐き捨てた。
「何のことやら」
ニタニタという笑いを隠すことなく、ホウが顎を軽くしゃくる。それが合図であったのか、それまでナナムゥの傍らに付いていた衛兵がそのナナムゥを両側から抱え足早に歩きだす。そして私の入れられたトロッコの近くまで引き摺るように連行すると、ゴミの袋か何かのように雑な動作でナナムゥを突き転がした。
それでもまだトロッコの間近にまでは近寄って来なかったのは、私が万が一にでも暴れる可能性を危惧したこともあるのだろう。
いっその事同様にバロウルもトロッコまで連行してくれれば、これからナナムゥがどのような立ち回りをしようと追随し易いのではあるが、流石にそこまでは甘くなかった。バロウルだけは自分達の足元に留めつつ、禿げ頭のホーは背後に控えていた衛兵の一人から差し出された長物を無造作に私達の方に放った。
彼等のいる上座から私達のいるすり鉢の底までは具体的に15mはあるだろう。それが故にホウが投げたそれは私達の足元まで届くどころか、中間にも届かずに岩肌の上に安っぽい金属音を上げて転がっただけであった。
望遠した私の視界に映るそれは、確かに旗印ではあった。だがそれは造りこそ似てはいるものの――旗印であることには変わりがないので当たり前の話ではあるのだが――ナナムゥが名乗りと共に振っていた光の旗とはまったく異なる代物であった。
“早馬”の荷台から間近で見ていたから間違いは無い――などと改めて断言する事すら逆に憚られる完璧な偽物を前に、私は言うべき言葉すら失った。
「こんな偽物で誤魔化されたとなれば、互いにいい嗤い者となるところでしたな、マルゴ卿」
ホウよりいきなり同意を求められたもう片方の――マルゴ卿なる――男は一瞬不快気に目を見開きかけたが、かろうじてそれを抑えた。
(そういうことか……!)
私は2人の男の不自然な合意のその訳をようやく理解し、嫌悪感と共に歯噛みした。
これが茶番でなくて何だというのか。わざわざ衛兵達に対して“旗”を受け取ってはいないというアピールをしているのだと私は知った。同じく“旗”を巡って言い争っていたマルゴと呼ばれた男の方がそれに異を唱えなかったのも、これ以上“旗”のことが衛兵を通じてあちこちに喧伝されることを避けたからであるのだろう。
「……」
私の密かな期待に反し、トロッコのすぐ間近まで転がり落ちようやく半身を起こしたナナムゥは、それ以上は改めて口を開こうとはしなかった。それを屈服の証とでも見て取ったのか、ホウは大上段に構えたまま意外にもまず私に対して宣告を行った。“奈落”の淵に置かれたと知った時点で薄々と覚悟はしていた死の宣告を。
「そこの石人形は坑道送りにするつもりで持ち帰ったが、ただでさえでか過ぎる上に暴れられでもしたらたまらんからな。よって廃棄処分とする」
ホーがヤな笑いを浮かべながらわたしを指差しそんな勝手なことを言う。確かに炭鉱夫などは私には務まるまいというおかしな同意を心の片隅に覚えはしたものの。
「そしてナナムゥ。己が浮遊城塞の主であるなどと謀り、また偽物の旗をもって我らを欺いた罪は許し難い。よってハンガン・ホウの名においてお前も“奈落”送りの極刑とする」
気が付けばシンと静まり返った地底空間にホーの嬉々とした声だけが響き渡る。尤もらしい口上を述べてはいるものの、それが私達の口封じ目的であることは明らかであった。やはりナナムゥが最初に叫んだ通り、彼女の“旗”は既に奪われているのである。
それを敢えてホウは私達を衛兵達の目の前で公開処刑としようとしている。己が誂えた偽物の“旗”を手向けとして。
「バロウルはどうするつもりじゃ!」
それまで無言であったナナムゥが、ようやく刃のような鋭い声を上げる。
ナナムゥがここまで険しい顔をしているのを私は見たことが無い。後ろ手に枷を嵌められているとは云え、それを微塵も感じさせぬ剣幕に遠巻きの衛兵達も思わず手にした刺又を構え直した程であった。
「はっ、どうするかだと!?」
ホウの嘲りの声が地下に響く。
「そんなもの、大公の後宮送りよ!」