棄耀(20)
それまでどこか朧気にユラユラと揺れていたメブカの躰が、ガッハシュートの呼び掛けにピタリとその動きを止める。地面に広がっていた黒い染みは全てメブカの身体に再び吸い上げられ、既に一滴たりとも残ってはいなかった。
「……紛いモノか……」
それまで空虚であったメブカの瞳にドス黒い炎とでも呼ぶべき感情の色が宿る。ガッハシュートとメブカの視線が真正面からぶつかり合い、どちらも気圧されることなく拮抗した。
「俺が『紛いモノ』ならば――」
ガッハシュートは一歩も退くことなくメブカに対して啖呵を切った。
「貴様は墓所より這いずり出てきた過去の遺物だ!」
まるで彼の胸の内の焔の盛りを示すかのように、首に巻いた形見の青いマフラーがバサバサと風の中に揺れている。
黒衣のメブカと白銀甲のガッハシュート。同じ貌を持ちながらもその出で立ちは見事なまでに対照的であった。
“――焔蓄石!”
ガッハシュートの両腕の手甲から、魔晶弾倉の発動を告げる無機質な声が響く。それはまるでこれから始まる闘いの、幕開けとなる鬨の声のようでもあった。
「紛いモノの身でありながら、尚それでも我ら『亡者』に挑むか」
メブカを中心とした周囲の甲板のあちこちに、再び黒い小さな染みがボコリボコリと沸き立つ。それはメブカが人の似姿として立ち上がるのに溜めの時間を要したのとは異なり、すぐにそれぞれ固有の外観と化して常世への顕現を終えた。
あるモノは翼を備え、あるモノは四肢と牙を備えた小型の魔獣の姿へと。
これまで――例えば盟約を交わしたザーザートとの対話において――数少ないとは云え口を開いた時に常に纏わり付いていたどこか超然とした雰囲気は、今のメブカからは完全に消え失せていた。それは小粒とはいえ数多の使いを招集してみせた、不死たる『亡者の王』としての佇まいがそう見せたのかもしれない。
片やガッハシュートもまた同じように、己を取り巻く空間に幾つもの鬼火めいた握り拳大の塊を発生させていた。無論、先程魔晶弾倉により発動させた焔蓄石による、攻防一体の炎の浮き球である。
「同じ戦法か」
己の招来した“鬼火”の群れとメブカの招集した“魔獣”の群れとを見比べつつ、ガッハシュートが思わず苦笑いを浮かべる。
この時点で、ガッハシュートも既に『亡者』がその名の示す通り事実上の不死であることは知っていた。地の底の深くに蠢く“怨念”の集合体をどうにかしない限り、勝算などありはしないことを。
「お前が不死であるならば、俺もまた不滅だ」
半ば呟くようにガッハシュートの口から洩れた言葉は己を鼓舞する為の強がりか、或いは単なる言葉遊びを超えた真実が含まれているのか。それを疑問と思う者すらも、このキンと空気の張り詰めた場には他には居ない。
ただ同じ顔を持つ者が二人、まるで鏡越しであるかのように互いに動かずに相手を凝視して刻を費やす。やがて自ら先に動いたのは、己を軸に赤黒い“鬼火”を舞わせたガッハシュートの方であった。
「理想と現実、どちらが世界に相応しいか決着を付けよう!!」
不敵な笑みを浮かべ地を蹴ったガッハシュートであったが、秘かに胸中ではこう付け加えた。
(尤も、俺の分が悪い事に変わりはないがな……)
*
散発的とは云え激しい轟音が、私達のいる左の塔上部の隠し部屋にまで響く。先程上空で着弾前に爆発した砲弾とはまた違う、何かが物理的に壁に打ち付けられているような振動ではあった。おかしな話であるが、爆炎の一つも上がらない謎の振動であることが却って私達の不安を煽ったのも事実である。
結果論でしかないとは云え、この時にその轟音の発信源を確認しに出向いてさえいれば――ガッハシュートとメブカが闘っている事を確認できてさえいれば、或いはこの先に無駄な犠牲を出す事もない何か別の道が開けていたのだろうか。ガッハシュートに助成することで、メブカを退けこの世界の『真相』にいち早く触れることもできたのであろうか。
分からない。
わたしには分かるわけない。
少なくとも私達はその破壊音に急き立てられるかのように、額を突き合わせてナナムゥによる指示に耳を傾けていた。
「ルフェリオンじゃったか、改めてわしからも頼む。城塞を再び浮上させてはくれまいか」
真摯な面持ちで頭を下げるナナムゥに対し主であるファーラが安請け合いをする前に、その額を飾る当の宝珠が先んじて言葉を発する。それは依然としてナナムゥに対してではなくファーラに向けての問い掛けであった。
“本当によろしいのですね? 今ここで私の本体を招来しこの浮遊城塞を持ち上げる行為を成すことによって、私の本体は力を蓄える為に再び眠りに就かねばなりません”
ルフェリオンが懇切丁寧に説明しているのも、私達にではなくファーラに対してだけのものであるのだろう。初めて聞いたようにフンフンと頷いてみせるファーラの様子からもそれは如実に察せられた。
“私の本体が休眠状態に入るということは、今後何か不測の事態が発生しても貴女が亜空間に退避できないことを意味しています”
「ルフェリオン、難しい事は私には分からないけれど」――あれだけの説明をされておきながら、ファーラの第一声がまずはそれであった――「レンも言っていたわ。この世に“力”を持って生まれたからには、その力の使いどころが必ずあるんだって」
口調こそいつも通りのお気楽なものであったが、ファーラの黒い瞳には凛とした決意の色が宿っていた。
私もかつて幾度となく目にした色。それが妹と同じ瞳なのだと気付くと同時に、その瞳となった妹は決して自分の意見を曲げなかったことも私は合わせて思い出していた。
あの穏やかなに日々に、世界に、もう戻ることはできない……。
「それにね、いざとなって逃げる必要ももう無くなると私は思うの」
自分の額の上の宝珠に対し、寄り目でやや変顔となりながらもファーラは続けた。
「流石にそろそろガルも戻って来るでしょう」
“……”
溜息こそ聞こえはしなかったものの、ルフェリオンが呆れて言葉を失くしたことだけは傍から見ている私にも分かった。それを知ってか知らずかファーラはニッと笑って私達に向けて指でVサインを形取って見せた。そのハンドサインの意味するところが私の知る“大勝利”と同じかどうかは怪しいところではあるが、それでもニュアンス的にはそう変わりはしないのであろうことは何よりも『姫』のドヤ顔から知れた。
話が一段落するタイミングを待っていたのか、ファーラに代わり今度は所長が沈痛な面持ちでナナムゥに対して口を開く。
「ナナムゥ、貴女、本当に――」
「応よ」
ナナムゥはカラカラを笑って見せると、所長に最後までは言わせなかった。
「わしが残って囮となる」
それが先程我々の耳目を集めたナナムゥが最初に発した提案でもあった。
彼女に命じられるままに壁に空いた射出口に蓋をする形でその前に陣取った――とは云え、幅も高さも壁際の“蓋”としてはまったく足りてはいないが――私は、一歩引いた位置にいることもあり所長がナナムゥに対し激しく気を揉んでいることが見て取れた。おそらくはナナムゥが出会ったばかりの頃の五歳児程度の幼主の躰のままであったならば、所長は有無を言わさずに止めたのであろう。
「なーに」
所長の心痛は当然眼前のナナムゥにも十二分に伝わっている筈であった。だからこそであろうか、ナナムゥは部屋の中央の“早馬”を目線で指し示しながらも、殊更明るく笑って見せた。
「これに乗ってちょっと馬鹿どもを引っ掻き回してくるだけじゃ。バロウルも一緒じゃし、そうそう無茶はせんよ」
「……」
バロウルの名が出たことで所長の貌の陰りが一層濃くなったのも無理なからぬことである。
当初のナナムゥの予定では“早馬”に私だけを連れて囮役となる手筈であった。遺児達に寄生されかけ半死半生めいた今のバロウルではあるが、それが無くともナナムゥは彼女を同道させるつもりは始めからなかったのは明らかであった。
だが最初に私を連れて二人だけで“早馬”に乗って囮となる旨をナナムゥが皆に伝えた時に、それに真っ先に異を唱えたのはバロウル自身であった。
このままでは“早馬”は自動操縦で飛ぶことしかできない。そしてこの城塞内で“早馬”を自在に操縦できるのは最早自分しかいない――浮遊城塞の工廠の長であるバロウルにそう断言されては、この場に居る誰も反論できはしなかった。
厳密には、バロウルが残っていないとこの城塞が再浮上した際に誰が操縦するのだという、ナナムゥによる尤もな指摘も上がりはした。だがそれも浮上さえすればポルタ兄弟が手動で動かすことくらいはできると即座に反論されては、それ以上ナナムゥにも返す言葉は無かった。
ちょっと近場に遊びに行ってくる程度の気安いノリでナナムゥも振舞ってはいるものの、不発とは云え先程の砲撃も含めこうまで新手が次から次へと現れている以上、『囮』が決して楽観視できるような役目ではないことは誰もが――ナナムゥ自身も含めて――言外に痛烈に感じ取っていた。
万が一この窮地に助けが現れるとすれば、コルテラーナが言っていたように“早馬”を回収しに移動図書館が出現するくらいであろうか。だがそれも伝手となるコルテラーナ自身がメブカの凶刃に倒れた以上、当てにできるものではなかった。ましていざ現れたにしろ城塞の全住人を受け入れる義理など移動図書館側にある筈もない。
「そういう訳じゃ、所長」
ナナムゥの、未練を断ち切るかの如きスッパリとした物言いに私はいよいよ出立の刻が訪れたことを知った。
「あの『亡者』メブカがわしを狙っておるというならば、尚の事わしはここから離れた方が良いしな」
それが今生の別れの挨拶であるなどとは思いたくもない。どこか照れくさげに苦笑していたナナムゥであったが、不意にハッと顔を上げると、壁際に直立して控えていたままの私に突然鋭い声で命じた。
「キャリバー、粒体装甲じゃ!!」
「ヴ!?」
その意図は分からずとも私が彼女の言葉一つで躊躇せず粒体装甲を発動せしめたのは、それだけナナムゥの判断を深く信頼していた為である。
私の装甲の表面が赤く染まり――“力場”そのものはほぼ不可視ではあるが――粒体装甲が展開したことを周囲に指し示す。外部に対し背を向けたままではあったが、元来“黒き棺の丘”の中心を覆う“闇”の領域の“圧”から六型機兵の機体を護る為の防御膜である。私を中心に全周に展開する仕様であるが故に、背後の護りも完璧なものであった。
そういえば所長により『EXキャリバー』なる新たな名を拝命した憶えもあるが、当人である所長も含めてその呼び名が定着することは遂には無かった。
「――ヴッ!!」
私の背に直接何かがぶつかった訳ではない。石の肌であるが故に風圧を感じるようなことも無論ない。だがそれでも何か巨大な“圧”が私の背後を横一文字に飛び去った感覚は、悪寒と共に確かにあった。
ナナムゥの的確な指示が無ければ、粒体装甲を張る暇も無く私はその新たな襲撃者による直撃を喰らっていたことだろう。
「ようやく現れおったか……!」
ナナムゥが歯噛みするのと、私の脳裏の声なき声が警告を発したのはほぼ同時であった。
“――妖精機士ナイ=トゥ=ナイ”
「ナイトゥナイの愚か者めが……!」
すんでのところで粒体装甲に阻まれたそれは、妖精機士による一撃必殺の光の槍であったのだろうか。私の内の声なき声よりも更に早く、目視すらできない上空に居た妖精機士の出現をいち早くナナムゥが感知し得たのも、“旗手”同士が互いの存在を察知できるという特性故であったのだろう。
(旗手……!)
感情が稀薄となったこの身でありながら、思わず私は怖気づく。
ナナムゥがその存在を察知できたということは、逆にナイトゥナイがいまだに旗を奪われず旗手のままであるということを意味していた。その彼女が躊躇いも無く浮遊城塞に攻撃を仕掛けてきたということは、それが我々こそがカカトの仇だと滂沱した彼女の憎悪がそうさせるのか、或いは願わくば――おかしな言い方ではあるが――ザーザートによって洗脳され前後不覚と化している為なのか。
襲撃者の正体が元は己の直参であった者であることを知り一層沈痛な面持ちとなる『妖精皇』こと所長に対し、ナナムゥが慌ただしく尋ねる。
「所長、妖精機士を動けなくする例の符丁はまだ通じそうか?」
「せめて間近にいないと!」
「じゃろうな」
ナナムゥは訳知り顔に頷くと、目線を壁を隔てた上空へと向けた。その存在を察知できる程に、妖精機士がまだ近くに居ることを私達は知った。
「最初の奇襲が失敗した以上、そうそうここまで近寄って来るまいが……」
そこまでは想定内であったのだろうナナムゥは、再び所長へと目線を戻し再度尋ねた。
「妖精機士に遠方からこちらを攻撃する為の武装はあるのか?」
「無い」
記憶を辿る所長よりも早く断言したのは、既に操縦士として“早馬”の近くに控えていたバロウルであった。浮遊城塞が妖精皇国近辺に停泊した際に定期的に妖精機士の機体を整備していたというだけあって、その答えには淀みなかった。
だが、その後を更に引き継いだ所長の言葉は不穏そのものであった。
「けれど、今までナイが出てこなかったのは、万が一この浮遊城塞を取り逃した際の切り札だからだと考えるのが妥当です。ならば、この城塞攻略用の武装を新たに与えられた可能性も考慮しておかねばなりません」
「まぁ、そうじゃろうな」
所長の悲観的な予想に対し、むしろナナムゥは我が意を得たりとばかりにニヤリと笑った。
「となれば、やはりわしがまとめてあの馬鹿どもの囮にならねばなるまいよ」
あっと、所長が珍しくも声を出して狼狽する。垂れ目の瞳にしまったという悔恨の色がありありと浮かぶのが視えた。『囮』の有用性を理屈では分かってはいても、やはり所長はナナムゥとバロウルを犠牲としない方法を懸命に模索していたのだと改めて私は知った。
次回第七章完(の予定)