棄耀(17)
(こんな……)
あまりの衝撃に言葉を失った私の眼前で、その暗黒の刃が無造作に横に薙ぎ払われる。刺し貫いたコルテラーナの躰ごと。
(こんなことがっ……!)
ほぼ上下二つに分かたれたコルテラーナの躰が、皮肉にも先程彼女自らが開けた外部への射出口から外へと投げ捨てられた形となる。私にとって永劫にも思える責め苦は、実際にはほんの一瞬の出来事だったのだろう。コルテラーナの躰はそのまま落下し、すぐに私の視界の内より完全に消失した。
私は動かなかった。
私は動けなかった。
「紛いモノが……」
あたかもゴミのように無造作にコルテラーナの屍体を投げ捨てた侵入者が冷淡にそれだけを呟く。鞘に納めるのではなく“刃”そのものを空間に消失させた殺戮者が。
黒い外衣の上に浮かぶその青白い血の気の失せた貌に、私は紛れもなく見覚えがあった。
だが見覚えがあるからといって、それが今更何だというのか。息を呑んだ所長が信じられぬとばかりにその名を呼ばうその声は、私にとってどこか遠い別世界から流れ着いたものであるかのように、朧気でぼんやりとした音として届いた。
「ガッハシュート……!」
その端正な顔立ちを、今更私が見紛う筈も無い。だがそこに生じる拭いきれない違和感すらも、今の私にとっては何の意味も無いものに成り果ててしまっていた。
(また……)
元は壁面であり今はコルテラーナが投げ捨てられた射出口を私はただ茫然と眺めていた。そこに駆け寄る事すら出来なかった。目の前に仇であるガッハシュートが不動のままに立ち尽くしているにも関わらず、指一本動かす気力すら無くしてしまっていた。
(また私は何一つ役には立てなかった……)
カカトを喪い、今またコルテラーナをも喪った。しかも今度は彼女の間近に居たにも関わらず。
(こんな苦しい想いをするために――)
(こんな惨めな思いをするために――)
声を出せない私にとって、それは慟哭であった。
(石の躰に転生し、おめおめ生き永らえてきたというのか、私はっ!!)
無力な男に相応しい都合の良い嘆き節。心の奥底では、呆けている場合ではない事も理解はしていた。私だけならば兎も角、今この場にはまだ所長がいる。コルテラーナが何よりも優先してこの浮遊城塞から逃そうとした所長が。
何の企みを秘めているのかは分からねど、ガッハシュートは依然として私達を放置し虚ろな瞳で直立したままであった。本来ならばこの隙にせめて所長だけでも護る為に動くというのが、男として生まれてきた者の最低限の責務であるのだろう。
だが私は自分自身の無能さ無力さに呆れ果て、その最後に残された己の責務すら放棄してしまった。
「――コルテラーナにっ!」
突如として後方より湧き上がった怒声は、しかし今の私にとっては依然としてどこか遠い別の世界からのもののように聴こえた。その声が響いた直後にガッハシュートの外衣に何かが幾重にも巻き付いた様子が見えはしたものの、まるでTVの画面の向こう側の出来事のように絵空事としか視えはしなかった。
それが肉眼では視認の難しい細い“糸”であると私が薄ぼんやりと悟った時には、少女の無駄に大きな声が私達の今居る小部屋全体に再び響き渡った。
「何してくれとるんじゃ、お前はっ!!」
壁を蹴り上げ 猿のように上空に身を躍らせるナナムゥ。突き出した右腕から伸びた“柔糸”は完全にガッハシュートの躰を拘束した筈であった。しかし――
「なんじゃっ!?」
空中で急に体勢を崩したナナムゥが、しかし何とか器用に身を捻ると私達の間近に着地する。
ナナムゥの“糸”が手応えを失くしたその理由、それはガッハシュートの躰がいきなり消失したことにあった。
否、『消え失せた』ということが誤認である事はすぐに判った。床に溜まった塵芥にしか思えなかった黒い塊が、粘度の高い墨絵であるかのようにたちまちズザザと伸び上がり、再びガッハシュートの躰を形作る。
「待ちかねたぞ……」
ナナムゥの貌を見据え、再生したガッハシュートがようやくその重い口を開く。その言葉の意味することを―― 機兵や所長達主従を前にしてガッハシュートが完全に放置を決め込んでいたその理由を私はようやく知った。ナナムゥを待ち構えていたのだと。
私の心が恐怖に竦む。カカトに続き、コルテラーナに続き、ナナムゥまでをも喪う羽目になるのかと。
「キャリバー」
いつの間にやら私の真横まで滑るように歩み寄っていたナナムゥの呼び掛けにも、今の私は応える気力すら湧かなかった。
何故今更ながらガッハシュートがコルテラーナをその手に掛けたのかという根本的な疑念すら、私の脳裏から零れ落ちてしまっていた。仕方がないとわたしが私自身を慰める。成す術なく目の前でコルテラーナを殺されてしまった私にとって、今はもう全てが詮無き物に成り果て――
「キャリバー、しっかりいたせ!」
ナナムゥの叱咤は萎えた私の頬を叩く平手となって、私の呆けた魂魄を揺さぶった。短くも決意に満ちたその言葉が。まだ年端もいかぬというのに。
「ここでワシらが踏ん張らねば、城塞の皆に累が及ぶのじゃぞ!」
「ヴ……!」
ナナムゥの言う通りであった。城塞で受けたこれまでの数多の恩が、まざまざと私の脳裏に甦る。
私よりも遥かに年下の少女に真正面から諭された、それを恥だと見悶えする程の猶予すら私達には与えられていない。その厳然たる真実が、私の靄のかかった意識を常世へと引き戻す。
(やはり私は 愚か者だ……)
私が単眼に灯した青い光を見届けたナナムゥは、その口元を僅かに綻ばせたかに見えた。それは或いは罪の意識が見せた私の錯覚か、或いは自惚れであったのかもしれない。私から視線を外したナナムゥは改めてその碧の瞳で正面からガッハシュートを見据えると、次に私が想像だにしなかった言葉を口にした。
「お主は何者じゃ? 何故ガッハシュートと同じ顔をしておる?」
(――そうか!)
その立場上、顔と名を知るだけで直に対峙などする機会も無い筈の所長は兎も角、あれだけガッハシュートと頻繁に関わり合いを持つ羽目となった私はナナムゥの指摘よりも早くその可能性に気付いておかねばならなかった。
顔が同じだけの、まったくの別人。
それが血縁なのか、単に他人の空似か、或いはそれ以外の――恐らくは悍ましき――別の理由があるのか。今はその理由までは分からねど、別人だと云う前提で眼前の『ガッハシュート』の貌を改めて見直してみれば、私の胸を最初に過ぎった違和感の正体は自ずと明らかであった。
ガッハシュートには常に華があった。単にその整った貌だけではない。比喩でも何でもなく、まるで少女漫画の恋人役でもあるかのようにガッハシュートの一挙手一投足はキラキラと光り輝いていた。だが目の前に立つ『ガッハシュート』は真逆であった。黒い外衣の中に浮かぶ血の気の失せた青白い貌。それはガッハシュートの眩い輝きとはまったく相反する、鼻の無い私ですら死臭を嗅いだと錯覚する程の鬱々としたものであった。
「我が名はメブカ…“亡者”メブカ……」
淡々と、ガッハシュートと同じ貌をした男が初めてその名を名乗る。その瞳の焦点がどこに結ばれているのか、それすら判別できぬ程の虚ろな面持ちで。
その不気味さに思わずたじろぐ私達に対し、メブカがまるで念仏でも唱えるかのようにその先を続ける。
「等しくお前達に永遠の安らぎをもたらすモノだ」
「ぬかせ!」
普段のナナムゥであるならば、名乗りはしたとはいえメブカの素性が知れぬ以上、一旦はその場で踏み止まっていただろう。だがカカトの死に端を発する一連の謀略に対する彼女の怒りは、バロウルがティティルゥの遺児達に寄生されていたことで頂点に達していたとしか思えない。
まして、メブカなる者の口から『等しく永遠の安らぎをもたらす』――すなわち皆殺しの宣告が成されたのであるから尚更のことであった。
それでも今し方“糸”が無効化されたことを忘れ去るまでには、流石にナナムゥも我を忘れた訳ではない。彼女は素早く手の中に青い電楽器を顕現させると、それこそ目にも止まらぬ速さでメブカの胸元に走り込みその脇腹目掛けて釘バットめいて叩き付けたのである。
(――駄目だ!)
私がすぐにナナムゥの許に駆け出したのは、その殴打の瞬間を視界に遅延を掛けて見届けていた故である。
確かにナナムゥの“旗”でもある電楽器の一撃はメブカの胴を確実に捉えた。むしろ殴打のみならず、その脇腹を切り裂き腹部にまで達した。鈍器であるにも関わらず。
結果だけを言うのであれば、奇しくもメブカはコルテラーナと同じく胴体を大きく上下に切り裂かれた事となる。
だが――
「ナナムゥ!」
所長だけが警告の声を上げることができたのは、一歩引いた位置でナナムゥを見守っていたからに違いない。だがその時には、既に電楽器はメブカの腹部にがっちりと銜え込まれた後であった。
進行上に“早馬”が障害物のように鎮座していなければ、私はナナムゥの救援に間に合ったのだろうか。だが何れにせよそれすらも大勢に影響の無い些細な障害でしかなかったことを私は直ちに思い知らされた。突如として床から伸びた黒い触腕のような物体が私の脚に幾重にも掴み付いたのである。
「ヴ!?」
強引に振り払い、引き千切ることは――意外もそれ程難なく――可能であった。だが切れると同時に黒い粒と化して消散した触腕は、すぐに床から伸びた新たな別の触腕がその位置を取って代わり、切りが無いどころの話ではなかった。
その忌まわしき洗礼を受けたのは私だけではない。ハッと視線を彼方に転じた時には、既にナナムゥも同じように両脚を封じられた状態であった。所長だけはクロがとっさに両腕で抱え上げたおかげで直接は触腕に襲われてはいなかったが、その代償として肝心のクロの脚も又私達と同じように拘束され移動を封じられていた。
「その瞳の造り、お前がナナムゥだな」
特に“恐れ”の感情の薄い私ではあったが、動きを封じられたナナムゥの白目の少ない碧眼を正面から見下し鬱々と告げるメブカの声には、殊更に薄ら寒い印象を感じない訳にはいかなかった。
「約定により、お前をザーザートの許に連れて行く」
「おのれっ!」
流石のナナムゥの貌が焦燥に歪む。メブカの背中にまるで黒い翼を広げたような大きく脈打つ“闇”の膜が顕現し、そのまま当のメブカの身体ごとナナムゥを包む込む為に閉じ始めた。まるで巨大な顎で頭からナナムゥを喰らうかの如くに。
「――ナナムゥ!」
突如として新たに背後から響いた声が聞き覚えのある少女の声であることはすぐに分かりはしたものの、その響きはそれまでの彼女のホワホワとしたイメージに反し凛としていた。
来てはならぬとナナムゥが咄嗟に叫び返したのも無理はない。声の主であるファーラに如何ほどのことができるのかと。ましてや不滅の“亡者”に対して。
私達に対したのと同じように、床から無尽蔵に生えた触腕がファーラを捕えようと四方から襲い掛かる。しかし彼女の額を飾る宝冠がその瞬間に青い閃光を放ち、その光に触れただけで殺到する触腕の群れが塵と化して消滅する。
宝冠の中央に填まった青い宝玉の発した光の効力はそれだけに留まらなかった。さして広くも無い小部屋であることが幸いしたのか、ファーラの額から発せられた閃光は、私やクロの脚部に巻き付き拘束していた触腕すらも同時に消失させていた。
そして、苦悶の声が響く。メブカの――ガッハシュートの声と等しい――上げた苦悶の声が。閃光はまた同時にナナムゥの下半身を押さえ付けていた触腕は無論のこと、メブカの表面をも激しく灼いていたのである。
間にある“早馬”が陰となっていなければ、そのままメブカの身体そのものを消滅させることができたのではないかと都合の良すぎる想定をさせてしまえる程に。
もし、メブカが私達――私自身は違うが――と同じ生身の人間であるならば、灼かれボロボロとなった外衣の奥に地肌なりが露出していなければならない筈であった。しかしメブカの躰は、灼け爛れるどころかあちこちが抉れ右腕などは肩から半分千切れかかっていたにも関わらず、素肌どころか傷口さえ定かではない“闇”と等しき黒一色としか視えなかった。
「ルフェリオン!」
私がメブカのその不気味な身体の造りを訝しむよりも早く、再びファーラの凛とした声が響いた。
“クセル・クセル・ラー=セルレオ”
ファーラに応じるかのようなその呪文の詠唱じみた声はどこから響いたものなのか、再び『姫』の額から眩しい光が奔る。先程の全方位に照射した閃光とは異なり、今度は収束された一筋の光線として。
それは狙い過たずメブカの貌を撃ち貫くと、悲鳴一つあげる間もなく“亡者”の頭部をそのまま四散させた。
グラリと、残ったメブカの半身が傾ぎ、そして一拍遅れてそのまま頭部と同じく四散する。血肉を伴わぬ、単なる黒い粒子と化したその最期はゴム風船の弾ける様を私に連想させた。
唯一僅かに残った足首の部位はそのまま床の上に黒染みとなって広がると、すぐに一滴残らず吸われ消え失せた。
「やったか…?」
予想外の展開にやや呆然と呟きながらも、ナナムゥが電楽器を固く握ったままファーラの方を振り返る。だがその言葉に即時に返答したのは、少女の声ではなく聴き慣れぬ男の声であった。
“やっていません”
キャリバーの心をバッキバキに折る為に私はこの物語を綴ってきたのかもしれない……
これでも初期構想時より全然甘めではありますが