棄耀(12)
建屋に入る寸前であったバロウルが足を止め、“妹”へと振り返る。
「大丈夫だ、嬢……」
そこまで言ってから、バロウルは一旦何かに思い至ったように言葉を切った。そして改めてまじまじとナナムゥの貌を見つめながら、やがて感慨深げに再び口を開いた。
「もう、“嬢”などと気安く呼ぶ訳にもいかないな」
これまで、死相ではないのかとこちらが危惧するまでに塞ぎこんでいたバロウルであったが、久方ぶりにようやく笑みを浮かべた。浮かべてくれた。
「ナナムゥ、ありがとう」
澄み渡った微笑みを残して、バロウルは独り制御室の奥へと消えた。
「ヴ……」
私は母の遺した『人前では笑っているように』というその言葉の真の意味を、今初めて理解できた。私はこれまでその教えを、他人に弱みを見せない事、男として産まれたからには例え虚勢であろうとも矜持として平静を装わねばならない事、そういう心構えを言っているのだと漠然と捉えていた。
だがそれは母の伝えたかった事の一面でしかなかった。人が笑うと周囲の人間の心はそれだけで安らぐのだと私は知った。バロウルの笑みを見て。誰かの心を痛めぬ為に、母は私に常に笑っているように告げたのだ。どんな時も男として――誰かを護る為に生まれた者の矜持として。おそらくは。
見送る私達の目の前で制御室の狭い出入り口を自動的に隔壁が覆い、バロウルの姿をその奥に隠す。せめて直前に暗視機能で制御室の内部がどのような構造となっているのか――巨大ロボの操縦席めいたものなのか、或いは宇宙海賊船めいた浪漫全開の操舵輪でも据えられてhいやしないかと――確かめれば良かったなどと馬鹿な考えに浸る間もなく、それを待っていたように私達の足元の地面が揺れた。
バロウルを収容した鐘つき堂めいた制御室自体が普段は甲板の下に隠された施設であった訳だが、それすらも建屋全体のあくまで先端部でしかなかった事を私は知った。
筍が一足飛びで竹になったとでも言えばいいのだろうか、力強い振動と共に単なる平屋だと思っていた制御室を頭頂に据えたまま、その土台が塔のように垂直に伸びた。
上昇の勢いとしてはそれ程ではないが、ビルで云うところの4、5階程度の高さまで中途半端に伸びたところで、“塔”はピタリとその動きを止めた。
私の背後で「ふぁー」というファーラの何とも気の抜けた感嘆の声が上がる。
「前から思っておったんじゃが……」
そのファーラの隣で、これまで幾度も浮遊城塞浮上に立ち会ったと思しきナナムゥが、塔頂を見上げながら誰ともなしに呟いた。
「この上に伸びる意味って無くないか?」
「様式美というものはそういうものなの」
しゃんと背筋を伸ばし同じく塔頂を見上げながら、所長が厳かな物言いでそれに応える。如何にも尤もらしく仰々しく。
「一見意味の無いことにこそ、人は意味を見出すものなのよ」
「嘘じゃろ……」
唖然と呟くナナムゥには悪いが、私も個人的には所長と同意見であった。例え然したる意味が無かろうとも『格好いいだろう?』を愉しむ精神は、言い換えればそれだけ物事に余裕を持って当たっているということでもある。おそらくは。
個人的な話を――真面目に――するならば、改めて全体を眺めてみれば一見基礎の部分が垂直に伸びただけに過ぎない“塔”が、確かに戦艦の“艦橋”にも見えてくるから思い入れというものは大切である。
そもそもが艦橋――敢えてそう呼ばせてもらうが――も、ただ単に上に伸びたという訳ではなかった。俗に言う“二階”より上の部分こそ磨き上げられた御影石のようなツルリとした窓の無い壁面で四方を覆われていたが、今私達の目の前にある“一階”に当たる部分だけは明確に造りが違っていた。
アーチ状の太い柱として上階を支えてはいるものの、一階の四方は完全な吹き抜けの空間であった。ちょうど今いる私達の人数を収容するのにちょうど良い、言うならば会社の小会議室程度の広さの空間と云えば把握しやすいだろうか。
実際、コルテラーナを先頭に皆が当たり前のようにその一階の空間に移動する。物珍し気にキョロキョロしていたのは初見である私とファーラくらいであっただろう。
驚いた事に、一階の中央部の床からは大の男が両手で扱うことを前提としたような太く長いレバーが三本も伸びていた。鈍い銅色の光沢を放つそのレバーは、まるでサスペンス物の時計塔内部の殺人装置のような独特な雰囲気を纏っていた。
そしてその三本のレバーの上方、すなわちこの一階の吹き抜け部分のちょうど中心に当たる空間に、人の頭程度の大きさの映像が私達の目の前にブンと浮かび上がった。
下半分が半球でありその上に建物群が乗っている構造体――すなわちこの浮遊城塞オーファスを模した立体映像であった。
ポカンとその城塞の立体映像を見つめるファーラと私を尻目に、おもむろにといった感じでポルタ兄弟が揃ってレバーの前に歩み出る。まさかそのまま勢いよくレバーを引く儀式でも始まるのかとつい身構えてしまった私であったが、両者は腕組みをしてその場に仁王立ちするに留まった。
『今日のような不調の時に備えて、彼等に手動操作も教えてきたのでしょう?』
先程バロウルに対してコルテラーナが告げたばかりの言葉が私の脳裏に甦る。ちょうど兄弟の眼前に浮かぶ形となった城塞の立体映像と合わせて推測するに、床のレバーで浮遊城塞の三軸をある程度操作できるのではないか。軽々しく城塞の天地が引っくり返るような淡白な連動はしていないであろうが。
バロウル自らが語っていた『次元を渡る船』にしては驚くべき古臭さであると同時に、凝った装飾も無い巨大な三本のレバーには有無を言わさぬ説得力とでもいうべきものがあったのも事実である。単純に見た目で分かりやすいが故に。
面白いものだと、私は改めてそう感嘆する。この世界で暮す者達は皆それぞれ異なる世界から墜ちてきた者達である。時間軸こそ隔たりがあるとは云え元は同じ世界の出だと推察される私と所長ですらも、その実知れたものではないと私は疑っていた。だが元はどうであれ、『人間』の考える事に大きな隔たりは無いと私は感じていた。
私自身は大集落と呼べるような場所は妖精皇国にしか実際に赴いたことはないが、『人間』の懸命な日々の暮らしに、そしてその喜びや苦しみや真摯さに違いなど無いのだということをこれまで幾度も実感させられてきた。
もっとも『人間』に違いが無いというのは私の勝手な思い込みで、互いに相争わせる為に“彼等”が近しい思考のモノだけを選別して集めた可能性も低くはないのであろうが。
何れにせよこの閉じた世界で懸命に生きる人々と、そしてそれを護ろうとしたカカトの生き様が尊いことに変わりはない。
想いを巡らす私の横ではファーラがナナムゥの袖を引き、艦橋の天辺に昇ってみたいとねだって却下されていた。
頭上、すなわち一階の天井部分は完全に塞がれており、この場所から一足飛びに塔頂のバロウルのいる制御室へという訳にはいかない。だが艦橋全体を支えるアーチ状の大柱の側面に二階の入り口に向かう簡素な階段が刻まれていることを実は私は観測済であった。
二階に侵入した先の艦橋内部に上層に向かうゴンドラのようなものが設置されているのか、或いは――よもやの――螺旋階段しか存在しない可能性も有り得るが、非常時に備えて何らかの上層に向かう手段が有るに違いないと思いたい。
と、それまでのっぺりとした灰色のシルエットでしかなかった中央の城塞の立体映像が僅かに輝きを帯びる。表面に着色の類が施された訳でもなく、あくまで城塞の外観が判別し易くなった程度の発光であったが、その僅かな輝きは“城塞の炉心に火が灯った”ことを私に予感させるには充分なものであった。
そして私の期待に応えるが如く、足元の地面が控えめにではあるが断続的に揺れる。おそらく歩いていれば気が付かない程度の微弱な振動である為に調度品が落ちて割れるような実害は無いのであろう。まして石の躰の私にとっては体感するには程遠い揺れではあったが、それでもまるでフェリーの船上で出航の瞬間に立ち会ったかのような何とも言えぬ独特の高揚感が私を包んだのは事実である。
後は湖の周辺で浮遊城塞を窺っている胡乱な集団を尻目に悠々と天へと浮上するだけである。カカトの“仇”を捨て置く形となることに私なりに思うところもないではないが、少なくとも私が口を挟める問題ではない事だけは心得ていた。
捨て置くと云えば、歩哨として湖の周囲に展開させていた三型機兵に関しては、数台ではあるのだがこの地にそのまま残していくことになる。完全に廃棄する訳ではなく周辺の林に家電で云うところの“待機状態”となって次の機動の機会が来るまで潜む形となる。それも別に今回止むに止まれぬ特例として回収を断念したという訳ではなく、浮遊城塞の停泊地では常のことだと私はナナムゥやポルタ兄弟に教えられていた。
その各地で“休眠”している三型機兵に“幽霊”から抽出した動力素を定期的に補充して回っているのが老先生の主な仕事の一つであり、老身でありながら知らぬ間にしばしば城塞を留守にすることが多いのも、その作業に赴いているからであるということも併せて。
(一旦は仕切り直しか……)
妖精皇国にまで退けば、バロウルの容態も少しは落ち着くだろう。彼女だけではなく私達全員が、カカトの死の衝撃を胸の内に収める時間も必要だろう。コルテラーナの言う通り私自身は“黒き棺の丘”突破に専念すべきではあるが、その上で何か私に出来る事もあるのかもしれない。
だからこそ、今は出航に専念しよう。近い内に必ず、またここに戻ってくることに間違いは無いのだから。
景気付けの為にも汽笛が欲しいところだなどと暢気で場違いな感想を抱いていた私の横で、しかしナナムゥだけが突然ハッと頭上を――天井で視線は遮られてはいたのだが――見上げた。
それが悪ふざけの類ではないことは、横に居たファーラがナナムゥの鬼気迫る貌に息を呑んだことからも明らかであった。
「――“旗手”じゃ!」
“旗”を持つ者同士は互いにその接近が判る――ナナムゥが一人緊迫した声を上げ得たのがその特性が理由であることは私も含めて皆が直ぐに思い至った。まして直上を見上げたともなれば、ナナムゥの言う“旗手”が天空よりこちらに向かっていることは誰の目にも明らかであった。
先日の夜、カカトの遺した“旗”を目印に妖精機士ナイ=トゥ=ナイが襲来したように。
「わしは開けた場所で迎え撃つ!」
ナナムゥは一切逡巡することなくそう宣言すると、艦橋から転がるように飛び出した。
「キャリバー、主もじゃ!」
間髪入れぬナナムゥの呼びかけに、むしろ戸惑ったのは私の方であった。確かにこの艦橋に留まったところで私に出来ることなど何もない。けれどもまた同様に、旗手同士の戦いの場に立ち会ったところで私は只の足手纏いにしかならないのではないのかと恐れた。
でもと、わたしはすぐに思い直す。たぶん、付いて行くだけで充分なんだと。誰かが傍に居てくれるだけで心強いんだと。わたしがいつもそうだったように。
だが、飛来して来るであろうナイトゥナイを艦橋から少しでも引き離すべく駆け出そうとしたナナムゥと私に対し、それを押し留める声が上がったのも直後であった。それもコルテラーナや老先生ではなく、意外にも所長の上げた声であった。
「お待ちなさい! ナイではない!」
「なんじゃ!?」
気勢を思い切り制されたこともあってか、ナナムゥの声が一オクターブほど跳ね上がる。
「妖精機士の機体の識別信号は全てクロが把握しています。接近して来るのがナイならば、クロにはそれが判る筈なのに、それがないのです!」
確かに先日の夜にナイトゥナイに襲撃された私達の許に所長とクロが先んじて駆け付ける事ができたのも、そのクロの警告があったからだと私も聞いていた。
――では、何が?
ハッと晴天を見上げたところで接近して来る影は見当たらない。確かに妖精機士であったならば、四脚の姿までは判別できずとも大きく光の翼が広がっている様を皆が揃って見落とすとも思えなかった。
「予定通リコノママ出航ダ」
やや浮足立った場を一喝したのは、それまで無言であった老先生であった。普段のカスレ声が嘘のようなピシャリとした物言いに、私達の視線が一斉にその猫背で小柄な体に注がれる。
「ななむぅ達モマダココカラ動イテハナラン」
ふんと鼻を鳴らしはしたものの、ナナムゥも老先生の指示に逆らうような真似はしなかった。
「じゃが、旗手が近付いておるのは間違いないぞ」
ある程度“旗”の方角を絞り込めれば私の遠視で視認できるかもしれない。私が何とかそれをナナムゥに伝えようとした矢先、頭上の空を一瞬さざ波のようなうねりが奔った。
それはドーム状に浮遊城塞の上半分、すなわち居住区を保護する“力場”であることを私も聞き及んでいた。その防御膜が防ぐ事が可能であるのは上空を飛ぶ際の気流や暴風雨の類であり、逆に云えばその守りがあるからこそ、城塞の住人が中庭で普段通りの生活を送りながらも天空を航行できるということでもあった。