棄耀(8)
「……」
私の固い石の肌では感じ取る事はもう叶わないが、屋上を柔らかい一陣の風が吹き抜け、バロウルの長い黒髪を撫でた。
いつもは工廠で作業を行う都合上黒髪を二つか三つの房にまとめたものを最終的に太い一本に編み上げているのだが――そこまでするなら潔く切ればいいのにとわたしは思わないでもないけれど――今日のバロウルはバンダナか何かで首の後ろで無造作に縛っただけに留めていた。同様にその服装もいつもの使い込まれたつなぎの作業服ではなく、病み上がりの為か厚手の何の飾りも無い簡素なワンピースを身に纏ったのみであった。
子供達の明るい嬌声を聴きながらも、その切れ長の瞳から憂いの色が消えはしていない。思えば今日だけに限ったことではなく、あのティティルゥの遺児達に一時的とは云え寄生されてから後、常に眼差しは昏く肉体的にも体調不良で苦しげではあった。
それでも改めて、私はバロウルのその横顔を美しいと素直に思う。コルテラーナの崇高さには到底及びはしないと云えども、彼女の生真面目さと勤勉さには私はとうの昔に一目置いていた。
「キャリバー……」
やがて、バロウルが思い詰めたかのようにポツリと重い口を開いたのは、それからしばらく後のことであった。
「お前は怖くないのか……?」
程良い高さの構造物の縁に腰を掛けたまま、バロウルは私の顔を見上げ、力無くそう呟いた。そして何に思い至ったのかすぐに私の単眼から目線を逸らすと、下を向いたままボソボソと自嘲気味にこう付け加えた。
「そうだった、お前は『怖くない』んだったな……」
「……」
バロウルの言うように、生身の人間だった頃に比べて自分から『恐怖心』が欠落していることは私もこれまでの経験から実感していた。それが機兵という新たな石の巨体に精神が引っ張られているからだろうと自分なりに納得もしていた。
バロウルのその呟きの真意までは分からぬものの、彼女の怯え方は尋常ではなかった。
心当たりが無いではない。終始意識を失っていた私に比べバロウルはカカトの最期を眼前で見届けてしまったのだ。己を襲う『死』というものに過敏になったとしても仕方のない事だと思う。
だが私の石の腕では、小刻みに震えているバロウルの手を握って慰めることすら躊躇われた。朴念仁――我ながら良く言うにも程があると思うが――である自分の柄ではないというのも無論ではあるが、それを抜きにしても身を震わせるバロウルの体は今は随分と小さく頼りなく視えた。2mはある巨女でありながらも、私が触れるだけで壊れてしまうのではないのかと錯覚する程に。
「……私は怖い……」
熱にうなされた戯言の様に、バロウルは再び同じ怖れを口にした。
「許されるなら…このまま浮遊城塞と一緒に、どこか遠くに飛び去ってしまいたい……」
「……」
「そうすれば、もうこれ以上…誰も犠牲にせずに済むのに……キャリバー、お前も……」
(駄目だな、私は……)
バロウルを見誤っていたことを、私はようやく知った。それまではただ漠然と、カカトの死の衝撃によりただ徒に己を取り巻く『死』の幻影に怯えているのだとばかり認識していた。
だが違った。そうではなかった。バロウルは決して己の死に怯えている訳ではなかった。彼女は何よりも浮遊城塞の仲間の死を怯えているのだ。責める気など毛頭ないが、それでも見事に見損なっていたのは事実である。
私は己の不明を恥じた。私が――本意ではないにせよ――活動を停止しカカトが息絶えても尚、バロウルは独り逃げることなく踏み止まってそれを迎え撃ったという事すら、聞かされていたというのに。
そして――いまだにその正体は判明していないが――何か不可思議な“力”によって城塞前に転移させられたことで窮地を脱したとは云え、依然としてカカトを殺したザーザートが健在であることをバロウルは誰よりも強く認識しているのだろう。この浮遊城塞オーファスに“死”をもたらす者として。
「キャリバー、私は浮遊城塞をこれ以上、戦乱に巻き込みたくはない……。ここは私にとって帰るべき大事な“家”であり“家族”だ……」
再び私の顔を見上げバロウルがポツリポツリと、やがて堰を切ったように語り出す。浮遊城塞の皆が自分にとって如何に大事な家族であるのかを。
おそらくは心身共に衰弱しきった今だからこその弱音であるのだろう。そうでなければバロウルの性格上、例え腹の中でどう思っていようとも終始沈黙を貫いている筈であった。少なくとも、特に虫が好かぬのであろう私の前では。
滔々とバロウルの語る浮遊城塞の記憶は、同時に彼女の身の上話でもあった。無論それは私にとって、始めて聞く昔語りである。
『制御用生体ユニット』――所長ならばそう呼ぶのだろうと、バロウルは始めて己の出自をそう語った。今でこそ『浮遊城塞オーファス』としてコルテラーナの居城となってはいるものの、元々はこの世界に堕ちてきた『次元を渡る城』であることと、バロウル自身はその次元航行を司る生体ユニットの、更にその予備であったことを。
その話を聞く限り、バロウルの“前任”である“正規の”生体ユニットと更にはそれを使役していた“城の主”とでも呼ぶべき存在がいなければならないが、バロウルはその事には遂に触れなかった。既にいないと考えるのが妥当であろう。
バロウルがナナムゥのことを実の妹の様に可愛がっていたのも、或いは『生体兵器』であるというナナムゥに深い親近感を抱いてのことだったのかもしれない。
何にせよ、この閉じた世界に引き摺り込まれた際に、休眠状態であったバロウルもまた他の“新参者”達と同じく、この世界の環境に適合するように肉体を造り替えられた。その副作用とでも呼ぶべきか、生体ユニットの言わば“枷”として本来は稀薄に設定されていた“感情”もまた、バロウルの中で確たるものとして目覚めた…という事らしい。
『らしい』と云うと如何にも頼りないが、同じく自我に乏しい妖精皇国の妖精族にも何かのきっかけで感情が芽生えた例には事欠かないと聞く以上、それはあり得る話ではある。
かなりの部分に推測による補足が必要であるとは云え、この世界に墜ちて来たことでバロウルは『人』としての感情を得た――或いは感情を自覚するよう変貌した――ということになる。
だが――
「感情など、持たなければよかった……『悲しみ』など知らなければよかった……!」
より一層昏い面持ちとなり、血を吐くように呟くバロウル。今にも再び頽れそうな彼女に備えてただ黙ってその傍らに立っていた私であったが、この時点でバロウルの容態が悪化し始めたのは明らかであった。
その証左という訳でもあるまいが、遂にフラリとバロウルの躰がふらつく。慌ててその身体を腕の中に抱きとめた私に、バロウルは尚も切れ切れの悲嘆を吐いた。
私の胸部に手の平と片頬を押し当て、縋るかのように。
「あの時、お前を助けるべきではなかった……」
「……」
「お前を助けたところで意味などなかった……」
その嘆きをバロウルの口から直接聞くのは初めてのことではない。故に私は今は敢えてそれを聞き流した。自分が機兵の躰に“転生”するまでの価値も無い男であることは、改めて指摘されるまもなく私自身が一番良く心得ていた。
「良かれと思ってやったつもりが…キャリバー、お前にとってはより惨い仕打ちになってしまった……!」
(バロウル……?)
生身であったならば、私は随分と怪訝な貌をしていたのだと思う。私の腕の中でバロウルがようやく顔を上げ、その黒い瞳が私の単眼を見つめる。私に向けるその瞳の中に常に浮かんでいた陰りの色が、何か後ろめたさに起因しているのであろうことを確信したのは、私にとっても間近のことではある。
「キャリバー、お前は――」
カシャという金属音が私達の足元に響いたのは、まさにその瞬間であった。
いつの間にそこに居たのか、平べったい円形の本体から短い四脚を展開した蟹やヤドカリを連想させる三型機兵が、私達の足元から赤い単眼でこちらを見上げていた。
ヒッと、腕の中でバロウルが息を呑む声が聴こえた。
その時には私も、自分達を監視している三型が足元の一台だけではなく、既に周囲を取り囲むようにあちこちの物陰からこちらに向けて単眼を光らせていることに気付いた。
そして――
「バロウルちゃん……?」
三型の群れを従えて、コルテラーナが私達の前にその姿を現す。いまだに老先生はザイフ村から帰還していないのか彼女一人であったが、そのコルテラーナにしては珍しく明らかに咎める目付きでバロウルを見つめていた。
「コルテラーナ……」
私の腕の中でバロウルがビクリと躰を震わせる。まるで小動物めいたその振舞いはこれまでの体調不良とは違う、明らかに畏怖によるものであることが見て取れた。
だがそれも束の間。すぐに全てを諦め切ったかのようにバロウルの顔が無表情に固まる。コルテラーナが現れた最初から最後まで、私の貌には一瞥もくれることなく。
(バロウル……)
腕の中のバロウルにどうして欲しかったのか、正直私にも分からない。
彼女頼って欲しかったのか、彼女に縋って欲しかったのか。或いは明らかに始めから頼りにされてはいなかったこと自体に私は傷付いてしまったのか。
自分が誰かに頼られる程に優れた人間ではないことは、誰よりも自分自身が心得ていた筈であるのに。
私が――凝りもせずに――心を悩ませている間にも、コルテラーナは私達の許に静かに歩み寄って来た。その背後の三型の群れが、まるで教祖に傅く従者の様にやや距離を置いてそれに続いた。
バロウルがコルテラーナの何に怯えているのかは定かではない。怯えること自体が不躾だとも思う。だがそれでも男として生まれて来たからには、せめて彼女をこのまま腕の中に庇うのが礼儀であろうと私は断じた。
母にそう躾けられたからではなく、私自身がそうせねばと思ったからである。
だがコルテラーナに隣に並び立たれた今、私には一つだけはっきりしている事実があった。見るからに情緒不安定なバロウルよりも、コルテラーナの言う事こそが真実であることに疑いは無い。でもわたしは――
「何故私の言うことを聞いておとなしく寝ていられないの?」
僅かに腰を屈めて私の腕の中のバロウルに語り掛けるコルテラーナの姿は、どこか子供を叱る母親の様でもあった。無言のままに俯くバロウルに対し、更に噛んで含めるように言い含める。
「『ザーザート』でしたか、カカトを殺した相手が健在である以上、私達は早急に此の地を離れなければ。その為にも、『操舵手』である貴女には静養を命じていた筈でしょう?」
「……」
依然として、バロウルは弁解も含めて一言も発しはしない。だが子供じみた拗ね方をしてみたところで理がコルテラーナにあることは私から見ても紛れも無い真実であった。
バロウルを腕に抱き半ば中腰状態であった私は、彼女を腕の中に収めたままゆっくりと立ち上がった。コルテラーナの言外の申し付けに則り、このまま階下のバロウルの自室まで彼女を抱き抱えて行こうとした訳である。
しかしそれは無用の気遣いであった。
「キャリバー、貴方はここに残りなさい。話しておかなければならないことがあります」
「――っ!?」
私へのコルテラーナの指示に対しバロウルの浮かべた焦燥の表情は、思わず私の方がたじろぐ程であった。大きく目を見開いたままバロウルはコルテラーナの顔を見、そして弾かれたように私の顔へと視線を移した。
「バロウルちゃん?」
奇行めいたバロウルの挙動に対し、コルテラーナがやんわりと窘める。そう言われても仕方のない態度だと私も確信する。
「……」
最後にもう一度未練がましく私に視線を巡らせた後、バロウルは一転して大人しく私の腕の中から地面に降り立った。何か物言いたげに戦慄くその唇から、彼女の言葉が漏れる事は遂に無かった。
理がコルテラーナにある以上、それは当然のことだ。
覚束ない足取りでふらふらと階下に繋がるゴンドラへと向かうバロウルの背後に、まるで介護士のように2台の三型が続く。
「――バロウルちゃん」
最後に念押しとばかりに、コルテラーナがバロウルの背中に向けて声を掛ける。
「明日の昼までにはここを飛び発ち、妖精皇国に向かう予定だから、それまでは大人しく部屋で体を休めておくように。お願いよ?」
「……はい」
か細いその一言だけを残し、バロウルは付き添いの三型と共にゴンドラに乗り込み操作盤に手を伸ばした。
その頬にツゥと一粒の涙が流れたことを、私の拡大した視界は見逃さなかった。
「ヴ……」
流石に憐みを催さぬ私ではなかったが、それで何が出来るという訳でもない。慰めの言葉を発する“口”すら無いのだから。何よりも私がバロウルに何か反応を返すよりも早く、先にコルテラーナの方が腕の動きで私を制した。この場を動かぬようにと。
珍しくも最後まで聞き分けが良くなかったなと、階下に消えるゴンドラを見送りながらも私は思う。コルテラーナに対して失礼極まりないとまで責めようとは思わない。悔し涙まで流すのならば。
(――本当に?)
それでもわたしはそう思わずにはいられない。バロウルが流した涙は、叱責された己に対する悔し涙などではない。不甲斐ない私の為に流した、アレはそういう涙だったのではないのか――そう、私の中の私が責める。
男として生を受け、それなのにただ徒に女性に涙を流させる、それは男として恥ずべきことではないのかと。
(――行かないと!)
バロウルの後を追うべくゴンドラに向かおうとした私を押し留めたのは、背にかけられた悔恨の呟きであった。
「……酷い『母親』だと思うでしょうね」