棄耀(4)
ナナムゥが『再構成』の事を事前に伝えていたのはコルテラーナに対するあの耳打ちだけであろう。にも関わらず所長がそれを承知しているということは、少なくとも部屋の隅の三型が記録していた映像が彼女の許に中継されており、ナナムゥが“繭”を張る時点からこの霊安室の様子を観察していたということになる。おそらくはコルテラーナも共に。
「いや」
ナナムゥは、カカトの意識が融合しているのかと云う所長の問いに対し、頭を振ってあっさりとそれを否定した。
「確かにわしはカカトの知恵と知識を受け継いだが、ただそれだけじゃ。カカトの意識は残っておらぬ。それが良い事なのか悪い事なのかは分からんがの」
そこまで説明をした後に、ナナムゥが幼女の頃と変わらぬニンマリとした笑みを浮かべる。
「だから、わしはわしのままじゃ」
「そう…ですか……」
ナナムゥの“着付け”を終えた所長はそのまま彼女の手を握ると、潤んだ瞳のまま感極まったように告げた。
「兎に角、貴女が無事に戻って来ただけでも良かった……」
「泣くでない、所長!」
自分を前に涙ぐむ所長に対し急に気恥ずかしさを覚えたのか、ナナムゥは照れ隠し気味に視線を脇に泳がせた。その白目の少ない大きな瞳が、自分の足元の電楽器の上で止まる。
「そうじゃ、カカトから受け継いだのがもう一つあったの」
ナナムゥは電楽器のネックの部分を掴んで持ち上げ、胸の中に抱えた。すっくと立ったその姿には、幼主の頃から変わらぬ叡智の光が宿っているように私には視えた。
「わしはカカトの願いを継いで、この世界の守り人となる。じゃからキャリバー」
ここで初めてナナムゥと私は真っ直ぐに視線を交わした。
「またわしを手伝ってくれるか?」
「ヴ!」
“肯定”の青い光を単眼に灯しながら、私は親が子供の成長を見届けたような――子供どころか恋人すらいない私がしたり顔で言うのは滑稽な事だと理解しているが――深い充足感に包まれていた。或いは中学生程度にまで急成長を遂げたナナムゥに、妹の面影を認めたのかもしれない。気性としてはあまり似てはいなくとも。
少なくとも今この時だけは、カカトを無下に死なせてしまった己の不甲斐なさを私は忘れる事ができた。
「うむ!」
元気よく頷いて返すナナムゥであったが、ふとその顔に憂いの色が浮かぶ。かつての幼主は天井の吹き抜けを通して夜空を見上げた。半月の光がその貌を白く照らす。
「ナイトゥナイもこのまま野放しのままにはしておけんな……」
「ヴ」
旗を抱えたまま、何処に飛び去ったのか、ナイトゥナイ。光の翼が尾を曳いていれば少なくとも方角くらいは知れたのであろうが、今は全てが夜の闇の中である。
一気に重苦しくなった空気を払拭するかのように、所長が半ば強引に話を振って来たのはその直後であった。
「ナナムゥが新たに旗手を継ぐのなら、カカトに倣って何か通り名を付けねばなりませんね」
一転してえっとばかりの狼狽顔を晒すナナムゥには構わずに、所長は顎に指を添えてしばし首を捻った。やがてさして間を置かず、一つの名前を口にする。
「――碧のナナムゥ」
力強い所長の詔に、しかしナナムゥは頭を抱えて呟いた。
「やっぱりそのまんまじゃ……」
*
同刻 商都ナーガス・カルコース邸――
広い、彼女達夫婦の為のトリプルベッドが設えてある寝室で、ヴァラムは独り夫であるモガミと姉であるティラムの帰りを待ち侘びていた。
あの――自分達姉妹にとっては“敵”である――所長が浮遊城塞オーファスのコルテラーナ達一行と共にこの世界の中心である“黒い棺の丘”に向かうにあたり、モガミが弟子であり麾下でもあるシノバイドの中でも特に腕利きのマグナとナプタの二人を護衛と諜報員として同道させたことも知っている。
そのナプタが先陣を切ってナーガスに単身帰還を遂げたのが今日の夕刻近くであった。
その時点で不測の事態が生じているのは明らかであった。本来ならば“黒い棺の丘”を撤収し所長の許を辞した後も、そのままザイフ村に身を潜め浮遊城塞が再び妖精皇国に向けて航行を開始するまでを見届けるのがモガミが両者に課した忍務であった為である。
シノバイドとして絶対であるその忍務を放棄してまでナプタが急ぎ持ち帰った悲報こそ、モガミの弟子でもあった六旗手カカトの横死の知らせであった。
『……不肖の弟子だ……』
急ぎ口頭で報告を終えたナプタに背を向け、吐き捨てるように呟くモガミであったが、やがてもう一言だけ付け加えた。
『相手の土俵で戦う奴があるか……』
モガミは決して多くを語らない。だがそれが紛れも無く哀悼であることを、同席していた姉妹もまた痛い程感じていた。
そこからのモガミの行動は迅速であった。直ちに招集をかけたシノバイドの幹部達と共にモガミとティラムが地下に籠って既に久しい。六旗手であるカカトの横死は確かに重大事ではあるが、それ以上にコバル公国を出立しここ商都ナーガスに向けて迫りつつある数百人規模の軍勢にどう対処するのかの協議であった。
とは云え、シノバイドはあくまでモガミ私設の秘密組織である。何よりも商都ナーガス自体が豪商達の合議による寄合である為に、表立ってコバル公国の軍勢に相対するなどという訳にもいかない。
モガミ達の密議の間にも、表の顔であるカルコース商会の長としての執務をこなす者が必要である。その為にヴァラム独りだけが留守番として残ったという状況であった。
それ自体は特に珍しい事ではない。地下の密議がいつもとは比較にならぬ程に長引いていることを差し引いても、これまでも彼女達夫婦にとっては常に等しい“役割分担”であった。
それにしても、である――
(事が事だけに長引くのも当たり前だけど……)
ベッドの端にチョコンと腰掛け、壁際の振り子時計により相応の時間が経過していることを確認したヴァラムは胸中で嘆息した。膝の上の置かれた拳が戦慄いているのが自分でも分かる。
『戦争』という言葉に不安を覚えぬ筈は無い。例え言伝でしか聴いた事がなくとも。寒々とした寝室の中でまるでこの世界に残されたのが自分一人だけであるかのように錯覚し、ヴァラムは身を震わせる。
それでもヴァラムが心押し潰されなかったのは、ひとえにモガミの存在があった。夫であるモガミに任せておけば全てが上手くいく筈だと、もはや崇拝にも似た想いでヴァラムは自分を鼓舞してみせた。モガミの顔を思い起こすただそれだけで、動悸が収まっていくのを感じる。
「……」
それでもヴァラムの顔が完全に晴れることはない。『戦争』に関する彼女の不安の根は、むしろ姉であるティラムにあった。
身も心も汚されたあの忌まわしき日以来、自分やモガミが傍に付いていないとティラムはまともに喋る事すら出来なくなってしまった。今でさえその後遺症に苦しんでいるというのに、『戦争』によって再びその忌まわしい記憶を鮮明に呼び覚ましてしまうのではないのかとヴァラムは恐れた。
ヴァラムがそれ程までにティラムの心傷を恐れているのには理由があった。夫婦三人が揃っている日常へのティラムの執着は尋常ではなかった。三人で一つのベッドに川の字で就寝するまではまだヴァラムにも抵抗は無い。だがそれが夫婦の睦事にまで及ぶとなると話は別であった。
見せつける事に、見せつけられる事にティラムは執着していた。獣のように。それは異常どころの話ではなかった。
ティラムの心の中の大事な部分が、あの日あの刻に砕けてしまったのだろうとヴァラムは胸中で慟哭する。ティラムに見られながらモガミに抱かれ、羞恥に身を焦がしながら。
一度苦言を呈してティラムが半狂乱になって以来、モガミも何も口出しはしない。だが夫が口をつぐんだという事は、共に耐え忍ぶことを選んだのだということをヴァラムも心得ていた。
(いつか…いつの日か……)
ティラムの奇行は仕方の無いことだと既にヴァラムも諦観していた。それでも長い時間を掛けて少しずつ心を癒していけば、いつかせめて再び人前で普通に喋れる日も来るのではないかと云う、ささやかな希望を捨て切れてもいなかった。
『戦争』がその儚い願いすらも打ち砕くのではないのかと、ヴァラムはそれを恐れたのである。
と――寝室のドアをノックする音でヴァラムは我に返った。独特のノックのリズムによりそれがモガミであることを確認すると――そこまで警戒する必要があるのだろうかと思わないでもないが――ヴァラムは扉に駆け寄り待ち侘びていた夫と姉の二人を室内に招き入れた。
長い地下の密議であったとは云え、修練によって心身共に鍛え上げられたモガミの顔色は普段と何も変わりはしない。だが彼の横に立つティラムの顔には疲労の色がありありと浮かんでいた。
慌てて姉をベッドの縁に座らせたヴァラムは、薬茶を煎じようと寝室の隅に設けられた簡素な台所に向かおうとした。
「ヴァラム、そのままでいいから聞いてくれ」
その背にそれまで黙っていたモガミが不意に声を掛ける。夫の言葉に反してヴァラムがその手を止め肩越しにモガミの顔を顧みたのは、抑揚のないその口調に何か嫌な予感がした為であった。
縋るような視線をまず姉の方へ向けたのはその為でもあるし、その姉の顔にも同じ秘めたる固い意志を感じ取ることが出来たのも同じ血を分けた双子の姉妹ならではのことであった。
加えて、少なくとも自分にとっては好ましい話ではないらしいことも。
「急な話で済まないが、明日にでも俺の代理として妖精皇国のミィアーの許へ向かってくれ。供するシノバイドも既に選出してある」
「ティラムも?」
我ながら開口一番に馬鹿な事を訊いたものだとヴァラムは思う。自分達双子はこれまで常に共にあった。まして、姉の心が欠け吃音が生じてからは公私に渡って尚一層のことである。
それでもわざわざそれを口に出して確認してしまったのは嫌な予感と、そして何よりも夫と姉が発する抗い難い“圧”を払拭する為であった。
だがティラムはゆっくりと頭を振るとベッドの縁から立ち上がり、諭すような口調でヴァラムへと告げた。
「貴女が一人で行くの。商会の方は、私が担当するから」
「……え?」
まったく予期していなかったと言えば嘘になる。それでも衝撃で頭に血が上るのが自分でも分かった。姉も夫も自分だけを爪弾きにするような人間ではないことはヴァラム自身が誰よりも知っている。そこに疑いは微塵も無い。
だがそれでも、それでもヴァラムは衝撃のあまり、言ってはならぬと頭の中では知りつつも気が付けば激情のままにその言葉を口にしていた。
「そんなこと出来る訳ないじゃない! 人前で真っ当に喋れもしないのに!」
暴言を吐き終えた瞬間にヴァラムは我に返り、ハッと己の口を両手で覆った。顔面からみるみるうちに血の気が引いて行くのが鏡も無しに自分でも分かる。
流石に窘めようと口を開き掛けたモガミをティラムは目配せで制した。ここまでヴァラムが取り乱すとまでは思っていなかったが、彼女だけを妖精皇国に逃す事は既にモガミと充分に話し合っての末であった。
そしてともすれば自分達姉妹の仲に気を使うあまりその決定を翻意しかねないモガミに代わり、妹を説得する役割もまたティラム自らが請け負った事であった。それはヴァラムに代わり自分だけでカルコース商会を率いていくという、ティラムにとって大きな決意のその最初の一歩でもあった。
「ヴァラム。もう貴女一人の身体じゃないでしょう?」
「――っ!」
ティラムの決定的な一言を前に、ヴァラムはただ首を垂れるしかなかった。
「ズルいよ……」
ヴァラムの頬を涙が伝う。
姉の愛されていることを今再び彼女は実感した。そして自分も又、同じく姉を愛しているのだという事を。妖精皇国に逃れよという姉の願いを、無下に出来ないことは始めから分かっていたのだ。
「私、酷いこと言っちゃったね……」
しゃくり上げる妹に、ティラムは歩み寄り優しく抱擁した。
「いいよ、分かってる……」
(俺はろくでなしだ……)
抱き合う姉妹を一歩離れて見守りながら、モガミは己自身の所業に対し胸中で罵った。
本音を言えば、無論ヴァラムだけでなく姉妹揃って妖精皇国に逃したいという気持ちに偽りはない。
しかし商都ナーガスの会合においてカルコース商会が徹底抗戦を主張する立場である以上、姉妹揃って商都を脱するなどというのは到底許されることではなかった。
(俺は地獄に堕ちるだろう)
所長の許を離れてから後、モガミは常にそう心得ていた。
そもそもモガミが商都での徹底抗戦に拘るのも、相対的に背後に位置する妖精皇国の妖精皇の――今は『所長』を名乗るかつて自分が仕えた皇女の盾となる為であった。
それに気付かぬティラムとヴァラムでもあるまいに、その事には一言も触れない。一言も責めない。商都もシノバイドも何もかもを犠牲とすることを辞さない自分に。
己が死んで詫びてもまだ足らぬ外道であることを、モガミは己が心の内に改めて刻んだ。
ヴァラムが数人の供を連れて妖精皇国へと秘かに旅立ったのは、その翌日の事であった。
本来はここまでが「第六章」の予定でした
本当に今更ですが、「転移転生」要素があるのであまり深く考えずに「ハイファンタジー」で登録していましたが、どちらかというと「伝奇アクション」の系譜だな、と