奇郷(5)
「のう、コルテラーナ。わらわにもそろそろちゃんとした子分が必要じゃと思わぬか?」
漢字が描かれた湯呑という有り得ない小物に困惑する私を余所に、ナナムゥが突如として口火を切った。
円卓に乗り上がらんばかりに前のめりとなったその様は、これまで話を切り出すタイミングを逃してしまい、ようやく勢いだけを頼りに声だけ上げてみました感が如実に現れていた。
チラリと私の貌を見上げるナナムゥの瞳は、まさに店先で母親に食玩をねだる幼児のそれであり、私は幼い頃の妹の姿をついつい彼女に重ねてしまっていた。
「駄目だ」
一言のもとに否定したのは、無論コルテラーナではなくバロウルである。
「コイツには、やって貰わなければならない大事な仕事がある。悪いがお嬢の――」
「わらわが助けたんじゃ!」
ナナムゥは雌ゴリラ相手に一歩も引かなかった。
「わらわが最後まで面倒をみるんじゃ!!」
「あのな、嬢――」
「頑張ったからご褒美!」
懐柔に走るバロウルの言葉を紅潮したナナムゥが大音声で遮る。
「ご褒美! ご褒美!!」
これがあの、夜空に鎮魂歌を捧げていた神秘的な幼女と同一人物なのであろうか。
崇高さすら感じさせたあの幼き歌い手が、今は単なる年相応な駄々っ子と化して、円卓をバシバシ叩きながら猛抗議している。
だが私はこの光景に見覚えがあった。
要は、甘えているのである。幼い頃の私の妹がそうだったように。
おそらくはこの三者の交わりも、このわがままを嘆息しながらも許容できる程には長く深いのであろう。それこそ、“家族”と形容しても差し支えの無い程に。
一通りの喧騒が出揃った頃に、まるでそれが役目といわんばかりにそれまで黙って推移を見守っていたコルテラーナが、硬直した場の仲裁に入る。
「それじゃあ特別に、試用期間も兼ねてナナムゥちゃんにしばらく預けてみましょうか」
「コルテラーナ!?」
予想外であったのだろう、見事なまでに狼狽するバロウル。その褐色の肌に一瞬、何か刺青のようなものが浮かんだのは気のせいか。
「しかしコイツは――」
「いいのよ」
スイと片手を掲げコルテラーナがバロウルを制する。
私の見立てでは、この三者の最終的な決定権はコルテラーナに有るようだった。さしずめ疑似家族の中での“母親”の役割なのだろう。
「ただし…」
パァと顔を輝かせるナナムゥに対し、“母親”は釘を刺すことも忘れない。
「バロウルちゃんと一緒にね」
「良いのか!?」
椅子の上から飛び上がらんばかりの勢いでナナムゥが歓喜の声を上げる。
「聞いたか、お主! 明日は早速幽霊狩りじゃ!!」
はしゃぐ子供を前に、誰が無碍にできるだろうか。何よりも愛嬌はあるがその分深慮に欠ける感じが、ますます私に幼い頃の妹を想起させた。
「ヴ!」
高所に位置する私の頷きの仕草はナナムゥからは見えないに違いない。だから私は唯一発する事のできる唸り声で快諾の意を示した。
満面の笑みを浮かべるナナムゥとコルテラーナを余所に、今の私には気がかりな事が二つあった。
一つはバロウルが私を雷光の様な死の熱視線で睨め付けてくることであり、それは私にこの後に訪れる凄惨な運命を予感させた。
そしてもう一つ――
(……幽霊狩り?)
極めてシンプルで、それ故に訳の分からない謎の言葉。
雌ゴリラに滅されることなく明日の朝を拝めたとしても、そこに何が待ち受けているのか私には皆目見当もつかなかった。
おそらくは、ナナムゥの歌による鎮魂の儀式か何かだろう。おそらくは。
そうであるに違いない。そうであって欲しい。
覚悟だけは、しておくけれども。
*
翌日――
「あっちじゃ! あっち!」
ナナムゥが大声を上げながら私の頭部側面をベチベチと叩く。痛覚どころか触覚も定かではない私は、何とかその音だけで左右の何れを指されているのか判断する他ない。
今の私の襟首にあたる部分には、握り手付きのナナムゥ用の座席が据えられている、らしい。
設置時にバロウルがしきりに嘆息していたところを思い返すに、急造の作業であったことは間違いない。背面なので私自らは直視できていないが、おそらくは公園に設置されている、動物を模した跨って遊ぶ遊具のような状態になっているに違いない。
派手に転ぶなよと、バロウルからご丁寧に釘まで刺されてしまった。
もっとも、お嬢ははしっこいのでそうそう大事には至らないだろうという、謎のお墨付きまで頂いたのだが。
「ヴ!」
私はナナムゥに返答すると、取り敢えず彼女の指し示しているであろう方角に駈け出してみる。
彼女の身が揺り動かぬよう、何よりも体勢を崩して後ろ側に転倒することのないように、その速度は遅々としたものにせざるを得なかった。
幸い、新たなナナムゥのベチベチが発生しないところを見ると、彼女の期待には沿えたらしい。
晴天の下、差し込む陽の光のおかげで今居る林の中が薄暗いということはない。だが、未だ標的を目視できていない私は、視界をキュイと望遠にしてみた。
(――あれか!)
木々の間をユラユラと蠢き逃げ惑う、白い靄の塊がそこには居た。
その数は2体。コケシの様な歪な人型が上半身を振り子のように左右に揺らしながら、滑るように移動していた。
標的を視認できさえすれば、バロウルに事前に指示された残る自分の役割は至極簡単なものである。
「ヴ」
私は右手に持ち運んでいた獲物を高々と掲げた。直径50cm程の吊るした金属の円盤を。
「今じゃ!」
はしゃぐナナムゥの――おそらくは適当な――合図に乗せて、左手に持ったバチで2度円盤を打ち鳴らす。
銅鑼以外の何物でもないといった独特な金属音が周囲に響き渡る。
ギャーギャーと、その轟音に驚いた鳥達が一斉に空に逃れ、白靄の塊は文字通りその場で漫画チックにビヨンと飛び上がった。
そのまま人の似姿を微妙に崩しながらも、ダバダバと逃げ惑う。
私の背中では、笑いのツボに入った幼児の様相そのままに、ナナムゥがケタケタと甲高い声を上げてはしゃいでいた。
幼い頃の妹の思い出を脳裏に浮かべつつ、私は心持ち速度を上げながら白霞の塊を追った。
途中の木々の下生えに紛れ、汎用三型の姿が垣間見える。無論、野良などということはなく、監視網を形成するために事前に設置したものである。
狩りでいうところの“猟犬”の役割を、私と三型達とで分担している形であった。
ピィーーー!
ピィーーー!
白い人型を追い込んでいる先から、笛の長い音色が二回響いた。
バロウルによる捕獲完了の合図である。
「急ぐぞ――ん?」
私を急かすナナムゥが突如として口をつぐんだ。
「ヴ?」
「のぅ、お主、そういえば名前はなんじゃ?」
「……」
不意の問い掛けに、私は返事に窮した。口が無いことに救われたようなものである。
名前――元の名前を未だに思い出すことはできなかったが、特に不自由もないので気にもしていなかった。
まして妹すら救えなかった無様な身の上である。名を名乗る事自体がおこがましいという思いも実はあった。
私は歩を緩めると、木々の間のケモノ道じみた開けた場所を選びながら、笛の音の方へと向かった。
ケモノ――魔獣、妖獣、そして恐るべき“合いの仔”。
コルテラーナに昨夜教えられたそれら忌まわしい脅威に、いつか遭遇することもあるのだろうか。
今ではない。少なくとも今は魔獣と出合い頭にかち合うことも、ましてや道に迷う恐れすら無い。
私の脳裏には周囲の簡易な地図と現在地、そして標的である幽霊の位置等々が、林に撒かれた観測用の三型によって一定の間隔で更新されていた。
あの最初に目覚めた夜に、逃走中の回廊で地図が表示されず途方に暮れた状況とは雲泥の差である。
声なき声による“応え”もそうだが、明らかに情報が存在してしかるべきであるのに、私には開示されないタイミングがあることに私は気付いていた。
いつか妹を探しに逐電――もとい、暇乞い――するまでには、その原因を突き止めねばならないだろう。
望ましくない仮定ならば、既に幾つかは想定はできているけれど。
“狩り”の拠点となる野営地に帰り着くまで、そう時間はかからなかった。
これまでの木々の木漏れ日の中の静寂と異なり、そこはちょっとした喧騒に包まれていた。
組み立て式の仮設小屋。周囲に巡らされた埋め込み式の柵。幾つかの大型機材と、それを積んできた水陸を駆ける2隻の上陸艇。
10体は下らないであろう三型が設営の準備と維持とで忙しなく動き回っており、それと対になるかのように柵の外で槍を掲げた3体の四型は微動だにすることはない。
「やったぞ!」
柵の外側で折りたたみ椅子に腰掛けていたバロウルの姿を認め、ナナムゥが勝ち誇った声を上げる。
林から出て来た私と腰掛けるバロウルのちょうど中間には、鳥を捉える霞網を思わせる大型の網が据えられていた。
そこに先程まで追い立てていた2体の白い霞の塊が、正に霞網に捕らわれた野鳥の様に網目に絡み取られ、ユルユルともがき蠢いているのが視えた。