棄耀(2)
「ヴ……?」
言葉の内容は兎も角その厳かな雰囲気を前に、私はただ黙ってナナムゥの挙動を見守る他はなかった。
床に横たえたカカトの遺体をまじまじと見下ろすナナムゥ。死化粧が施されているとは云え、それでもカカトの肌が異様なまでに白いのは全身の血のかなりの量が失われている為であることを、私はこれもまた後から知った。
幼主はそれから一旦はおもむろに自分の着衣の胸元に手を掛けたが、少し思案した後に手を止めて呟く。
「まぁ、支障はあるまい」
それが自分の――おそらくはカカトに対しても――脱衣の必要の有無を検討していたのだということに私が思い至るには少し時間を要した。
シュルシュルと、ナナムゥを中心にその身体から“糸”が生じる。己自身とカカトの遺体と、そしてその傍らを離れぬ“幽霊”までをも巻き込んで。普段は蜘蛛を連想させるナナムゥの“柔糸”であったが、今この瞬間の彼女の糸が形成しようとしているのは紛れも無く昆虫の繭のそれであった。
“糸”の射出される速さも密度も私の知るこれまでのナナムゥのソレよりも遥かに早く密であり、幼主の幼女としての身体がそこまでの負荷に耐え切れるものなのかと感嘆よりもむしろ不安を覚える程であった。
横たわったカカトの遺体は無論、ナナムゥの腰までもが“繭”にくるまれるまで大した時間は掛からなかった。何よりもカカトの身体からも“糸”が放出されているようにしか視えなかった。
(まさか――!?)
それを錯覚ではないかと視界を拡大しようとした矢先に、不意にナナムゥが私に囁きかけてきた。奔る“糸”の壁越しに、全てを見越したかのような微笑みを浮かべて。
「かつて所長がわらわ達の事を、『生体兵器』ではないのかと言っていたことがある。どうやらそれは正しかったようじゃ」
彼女のすぐ側に立つ形となった“幽霊”もまた、身動ぎ一つせずに“繭”にくるまれるがままであった。“幽霊狩り”の時はあれ程我々から逃げ惑っていたにも関わらず、まるでそれが運命だと心得ているかのように、揺らぎもせずにただじっと佇んでいた。
「今よりわらわはカカトを我が身に取り込む。どうも元よりそういう風に、わらわ達は造られているようじゃ」
「ヴ……」
僅かに苦笑するナナムゥの独白にも似た言葉を、私はただ黙って聴いている他なかった。不可思議な状況を前に呆然と立ち尽くす私に比べ、むしろ部屋の隅の三型達の方が事の推移を見届けるかのように平たい機体をヤドカリのように起こし単眼を灯らせる始末であった。
「じゃがのう、キャリバー。じゃが……」
ナナムゥの声の調子が、元通りの子供に帰ったことをわたしは聞き逃さなかった。
「お主じゃから言うが、本当はどうにも心細くての……」
“糸”による“繭”はますますその厚みと高さを加速度的に増し、既にナナムゥの首元にまで達していた。
「じゃからキャリバー、わらわが眠っている間、最後まで側におってはくれぬか?」
「ヴ!」
私は勢い込んで“肯定”を示す青い光を単眼に強く灯した。ナナムゥの貌が完全に“繭”に覆われる前に。
私の視界に最後に映る、ニンマリと笑うナナムゥの貌。それが共に居る事を誓った私に対する何よりの礼であり、私が視た幼主としての最後の微笑みとなった。
完成した楕円形の白い巨大な“繭”を前に、私は独り待ち続けた。何かが起こるという予感だけを胸に。
刻だけが静かに過ぎていった。
ナナムゥが“繭”に籠ってから、果たしてどれ程の時間が経ったのであろうか。後にして思うとそれこそ脳裏の声なき声に尋ねればよかった話ではあるが、私は“繭”の側に寄り添い、ただひたすらに待ち続けていた。
『再構成』――その言葉の意味するものは――一旦はこうして落ち着いて思惑を巡らせる時間を持てたこともあり――漠然とであるが察しが付いた。まして実際に“繭”を目の当たりにすれば尚更のことである。その意味することの不穏さも含めて。
幼虫が成虫へと変態を遂げるように、ナナムゥもまた何か“別のもの”へと変じてしまうのだろうか。少なくとも私の目の前の“繭”は依然として沈黙を保ち、SFやホラー物でありがちな表面が明滅したり激しく波打ったりといった変化は生じてはいなかった。
全てはナナムゥが“目覚めて”からのことであった。
それまでは完全なる静寂の内に側で待ち続ける他はない。それがナナムゥと交わした約束でもある。
この頃になると、私も自分達だけが残されたこの状況が気にはなり始めていた。別に隠し部屋という訳でもないので、誰かしらがこの霊安室を新たに訪れてもおかしくはないのだが、通り掛かる人の気配すら一切が無かった。事前にナナムゥが耳打ちしていたことを考えると、『再構成』に備えてコルテラーナが人払いの手配をしてくれたのだろう。
室内の香木が完全に燃え尽きた所を見るに、時刻がとうに夜を迎えた時分であることまでは――漠然とではあるが――判別できた。このまま永劫に静寂の中でナナムゥの“繭”を護り朽ちていくのではないかとまで錯覚する程であった。カカトの横死を始めとする全ての辛い出来事をこの胸に抱き、安寧の眠りに誘われるかの如く。
不意に私の脳内で声なき声がけたたましい警告を発するまでは。
“――五型機兵一機、上空より急接近中!”
(機兵!?)
“五型”に該当する機兵がどれであるのか、不意を突かれたこともあり私は咄嗟には思い出せなかった。全ての機兵が浮遊城塞の工廠製である以上、それは“味方”だと云う無意識の内の油断もあった。
わざわざ声なき声が警告を発するということは、機兵であるとは云え浮遊城塞の管轄外、更に言えばそこから消去法として妖精皇国所属の機体であるということにすら私は思い至らなかった。
次いで声なき声による機体の特定に、私は耳を疑うどころかむしろ安堵した程であった。
“――妖精皇国所属”妖精機士“ナイ=トゥ=ナイ!”
その脳裏の声なき声の言葉と共に、霊安室の屋根が突如として震えた。それがナイトゥナイの”妖精機士“が着地した衝撃であることは目視出来ずとも明らかであった。
これまで消息不明だった妖精の帰還である。急いで霊安室の外に飛び出し出迎える事を私が一瞬躊躇したのは、最後まで側に居て欲しいというナナムゥとの約束が脳内に甦った為でもあった。
何か嫌な予感がしたのも事実である。
私の内でせめぎ合う“礼儀”と“約束”。しかし私がそれ以上逡巡する必要はすぐに無くなった。
本来は吹き抜けである天井の穴を覆っていた防水布が大きく十文字に裂ける。それを成したのが“光”で形成された槍の穂先であるということに私が気付いた時には、焼き裂かれた防水布が天井から垂れ下がり、その切れ端の一部が室内に滑り落ちた。
吹き抜けの姿を取り戻した天井に、半月がその姿を露わとする。その月光の白銀の輝きを背に、吹き抜けの縁から私を見下ろす四脚の異形の姿が影を差した。
(”妖精機士“……!)
本来ならば消息不明だった者の無事が確認できたことを歓喜する場面である。にも関わらず私が思わず気圧されたじろいだのは、その背に広がる光の翼に何か禍々しい気配を感じ取ってしまったが故であった。
それが紛れもない“怒気”であることはすぐに判った。私を射竦めるように妖精機士の二つの眼が光る。
“どうして……!”
頭上から響く怨嗟に満ち満ちた声は、不気味な反響を伴っているとは云え紛れも無くナイトゥナイのものであった。
そして彼女が次に発する言葉も分かってはいた。
正直に告白するとコルテラーナ達による審問を受けるに際し、私は心のどこかで無闇に責められることはあるまいと高を括っていたように思う。皆の優しさを知るが故に。
姑息にも。卑怯にも。
それ故にナイトゥナイが私を咎める純粋たる叫びは、彼女の光の槍よりも尚鋭く私の胸を刺し貫いた。
“どうしてカカトを護らなかった! その為に先に行かせたのに!!”
もしこの時、ナイトゥナイが彼女の“旗”でもある光の槍の一撃を私に振るっていたならば、粒体装甲を展開することができない――そもそも四肢からして間に合わせの暫定品である――以上、背中にかばった“繭”ごと私は刺し貫かれていたことだろう。
だがナイトゥナイはそうせずに、吹き抜けの穴から私の眼前へと降り立った。その着地の衝撃は妖精機士の重量にしては控えめではあったが、それでも供物は揺れ、或る物は倒れた。
結局のところ、私はかばった筈の“繭”に助けられたことになる。ナイトゥナイの真の狙いが私ではなく背後の“繭”であることは、呪詛めいて繰り返される彼女の言葉からも既に明らかであった。
“返してもらう…私のカカトを……!”
(どういうつもりだ……?)
私の背後の“繭”に向けて掴みかからんばかりに腕を伸ばす動作から、ナイトゥナイの言う『返せ』という言葉が『生き返らせろ』といった類のものではなさそうだと気付いたが、それにより更なる疑念が高まった。
遺体そのものが有るならば兎も角、巨大な“繭”を前にしてそれをカカトと断ずるナイトゥナイ。その根拠に思い至るまでに私は多少の時間を要した。
(――“旗”か!?)
旗手同士は互いの旗の気配を感じ取ることが出来る――私にそう教えてくれたのはカカト本人であったか、或いは所長か。カカトの死の衝撃があまりに苛烈であったが為に失念していたが、彼の遺体の側に“旗”は――少なくとも電楽器の形としては――安置されてはいなかった。
もしザーザートとやらに“旗”が奪われていたとするならば、流石に先の審問の時にその事にまったく触れられないのは流石に不自然であった。
(であれば――)
“旗”は依然としてカカトと共にあり、ナイトゥナイは旗手としてその“旗”を目印として、真っ直ぐにここに辿り着いた事になる。すなわちこの場に“旗”が有るとして、それは今間違いなくカカトの遺体と共に“繭”の中であった。
それをナイトゥナイは奪取しようとしている。彼女が明らかに常軌を逸している以上、私が私独りの力だけで“繭”を護らねばならない。今度こそ。
とは云え、それが絶望的な戦いである事もまた確かであった。
(考えろ……!)
先程、光の槍をナイトゥナイが使わなかったことからも明らかなように、彼女もまた“繭”を直接傷付けることを恐れて大技は振るうまい。だが、それはこちらも同じ事。これまで幾度も私の窮地を救ってきた隠し技とも云える体内から伸びる“鞭”を、これまでのように勢いに任せて振り回すことなど出来はしない。
結果として、五型である妖精機士と六型である私とが正面からぶつかり合う形となる。それはかつて所長の御前試合として私とバロウルとで繰り広げた――茶番じみた――相撲の様相にも似ていた。
勝算が皆無と云う訳ではない。いくら妖精機士が妖精族による搭乗型の機兵であるとはいえ、それでもまだ私の方が一回り以上は体格で上回っている。元が小柄の私にとって、身体の大きさは絶対の差異であり優位であった。
だが、それでも、気迫の問題であったのだろうか。カカトを護れなかった私が今更ながらに抵抗することがナイトゥナイの逆鱗に触れたのだろうか。
「ヴ!」
がっぷり四つに組んだと思った瞬間、私の腕がたちまちの内に粉砕される。既に光の槍は――おそらくは弾みで“繭”を傷付けぬよう――柄のみとして収納され、武装の差がまったく無い状況にも関わらず。背後に“繭”を護ってさえいなければ、そのまま追撃を受けて本体もやられていたに違いない。
(それでも――!!)
ナナムゥを、ナナムゥだけでも今度こそは護らねばならない。それは半ば強迫観念にも近い私の悲願と化していた。文字通り我が身を石の壁と化し、倒れ込んででも妖精機士を抑え込む目論見であった。
例えそれで揉み合いによる千日手に陥ったところで勝機はこちらにある――この世に“絶対”という言葉はないがその筈であった。部屋の隅の三型がナナムゥが“繭”を形成する始めからこちらを観察していた以上、何処かに今の襲撃の情報が伝わっている可能性を私は信じた。
機兵の管轄が、今もまだ昏睡状態のバロウルであったとしても。
“カカトを護れなかったのに、私の邪魔だけはするのか!”
ナイトゥナイの呪詛の叫びが再び私の心を抉った。だが私がたじろぐ間すら待たずに、妖精機士の背に細い二対の光の翼が真っ直ぐに伸びた。
(――まずい!)
”妖精機士“の全容を私は知らぬ。だが脳裏の声なき声が即座に距離を取るよう警告を発するまでもなく、その光の翼が私を破壊する為の前振りとして展開していることは明らかであった。
そもそも六旗手とは“彼等”がこの閉じた世界で人々が相争う為に設けた文字通りの“旗頭”である。その気になれば私を粉砕することなど容易い筈であった。
これまでそうしなかったのはカカトであると誤認している“繭”を傷付けぬ為であったのだろう。だがナイトゥナイが錯乱の極みにある以上、私に対する怒りがその躊躇いを上回った可能性は充分にあった。
「――『ミルベキホドノコトハミツ』!」
考えろと私が己を――苦し紛れに――鼓舞するよりも尚早く、突如として凛とした女性の声が霊安室に響き渡った。