詭謀(23)
*
「さっき通ったのは何なんです!? 何で通しちゃったんです!?」
オズナが気弱な彼にしては珍しく必死に抗議の声を張り上げたのは、自分達しかいない筈の少年の“閉鎖空間”とやらを巨大な石の巨人がドタドタと駆け抜けて行った事にあった。
加えてその巨人が“助っ人”と化して、今まさにザーザートに対峙した映像を見せつけられたとなれば尚更である。
だがオズナの決死の抗議に対し、アルスはいつものようにただフンと鼻を鳴らしただけであった。
「“青の”カカトだったか? それでなくとも二対一で相対しているのだ。少しくらい俺が肩入れしたところで問題はあるまい」
キャリバーをカカトの居る座標まで導いてきた“導線”。それが僅かの間とは云え不意に喪失したのは、アルスの“閉鎖空間”に行く手を遮られた事が原因であった。それを一時的に“空間”内に招き入れ、そしてそのまま通過することを許したのもまたアルスであった。盲いているキャリバーは無論の事、その腕の中のバロウルですら少年に一声も掛ける暇も無いまでのあっという間の出来事である。
(助っ人か……)
オズナに対しては尤もらしい理由を口にはしたものの、アルスがそこまでカカトに肩入れしたのは懸命に駆ける“助っ人”に憐憫の情が湧いたから――などという詰まらぬ理由では決してない。
単にザーザートに対する嫌がらせを仕掛けたという、ただそれだけの理由であった。
(とは云え……)
己の周囲を歯車のように回る“不可視の枷”を見やりながら、アルスは胸中で些か捨て鉢気味に呟いた。
(一人二人増えたところでザーザートの勝利が揺るぎはしないがな……)
*
「――チェスッ!」
石巨人の肩を蹴って宙に舞ったカカトが、モガミ譲りの気合と共に片膝を着いた姿勢で着地する。その両手には、あらん限りに四方に放出された“柔糸”が束となって握られていた。
位置的にはザーザートとバロウルを真っ直ぐに結んだ線のちょうど中間辺りである。そして粒体装甲の変じた障壁に阻まれ宙に繋ぎ止められたままの――ザーザート曰く――“裁きの一撃”のちょうど真下の位置でもあった。
キャリバーの肩から跳躍した際に放った“柔糸”。それは十重二十重に“裁きの一撃”の平たい稲妻方の塊に巻き付いていた。それこそ蜘蛛の巣に飛び込んだ甲虫か何かのように。
一見するとカカトの“柔糸”が完全に“裁きの一撃”を抑え込んでいるかのようにも見えた。だが所詮はキャリバーによる――決死の――粒体装甲の変じた障壁に阻まれているだけで、どう足掻こうとも到底“柔糸”程度で止められる質量ではないと云うことは、“柔糸”の束を握ったカカト自身が誰よりも直感で理解していた。
ツゥと、冷や汗が一筋カカトの頬を流れる。キャリバーによる障壁も、そう長くは保つまい。
(俺らしくもない……)
フッとカカトは透明な笑みを浮かべた。その手の中に再び彼の“旗”である電楽器が輝きと共に顕現する。その閃光が収まると同時に、それまでカカトの両手に握られていた“柔糸”の束は彼の全身に繋がれていた。それは同時に五指による“柔糸”の細かい操作をカカトが放棄した事を意味していた。
ギャインという一際高らかな音が電楽器より鳴り響く。まるで対峙するザーザートに挨拶代わりに叩き付けるかのように。
実のところカカトは本物の弦楽器を演奏する事が出来ない。今も所長の持つ記録映像で見た『ライブ』なるものの動きを模倣し、あくまでそれらしい振付で電楽器の――これまた形ばかりの――弦に触れて音を出しているに過ぎない。
今日この日に至るまで弦楽器の師はいない。頼みの所長も『琴なら弾ける』としか言わない。いつかこの閉じた世界の障壁を破壊すると云う宿願を果たしたその時は、今度こそちゃんとした楽器の演奏方法を習うと云うのがカカトの秘めたる夢の一つであった。少なくともモガミならばその心得があることまでは、カカトも渋る所長から聞き出すまでは済んでいた。
そんな未来が夢物語などとはカカトは思わない。そんな日が本当に訪れるように常に矢面に立ち、願い、闘ってきた。
だがその挙句ナイ=トゥ=ナイを喪い、浮遊城塞オーファスを崩壊の危機に晒し、満身創痍のバロウルとキャリバーの助力を得て辛うじて立っている。立っていることが許されている。
己の身を捨ててでも次に繋げと云うモガミの教示。
恥を忍んででも次の機会を待てと云うガッハシュートの忠告。
「……俺にはそのどちらが正しいのか未だに分からない」
改めて電楽器の弦に長い指を這わせながらカカトは一人呟く。
「だが一つだけはっきりしていることがある!」
キッと見据えた視線の先に立つ『同朋』ザーザート。それは如何なる余裕の現れか、カカトが“旗”である電楽器を再びその手に握ったにも関わらず、身構えもしていない。
そのザーザートに向けて、カカトは高らかに啖呵を切った。
「――皆を生かす為に、俺は戦う!」
鳴り響く電楽器による電子楽曲。それはカカトが所長の『館』で聴いたライブの中でも特にお気に入りの一曲であった。
カカトも何も勢いだけでまったくの無策と云う訳ではない。敢えて仰々しく雄叫びを上げたのも、自分のそれらしい名乗りを呼び水として、その阻止の為にザーザートが動くのを期待しての事であった。もしも自分の展開した“柔糸”を断ちにザーザートが突貫でもしてきてくれたならば、その時こそは公都でデイガン達をまとめて失神に追いやった衝撃波を真正面から見舞うところまでは想定していた。
(ま、そこまで甘くはないか!)
非常に用心深いその証として、ザーザートはカカトの期待に反し一歩も動こうとはしなかった。あれほど頻繁に撒いていた暗器の一つすらも、カカトに対して投じられることはなかった。ただ、依然として己の足首に巻き付いたままの青いマフラーを手にした長杖の先で引き剥がすに留まった。
(流石に芝居が過ぎたか)
胸中で苦笑するカカト。自分の気持ちが昂ぶっているのが判る。彼の耳に制限時間間際であることを告げる悲鳴にも似た声が届いたのは、まさにその直後であった。
「――カカトッ!!」
息も絶え絶えのバロウルが何とか搾り出した決死の叫び。ザーザートがその場にいる以上あからさまに口にする訳にはいかないが、その叫びがキャリバーの粒体装甲が限界である事を告げる合図だということは明らかであった。
闘いの中にこの身を置く以上、いつかこの日が来るのは覚悟していた――カカトの貌から苦笑も微笑も、一切の笑みが消える。
息もつかせぬ派手な演奏に紛れ秘かに“力”を練り上げていたカカトが、最期にもう一度だけ天を仰いだ。否――頭上に浮かぶ“裁きの一撃”が彼の頭上を覆っている以上、カカトの白目の少ない碧い瞳が見上げていたのは更にずっと彼方にあったのかもしれない。
(この命を賭ける刻が来た……)
カカトの胸の内を懐かしくも色褪せない様々な思い出が絶え間なく過る。
捨てられたのだと云う、幼き頃よりモガミに抱いた恨みは既に無い。あの頃が一番楽しかったとさえ懐かしく思う。今となってはモガミと所長との間のわだかまりが無くなる事を祈る境地にすら達していた。
ガッハシュートに結局勝てなかったのは無念に思う。今の自分の技量ではその絶対の差を埋め切れない事を悟っていたからこそ、“必殺の技”である“斬糸”を試しに披露することすらしなかった。
幼い自分とナナムゥを黒い森から拾い上げてくれたコルテラーナ。所長の云う『生体兵器』である自分達を保護したその真意を――単なる巡り合わせか何らかの意図があったのか、それを問い質す機会は遂に無かった。
バロウルを始めとする浮遊城塞の面々には感謝の言葉しかない。彼等こそ自分にとって紛れも無く大事な家族だった。
自分の身勝手な理想に付き合わせてしまったナイ=トゥ=ナイ。商都で呑みに行くという彼女との最後の約束すらも自分は果たせそうにない。思い起こせばいつもそんな感じだったと今にして思う。もう詫びることも出来はしないが。
そして、『妹』であるナナムゥ。
今この刻になってようやくカカトは理解していた。自分が死を恐れない理由を。ザーザートが死を恐れないその理由を。
自分達の遺志が受け継がれるのだという、その意味を。
「後は任せた……」
後の事は任せろと大見えを切った自分の最期の言葉がこれだとは中々皮肉が効いていると、一瞬だけカカトは苦笑いを浮かべた。呟き自体は彼の最後の演奏に紛れ、誰の耳にも――カカトの望み通り――届きはしていないが。
粒体装甲による障壁に進路を阻止されていた“裁きの一撃”。その稲妻型の塊が発する軋んだ耳障りな騒音が不意に収まる。それは遂に限界を迎えた障壁が消失したことと、それまで抑え込まれていたが故に推力を充分に蓄積した“裁きの一撃”が、その稲妻形の外観そのままに浮遊城塞オーファスに突進するであろうことを意味していた。
だが“裁きの一撃”の雷霆の如き必殺の一撃は遂に発揮されることは無かった。
縒り合わされた事である程度の太さを保持していたカカトの“柔糸”は、そのおかげで半透明ながらも目視できるまでとなっていた。彼の身体を起点として、まるで毛細血管のように“裁きの一撃”を雁字搦めに拘束していたその“柔糸”の色が一斉に色づいた。
赤黒い、必殺の“斬糸”の色に。
カカトの全身の血という血を吸い上げた、浮遊城塞を救う為の最期の一撃として。
「――カカト!?」
必殺の“斬糸”の存在もそれに払わねばならぬ代償の事も何一つ知らされていないバロウルは、何が起こったのかまったく理解できなかった。
それまでカカトが電楽器で奏でていた音楽がブツリと止んだのは分かる。それが悪しき前兆であることも。次いでそれまで死んだ蛇のようにザーザートとカカトの間の地面に伸びていた青いマフラーが、まるで意思あるモノの如くカカトの側へと滑るように戻った所まではバロウルからは見えなかった。見る余裕も無かった。
自分達の天上で何かメキメキと軋む音があちらこちらから漏れ、響き出した為である。
(――何がっ!?)
バロウルにとって幸いだったのは、障壁の無くなったことで“裁きの一撃”が既に自分達の直上から移動していたことであった。
“裁きの一撃”の稲妻型の岩盤が裂ける。幾つもの大きな塊と、幾つもの断片に別れて。
それはカカトの血によって硬化された“斬糸”の“力”だけではなかった。電楽器による単なる景気づけの演奏と見せ掛けて、カカトは己の最期の想いと共に衝撃波を“斬糸”に乗せたのである。その二つの“力”の相乗効果によって成し得た奇跡であった。
あまりにも大きな代償も共に。
衝撃波による振動で“鋸引き”の形となった“斬糸”に加え、天を行く“裁きの一撃”の慣性そのものが、自らを割り絶つ“力”となって更に上乗せされる。
断ち斬られ、落石と化して次々と剥がれ落ちる黒い岩塊。それが純粋な岩石から構成された物体ではないことは、地に落ちその衝撃で大穴を穿ちながらも瞬く間にグズグズと表層が崩れ落ちる様からも明らかであった。変化はそれだけに留まらず、黒い固形としての形状を保つことすら出来ないのか、揃って氷が溶けるかの如く地に吸い込まれて行きさえもした。
「アレは……!?」
既に稲妻型からは程遠い形となった“裁きの一撃”の中心となる位置に、バロウルは激しく発光する物体を視た。流石にその細部の形状までを確認できるような距離ではないが、それが“裁きの一撃”の核であり、そしてカカトの物と同じく元の光の珠へと戻った“旗”であろうことはバロウルにも察しがついていた。
だが露呈した光の珠はすぐに、寸断された残りの塊に紛れたまま地に落下した。
核と思しき“旗”が剥落したからといって、“裁きの一撃”である黒い塊の全てが地に落下するという様な事はない。或いは“旗”の“力”は“裁きの一撃”を形成する為のものではなく、浮遊城塞に着弾した際の破砕の為の“力”として封入されたものであったのかもしれない。
(――勝機!)
今にも倒れ伏しそうな身をキャリバーの背中で支え、荒い息を吐きながらもバロウルは何とか己を奮い立たせた。
落下によって撒き上がる粉塵と、黒い塊自体の表面から発する蒸気めいた気泡の為に、ザーザートの“旗”が何処に落ちたかまでは近い場所にいるバロウルにとっても定かではない。しかし自分が今いる位置的にザーザートよりも早く“旗”を奪えるという事実に、バロウルはなけなしの一筋の光明を見出した。
(相手は六旗手の一人だ、備えろ!)
跳躍する間際に自分にそう耳打ちして残したカカト。その言葉に従い、バロウルは自分の“奥の手”をすぐにでも使えるように準備だけはしていた。
(六旗手……!)
不意にそれの意味する付加価値に思い至り、バロウルが興奮に瞳を見開く。
半死半生の自分が無理して動く必要すら無く、同じ六旗手として“旗”を感知できるカカトの方が“糸”を伸ばして回収できる分より確実だという事に思い至ったせいである。
「カカト!」
今度は自分が盾となる番である。千載一遇の機会を逃すまいと、ザーザートよりも早く“旗”を回収するよう告げようと、バロウルは弾かれるようにカカトの背中に目を向けた。
それでなくとも既にナイトゥナイを篩い落とした末での総力戦である。ようやく希望の糸が繋がったことで僅かに生気の甦ったバロウルの瞳は、しかし次の瞬間に大きく見開かれた。
「――!?」
電楽器の演奏が既に止んでいることを、バロウルはようやく知った。
自分とザーザートの中間の位置に立っていた筈のカカトの身体は、“糸”によって拘束していた“裁きの一撃”にそのまま引き摺られたのか、自分とキャリバーのすぐ目の前に立ち尽くしていた。電楽器を杖代わりに、依然として背中をこちらに向けたままに。
そして唖然とするバロウルを我に返すかの如く、バチリという大きな単音が周囲に鳴り響く。それを皮切りとして更にバチリバチリと絶え間なく。
それはカカトの“斬糸”が限界を迎え引き千切れる音であった。
あたかも舞台から降りる演奏者が、最後に奏でるアンコールの楽曲であったかのように。
「カカト……?」
察せなかった訳ではない。瘧にかかったように震えながら、バロウルがカカトの名を呼ぶ。
この時にようやく“裁きの一撃”を構成していた最後の一塊が地に落下したことなど、バロウルにとっては最早どうでもいいことであった。
「――」
ドウと、既に物言わぬカカトの身体が倒れる。前のめりに、ザーザートの方へ向かって。それまで彼の身体を支えていた電楽器はその形状を保てなくなったのか、倒れると同時に消え失せていた。
「そんな……」
ゆっくりと、徒なまでにゆっくりとバロウルは頭を振った。そうすることで時の流れが止まりでもするかのように。目の前で起こった残酷な結末に抗うかのように。
「――我が“裁きの一撃”を砕くとは、正直侮り過ぎていたようだ」
「――!?」
彼方より不意に自分に掛けられた言葉に、バロウルはいまだに虚ろな貌で声の主を見た。
こちらに向けてゆっくりと歩み寄って来る、六旗手が一人ザーザート――カカトを死に追いやった男。その瞳がカカトやナナムゥと同じく白目の少ない独特の形状であることに気付くまでの余裕はバロウルにはとうに無い。ましてこれまで無名の“旗手”として、その“旗”の出処がどこであるのか訝しむ事すらも。
紛れも無く今のバロウルは独りであった。しかも到底平時のものとは云えぬ衰弱しきった体で。普段ならばこのような場面で乱入してくるガッハシュートが到底間に合わぬ場所に居る事も彼女は知っていた。
半ば強引に休眠状態に落とした六型機兵を再び覚醒させる事も叶わぬ今、バロウルは案山子のように立ち尽くすその石の巨体の背に咄嗟に身を潜めるだけで精一杯であった。
六型機兵が既に稼働できない状態であることを知ってか知らずか、ザーザートがその歩みを止めることはなかった。身を隠すバロウルを一瞥こそしたものの、機兵の足元に倒れ伏したままピクリとも動かぬカカトに対し粛々と宣告した。
「だが、結末を変えるには至らなかったな。勝者の権利だ、約束通りお前の亡骸をいただこう」
「立て、カカト!」
咄嗟に叫んだ叱咤の言葉は、紛れも無くバロウルの本心であった。
ザーザートに対し『そうはさせない』と制止するでもなく、『嘘だ、死ぬ筈がない』と強がった訳でもない。カカトならばこの程度の窮地なら、何度でも乗り越えてきたのだという強い信頼があった。
「――!」
バロウルの必死の願いが通じたか、彼女の眼前で一つの影が立ち上がる。
カカト本人の身体ではなく、その傍らに侍る白い影が。
「そんな……!?」
バロウルの瞳がこれ以上ないまでに大きく見開かれる。見知ったモノの姿に。
屍の傍に立つモノ。無念を遺して命を落とした者の、その無念を訴えるが如く現世に現れ出でるモノ。
バロウルの願いを無残にも打ち砕き、伏したままピクリとも動かぬカカトの側に立つモノ。
“幽霊”――それはカカトが死んだことを如実に指し示す何よりの旗印であった。
(カカト……!)
信じたくはなかった。信じられる筈がなかった。悲しみで流す涙の存在さえもバロウルは忘れた。
闘いの中に進んでその身を置く以上、いつかその命を無駄に落とす時が来る――因果応報とも云える最期をカカトが迎える事態をガッハシュートは常に危ぶんでいたし、カカト本人もそう嘯いてはいた。
けれどもカカトはこれまで幾度となく、危機的状況を修練を重ねた身体と閃きに満ちた頭脳とで乗り切ってきた。故にバロウルを含め周囲の皆が、いつしかカカトの不屈さを過度に盲信してしまっていた。カカト独りの才覚で、全てが上手く回るのだろうと錯覚してしまっていた。
カカトが救ってきた者達がまた同様に彼を影ながら支えていたのだと、同じくこの場に独り取り残されたバロウルはようやく思い知られたのである。
それで死んでしまった者が、戻る訳でもないのに。
だが、悔いている暇すらバロウルには与えられはしない。愕然とする彼女を再び我に戻したのは、足音を隠そうともせずまるで精神的に嬲るかのようにユルユルとこちらに歩み寄るザーザートの不遜な気配であった。
「くっ……!」
亡骸をいただくというザーザートの発言の真意までは分からぬものの、死者に対するこれ以上の辱めなど許容できる筈もなかった。
「それ以上寄るな!」
巨人の背に隠れたままであったとは云え、バロウルの敵意剥き出しの声にもザーザートは怯んだ様子は無かった。それでも一旦は歩みを止めはしたのは勝者の余裕か、或いは追い詰められた敗者の狂態を見たいという悪趣味な嗜好に抗えなかった為か。
「それ以上近寄ればこの場で自爆する!」
バロウルの言葉に、始めてザーザートが訝し気な顔に変わる。とは云え狼狽した訳でもないその落ち着き払った態度を前に、バロウルは改めて強く言葉を重ねた。
「この機兵にはこの周囲をまとめて吹き飛ばせるだけの自爆装置を仕込んである。それ以上近付くのなら、お前諸共ここで死ぬ!」
バロウルの言葉に嘘はない。試製六型機兵には“黒い棺の丘”を覆う黒いドームの中心部で自爆させる目的で“自爆装置”が仕込んであった。それが嘘偽りない事実であるからこそ、生真面目であるが故に腹芸には向いていないバロウルをして無視できない真摯な恫喝の言葉となった。
「……」
その脅しを前に、ザーザートは依然として一声も発しはしない。だからと云って、こちらに迂闊に近付いてくる気配も無い。畳みかけるようにザーザートにこの場からの退去を命じようとしたバロウルであるが、気力のみで己を奮い立たせている息も絶え絶えの彼女に、ザーザートの左手にいつの間にか一本の小振りな棒が握られている事に気付けというのも酷な話であっただろう。
「――ならば、逆にお前はどうする?」
加虐の色を隠そうともせず、ザーザートが手にした棒を肩越しに背後に投じる。意志あるものの如く長い距離を飛んだ棒は真っ直ぐに地に突き立ち、その棒を中心としてたちまちの内に地を割って新たな黒い塊の先端が露出する。
見間違えようのない、稲妻型の先端が。
「我が“裁きの一撃”があの一投だけと思ったか? 浮遊城塞を壊滅させる術を持つ私を、その上で尚脅すつもりか?」
「そんな……!?」
衝撃のあまり、バロウルは秘かに手に握っていた己の“奥の手”を取り落としかけた。ザーザートの云う“裁きの一撃”――カカトがその生命を賭して破砕したその二撃目が、彼女の前に今再びその歪な姿を現したのである。それもほんの僅かの時を置いただけで。
同じ旗手であるカカトが耳打ちした通り、ザーザートもまた旗手であることをバロウルも既に疑ってはいない。それでも、ザーザートが“裁きの一撃”の次弾の核として背後に放った短い棍が、最初にザーザートが手にした長杖とは異なる二本目の“旗”であることを知る由も無い。
この閉じた世界に存在する六本の旗の内の二本を所持するザーザート。それは“旗手”としても頭一つ抜けた、決して看過できない存在ではあった。
だが、今のバロウルにとって果たさねばならない使命は唯一つ――その新たな“裁きの一撃”を決して浮遊城塞オーファスに向けさせてはならないということだけであった。
「さて、どうする? どう足掻いてみせる?」
バロウルに残された選択肢など事実上無きに等しい。あれば最初に使っていた筈である。それが分かっていながらも尚、ザーザートはその場で足を止めたまま厭味たらしく訊き直した。
“亡者”メブカが合流するのを待つ為の時間稼ぎと云う名目も無いではない。無いではないが、完全にザーザートの昏い性格が頭をもたげたに過ぎない。
(私は――)
バロウルは決意を固めると、胸中でキャリバーに詫びた。果たしてこれが幾度目の詫びであったのだろうか。あの日あの晩に墜ちて来た瀕死の二人に邂逅してから。
キャリバーの“魂魄”に再び火を灯すには、時間も動力素も何かもが足りない。機兵の技師としてかねてより想定だけはしていた裏技めいた運用法だけが、今の彼女にとってザーザートに抗し得るたった一つの可能性を秘めていた。
自分が身を隠しているキャリバーの背面には、先程までの障壁展開の操作の為に開放した小型ハッチがそのままの状態となっていた。腕と額に今にも消え入りそうな紋様の光を仄めかせながら、バロウルは右の手に隠し持っていた“奥の手”ごと腕をキャリバーのハッチの中に差し入れた。
たった一つの機構を作動させる為だけに。
その“奥の手”とも云うべき試製六型機兵の仕様を、バロウルはコルテラーナやカカトには報告してあった。カカトが彼女に『備えろ』と告げたのは、或いはそこまで考慮に入れて後事を託したのかもしれない。
電光石――もし六型機兵が正常な稼働状態であったならば、その魔晶の名を告げる機械音声がその脳裏に鳴り響いていた事だろう。今はただ無音のまま、地を割り完全に浮上した稲妻型の“裁きの一撃”と名だけは対を成すかのように、激しい雷霆の一撃が六型機兵の固まった腕から唐突に射出された。
「――がっ!?」
ここにきてザーザートが完全に虚を突かれたのは、遠目から見てもバロウルが息も絶え絶えであったことと、“裁きの一撃”を浮遊城塞に向けて突貫させる効果的な機会を――すなわち残されたバロウルにより深い絶望を与える絶好の機会を――窺っていたというのもある。
それに加え、これまでザーザートと相対して来た者達とは舌戦から始まるのが常であった。カカトにしろアルスにしろ、皮肉にもザーザートとの息は合っていたのである。
それ故にバロウルを言葉で脅し屈服させる流れを、ザーザートは様式美としてむしろ当然と誤認してしまっていた。まさか駆け引きも無しにいきなり自分目掛けて撃ってくるなどとは、完全に彼の想定外であった。
六型機兵に装備された魔晶弾倉。それがガッハシュートを介して伝えられた技術であることを知る者は、工廠どころかこの閉じた世界の中でもほんの一握りに過ぎない。具体的な運用に関しても、六型機兵に通常装填されているのは――本人にすら伏せられてはいるが“暴走”の危険を考慮して――殺傷力の無い信号弾の類のみである。
その代わりと云う訳ではないがコルテラーナに命じられ、バロウルは専属技師として有事の際に備えて殺傷力を有する魔晶を幾つか常備していた。
その魔晶を“奥の手”としてバロウルは六型機兵の背面予備の魔晶弾倉に装填し、そして躊躇せずにザーザート目掛けて撃ったのである。六型機兵の腕を砲塔に見立てた固定砲台として。
とは云え、元より変則的な運用であるし、そもそもバロウルに特に射撃の心得がある訳でもない。その為にある程度“幅”のある電光石を撃ち出した訳であるが、流石にザーザートに直撃する程甘くはない。
しかしそれでも強力な電光石である。その雷撃はザーザートの脇腹を掠め、ただそれだけで遺児達による守りを失くした剥き出しのザーザートの身を手酷く焼き焦がした。通常の人間ならば即死とはいかないまでも臓腑に受けた損傷は充分に致命傷に届くものであった。
通常の人間であったならば。
文字通り満身創痍の身で気力だけで動いたに等しいバロウルの耳に、ザーザートが上げた二人分の悲鳴を聴き取る余裕など既に無い。
「――ぬがぁぁぁっ!!」
ザーザートが憤怒と共に絶叫する。
ザーザートにとって自分とカカト、そのどちらが死して倒れようとも端から狙い通りである。『再構成の際の上位』が自分達であることをザーザートは既に知っていた。だからこそ、カカトの屍を己が物とせぬ内に討たれるなど、絶対にあってはならないことであった。
「おのれぇっ!」
殆ど反射的に、ザーザートは“裁きの一撃”を撃ち出そうと試みた。愚かな抵抗の代償として、今度こそ浮遊城塞を撃ち砕く為に。だが憎悪に満ち満ちたザーザートの瞳に、バロウルの絶望に歪む貌が写り込むことは遂に無かった。
パキンという、何者かが指を鳴らす音が周囲に轟く。ザーザートの呻き声よりも、上空に滞空した“裁きの一撃”の発する鳴動よりも尚高く鮮明に。
バロウルの姿も、その盾となっていた石の巨人も、何よりあれだけザーザートが執着していたカカトの亡骸も、そしてその脇に寄り添う“幽霊”すらも、全てがザーザートの眼前から掻き消えていた。
それだけではない。
「馬鹿なっ!?」
秘密裏に細心の注意と相応の時間を掛けてザーザートが湖面に停泊する浮遊城塞を取り囲むように周囲に張り巡らせた方術による“迷宮”。カカト達の想定外の帰還により未完成であったとは云え、外部の者を遮断し内部の者を分断するという主たる目的は存分に果たしていた。
その、浮遊城塞を接収しカカトを掌中にする為の策の根幹と言ってもよい強大な“迷宮”に致命的な亀裂が走ったことを、施術者であるザーザートはいち早く感じ取っていた。それも限定的な箇所の破損ではなく、その亀裂を起点として加速度的に方術陣が噛み砕かれる様を、まるで己が四肢をもぎ取られるかのような感触と共にである。
有り得べからざる事態であった。言葉を失くしたザーザートがその原因を特定できないままに、今しがたまでバロウルの居た場所にまるで入れ替わったかの如く、不意に一つの人影が姿を現す。
ザーザートにとっても既に因縁深い、真紅の少年の姿が。
「アルス……!」
*
何が起こったのか、バロウルにはまったく理解できなかった。
辛うじて把握できた事と云えば、周囲の光景が一変したことと、相対していた筈のザーザートの姿も直上の“裁きの一撃”も全てが皆消え失せたことであった。
「一体、何が……?」
今のバロウルには、それだけを呆然と呟くだけが精々である。
『自爆』するつもりであった。六型機兵と共に。撃ち出される直前の“裁きの一撃”ごと。
もしバロウルの心身が健常な状態であったならば、先刻まで直上に浮かんでいた“裁きの一撃”が、今は彼方の空に浮いている事にもすぐ気付けただろう。そしてその事実から自分達が後方――浮遊城塞オーファスの側に飛ばされたのだという結論を導き出せもしただろう。理屈や原因までは分からずとも。
だがバロウルの精神も身体も、とうに限界に達していた。後事を託された使命感だけが彼女を突き動かしていたのだと言ってもよい。
「――」
最後にカカトの遺体と傍らの“幽霊”、そしていまだ微動だにせぬキャリバーの巨体を見届けたところで、糸が切れたように彼女は気を失った。
“迷宮”を構成する方術陣が崩壊したことでようやく封じ込めを脱した改四型機兵の一団が、救援の為にこちらに疾走して来る音に気付く間もなく。
*
「ふっ」
突如としてザーザートの眼前に出現した少年が、再び指をパキリと鳴らす。
たちまちの内に沸き上がる、大気を揺るがす正体不明の鳴動。アルスの背後の空間に突如として紅蓮の炎が燃え上がり、奔流するその中心から平たい塊の先端が顔を覗かせる。ザーザートの“裁きの一撃”と寸分違わぬ稲妻型の形状をした、唯一その色だけが異なる真紅の炎塊が。
ザーザートが保持する“旗”は二本。世間に流布する噂の中ではクォーバル大公と“知恵者”ザラドがそれぞれ持つとされている二本である。アルスがオズナに対しザーザートの勝利を断言したのも、その隠匿された二本目の旗の存在を看過していた故である。
そのザーザートが持てる“旗”の“力”のほぼ全てを注ぎ込んでようやく形成することが出来た“裁きの一撃”と――少なくとも外観は――同等のものを、アルスは独力で顕現させたと云うことになる。
クイとアルスが指差すと同時に、その紅い塊が炎の爆ぜる音と共に突如として空を奔る。徐々に速度を増していくザーザートの“裁きの一撃”とは異なり、文字通り稲妻のような速さで。
一連の動作としては、澱み無い流れるような仕草である。ザーザートは――バロウルにより肉体に重大な損傷を受けたこともあり――詰問の声一つ上げる間すら無かった。
既に空間の歪んだ“迷宮”の一部と化して久しい為か、周囲に生き物の気配は微塵も感じられない。だがもしそれら鳥獣の類がこの近隣に存在していたとすれば、狂騒と共に逃げ惑っていたことであろう。
ザーザートの“裁きの一撃”とアルスが生成した“真紅の一撃”が真正面から衝突した瞬間、それ程までの轟音が周囲を揺り動かしたのである。
バロウルこそこの時点で既に失神していたものの、その衝撃波は遥か浮遊城塞の尖塔をも揺らした。
「こんなところか」
衝撃の真下に居ながらも眉一つ顰めることなく、アルスは面白くもなさそうに頭上に目を向けた。その呟きもまた周囲の喧騒に呑まれて消える。
依然として巨大な篝火の如く空中に燃え盛る、アルスによる巨大な紅い一撃。それはザーザートの“裁きの一撃”を真正面から粉砕するのではなく、表層から奔る炎の渦に呑み込み焼いていた。互いに等しい容積がみるみる削れていく様は、あたかも対消滅しているかのようであった。
だが実態としては“裁きの一撃”がアルスの生み出した炎に一方的に呑まれているに過ぎない。その証拠にカカトの“斬糸”によるものとは異なり、砕かれた“裁きの一撃”の土塊が直下のアルスに降り注ぐようなことはなかった。
その代わりと云う訳でもあるまいが、アルスの生成した炎の渦から分離した欠片が、そのまま赤い板状の結晶と化す。それはまるで霰のように途切れ途切れに地上に降り注ぎ、その内の幾つかは空中で消失することなく地に真っ直ぐ突き立った。
「何のっ――」
途中で噛むまでに憤怒に打ち震えるザーザート。そこには先程までバロウルに対し大上段に構えていた余裕など微塵も無かった。それまでの慇懃無礼な仮面の全てを金繰り捨ててザーザートは叫んだ。
「何の真似だ、貴様っ!!」
大きく見開かれたザーザートの灰色の瞳。それまで表情の無い“仮面”として彼の素顔を覆い隠していた遺児達による擬態も既に無い。すなわちアルスに対して始めてその素顔を晒したということになるが、激昂しているザーザート自身はそれに気付いてもいない。
ましてアルスにしても、所詮は定命の者であるザーザートの素顔などどうでもいいことであった。本来ならば。
「貴様こそ、たかが腹いせに浮遊城塞を破壊しようなどとどういうつもりだ」
少年の冷ややかな言葉と共に、 “裁きの一撃”が彼等の頭上で完全に消滅する。彼の生み出した業火の塊も最後まで“裁きの一撃”と対を成すように、また同時に消え失せる。核であった”旗”だけが元の光の球体と化してボトリと落ちる。
「何の真似かと訊いたな?」
ただ淡々とザーザートに向けて言い放つアルス。そこには悪びれる様子すら欠片も無い。
「浮遊城塞を無傷で手に入れるというのが俺とデイガンが交わした『約束』だ。それを違う訳にはいかん」
ここでアルスの片眉がピクリと動いたのは、悪鬼の形相のザーザートに対してではなく、背後からヨタヨタと近寄って来る一つの足音に対してであった。
「……離れていろと言った筈だが」
気配の主であるオズナに対し、アルスが憮然として呟く。“迷宮”を破壊する際に、アルスはそれまで己が身を潜めていた閉鎖空間と、ザーザートの眼前であるバロウルやカカトの遺体の位置とを入れ替えた。真意の程は知らねとは云え、あそこまでザーザートが渇望していたカカトの遺体がその手に容易く得られぬように。言ってしまえばアルスのその行為自体は単なるザーザートへの嫌がらせでしかない。
直前にオズナに自分から離れろと言い含めたのも、位置交換によりザーザートと対峙する際に邪魔にならぬようにという目的があった。それは今度こそアルスが“厄介払い”としてオズナと袂を分かつということでもあったのだが、そのオズナが背後から歩み寄ってきたと云うことは、何を血迷ったか空間転移寸前にオズナが自分の方へ飛び込んで来たということを意味していた。
たまたま運が良かっただけのことであり、空間転移寸前にその身を投げ出すなど魔術の心得の有る者ならば絶対にしない。空間の“境界線”で体が両断されてもおかしくはないからである。無知であるが故にオズナはそれを成し遂げたと云ってもいい。
「でも……」
背を向けたまま自分を見ようともしないアルスに対しモゴモゴと口籠るオズナ。アルスが彼を空間転移に含めないように試みたのは単なる“厄介払い”だけではなく、この後に起こるであろう諍いと闘いを想定してのことであることをオズナが知る由も無い。
フンとアルスが軽く鼻を鳴らしたのはオズナに対する諦観か、或いはそこまで想定しきれなかった己が軽挙を嗤ったか。
兎にも角にもアルスはオズナをそのまま無視し、再びザーザートの貌を真っ直ぐに見据えた。激昂を懸命に押さえ、感情が剥き出しであったその素顔を平静に戻そうと堪えるザーザートの方を。
「……フッ…ハハ……」
ザーザートが顔を伏せ、憤怒がやがて笑い声へと変じる。
「ハハハハハハハハハハッ!」
「……」
「――客将アルス、お前には失望した」
唐突に高笑いをピタリと止め、自分に対し冷ややかな視線を向けるアルスへザーザートが絞り出すように発した言葉がそれであった。
「お前が強大な“力”を有していることは知っている。それ故にお前が言う『定命の者』を塵芥の如く見下していることも我が悲願達成の為にはむしろ望ましく感じていた――だが!」
数が減じたとは云えそれでもウゾウソと地を密かに這い回っていた遺児達の群れが、今またザーザートの足元に集結する。その“布”の塊の中から吐き出されたのは二つの光の珠であった。すなわちザーザートの――否、元はクォーバル親方が“奈落”の奥底で偶然見つけた二本の“旗”の本来の形態である。それが今、簒奪者であるザーザートの手の中に揃って戻ったということになる。
“裁きの一撃”の核の役割を果たしていた“旗”が、再び長杖と棍の形状へと外見を変える。その長杖を、ザーザートはアルスの鼻先に突き付け吠えた。
「お前は何もしないどころか、遂には大公の名代である私に仇を成した!」
「……」
アルスの三白眼の焦点は、ザーザートでもましてや突き付けられた長杖の先端でもなく、己の周囲の空間へと向けられていた。
己の躰を中心にこれまで歯車の様にユルユルと回転していた三つの輪からなる“不可視の枷”。それが徐々にその回転速度を上げつつある様を、アルスはただ黙って見つめていた。
だがそれも一瞬、依然として眉一つ変えることなくアルスは、自分を責め立てるザーザートに対しただ一言これだけを返した。
「――で?」
「お前の身体には、既に枷を施してある。我が意に添わぬ以上、今ここで消えてもらう」
「“我が意”とは、貴様の意にそぐわぬ者を殺す番犬の役か?」
アルスの指摘に、背後のオズナはハッとザーザートの顔に目をやった。だがアルスもザーザートも既にオズナの事など眼中には無い様子であった。
「定命の者の戯れに付き合うことなどしない主義だが、最期に一つだけ訊いておく」
アルスの紅い三白眼が、これまでに無い程に強く鋭く光る。背後に居る為に直視できないオズナですら、放たれる殺気に身を震わせた程であった。
「この密閉世界に墜ちてきた際、ファーラを拐かし俺から引き離したのは貴様の仕業だな?」
「だとしたら?」
いともあっさりとザーザートが答える。それはアルスの射貫くような殺意の視線に抗する術があったのか、或いは虚勢であったのか。
「“人質”を取り戻すという名目でお前がこの世界で気兼ねなく暴れ回れるように、御膳立てまでしてやったのだ」
自分の意に沿わぬ場合に備え“人質”として手中に収めたのだなどとは、ザーザートは迂闊には口にしない。例えそれがザーザートがアルスを見限り処断する為に“不可視の枷”を起動させた直後のことであっても。
致命傷では無かったとは云えバロウルの電光石によって重傷を負っている筈のザーザートではあるが、アルスに対する憤怒の一念がそれを忘れさせていた。
「そうか……」
アルスが呟いたのはただそれだけであった。たった一言だけであったにも関わらず、背後のオズナはヒッという情けない声と共にその場にへたり込んだ。アルスの“気”に当てられ、文字通り腰を抜かしたのである。
「ならば貴様には、絶望の涯の死を与えよう!」
その言葉と共にザーザートへ身を乗り出し掛けたアルスであったが、不意にその体の動きを止めた。
術者であるザーザートにしか視えぬと云う“不可視の枷”。それを構成する方術による三つの“歯車”が全開だと言わんばかりにその回転を一気に上げた為である。
「面白い!」
アルスが両の腕を左右に伸ばす。あたかも“歯車”そのものを押し広げでもするかのように。しかしアルスの腕は“不可視の枷”に触れることなく、ただ虚しく何も無い空間を掴むだけであった。
「……俺としたことが、侮りが過ぎたか」
「“圧壊”、“爆破”、“灰塵”」
憮然として呟くアルスに対し、“不可視の枷”の三つの輪に込められた方術の“力”を、あたかも呪文を詠唱するかのようにザーザートは列挙した。勝利を確信した者のほくそ笑みと共に。そこには先程までの激高し取り乱していた醜態は消え失せていた。
「アルス、お前と云う存在はこの閉じた世界から塵一つ残さず消え失せる」
「残ったこいつはどうなる? 殺すのか?」
意外にも、アルスは己が後方で腰を抜かしたままのオズナの方をチラと目線で示した。
「“客将”のお前を勝手に処断したとなると後々色々と煩わしいことになる。故に大公の名代である私に牙を剥いた事への生き証人となってもらう」
ザーザートがやや訝し気に答えた――逆に言えばそこまでの余裕が今のザーザートにはあった――のは、アルスの質問が突飛であったことに加え、“不可視の枷”の完全なる発動が想定よりも遅い事にあった。ザーザートが目立たぬようジリジリとではあるが、今ここに至ってアルスとの距離を保つべく後退を始めた理由もそこにある。
「だ、そうだ」
相も変わらずオズナの方を見ようとはせずに、素っ気なくそれだけをアルスは告げた。
「大人しく、こいつの望む通りの証言をしてやれ」
常の態度であるが故にオズナは気付きもしなかったが、アルスが彼の方を見もしなかったのには別の理由もあった。“不可視の枷”の“圧壊”の発動によって既にアルスの動きは首を巡らすことが困難なまでに制限されていたのである。
「――オズナ・ケーン」
そして、オズナはアルスが初めて自分の名を呼んだことに飛び上がらんまでに驚いた。依然として腰が抜けたままであるとは云え。
「貴様はどうしようもなく愚かだったが、退屈だけはしなかった。それに免じて餞別として一つ忠告してやる」
「アルス卿……?」
「次に戦場で俺の姿を見掛けることがあれば、すぐにそこから逃げろ」
「まだ理解できないか、お前に次など無いぞ、アルス!」
慎重にも距離を取ったまま嘲りの声をあげるザーザートに対し、アルスもまた――珍しくも――ニィと笑って応えた。
「ならば、共に爆ぜるか!」
バッとアルスの背に広がったのが赤い皮翼であることまではオズナには判別できなかった。あまりに短い間であった為に、正確に認識することさえ不可能であったろう。次の瞬間――オズナには元々視えてはいないが――“不可視の枷”の回転の中心で拘束されていたアルスが動いたからである。
(馬鹿め……!)
しかし地を滑るように己に向かって駆け出して来たアルスの姿を前に、ザーザートは口の端を歪め胸中で会心の笑みを浮かべていた。
「――!」
アルスの丸と楕円の重なった二重の瞳孔がスッと細まる。
「何っ!?」
ザーザートの驚愕の叫びが響く。彼の懐に飛び込む直前に、アルスの身体が急にその進路を変えた為である。ギュイと直角に、天空へと。
“不可視の枷”の“歯車”は加速度的に回転の度合いを増し、ザーザートの言うところの“圧壊”の方術によって既にその四肢全てが奇妙な方向に折れ曲がっているのが、一瞬であるとは云えザーザートにも視認できた。にも関わらず、アルスは迷うことなく行き先を天に向けた。その速度が歯車の回転と反比例するかの如く遅々としたものになったとしても。
「ザーザート!」
いまだ腰を抜かしたままのオズナは、声を懸命に張り上げるだけで精一杯であった。焦りの為かそれ以上の言葉が彼の口から流れ出はしなかったとは云え、それが“不可視の枷”を解除するよう懇願しているのだということはザーザートにも分かってはいた。
「無理だ」
上昇を続けるアルスの姿を油断なく見届けながら、ザーザートがオズナの方を見ようともせずにそれだけを告げる。先程までの感情と口調とが混濁し激しく波打っていた状態だったのが嘘であるかのように、ザーザートは――素顔のままであったことを除けば――コレまで通りの抑揚の無い声に戻っていた。
平時に戻ったという事は、少なくともザーザートにとって虚勢を張る必要が無くなった――すなわち勝敗は決したということでもある。
「アレは術者である私でも解除できない、そういう類のモノだ」
「そんな……!」
オズナはへたり込んだままワナワナと身を震わせ、ただ虚しく頭上を見上げる他なかった。初速こそ目にも止まらぬ上昇速度であったアルスの身体であったが、“不可視の枷”の“圧壊”の“力”の影響か、今は風船のように随分とゆっくりした速度で上昇を続けていた。それでもオズナが人の形として視認できぬ、単なる赤い点にしか視えぬ高度にまで達していた。
「あぁっ!」
何か大きな爆発音が響いた訳ではない。ただ少年であった赤い点が蝋燭の最後の輝きのように散り際にオズナの視界の中で赤く光り輝き、そしてまた唐突に消えた。
一切が無音のままである。或いはアルスが断末魔の叫びを上げたのだとしても、到底届く高度でも無かった。
「アルス卿……!」
ガックリとうな垂れるオズナをその場に残し、ザーザートは無言で歩を進めた。浮遊城塞オーファスに向けて。これ以上オズナの御守はしていられないと云う、皮肉にもアルスとまったく同じ理由が故に。
そこにオズナに対する気まずさが混じっているなどと、ザーザートが認める事はあり得ない。
(勘の良い奴だ)
感心とまではいかずとも、ザーザートはアルスの底知れなさに改めて畏怖に近い念を抱いた。その思いもまた、アルスが最期を迎え二度とこの目にする事が無くなったとは云え、ザーザートにとって認めがたき評価ではあった。
――“圧壊”
――“爆破”
――“灰塵”
“不可視の枷”を構成する三つの方術をザーザートがわざわざ事前にアルスに明かしたのには意味がある。そこに一つの虚偽を含ませていた事も含めて。
“圧壊”と“灰塵”までに嘘は無い。だが残る一つの方術である“爆破”だけは偽りであった。
最後の方術の真の“力”――それこそが“寸断”に他ならない。
“爆破”であると予め伝えておけば、残された最後の手段として術者であるザーザートを巻き込んでの自爆を目論む可能性は考慮の内であったし、実際にアルスもそれを試みた。
だが“爆破”に一縷の望みを賭けた哀れな罪人は、ザーザート達の眼前で“爆破”ではなく“寸断”によって全身を切り刻まれて終わる。最後の賭けにすら敢え無く敗れた、敗者の最期の姿を無様に晒して――その筈であった。
単に悪趣味の極みであり、そこまで持って回った策を弄する意味など無い。それほどまでにザーザート姉弟のこの世界への恨みが深いと言っても、その執着は異常に過ぎた。
その様なザーザートの悪しき目論見に反し、“客将”アルスは最後の最後で自ら天を目指して飛んだ。ザーザートの“罠”を少年がどこまで悟っていたのかは今となっては知る由も無い。だがザーザートの眼前で、潰され断ち割られ塵芥となる最期を晒すことを拒んだ事だけは確かであった。
最後まで何一つザーザートの意に沿うこと無く、無益な抵抗をするだけして死んだ。
(役立たずめ……!)
オズナをその場に放置し、独り浮遊城塞へと進むザーザートは、胸中でアルスに対し激しく毒づいた。彼がアルスに“不可視の枷”を施し、共に落ちて来たファーラなる少女にわざわざ“旗”付きのティティルゥの遺児達を寄生させ、“撒き餌”として浮遊城塞――或いは妖精皇国でもどちらでも良かった――に拾われるよう猿人による襲撃までをもお膳立てしたのも、それだけアルスの秘めた“力”を利用せんが為であった。
この閉じた世界の全ての者に、ティティルゥが受けたものに勝る恐怖と苦悶と死による裁きを与える、その先触れの使者として。
だがザーザートの推察通りに強大な“力”と人を人とも思わぬ傲岸不遜な性格を有しながらも、アルスはクォーバル公国の別動隊として商都ナーガス殲滅の特命を拒否した。
それも生命を奪う行為は約束に違うなどというふざけた理由を臆面も無く言い放ち。
宰相デイガンが自分の許で預かると横槍を入れさえしなければ、最初の特命を拒否した時点でとうに始末していた筈であった。
「――!?」
ザーザートの身体が不意にグラリと傾ぎ、そしてその口から濁った血が吐き出される。既に生身の体からは逸脱しつつあるザーザートではあったが、それでもバロウルの放った電光石の一撃は掠っただけとは云え、依然として彼の身体に重大な損傷を残したままであった。常人ならば致命傷に達するまでの重傷の身であることをザーザートが感じさせなかったのは一重にアルスに対する憤怒がそうさせたのであるが、今その揺り戻しが来たということである。
よろめくザーザートがそれでも地に倒れ伏すことを拒んだのは矜持が許さなかったと云うこともあるし、後方に残したオズナに異常を悟られない為でもあった。
「ここまでだな」
いつの間に地の底より湧いて出たのか、ふらつくザーザートの肩を支えたのは“亡者”メブカであった。
「離せ……まだ終わっていない……」
再び吐血したザーザートが、唇の血を拭うことなく幽鬼めいた眼差しでメブカを睨む。
「カカトを取り込まなければ、終わりではない……」
「やめておけ、そのままだと命に関わるぞ」
そこまで淡々と助言した後、メブカの端正な貌がザーザートの貌へと寄り添いその耳元で囁いた。
「お前達の魂魄を捧げるという原初の盟約を、今ここで果たすというのなら別だが」
「……くっ!」
青年の姿を模っていたメブカの表層が、ドロリとした黒いヘドロめいたソレへと変わる。それがメブカの正体であること、そして衰弱した自分達を呑もうと思えば今すぐにでも可能なのだという事実に思い至り、ザーザートはただ歯噛みした。
「今はその身を再構成し、傷を癒すがいい。カカトとナナムゥの身体は、最終的にまとめて取り込めればいいのだろう?」
不思議なことに、人の身では無いことを示す“亡者”メブカではあったが、ザーザートを諭す口調には遥か齢を経た年長者を思わせる確かな風格があった。
「浮遊城塞に手駒を造り潜ませたのも、それを見越してのことだろう?」
「分かっている!」
ザーザートは何とかメブカの支えを振り払うと、依然として覚束ない足取りながらも再び己が両足で地を踏み締めた。
白目の少ない灰色の瞳が、まず最初にアルスが完全に消失した天空を見上げ、次いで彼方に覗く浮遊城塞の尖塔を見据える。
『ならば貴様には、絶望の涯の死を与えよう!』
ザーザートの耳元に甦る、アルスの遺した恫喝の言葉。遺言ともなったその脅しに対し、ザーザートはニマリと昏い笑みを浮かべた。
「お前ではなく、私が与える側なのだ。この世界に生きとし生ける者に、『絶望の涯の死』を等しく!」
「そして禊ぎを終えた死者を私が誘おう」
ザーザートの横に立ったメブカがその言葉を継いだ。
「この忌まわしき世界で、永久の安寧の眠りに」
想定より遙かに遅くなり申し訳ありません。
老父の施設行き諸々(とは云えほぼ全てを妹に任せきりでしたが)もあったのですが
何よりも章内のチャプター数を増やしたくないと欲張ってしまったことは反省しています。
流石にもうここまで文字数を一回に詰め込むことはしませんが、兎にも角にもこれにて第六章は終わりです。
次章「棄耀」(仮)から何とか投稿ペースを少しでも戻したいとは思うのですが……
【追記】
実のところ正直な話、この章の執筆にかなり時間が取られたのは起承転結の「転」すなわちカカトを殺すのに随分悩んだというのがあります。愛着もありましたし。
かなり先の話となりますが、連載が完結したら後書きに代えて他のキャラも含めてその辺りの話も書き連ねたいと考えています。