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詭謀(22)

        *


 「アルス卿の言った通りでしたね……」

 先程までカカトであった、今は表面が所々蠢く黒い塊を映像越しに見やりながらオズナが呟く。あれほど祈り願っていたザーザートの勝利を前にしても彼の声が弾まないのは、そのあまりに酷い結末を目の当たりにした為でもある。

 無論、オズナはティティルゥの遺児達(ティティルラファン)の事など知らぬ。けれども得体の知れぬ黒い布切れの集団に呑み込まれると云うその異様さ悲惨さだけは、ただ観戦しているだけの彼の身でも十二分に知れた。

 「馬鹿か、貴様は」

 アルスがオズナに掛ける言葉は相も変わらず険しい。

 「これからだ(・・・・・)

 その言葉が合図だったという訳でもあるまいが、カカトの全身を包み込んだ遺児達(ラファン)による黒い球体に変化が生じたのはまさにこの時であった。


 「――ッシャラァッ!!」


 決死の雄叫びに渾身の電楽器(エレキ)の演奏が重なる。奇怪な鳴き声と共に結合していた遺児達(ラファン)がボロボロと頽れ、その中から満身創痍といっても過言ではないカカトが咳きこみながらも現れる。

 彼の窮地を救った切り札、それがバロウルと所長がスタンガンを参考に急造で作り上げた発電装置の一種である。電気に弱い事が判明した遺児達(ラファン)に備えカカトが懐に仕舞い込み隠していたその小型機器が、想定通り抜群の効果を上げたということである。

 尤もこの土壇場になってようやくカカトがその装置に頼ったのは、不用意に手の内を晒すのを嫌ったという思惑以上に、その即席――所長が凝った命名をする暇すら無い程――の機器が二度は使えぬ使い捨てと云う単純な理由からであった。

 「悪足掻きを……」

 流石に用心深く、ザーザートは荒い息を整えるカカトには迂闊に近寄らなかった。鞭状に結合した遺児達(ラファン)が袖口から伸び、その手を離れて転がっていた長杖を素早く回収する。

 「ナイをどうした……!」

 焼け焦げた貌を拭いもせずにカカトがザーザートを鋭い眼光で睨みつける。それまで腕に抱えていた電楽器が“旗”の基本形として再び光の珠に戻り、そしてその輝きが手の中に消える。

 その両腕を自由にした『構え』こそがカカトの『本気』であるということを知る者は、モガミやガッハシュート、そしてナイ=トゥ=ナイなど片手で数える程である。

 「既に死んだ」

 その能面じみた無表情な仕草も手伝ってザーザートの宣告は殊更に淡々としたものであった。

 「どちらにせよお前も今ここで死ぬ。それだけのことだ」

 「死んだだと!?」

 カカトは怒号と共に両腕を大きく前後に振りかざした。それまでは容易に目視出来ないまでに細い“柔糸”が左右それぞれの腕で縒り合わされ、陽の残光を受けて煌めく二振りの白い鞭と化す。

 「信じるものかよ!!」

 「はっ!」

 嘲りと共にザーザートの袖口から伸びた遺児達(ラファン)からなる同じく二本の黒い鞭が、ウネウネとのたうちながらそれと打ち合う。奇しくも白と黒と云う相反する二つの色の二組の鞭。だがその能力の差はすぐに歴然たるものとして表れた。

 「――ちぃっ!」

 カカトが辛うじて身を躱す頻度が上がっていく。要は“柔糸”を束ねた紛れも無い一本の鞭であるカカトとのそれとは異なり、ザーザートの繰る鞭は布状の遺児達(ラファン)の結合体である。任意の箇所で分離しカカトの虚を突くのは容易いことであった。それに加えて黒い鞭自体が独自の意思で動いており、よってザーザート本人は別の小細工を弄する事が可能である。そこまで頻繁ではないにせよ依然としてその方術によって飛来する暗器による攻撃もまた、カカトの行動を著しく制限していた。

 立て続けに身を躱したカカトの体勢が流石に崩れる。よろめいた彼の動きに合わせて、青く煌めく長いマフラーが波打ちながらに宙に大きな弧を描く。そのカカトの二の腕を新たに襲来した暗器が掠め、裂けた服に血の色が滲んだ。

 逃れ難き窮地に見えた。だが――

 (――ここだっ!)

 突如としてカカトのマフラーがその幅を半分に減じ、その分だけ縦に長さを伸ばす。それはまるで意思あるもののように狙い過たず、カカトの三本目の“鞭”としてザーザートの左脚を打った。

 カカトの奥の手。それが自分の生成した“柔糸”を予め編み込んでおいたマフラーである。一定時間で消失しない恒常的に強度を保つ“糸”を生成するには時間を掛けて練り込む必要がある為、現状では予備も無い一品物である。光を受けて碧く幻想的な輝きを放つ特徴だけは、カカト自身も想定外の副産物であった。

 そのマフラーをカカトはこの闘いにおいて始めて他の“糸”と同じ様に操りザーザートを打った。“奥の手”として――あくまで“必殺”の技に繋げる為の布石として。

 苦し紛れにも程がある――そのザーザートの嘲りの言葉は、遂にその口から最後まで流れ出ることはなかった。

 「何でっ!?」

 画像越しに闘いを見守っていたオズナが不意に絶叫し、アルスの紅い三白眼が僅かに細まる。

 唐突に、ザーザートの貌が裂けた。より正確を期するならば、頭の先から股座まで縦に一直線に裂けた。

 “斬糸”――その名の通り、斬る事に特化した“糸”である。カカトもナナムゥも、その操る“糸”は弾力性と伝導性に優れた“柔糸”であり、本来ならば物を切断できるような代物ではない。それは――“柔糸”を一纏めにして鋸引きすれば野菜くらいは切れるであろうが――紛れも無い事実であったし、カカトとナナムゥの“兄妹”が“糸”を操る事を知る周囲の者達――そもそもその数自体は多くはないが――にとっても周知の事実であった。敢えてそういう風に喧伝もした。

 故に、カカト独りだけがそうでないことを知っている。モガミは知らず、ガッハシュートには明かさず、ナナムゥにすら教えてはいない。

 そこまで秘したが故の“必殺技”であった。

 鋼をも分断するカカトの“斬糸”は、しかし彼自身の血を吸わせることをその代償としていた。その硬化に至るプロセスがどういう理屈でそうなっているのかは無論カカトには分からない。秘するが故に相談もできない。己が『生体兵器』であるということに起因しているのだろうということまでは漠然と推測できるが、そもそもその『生体兵器』という出自自体があくまで所長の推測でしかない話ではあった。

 理屈はどうあれ、カカトにとっての“必殺技”であることに変わりはない。バッサリと二つに割られたザーザートの貌から、肉片ではなく遺児達(ラファン)としての正体を晒した黒い破片がボトボトと落ちる。

 その裂け目の奥に、カカトはザーザートの素顔を見た。無表情な能面のような顔ではない、忌々し気にカカトを睨む白目の少ない灰色の瞳を。

 「擬態(オーバーボディ)か!」

 文字通り肉壁となった遺児達(ラファン)によって仕留めそこなった事を知ったカカトがその素顔を前に叫ぶ。ザーザートが最初に告げた“同朋”という言葉、それが単なる撹乱目的の虚言ではなく真実であったことを、ザーザートの自分達『兄妹』と同じ特徴的な瞳の形からカカトは知った。おそらくはその指も遺児達(ラファン)によって包まれているだけで、自分達と同じく本当は細く長い造りであろうことも。

 「そういうことだったんだ……」

 かつて自分と共に過ごした少年期とはまったく別の顔となって公都に帰還を遂げたザーザート。今ようやく自分が知るかつての友人の顔が露わとなった事で、オズナは心底安堵していた。

 「……」

 その反面、前方に立つアルスの方は一言も発しはしない。ザーザートの素顔に釘付けとなったオズナは――そもそもアルスがザーザートの姿だけを拡大表示に切り替えたのでオズナもその真の顔を見ることが出来た訳ではあるが――そこまで気付きはしなかったが、縦に裂かれた腹の位置に一瞬だけ垣間見えたモノをアルスは見逃さなかった。

 そしてそれは相対するカカトも同じであった。

 「大体分かってきた」

 既に擬態が無意味と判断したか、ザーザートの胸部から上の遺児達(ラファン)が肉壁であることを止め津波のように圧し掛かってくるのを、カカトは渦巻のように“斬糸”を回してそれを防いだ。

 初手でザーザートの身体を裂いた“斬糸”は既に砕け散っており、今カカトの手にあるのは新たな“斬糸”である。彼の些か焦燥した顔は、“斬糸”の代償として与える血の量が到底無視できる量ではないことを無言の内に示していた。

 「お前が俺を殺そうとする理由、それはお前の云うように俺達が“同朋”だからだな……?」

 「……」

 遺児達(ラファン)が離れたことで完全に素顔を晒したままのザーザートは、カカトの謎かけめいた問い掛けにも一切応えない。逆に言えばその沈黙こそが、同じ生体兵器として自分の脳裏に自然と浮かんだ『回答』が誤りでない証なのだとカカトは知った。

 知ったところでただ悍ましいだけではあったが。

 と、不意にザーザートが地を蹴って後方に跳んだ。その右手に握った長杖がクルリと一回転を遂げる。

 「――ちぃっ!?」

 空気が淀み、カカトの肌が総毛立つ。何か無遠慮に肌を撫で回されるような不快な感触。方術のことなど欠片も知らぬカカトではあったが、何か空間が歪んでいる感覚――すなわちザーザートが再び“迷宮”深部にその姿を晦まそうとしていることだけは本能的に分かった。

 「死ねっ、ザーザート!」

 大仰な雄叫びと共に右腕を伸ばし、必殺の“斬糸”を繰り出すカカト。ザーザートがその叫びに反応し、こちらも左の袖口から残った遺児達(ラファン)をかき集めた鞭を射出する。黒い鞭は自ら縦に裂けながらもカカトの“裂糸”の軌道を逸らした。

 だが、それも雄叫び込みでカカトにとっては陽動であった。静かに宙を滑ったマフラーが、蛇のようにザーザートの足首に絡みつく。

 両者の間でビンと張り詰める青いマフラー。

 空間のうねりが止まり、カカトとザーザート両者の距離が再び隔てられることなく元の位置へと収まる。

 (なるほどな……)

 アルスが得心を口に出さずに胸の内に留めたのは、無駄に食い付いてくるであろうオズナが単に煩わしかっただけである。

 ザーザートとカカトの両者が同種族であることは分かった。それも何らかの調整のされた人造の生体として。

 ザーザートがカカトの前にその姿を晒したのも、最低限戦える肉体が保証されていることを自覚していたからであろう。だがそれはあくまで同種族として肉体面が互角というだけに過ぎない。経験則とそれに裏打ちされた戦闘の技能(スキル)は、明らかにカカトの方が数段先を行っていた。諸条件が完全に等しい一対一の決闘であったならば、カカトが敗れる確率は万に一つもあるまいとアルスは踏んでいた。

 「逃がすものかよ……」

 呪詛めいた言葉を吐いたカカトが不意によろめく。片膝を地面に付いて辛うじて転倒を免れたカカトは、顔だけをザーザートに向け固い声で告げた。

 「ナイの仇だ、お前こそ死んでもらうぞ」

 これまで極力相手を殺さぬように心掛けてきた筈のカカトによる処刑宣告。それは無論本人の言そのままにナイトゥナイの仇討の意味も強いが、更にもう一つ、師であるモガミの教えにも起因していた。

 『一度“奥の手”を晒した相手は逃すな。必ず仕留めろ』

 己の他に知る者は皆無――それ故に必殺の技が“一撃必殺”足り得るのだと、それがシノバイドの長であるモガミ・ケイゴの絶対の教えであった。

 故にカカトはモガミの奥の手を知らぬ。己の必殺の技である“斬糸”という手の内を事前に明かさぬ。

 そこまで秘匿したその必殺技で、ザーザートを未だに仕留めてもおらぬ。吹聴する前に必ず殺さねばならなかった。

 先程は擬態による“鎧”で“斬糸”を防いだザーザートは、今も素顔を晒したままである。遺児達(ラファン)の護りの無い脳天を貫くなり首を落とすなりすれば直ちに決着は付く。問題は己の脳内に先程から本能として浮かび上がる『その後の処置』であるが、まずはザーザートを殺してからの事だと邪念を振り払う。

 片膝から再び立ち上がるカカトであったが、しかしそこで初めて己の見落としを知った。ここまでの戦いで経験の差でザーザートに優位に立てたというのも油断の一つであろう。だがそれ以上に生死不明――だとカカトは信じたかった――のナイトゥナイやバロウル達の安否を確認せねばならぬという焦りがあった。口には出さずとも何よりも。

 「――なにっ!?」

 地が鳴動する。ザーザートより更なる背後を起点として。先程までその右手に握られていた筈の長杖が背後の地に突き立っている事にカカトようやく気付いた。

 見た目にはそこまで遠方という訳ではない。しかしそれは“迷宮”特有の目晦ましでしかなく、その実体は遥か彼方にあることをカカトは本能的に理解していた。

 マフラーによって繋がれた彼とザーザートの間の距離は、確かに見た目以上に開きはしていない。しかし咄嗟にザーザートが己の手の内より放った長杖は、その方術によって彼方の距離まで“迷宮”内を転送されたのである。

 それが“旗”である長杖を奪われまいとする、ザーザートの単なる苦し紛れの行為でないことはすぐに知れた。

 地を裂いて出現する稲妻形の黒い巨大な塊。その“芯”と成るのが長杖――ザーザートの“旗”である。5mは優に超えるその黒く平たい“稲妻”こそがザーザートにとっての“奥の手”であり、カカトの表現に合わせるならば“必殺技”であった。

 「何だとっ!?」

 カカトの顔色が変わったのは、その“稲妻”の狙いが自分ではないという事が明白だった為である。宙に浮かび斜めに傾いだその“稲妻”の先端は、明らかに彼の背後の彼方――すなわち浮遊城塞オーファスを目標としたものであった。

 ザーザートの哄笑が響く。熱に浮かされたかのような灰色の瞳。それは紛れも無く勝利を確信した者の高らかな笑いであった。

 「旗手たるお前ならこの破壊力も察しがつくだろう。これが私の切り札! この“力”で浮遊城塞を破壊してやる!!」

 「汚いぞ、てめぇ!!」

 カカトが思わず汚い言葉で罵倒したのは、それが生半可な覚悟では止められない代物であると悟った為でもある。旗を手放したザーザートを殺すことは可能であろう。しかしあの“稲妻”を止めることが出来るかとなるとまったくの別の話となる。

 浮遊城塞オーファスにも“障壁”はある。だがそれは空を航行する際の暴風雨への備えであって、内部の人員がその脅威に晒されないようにする程度の役割しかない事をカカトは居を構える身として知っていた。それだけでも“稲妻”の直撃を防げるとは到底思えないし、まして実質的な城主であるコルテラーナもバロウルも不在の今、“障壁”そのものを咄嗟に張る事すらできないのではないかと思えた。

 ザーザートに対して今更『待ってくれ』と懇願する程愚かではない。さりとてザーザートを討ち果たすのも容易でないことも分かっている。結局のところ、何とかして“稲妻”の軌道を逸らすしかない。己が身に変えても。

 だが――

 (せめて後少し時間があれば!)

 カカトが歯軋りした時には、既に“稲妻”は宙を滑るように動き出していた。それが引き絞られた矢のように高速でオーファスに向けて撃ち出されたならば、カカトも――止むを得ず憤怒と共に――まずザーザートを殺すと割り切れていただろう。だが“稲妻”の初速は見た目に反して非常にゆっくりとしたものであった。浮遊しているだけと云ってもいい。

 まだ間に合う――それによって逆にカカトは己の毛と云う毛が逆立つのを感じた。“稲妻”を防ぐ事に全力で当たるということは、その代償としてザーザートの前に無防備な背中を晒すという意味でもあった。ザーザートはカカトに己か浮遊城塞(なかま)かの選択を強いたのである。

 それでも跳ぶしかない。カカトの決意は変わらない。我が身をぶつけてでも軌道を逸らすしか道は無く、それこそがザーザートの狙い通りであったとしても他に咄嗟に思い浮かぶ代案も無い。

 “稲妻”に直に触れたこの身がどうなるのか分かったものではないが、それでも己と己の“斬糸”を信じてやるしかなかった。

 刹那の葛藤。カカトの脳裏にとある二つの言葉が甦る。それが走馬灯と言われるものだと教えてくれたのは、所長であったかモガミであったか。

 モガミとガッハシュート、その両者はカカトにとっては等しく師であったが、その教えの中において完全に相反するものが一つだけあった。そのそれぞれの言葉が今、カカトの脳裏を鮮明によぎったのである。

 死を躊躇ってはならない。その身に代えても道を拓けば後のことは必ずや仲間が引き継いでくれる――それがシノバイドとしてのモガミの教えである。

 何としてでもまず生き延びよ。生きてさえいればいつかまた雪辱を晴らす日も訪れる――それが拳を交える中のガッハシュートの言い分であった。

 完全に相反する二つの教え。どちらが正しいのかは未だにカカトにとって確たるものではない。どちらかが正しいのかを断ずること自体がそもそも誤りなのかもしれないが、そこまで懇切丁寧に教えてくれる者もいない。

 故にカカトは一分一秒でも惜しいこの窮地に頭を悩ますことを止めた。ナイトゥナイの仇討ちも、バロウルとキャリバーの身を案ずることも止めた。

 取るべき手段は一つしかない。


 「――カカト!!」


 バロウルの懸命な叫び声がカカトの耳に届いたのは正にその瞬間であった。


        *


 試製六型機兵(わたし)に出来ることはと云えば、唯々導線に沿って一刻でも早くカカトの許に駆け続けることだけであった。

 後になって考えると、地面には妖精機士(ナイトゥナイ)によって叩き落された無毛鳥の群れが其処此処(そこここ)に点在していたのだろう。私が踏み付けたせいと思しき断末魔めいた鳴き声が上がることも、確かに幾度かあった。

 視界そのものが完全に遮断されていることと、石の躰であるが故に無毛鳥を踏み抜いてもその生身の感触が稀薄であることが幸いした。その凄惨な光景を直視していたならば、或いは私の脚は竦んでいたのかもしれない。

 それでも途中、導線が消失した地点が一ヶ所だけあった。それを脳裏の声なき声なりバロウルなりに訴えかける前に、しかしその不具合はあっさりと解消された。再び私の視界に浮かぶ赤い動線を前に、それを不審に思う間もなく私は唯必死に駆け続けた。

 その不審な場所に何を視たのか、腕の中のバロウルが何かを言い掛けたのは分かった。それでも私は立ち止まらずひたすらに駆け続ける他なかった。

 細かい事は後で聞けば良かったし、何よりもわたしの中で嫌な予感が止まらなかったからだ。バロウルもそれ以上何も言おうとしなかったのはわたしと同じ気持ちだったからだと思う。

 導線が所々で弧を描いていたのは大樹なり段差なりの何らかの障害物があったからだろう。それでもほぼ直線なだけあって、私が目的であるカカトの許に辿り着くのにそこまで絶望的な時間は掛からなかった筈である。


 「止まって! 私を降ろして!」


 唐突なバロウルの指示と私の視界が再び復活したのはほぼ同時であった。

 「――ヴ!?」

 私がまず動揺したのは腕の中のバロウルに死相めいたものが浮かんでいたことであった。いくら肌が黒いといっても看護士を目指していたわたしには分かる。バロウルが相当に無理をしている事が。

 片膝を付き地面にそっと添えた私の腕の中からバロウルが転がるように這い出る。彼女は半ば四つん這いの体勢となって、そのまま私の背後に回った。その腕や額に、整備の度に目にしてきた例の刺青めいた光の紋様が浮かび上がるのが私の単眼の端に映る。

 だがそれ以上バロウルの事を気に掛けるような余裕は私にも無かった。私達の前に背中を向けたまま身構えるカカトと、その奥向こうに対峙する裂かれたローブを纏った男の姿があった。更にその背後にはちょっとした公園位の大きさの、平たい黒い塊が浮いていた。

 私は初見でその稲妻のようなジグザクな形状は別として、まずは巨大な投げ槍を連想した。その認識が決して誤りではないことは、その切っ先が背後のオーファスを向いている事からも明らかであった。

 何よりも私の脳裏の声なき声が、その“投げ槍”の危険性を高らかに告げていた。


 「――カカト!!」


 文字通り、バロウルが血を吐くような必死な声を挙げたのはその時であった。

 私達の到着に気付いたカカトが、軽業師めいた後方へのとんぼ返りで私達の元に奔る。

 「ナイは?」

 合流したカカトが最初にバロウルに訊いたのはそれであった。極めて低く、そして努めて平穏を装った声で。

 「残った」

 答えるバロウルの声もまた低い。

 「私達を、ここに寄こす為に」

 私の背中側でバロウルが何をしているのかまでは、当然私からは見ることが叶わない。ただ胸部と腰部に手を差し入れ――メンテナンス用の小窓としてバロウルは私の装甲の特定部位を開くことが出来た――内部を走る“紐”に直接触れることで何かしていることだけは感覚として分かった。

 バロウルが――おそらくは彼女生来のものであろう光の紋様として――そのような“力”を持っていることは、これまでのメンテナンスで私自身が散々目の当たりにしていた。

 「そうか……」

 決して楽観視できるものではないバロウルの答えに対し、カカトはただ短くそう頷いただけであった。或いはその後に何か付け加えようとしていたのかもしれない。だが、仁王立ちのままでこちらを窺っていた男の放った哄笑が、私達に対し等しく無遠慮に浴びせ掛けられた。

 「お前達が何人集まろうとも、我が裁きの一撃を止めることなど不可能だ!」

 それまでジリジリと人が歩む程度の速度でこちらに向けて迫って来ていたその“裁きの一撃”とやらが、中空で徐々にその速度を上げる。

 「ザーザート……!!」

 カカトが忌々しげに相手の男の名を吐き捨てる一方、くぐもった声でバロウルが私の背に対して告げていた。石の肌故に感じ取る事は出来なかったが或いは私の背に縋っていたのかもしれない、そんな声色であった。

 「キャリバー、許して……!」

 ここまで直接バロウルが私に詫びるのは珍しい。そしてそれは、事態が切迫していることの証でもあった。

 「耐えて……!」

 「――ヴ!?」

 私の意思とは無関係に、頭部に沿って寝ていた“一本角”がそそり立つ。その変化を先駆けとして、私の機体が赤く発光し始める。

 粒体装甲――元は“黒き棺の丘”(クラムギル=ソイユ)の暗黒空間からこの機体()を護る為の障壁である。その目的上六型機兵(わたし)を中心に球形に展開される筈のその障壁は、今は一つの巨大な“赤い壁”となって私達の前方にのみ聳え立っていた。

 無論、私自身にそのような芸当ができる筈も無い。おそらくその権限すら持たされてはいないだろう。バロウルが私の背に周り何か操作していたのは、“紐”を通じて粒体装甲の本来の仕様に干渉していたという事である。

 ズンという重い衝撃音と共に――カカトがザーザートと呼ぶ――謎の男による巨大な“裁きの一撃”と私の粒体装甲の障壁がぶつかる。驚くべきことに意外と容易にその“裁きの一撃”の進行は止まった。まだ速度が完全に乗っていない状態だったからというのもあるのだろう。

 それでも文字通り壁に阻まれたと云うだけで、“裁きの一撃”そのものは欠けもせずに依然として健在であった。

 ザーザートが――“裁きの一撃”の主がこの驚愕な光景を前に沈黙を保ったままであることは不気味であった。だがこれ以上私に何が出来るという訳でもない。バロウルにしても同様であろう。

 素人の私の目から見ても“奥の手”であるこの一撃を押さえ込んでいる間に、何としてもカカトに討ち果たしてもらう他は無い。

 正直なところ、人が人を殺すのを見たくはない。この閉じた世界(ガザル=イギス)に墜ちて久しいが、未だにそこまで割り切れてもいない。しかしそんな世迷い事を言っている場合ではないことも、充分に理解しているつもりでもあった。


 私は何処までも愚か(キャリバー)だった。殺人への忌避などとはそもそも異なる、もっと根本的な物事への対処の愚かさ。


 「待て、バロウル! 大丈夫なのか!?」


 怒気すら含んだカカトの鋭い言葉と同時に、私の脳裏の声なき声の警告が重なる。


 “――活動限界。要、休止形態移行。繰り返す。要、休止形態移行”


 我ながら間抜けにも程がある。そもそもこの機体(からだ)が不調だからこそ、私とバロウルが浮遊城塞の工廠に一足先に帰る段取りとなったことを私は失念していた。

 (私はまた役に立てないのか……!)

 己の愚かさ加減馬鹿加減を嘆くしかない私と異なり、カカトの方に躊躇は無かった。

 「バロウル、後5分だけでいい、“壁”を保たせることができるか?」

 例えどのような犠牲を払おうとも、今この瞬間に粒体装甲の障壁を消す訳にはいかない。

 それだけは何よりも確かなことだと私も理解していた。カカトの決意に満ちた碧い瞳が私達へ向けられる。

 「俺達の帰る場所を破壊させる訳にはいかない」

 「キャリバーの中枢を休止させ、その分の動力素を障壁の維持に回すことは出来る。けど、それ以上は――」

 背後のバロウルが口籠ったのは、結局私に出来る事が僅かな時間稼ぎでしか無いというカカトへの後ろめたさだったのだろう。或いは無理をさせることで現在唯一稼動している六型機兵(わたし)機体(からだ)を失う危険を恐れたのかもしれない。

 だが議論している時間が無いことは誰の目にも明らかであり、私は己の単眼に承諾を示す青い光を灯し、カカトへ全てを託した。

 「後の事は任せろ」

 ニッと満面の笑みを浮かべると、カカトは私の肩口に飛び乗った。だが、私が単眼で確認できた彼の雄姿はそこまでであった。

 まるで夜にブレーカーが落ちて停電となった時のように、私の視界がバチリと失われる。

 「キャリバー、今からお前の機体(からだ)を私が預かる」

 視覚に続き聴覚までもが喪失する直前に、バロウルの声が途切れ途切れに私の耳に届いた。

 「結局、また私はお前を――」

 バロウルが何を言おうとしていたのかを、遂に私は最後まで聞き届けることはできなかった。そして激しい睡魔が襲う。

 起動直前の時と同じように私の魂魄は暗黒の中に引き込まれただ虚しく彷徨うばかりであり、やがてその感覚すらも“眠り”の中に呑み込まれた。

物語の「転」に当たる部分とは云え、想定より長くなりすぎたので何とか次回で終わらせたいところです。諸々の理由で筆が一時期止まってしまったというのもありますが。

とは云え、実のところカカト対ザーザートの決着を含めても後二つイベント消化が残ってるので怪しいところです。それでも本来なら三つあったのを一つ次章に回したのですが……。

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