タロウさん
「石橋。午後のプレゼン、あれ、ナシな」
背後からかけられた声に、大慌てで資料をプリントアウトしているところだった稔は「へ?」と間抜けな声をあげた。
あと十分ほどで社を出てF市にある取引先に向かわなければ、十三時からのプレゼンに間に合わない。
「へ? って、おま……先輩に向かってその返事はないだろ」
たしかに藤井は二年先輩だが、同期の友人のように気安い存在だ。
稔は悪びれもせず、「すんません」と顎を突き出した。
「でもなんで急に? 今期のうちに契約ほしいんじゃなかったんですか?」
「そうなんだけどよ。ほら、あれ」
藤井は窓の外を顎で示した。
十五階の窓からの視界を遮るほどの建物はそう多くない。晴れた日などは驚くほど広範囲を見渡すことができる。
「ああ……」
稔は低く唸った。
F市の辺りに、入道雲がそびえている。
「な。あれじゃあ無理だろ?」
「はい。あれじゃあ無理ですね……」
稔は複合機から吐き出されたばかりのプレゼン資料を黙々とシュレッダーに食べさせていった。
タロウさん。あの入道雲はそう呼ばれていた。
なぜタロウなのか稔は知らない。稔だけではなく、ほとんどの人はその名前の由来など気にしたことはないだろう。
入道雲といったら太郎でしょ、と当然のように言ったのは妻の麻里だった。関東では坂東太郎っていうし、関西や九州では丹波太郎とか筑紫太郎って呼ぶみたいよ。そう続けた。ふぅん、と相槌を打つと、気のない返事ね、と笑った。
そうだ。なにがそんなに面白いのか、麻里はよく笑ったのだ。そんなことも忘れていた。そしてその笑顔を思い浮かべることができなくなっていることに気付いて、稔は静かに笑った。
F市でのプレゼンが中止になったため、稔は定時で帰宅した。麻里には帰りが遅くなる旨を伝えたまま、変更の連絡をするのを忘れていた。
気付いたのは自宅のチャイムを鳴らした後だったが、麻里は驚いた様子もなく「おかえりなさい」とドアを開けた。「早かったのね」とかなんとか言ってくれればいいものを。以前はこちらの返事する暇も与えないほどに質問を浴びせてきたのに。
この街をタロウさんが飲み込んで以来、麻里はすっかり変わってしまった。
結婚して一年も経っていなかった、あの日。麻里が有給休暇を消化しようと思い立たなければ。もしくは稔も麻里に合わせて休みを取っていれば。いや、タロウさんがこの街にやって来たりしなければ。
こんな抜け殻などではない、ちゃんと中身のある麻里と最後に交わした会話を今でも覚えている。
「なにかあったら連絡して」
「なにもあるはずがないでしょう」
「じゃあいってくるよ。早く帰るね」
「いってらっしゃい。美味しいご飯を作って待ってるわ」
しかし、待っていたのは朝までの麻里ではなかった。
なにかあったら、とは言ったものの、それはただの挨拶みたいなものだった。夏のことだったし、当然タロウさんの災害情報は毎日のように見聞きしていたから危険は承知していたし、毎朝ネットでタロウさん出現予報をチェックするのも怠らなかった。
そうはいっても相手は自然現象。必ず当たる予報というものはない。
稔はその日の予報に自宅地域が含まれていないことを確認していた。それでもタロウさんは現れた。そして飲み込んだ。人々の――なにかを。
飲み込まれた人々の身体は、医学的にはなんら異常はみられないという。問題なく日常を送る能力は残っているし、必要最低限のコミュニケーションもとれる。つまり、元の人格を知らなければ、飲み込まれたことがあるかどうかはわからないのだ。
麻里のことにしたって、他人に彼女の変化を伝えようとしても、なにをどう説明すればいいのか稔にもわからない。笑顔がなくなっただの、口数が減っただの、細かいことはあげられるが、それがタロウさんの影響だとわからせるだけの根拠などなにもないのだ。ちょっとした気分で変化するような些細なことばかりで、ただなんとなく、としか言いようがない。
だが、悪くないこともある。タロウさんが既に来たおかげで、これから先の日々を怯えて過ごさずに済む。タロウさんは一度飲み込んだことのある土地には二度と訪れないという習性があるからだ。そのため、過去に飲み込まれたことのある土地への移住希望者は多い。この街も地価が上がっていることだろう。
しかしいうまでもなく、飲み込まれた人の夫としてみれば、悪くないことよりも良くないことの方がはるかに重要なのだ。
ここにいるのはただの抜け殻なのに、かつての麻里の面影を求めて日々を重ねてしまう。
社会的な能力が失われたわけではないから、仕事をすることも可能だ。だが、稔は麻里に仕事を辞めてもらえないかと希望した。麻里は嫌がりもせず、喜びもせず、ただ受け入れた。
万事がこの調子だった。
幸せ、ではない。けれども不幸でもなかった。抜け殻でも偽物でも麻里にいてほしかった。
それでもふいに思うことがある。ならば自分は麻里のなにを愛していたのだろうかと。
麻里が作ってくれた朝食をとりながら、スマホ片手に日課となっているチェックをする。
まずは天気予報。今日も暑くなりそうだ。ところにより雷雨とある。帰宅時に重なったらいやだなとぼんやり思う。
次にタロウさん出現予報。午後からこの街に出るらしい。二度目はないのだから怖がる必要はない。が、続きを読んで、稔は腰を浮かせた。
『夕立があるかもしれません』
稔は急ぎ身支度をすると、「じゃあいってくるよ。早く帰るね」と麻里に声をかけて職場へと向かった。
始業のチャイムが鳴るなり、藤井が寄ってきた。
「石橋。この前のプレゼン資料はどうした?」
「F市のやつですか? シュレッダーにかけちゃいましたよ」
「急いで作り直せ。昼から行くぞ」
「えー。おれ、今日、半休っすよ」
「返上しろ」
「……うち、夕立が来るんですよ」
稔の思いつめたような口調に、藤井は「それがどうした」と言いかけて口を閉じた。
「タロウさんのか」
「ええ。タロウさんのです」
稔の事情を知っている藤井はううと唸った。
「――わかった。おまえは来なくていい。夕立までに帰れ。だがその前に資料は用意しといてくれ」
「はい。すぐ用意します」
午後、藤井がF市へ向かうのを見送ると、稔は帰路を急いだ。自宅方面に見事な入道雲がそびえている。タロウさんだ。
タロウさんと他の入道雲の違いは明らかだ。タロウさんには一目でわかるほどはっきりとした、ほかとは異なる特徴があった。虹の輪をかぶっているのだ。花冠のように。
車窓から眺めるタロウさんは姿を変えつつあった。尖っていた頂が横に広がり傘を広げたようになる。それに伴い、虹も消えた。電車は傘下へと進む。
自宅最寄駅の改札を出ると、空は煤のように暗い色のタロウさんに覆われ、そのボコボコした凹凸と閉塞感は巨大な生物の体内を思わせた。冷たい風が吹く。予報は当りそうだ。
積乱雲は大気の状態が不安定な時に発生するため、夕立を伴うことも多い。その点はタロウさんも例外ではない。
ポツリと額に始まりの雫を受ける。すぐさま叩きつけてくる大雨の中を走る。チャイムのボタンに指を伸ばしたところで玄関ドアが開かれた。
「おかえりなさい。まあ、こんなずぶ濡れで。傘を持って行かなかったの? ほら、早く上がって着替えちゃいなさいよ」
麻里はかいがいしく稔の服を剥ぎ取っていく。シャツはおろか下着まで重く濡れて肌に張り付いているのを剥がすのは容易ではない。
「もうっ、稔さんったら、少しは自分で脱いだらどうなの?」
笑いながら責める麻里を、稔は無言で抱き締める。
「ちょっ、だめよ、やめてってば。わたしまで濡れるでしょ! 今タオルを持ってくるから、ちょっと離してよ」
叱るような言葉とは裏腹に、麻里は稔の濡れた前髪をそっと後ろへ撫でつけてくれた。
ゴロゴロと低く鳴り響く雷鳴。稔の耳には、ご機嫌な猫が喉を鳴らす音のように聞こえた。
光が弾ける。
キャッと叫んで麻里が稔に抱き着いてきた。
家中が発光し、瞳孔が勢いよく絞られる。
麻里の髪に鼻をうずめ、強く抱き締める。二人の鼓動が重なる。
バリンッ! バリバリバリ……
割れて、砕け散る。
ゴロゴロ鳴く猫は次第に遠ざかる。
穏やかな明るさが戻ってくる。窓の外には、キラキラ輝く街並みと鮮やかな青い空が広がる。スズメたちの声がやけに澄んで響く。
腕の中から麻里がするりと抜けだした。表情が消えている。無言で床に散らばった濡れた衣類をかき集め、稔のことを一度も見上げずにランドリールームへと向かっていく。
稔はその場に膝をつく。麻里が立っていた場所に両の掌を当てたところで、どんな名残りも感じられない。
うつむいた頬に濡れた髪の束が落ちる。鋭く尖った先端から滴がポタリポタリと伝わり零れる。
床にはいくつもの小さな水たまり。窓からの光を受けてきらめいている。
視界に麻里のつま先が現れた。顔を上げると手にタオルを持っている。受け取ろうとして右手を差し出すが、麻里はそのまま濡れた床を拭き始めた。
行き場を失った右手を空にかざしてみる。
日射しの温もりは、麻里の手を思わせる温かさだった。
(了)
企画『ELEMENT 2017夏号』参加作品です。
ELEMENT(葵生りん様 主催) は合同誌形式の企画です。
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