第五話
薄暗い部屋には、天井に届くかのような背の高い棚が所狭しと並べられていた。棚と棚の間は人一人がるほどでしかなく、その棚にも両の手のひらで包めるほどの大きさの小道具が、落ちないのが不思議なくらいに陳列している。
薄暗さの理由は、わざわざ窓にかけられた黒い天幕だ。日光を完全に遮る分厚い布が、全ての窓に掛けられている。天井に吊るされた小さなランタンの橙色の灯りが、ここの唯一の光源だった。
掃き掃除くらいはしてあるのだろうが、複雑に入り組んでいるためかどこか埃っぽさの残る部屋の中。そんな店の扉が音を立てて開き、二人の女性が入ってきた。
一人は雪のように白い髪をフードから覗かせ、もう一人は癖のある金髪を短く揃えた人形のような雰囲気を持っている。
「お邪魔するわ……魔術具店オリビアはここでよかったかしら?」
鈴のように涼しげな声が、フードの奥から発せられた。
特に大きな声だったわけではない。だが、魔術師特有の呼吸法によって発せられた彼女の声は、不思議とよく響いた。
「……誰もいないのかしら」
微かな残響と共に消えていく自身の声を聞きながら、軽く首を傾げる。しかし、扉に鍵がかかっていなかったのだから、と一歩を踏み出すと、一気に顔が強張った。
「結界ね」
「……本当」
踏み出した足を引き戻しながら告げると、同行していた金髪のハーフエルフが目を見張る。彼女は結界師を自負しており、結界魔術への造詣は深い。その彼女が、気付けなかった。それほど、高度に隠匿された結界。
無表情だった唇の端がわずかに歪む。
「リノン、解けるかしら?」
「……試してみる」
スッ、とリノンの顔が引き締まる。
結界師。結界術を専門とする術師を指す名称。それを自称するリノンには、それ相応に自らの結界術への誇りがある。
開かれた扉が収まっていた、四角形の空間を覆うように構築されたそれは、必要最低限の魔力を使い、必要最低限の効果のみを具現化したものだ。つまり、非常に脆い。わずかでも無理な力が加われば即座に崩壊してしまうだろう。
結界は、より固く、頑丈に構築することが求められると思われがちだ。得に冒険者たちからはその傾向が強い。しかし、実際には少し異なる。結界に強度が求められるのは、かなり希なケースなのだ。
繊細な結界を扱えるのは、結界師として一流かどうかの登竜門である。
水滴を針に沿わせ一滴ずつ落とすように、慎重に魔力を操る。僅かでも無理があれば、すぐに崩壊してしまうだろう。そんな、奇跡的なバランスでもって構成された結界を、慎重に解析していく。
気が遠くなるような数分の後、リノンの頭に魔術式の全貌が浮かび上がった。
「これ……《警報》」
どこか拍子抜けしたような表情でつぶやく。
《警報》は初級の結界術の一つで、魔力の膜に何らかの干渉を受けた際術者にそれを知らせる効果を持つ術式だ。どの程度から干渉と認識するか、というところまで設定するにはある程度の知識と技術が必要とされるが、物理的干渉だけであれば結界術の指南書の一番初めに掲載されるようなものである。
警戒して損をした、とその顔には書いてある。
「そう馬鹿にしたものではないわよ。わたしが以前住んでいた屋敷にも《警報》の結界はかけられていたわ。警備システムはそれを核として構成されていた。そのおかげで実体非実体問わず、侵入者を通したことはないもの。……残念ながら、構築したのはわたしではないけれど」
最後の言葉は顔をしかめながらつぶやかれた。
ちなみにその屋敷では、《警報》の結界を自動迎撃術式とリンクさせ、登録されていない存在が、門を閉じたときに扉が収まる直方体の空間以外から侵入を試みた場合には非殺傷仕様の上級攻撃魔術がノータイムで意識を失うまで放たれ続ける、という警戒システムが構築されていた。
これは外部動力によって稼働するため、術者が長期間不在していたとしても問題ないという、結界術の常識を根底から覆すような代物だ。当然、世界に一つしか存在しない最強レベルの侵入者警戒用魔術群である。
「まあ、魔術具店の入り口に仕掛けられているのであれば、ベルの代わりでしょう。気にせず入りましょう」
「うん」
そして、ようやく二人は敷居を跨いだ。
わずかに魔力が流動し、奥から腰を曲げた背の低い老婆が現れる。
「いらっしゃい」
「生産道具がほしいのだけれど」
「ふむ、お前さん、生産職人かぃ」
しわがれた声でそういう老婆に、キセアはゆっくりと首を振る。
「わたしは魔術師で、魔工技師よ。錬金術と付与術が専門なの」
「ほぅ、それは珍しい。予算はどれくらいを考えておる?」
キセアは懐から銀貨の入った袋を取り出し、告げる。
「銀貨十五枚、といったところね」
「足りんの。最低でも十八枚は要る」
皺の多い顔をしかめ、言下に切り捨てる老婆。
生産道具は高い。特に、魔工技師用のものはなおさらだ。
それは生産に携わる者にとっては常識であり、それでもその高い投資以上に利益を生み出すのが魔工技師である。ゆえに、魔工技師は全生産職人の憧れの的となっている。
「それを見せてもらえるかしら」
「……少し待っておれ」
老婆は店の奥の扉をくぐり、数分でいくつかの箱を抱えて戻ってきた。それぞれを指示しながら説明する。
「これは魔法薬を調合するための一式じゃ。付与のための定着材なども作ることができる。こっちは、魔力を一時的に蓄えて増幅、指向性をもたせるためのもの。付与術の補助に使う。これは……」
十分ほどの時間をかけ、すべての説明を聞き終える。どれもキセアには身近なもので、これらのはるかに品質の高いものを最近までは持っていた。
「性能が低い……まあ仕方ないわね。とりあえず、この調合道具一式をいただくわ」
「銀貨二十枚じゃの」
老婆の言葉にキセアのほほがひきつる。
提示された額は、本日得た報酬と同額。購入することはできるが、購入してしまえば一文無しである。
「……………………か、買うわ」
長い葛藤の果てに、キセアは銀貨の入った布袋をそっと押し出した。老婆は無言で袋の中身を確認し、軽くうなずいて調合道具一式の入った木箱を押し出した。
「ほれ、商品じゃ」
「ありがとう……」
疲れた表情で木箱を受け取ると大切に胸に抱える。
成り行きを見ていたリノンがキセアの服の裾を引っ張った。
「何かしら?」
「そろそろ行こう」
気づけば昼過ぎである。しかも依頼に出ていたため、色々と歩き回って疲れているしお金もないので食事をとっていない。
そのことを自覚すると、キセアの腹がくぅと小さな音を鳴らした。
「……そうね。そろそろ行きましょう」
羞恥にほほを赤らめてそうつぶやき、老婆に向けて礼を言うとリノンを連れて店を後にした。
「ごめんなさい。報酬、すべて使うつもりはなかったのだけど……」
歩きながら、キセアは落ち込んだ声で謝罪する。
テンションに任せて購入してしまったが、もともとは生活費として多少は残しておくつもりだったのだ。だから予算は銀貨十五枚としていたし、実際キセアにその額を超えるつもりはなかった。
「構わない。そのお金はキセアが稼いだもので、私は何もしていないから」
平坦な声で、リノンはそう答えた。
「ただ、初めから本当の予算を教えてはダメ。それに、値切れる場合も多いから聞いてみるべき」
「……そうなの?」
その言葉に、キセアは何度か目を瞬かせる。
「言ってくれればよかったのに」
「常識だと思ってた」
確かに常識である。金欠民にとっては、であるが。
ある程度の資金を持っている人であれば、店売りの価格を値引こうとは考えないある程度の価格帯の店になればそれなりの客層を意識しているため、値引こうというそぶりを見せると嫌われることもある。
ただし、多種多様な客が訪れる屋台などであればその限りではない。そのあたりの線引きも店や街によって異なるため、長い間その土地に住んでいなければわからないことも多い。
そんなことをつらつらと話しながら歩いていると、宿が見えてきた。
無骨な木製の扉に傾いた看板。先ほどの魔術具店オリビアとは大違いである。
「……お金がないわ」
儲けはすべて使ってしまった。キセアの所持金は、昨日の残りである銅貨2枚のみである。これでは、夕食を食べるのが精々だ。
野宿かぁ……と消沈するキセアに、リノンがちょっとだけ嬉しそうに口元を緩めた。
「問題ない。パーティの財布は共通、今夜は私が払う」
「え? でも……」
お金を使ったのはキセアのわがままで、ついでにその論法では報酬の銀貨を使う権利はリノンにもあったはずである。
そのことを指摘すると、リノンはリスのようにほほを膨らませた。かわいい。
「細かい女は嫌われる」
「それは男よ。そして、銀貨10枚は細かくないと思うわ」
「むぅ」
リノンはふくれっ面のまま、そっと視線をそらした。
「生産に投資が必要なのは知ってる。払った分は後で返してくれれば問題ない」
「リノン……」
確かに、リノンの言う通りだ。
キセアの生産技術は、生産道具があってこそ活きる。一晩宿代を提供すれば、それをはるかに上回る……その技術さえあれば将来は約束されるとまで言われる魔工技師の、さらに言えば一般的な魔工技師など相手にならないほど高い技量を有するキセアだ、すぐに銅貨数枚などとは比べ物にならない額のリターンが期待できる。
キセアの技量を垣間見ただけのリノンだが、それは簡単に想像がつく。だから生産道具を買うのにも一切反対しなかったし、そのために困っているのであれば手助けもする。
……まあリノンの場合、そんな打算ではなく、初めてできた仲間に喜んでほしいだけである可能性が非常に高いのだが、それならそれで彼女の美徳だろう。
「ありがとう。早急に返すわ」
「うん」
幾ばくかの逡巡の後にキセアが了承し、リノンはぱっと花開くような笑顔を見せた。それを見たキセアがほほを赤らめる。
「相変わらず、反則級の破壊力ね……」
どくんどくんと鼓動を刻む胸を手で押さえてつぶやく。リノンはよくわからなそうに小首をかしげていた。
宿屋リーガーで量しか取り柄のない食事を胃に流し込み、部屋へと戻る。木箱を開けて中身の調合道具を一通り見たキセアは、軽く眉をひそめた。
「分かってはいたけれど、品質は良くないわね」
当たり前だ。
これまでキセアが使っていたのは、全てがオーダーメイドの超高級品。どれか一つだけでも、王都の一等地に邸宅を建て、そのうえで数年間は遊んで暮らせるだけの額が必要になる。それも、素材持ち込みで、である。その素材というのも、ほとんどが一般には流通しない希少なものばかり。王侯貴族が独占してしまうので、自分で入手しなければまず手に入らないのだ。
そんなものと店売りの最低ランクの道具を比べる方が間違っているのだが、あいにくとリノンはそんなことは知らない。
故に、
(キセアはやっぱり腕が良かったんだな)
程度の認識でしかなかった。
「リノン、明日も森に行ってもいいかしら? いろいろと採取しないと、生産すらできないわ」
「……どうしようか」
「何か懸念でも?」
キセアの問いかけに、リノンは小さくうなずいた。
「黒大蛇がいた。蛇種は臭いが強いから、まず他の魔物は近寄らない」
「隠密に優れているのに臭いが強いというのも変な話よね」
「そのあたりは学者の領分。それで、私たちのランクでは、あの場所以外は入れない」
リセリアの街において、冒険者のランクとは絶対だ。
それは、強さを表すという意味ではない。流浪の旅人すらもが絶大な力を必要とするこの土地で、ランクほど強さを知るのに当てにならないものはない。
アスラ大森林。
人類と魔物の、生存領域を奪い合う争いの最前線の一つ。
そこでは、魔物を必要以上に刺激しないため、ある程度以上の深い領域に入るためには冒険者組合や領主といった公的権力の許可が必要となる。その、許可が出るか否かに大きく影響を与えるのが冒険者のランクだ。
この街では、ランクは強さを表すものではない。
街への貢献度、あるいはそのものが積んできた戦闘経験の量を表すものである。だからこそ、ランクが高いということは信頼が厚いということだ。当然、ランクE、ランクDなどの低ランクの冒険者は信頼が薄く、深い領域への進入許可が下りることは滅多にない。
というわけで、キセアたちに進入が許可されているのは、黒大蛇と遭遇したあの森の浅い部分のみなのである。この部分も、慣例的には立ち入りは禁止ではあるのだが、この面倒な規則にもいろいろと理由があるらしい。
ちなみに、このあたりのことはきちんと規約に明記されているので、破ると普通に罰則がある。
「そういうわけで、今森に入っても稼げる可能性は低い」
「そうなのね……」
単純に、黒大蛇のいなかった場所に行けばいいと思っていたキセアだが、リノンの言葉を聞いて考え込む。
「……まあ、わたしとしては、討伐でなくても構わないのよね。素材が欲しいだけなのだから」
キセアが望んでいるのは、魔法薬調合のために必要な素材の収集だ。ならばむしろ、魔物が少ないのは好都合。のんびりと採取ができてありがたい限りである。
しかし、問題が一つ。
「ただ、一回の採取で材料が揃うとは限らないし、それまでは収入がなくなってしまうのよ。作ってもすぐに販路を確保できるとは限らないし。……わたしの作る魔術具は、ちょっと特殊だから」
性能がバグっている、という意味である。なので、売るにしても足がつかない売り方をしなければ、生産組合あたりから追っ手をかけられかねない。技術を教えてくれと。
生産職人の執念の怖さというものを実体験で知っているキセアは、それを思い出してぶるりと身を震わせた。
そんなキセアを、リノンが不思議そうに見つめる。
「というわけで、悩みどころね。生産ができるまでずっとリノンにお世話になるわけにもいかないし」
「構わないのに」
「なんだかね。そうすると何かに負ける気がするのよ」
ランクD承認試験も近づいている。そうなってしまうとしばらく稼げないため、早急に何とかする必要があった。
「というわけで、森から離れる方向にある狩場に行きましょう。二日あれば十分でしょうし、一番簡単なポーションの材料くらいなら手に入るはずよ」
試験まであと三日。準備期間……キセアには必要ない気がするが、それは置いておくとして。二日あれば、それなりに遠出できる。
「まず、生産に絶対必要となるのがヒポネ草よ。良し悪しの判断が面倒なだけで、これは近くで採取できるわ」
初級冒険者の金欠脱出アイテムでもあるヒポネ草。これは魔法薬を調合する際の溶媒となるため、生産をするときに必須とされるものの一つである。
通常、良し悪しを判別する職員が別にいて、大量に採取されるヒポネ草を判別しているため、店で買うと入手難易度に比べてかなり高額となってしまう。それでも駆け出しでない限り購入することをためらう必要のない程度の価格でしかないのだが、キセアたちにとっては痛い出費だ。自分で判別できるのだから、自分で採取してしまった方がいい。
「それに、各種の薬草がほしいのだけれど……最悪、これはなくても大丈夫。あとは、ギリクの根の粉末ね」
「ギリクならネーマ湿地帯。頑張れば一日で帰れる」
「決まりね」
「けど、薬草は採れない」
リノンが心配そうに言うが、キセアは「構わない」と首を横に振った。
「薬草はどうにかできるけれど、ギリクの根は代替が効かないわ」
というわけで、明日の目的地は決まった。
向かうはネーマ湿地帯。
リセリアの街から、馬車でおよそ半日進んだ場所である。