夏休み前
「さぁ、みんな、夏を前に絞り込むんだ!」
明人の通うフィットネスクラブ。
そこで指導している先生と呼ばれる老人が、今日も元気良く夏を前に体を鍛えようと周りに話しかけていた。
「魅力的なボディで女の子の心を鷲掴みじゃ!」
ルームランナーで走り込んでいる明人も、汗だくになりながら叫ぶ。
本人は、苦しくてそれどころではないと言うか、何を叫んでいるのかも曖昧だった。
「鷲掴みだ!」
「いいぞ、兄ちゃん。その鍛えた体を砂浜で晒せば女の子が寄ってくる! このフィットネスクラブに来て良かったと確信するぞ!」
「確信するぞ!」
本来、ゲームでの体の動かし方をマシにするため、リアルの体を鍛えていた。
明人はそんな事も忘れ、今は夏に向けて体を鍛えている。
全ては海でナンパをするためだ。
そんな様子を見ている二人の女性がいた。
体に張り付くような運動着を着用しており、二人の体型が実に素晴らしいと一目で分かる恰好だ。
一人は特に胸が大きい。
葉月弓――ゲームではノインと名乗ってプレイをしている。
近くにいるのはフラン――如月レオナだった。
二人ともゲームにあまり興味もなく、自分の姿を基準にアバターを作成している。そのため、アバターと似ているが……明人は気が付いた様子がなかった。
弓はスポーツドリンクを飲みながら、走っている明人を見ている。
「鳴瀬君、今日も頑張っているわね。これは夏に勝負をかけるつもりだな」
高校生男子が考えている事など、二十を過ぎた弓には手に取るように分かった。
そもそも明人も健全な男子だ。
チャンスがあればやるのだ。
レオナは肩にタオルを巻いて、両端を握っていた。
「私たちは今年で最後の夏休みだな」
大学生の二人は、今年で卒業する。
弓は思い出したくなかったと頭を抱えていた。
「一夏の思い出なんてまったく縁がなかった。もっと遊んでいたい」
レオナは呆れている。
「お前は十分に遊んでいるだろうが」
二人とも既に就職先が決まっていた。
今の時代、就職するだけなら問題なく就職できる。
何しろ、選択肢が最初からほとんどないのだ。
弓は頬を膨らませていた。
「就職前に大人の女になりたかったの! それより、なんで今年は海外旅行をキャンセルしたの?」
弓の疑問にレオナが答えた。
「オープンするリゾートホテルに招待されたからな。今年はノンビリするさ」
二人は走っている明人を見ている。
そのまま世間話をしていたのだが、その様子を少し離れた場所で見ている女性たちがいた。
夏を前に体を鍛えている女性たちだ。
「あの二人余裕よね」
「普段から鍛えているからスタイル良いのよ。それにしてもさぁ……」
「あの二人、いつも鳴瀬君だっけ? よく見ているよね」
会えば挨拶をする程度の関係のようだが、二人は良く明人を見ていた。
その様子を周囲は怪しんでいる。
「二人とも実家は金持ちだったよね? 狙っている男は地味すぎない?」
「遊びじゃないの?」
「でも、あの二人……さっきから十分くらいずっとあの子を見ているわよね」
ルームランナーで苦しんでいる明人には聞こえない会話だった。
夏休みが近付く季節。
学園の教室では、明人の席に摩耶がパンフレットを持ってきた。
受け取ったパンフレットには、リゾート地の内容が書かれている。
「これ、高級リゾート地? ホテル代とか大丈夫なのかな?」
摩耶は首を横に振る。
「まぁ、高級ホテルではあるけど、今回は招待されているから宿泊費は必要ないわ」
施設は揃っているが、高級リゾート地という訳ではないらしい。
確かにホテルは高級だが、それ以外の宿泊施設も揃っている様子だ。
「こんなところに泊まって良いのかな?」
「問題ないわよ。ライ――知り合いのおじさんがそこの偉い人だから」
経営している会社の社長などとは言わない摩耶は、明人にチケットを見せる。
「それなら嬉しいんだけど……でも、委員長と先輩の三人だよね? 三人で一部屋って駄目だと思うんだけど」
摩耶は明人から見えない位置でニヤリと笑った。
だが、すぐに表情を取り繕う。
「平気よ。少し高い部屋だから、寝室は別になるの。やっぱり季節柄、部屋数を確保するのが大変みたいでね。この部屋しか空いてなかったのよ」
家族向けの部屋のようで、確かに寝室が二箇所用意されていた。
「なら大丈夫だね」
「気にしすぎよ。それから宿泊日数は二日ね。二泊三日の旅行だと思えば良いわ」
二泊三日と聞いて、明人は楽しそうにしていた。
ワクワクしているのが摩耶にも分かった。
明人は言う。
「凄いね。二泊も出来るんだ!」
「えぇ、そうよ」
(そう、二泊しかないの)
流石にそれ以上は日数を確保できなかった。
その事を摩耶は悔やむ。
(なんとか二日で色々と成功させないと)
楽しそうにしている明人を見ながら、摩耶は頭の中で計画を練るのだった。
(二人きりだと警戒されるからあの女も呼んだけど、出し抜かれないようにだけ注意しないと。おじ様がくれたこのチャンス……次こそはものにしてみせる!)
夜。
女子寮では八雲が先輩に話を聞いていた。
「男を誘う方法? 八雲ちゃん、あんたには必要ないって」
呆れる先輩に、八雲は必死に頼み込むのだった。
「必要だから頼んでいるんです! 先輩、もう何人もの男性と付き合ったって聞きました。私にもその方法を教えてください」
「……人を尻の軽い女みたいにいわないでよ」
先輩が溜息を吐きつつも、必死な八雲を見て腕を組む。
「私も三人しか経験ないし、それにまともに付き合ったのは一人だけなんだよね」
八雲は正座をしながら話を聞いていた。
「そもそも男なんてすぐにやりたがるから、特別何をした、って訳じゃないからね。取りあえず体を綺麗にして準備だけは欠かさない程度?」
手を上げた八雲は先輩に質問する。
「そ、それだけですか? 他に誘う方法とか……一服盛るとか」
「あんた私を何だと思っているの? そもそもそんな方法を考えるのは男でしょ。あんた、男から飲み物を出されたら注意をしなさいよ。まぁ、そんな事をする奴なんていないとは思うけど」
八雲は内心でギクリとしながらも、曖昧な笑みで話を流した。
過去、八雲は明人に一服盛っていたから笑えない話だった。
「取りあえず雰囲気を作らないでも男の方から持っていこうとするんじゃないかな? 二人になれる場所に行けば良いよ」
八雲は先輩からのアドバイスを受け、一人の女の顔が思い浮かんだ。
(そうなると、やっぱりあいつが邪魔ね。海に誘われなければ、私が明人を誘って夏に全部終わらせていたのに)
普段近くにいる摩耶と違い、八雲はアルバイト先での関係だ。
話をする時間は圧倒的に少ない。
なので、学校が休みの間――夏休み中が、八雲にとってのチャンスでもあった。
(取りあえず、二人になればいいのよね? なんとかあの女から明人を引き離さないと)
夏に向けて、それぞれの思惑が動き出す。
パンドラのサーバーが置かれている施設。
そこには大勢の人が作業をしていた。
浮いている卵を半分にしたような乗り物には背もたれがついていた。
本来なら成人男性が座っても余裕があるはずなのに、情報屋――現実世界の情報屋が座ると非常にきつそうに見える。
以前よりも体重は更に増え、卵形の乗り物には食べ物が外付けされた荷物入れに入っていた。
それを次々に食べる情報屋は、作業を見守っている。
月から運び込んだ装置がセットされ、パンドラは本当の意味で完成しようとしていた。
「う~ん、いよいよだね」
そんな浮いた乗り物に乗っている情報屋に近付くのは、背が高く黒髪ショートの女性だった。
スタイルも良く、サングラスをしていて目元は見えないが美人だった。
「順調のようね。これならサービス開始は九月かしら?」
そんな女性に振り返らず、情報屋は手元の機械を操作して映像を表示する。
周囲には立体映像が幾つも浮かび上がった。
卵形の乗り物は、月から持ち込んだ品の一つである。
「作業は元から進めていたからね。装置の設置が完了するのは八月上旬だよ。そこからテストをするわけだけど、ほとんど終わっているから安心してくれ。八月半ばにはサービスを再開できる」
女性【ミラ】はサングラスを外した。
「最後の大型アップデート……もう少し時間をかけてもいいんじゃないの? 失敗されても困るわ」
「……どうにも五月蝿い鼠がいるらしいんだ」
情報屋は一つのデータをミラに見せた。
彼女は月に襲撃をかけた際にも同行しており、情報屋とはかなり親しい人物である。
情報屋は説明を続ける。
「違法アクセス。それも内部情報を知っている奴が関わっている。何も出来ないとは思うけど、早く計画を進めておきたい」
ミラはデータを見ながら目を細めた。
「……どこに潜んでいるのかしら? 私ならすぐに部隊を動かせるわよ」
情報屋はジャンクフードを口に押し込み、それを炭酸飲料で胃に流し込んだ。
「場所が特定できないんだ。だから、早く計画を――」
すると、情報屋の乗った乗り物をミラが蹴る。
蹴り飛ばされた乗り物から、情報屋が転げ落ちて立ち上がれずにいた。
「な、何をするんだ!」
抗議する情報屋に対して、ミラは頭を踏みつけて応えてやった。
「内部情報を知っていて場所の特定も出来ない鼠? いいことを教えてあげるわ。それは鼠とは言わないのよ。個人なのか、それとも組織なのか知らないけれど……放置して良い相手じゃないわよね?」
苛立っているミラを前にして、情報屋は床に押しつけられつつ答えた。
「わ、分かった。すぐに調べる。だから離してくれ」
ミラは足を情報屋からどけると、そのままスマホを手にする。
電波状況が悪いので部屋を出て行く事にした。
「すぐに対応しなさい。それと、計画を早めるのね」
部屋を出ていくミラの背中を見ながら、情報屋はなんとか起き上がり乗り物に乗り込もうと四苦八苦するのだった。
結局、作業員の手を借りて再び乗り込むとそのまま部屋を出て行くのだった。
「ふざけやがって。あの女……あいつの右腕を気取りやがって」
リゾート地。
そこに前からある宿泊施設を借りた元大臣。
そして、集まったオークプレイヤーたち。
その中の一人の女性が、耳に手を当てていた。
元大臣が視線を向けると、女性はニヤリと笑う。
「ダミーに人が入ったようです」
それを聞いて、軍人のような男性が腕を組みつつ小さく溜息を吐いた。
「ようやくか。随分と遅かったですね」
本来ならもっと早くに襲撃されると思っていた。もしくは、自分たちの行動が特定されているのかと焦りもした。
しかし、敵の動きは想像以上に鈍かった。
元運営の幹部がそんな落ち着いた集団を見て一言。
「頼もしいのに、ゲーム内はアレなんだよなぁ……」
元大臣が笑顔で話を進める。
「いいじゃないか。我々は同志。それ以上でも以下でもない」
共通のアレというのがドMという集団。
元幹部は黙っていれば実の頼もしい面子なのにと思いながら、元大臣の話を聞く。
「さて、我々の方を敵がようやく目を向けてくれたところだが、状況は悪いとしか言いようがない」
既に月から装置を運び込み、パンドラは完成を迎えようとしていた。
六つ目の世界が解放され、そして七つ目の世界がプレイヤーたちを待ち受ける。
プロレスラーの男が膝の上で手を組む。
「よく分からないが、現実世界への侵食って言う奴か? アレは最近特に身近に感じるな。知り合いが趣味の道具を売り払って安い部屋に引っ越したんだ。理由を聞いたら、パンドラをプレイするのに不要だから、ってさ」
ストイックを通り越していた。
人生のためのゲームではなく、ゲームのための人生……そういったプレイヤーが増えている。
元幹部がタブレット端末にデータを表示させ、それを机の上に置いた。
「奴らは準備を整えた。今から計画を止めたいなら、直接サーバーが置いてある施設に乗り込むしかない」
女性がアゴに手を当てる。
「奴らがやった事を真似るわけだ」
「そこは奴らも警戒しているだろうな」
「二十四時間、誰かがログインしている状況で強制終了はお勧めしないわよ。破壊できないって問題じゃない?」
それぞれ、意見を出し合っていた。
元幹部が一つのデータを見せる。
「サーバーがある施設には新型炉が繋がっている。奴らは、全てが完成したと同時に地球を人が住めない星にするつもりだ。もしも強行突破すれば、新型炉を暴走させるかも知れない」
元大臣が真剣な顔になる。
「そういう事だ。無闇に攻め込めない。だが――」
元幹部が説明を引き継ぐ。
「あいつらが計画を成功させる直前。そこならつけいる隙ができる。憤怒の世界を解放後、奴らは全員で仮想世界に避難するはずだ」
地球に人が住めないようにする。
生き残る場所は仮想世界のみ。
そして、最も人気があって人を満足させてくれるのは、パンドラだけだった。
元大臣が告げる。
「動かせる人数も少ない。本当にギリギリの瞬間を狙う事になる。さて、その前に……私たちのギルドマスターにも覚悟を決めて貰おうじゃないか」
夏休みを前に浮かれている明人たち。
その裏では人類の命運を賭けた戦いが始まろうとしていた。