6 懐へ
夜8時、下滝は町崎の住む大田区のマンションにやってきた。
勤務時間外の付き合いとして、ここには殺された大渡前社長と共に、一度だけ招かれたことがある。
教えられた通り、1回フロアの町崎の部屋に繋がるインターホンを8、0、2の順に押して、町崎を呼び出した。
「こんばんは。下滝です。」
『ああ、今から開けるよ。』
ノイズ混じりの町崎の声が、スピーカーから聞こえた数秒後、ドアのロックが解除される。
自動ドアの向こうに踏み入れると同時に、イヤホンから志麻の声が流れた。
『入ったな?』
「ああ…。」
『今のところ人はいない。そのまますぐにエレベーターに乗り込め。』
下滝は声を潜め、出来るだけ口を動かさずに応えつつ、下滝は言われるままエレベーターの上昇スイッチを押すと、右側のエレベーターは1階で待機していたようで、すぐに扉が開いた。
『まだ5階は押すなよ。今から7階の左エレベーターに人が乗る。そいつと入れ違いになるようにするんだ。』
志麻は、エレベーターの起動を住民に悟られないように指示する。
『よし、8階を押して扉を閉めろ。とりあえず、15階…その辺の階も押しとけ。その階でエレベーターを止めるのはマズからな。』
エレベーターは、独特の小さな重力を下滝に与えながら8階へと上昇する。
数十秒後、甲高く短い音が、指定した階への到着を告げ、下滝はエレベーターから8階フロアのエレベーターホールに足を踏み入れた。
『んじゃ、そのまま非常階段の踊り場で待機だ。人が来た。エレベーターから見えないようにしろよ。』
指示通りに踊り場で息を潜めていると、廊下の向こうから足音が近付き、エレベーターの前で止まった。
数分待っていると、15階へ上昇し、再度8階へ戻って来たエレベーターが開いたようで、足音はその中へ吸い込まれて行った。
『よし。オーケーだ。あとは町崎の部屋に行ってくれ。』
町崎の部屋は、エレベーターのすぐそこだ。
下滝は、イヤホンを外し、鉄扉の隣に取り付けられているインターホンを押す。
数秒後、扉から町崎が顔を出した。
「おお、待ってたよ。ほら、いいから、入って入って。」
丁寧に堅苦しく挨拶する下滝に痺れを切らし、町崎は無理矢理部屋に招き入れた。
「町崎さん。これ、よろしければ。」
リビングに通された時、下滝は町崎に縦長い紙袋を差し出した。
ここへ来る途中に購入した、中瓶の日本酒だ。
「日本酒がお好きだ、と聞きしましたので。」
「ありがとう下滝君。どこで私がこれが好きだと聞いたんだ?」
「・・・亡くなられた、大渡社長からです。前に商談の話をしながら夕飯をご馳走になった時に、おっしゃっていたことを覚えていましたので。ああ、そうだ、商談・・・今日はその事についてお話をしたくて伺ったのでした。」
下滝は本題を切り出した。
それに応えるように、町崎は下滝をソファーへと促す。
「おお、そうだったな。とにかく座ってくれ。」
「失礼します。」
二人掛けソファーの左側に、慣れた手つきで畳んだトレンチコートとオフィス鞄を起き、自分はその隣に腰を下ろした。
黒鳶色のテーブルの灰皿が、澄んだ漆に映り込み逆さになっている。
さすが、高級住宅街のマンションだ。
町崎の住むこのマンションの一室は、吹き抜けとなった高い天井から上品な曲線を強調した笠の電球がつり下げられ、広々としたロフトがリビングを見下ろす、とても贅沢な造りをしている。
さらに、室内の各所に置かれているモダンなデザインの家具が、その様を一層引き立てているようだった。
「本当、素敵な部屋ですよね。」
「ああ、ありがとう下滝君。デザイナーズマンションというものは、住んでいるだけでも目で楽しませてくれる・・・。それよりも、本題に入ろうか。お話、とは?」
「はい、昼に言いましたように、僕は社長のお手伝いをさせていただいていました。・・・裏関係の事を。」
そこまで言って、下滝はふと鎌をかけてみることを思いついた。
同時に、相手の信頼を得られるという期待も込めて。
「・・・実は僕、この会社に入る前から、ウバメ貿易社が違法の密輸入を行っているのを知っていました。」
「な・・・なぜ?」
下滝の話を聞いた瞬間、町崎は平常を装いながらも顔を青ざめ焦り始める。
「・・・それは・・・子供の頃、僕はあなたたちの"取引"を目撃してしまったんです・・・。」
「では・・・君の故郷はまさか・・・」
「はい、桜田市です。12年前、桜田市の埠頭での取引・・・。取引の関係者の一人と、巻き込まれた・・・般市民一人が射殺されたあの事件です。あなた達が事件を隠蔽した事も、もちろん知っていま・・・」
下滝は、それ以上口を閉ざさざるを得なかった。
町崎の手に握られているのは、小型の拳銃。
すでに引き金には指がかかり、恐らくストッパーも外されているのだろう。
「・・・そんな話をしに来たのか。」
町崎はゆっくりと立ち上がると、ソファーを離れテーブルの向こう側に迂回し、下滝の首筋に拳銃を突き付けた。
下滝が知るべきでない事情をメール文から知ってしまっていた場合、口封じをしようと隠し持っていたらしい。
下滝は、冷たい鉄の感触に身を硬直させる。
「よく知っているじゃないか。安心しろ、この部屋は最先端の防音素材で囲われている。ともあれ、残念だ、下滝君。」
「・・・ちょっと・・・お・・・落ち着いて下さい町崎さん。最後まで話を聞いて下さい。言ったでしょう?あなたを脅すつもりはないと。」
町崎はせっかちの上、行動が早すぎる。
とにかくここは彼をなだめなければと、下滝は真っすぐに町崎を見据え話を続けた。
「・・・あ、あの現場を、そして、その報道を見て僕は思いました。・・・地位さえあれば、犯罪に手を染めようとも、裁かれる事はない。・・・それで自分の身を守り、かつ財産を手に入れるという事は、なんて合理的なんだろうと・・・。僕がこのウバメ貿易社の秘書を目指したのはそれからです。僕に感動を与えてくれた時渡社長の下に就くため、ここまで来ました。」
いい終えた時、銃口が首筋から逸れたのがわかった。
下滝は胸を撫で下ろし、ソファーから立ち上がると、これからはあなたの補助となり裏の取引において尽くしたい、という意志を、会釈で示す。
「だから、大渡前社長亡き今、僕に今後のお手伝いをさせて頂きたいのです。どうでしょうか、町崎さん?」
「・・・なるほど・・・それが君の本性か。恐れ入ったよ・・・」
町崎は拳銃を下ろすと、元いた場所に戻り、どっかりとソファーに尻をついた。
「悪かったな。こんなものをつき付けて。この事に関しては、ちょっと神経質なものでね。」
「いえ・・・。あ、僕そろそろ帰ります。お手伝いをさせていただきたいと、この話だけをしに、お邪魔したのですから。こういう事は早めに切り上げた方が賢明でしょう。」
「はっはっ。それもそうだ。」
下滝に続き、町崎も立ち上がった。
「有能な職場仲間がいて嬉しいよ。・・・下滝君、君はウバメ貿易社がこれからどのように続いていくか、予想できるかい?」
「・・・簡単です。現社長の時渡温史は、父親と同じ道に手を染める。汚れた貿易社は、これからも汚れたままですよ。そこまでの手引は、僕ら“有能”な社員が。そして、いずれ彼もこちら側に引き入れるのです。」
下滝は少しだけ瞳に陰を落とし、まっすぐに町崎を見て、口元に悪意の笑みを作った。
それにつられるように、町崎も満足気な笑い声を上げる。
「ふははっ・・・素晴らしい答えだ。今まで、静かな目をした社長秘書だと思っていたが、その奥にこんなものを隠していたとは。」
そうだ、この期に聞いておかなければならないことがある、とコートを羽織り帰り支度を終えた下滝は、町崎に向き直った。
「そうだ。町崎さん、僕からも一つ、質問をしても宜しいでしょうか?」
「何だ?」
「あの事件で死んだ人達は、取引の口封じのために殺されたんですよね?そう社長にお聞きしました。その人達について、あなたはどう思います?」
唐突な問いかけに町崎はきょとんとしていたが、すぐに愚問だとばかりに下滝の背を叩いた。
「ああ・・・ははは、下滝君。野暮な事を聞くんだな。ただの邪魔者。それ以外の何者でもない。」
それを聞いた下滝は、一瞬の間を起きふわりと笑った。
「ですよね。その場に居合わせたなら、僕も確実に同じ事をしていたでしょう。・・・それでは、失礼します。・・・すみませんが、出る前にお手洗いをお借りしても?」
「いいとも。廊下に出てすぐ左にキッチンへの入口がある。その向こうだ。」
「ありがとうございます。メールで送られて来た取引の件で僕に何かできることがあれば、いつでも連絡して下さい。」
下滝は廊下に出た。
彼に言われた通りにトイレに向かうが、その手前、キッチンの入り口で足を止めた。
下滝は中を伺い、一角に目を留める。
暗がりにうっすらと見えるのは、腕で抱えられるくらいのサイズの給水ポットだ。
このキッチンはリビングから死角になっているし、帰る来客を町崎は玄関まで見送らない。
その事は、前回の訪問で確認済みである。
下滝は、そっとキッキンへ足を踏み入れると、給水ポットの前に立ち、スーツの内ポケットから茶色い小ビンを取り出した。
中身の液体を含ませた刷毛付きのキャップを捻り、湯の注ぎ口にさっと這わせれば、その透明な液体は、給水ポットの白に溶け込んでいく。
すぐにキャップを閉じると、下滝は迅速にその場を離れた。
下滝は、町崎へ一言挨拶を掛け、玄関の扉の前に立つ。
そして、その場で小さく呟いた。
「ほんの少し摂取するだけで、死に至る劇薬です・・・。さようなら、町崎さん。」
マンションの廊下に、町崎の部屋の鉄扉が閉まる音が響いた。