2 記憶-公園の高校生-
貿易センタービルの28階で、下滝は、秘書室に向かう。
大渡が死亡し社長の席が空いた今、彼の息子、大渡温史
が若社長としてその役職に就いている。
社長室の開け放たれたその扉には、横一直線に規制線が貼られ、無関係者を阻む向こうには、刑事や鑑識と見える者たちが、各々の作業のために動き回っていた。
下滝は、テープを見つめた。
もしも自分が、本当にこの事件に関係のない人物だとしたら、きっと、この向こうは別世界のように感じるのではないだろうか・・・
昨日、自分はこのテープ向こうにいた。
水面のように足元を映す床に立ち、恐怖に歪む大渡の表情を、そして、彼の額を銃弾が貫くその瞬間をこの目で見届けたのだ。
キープアウトに阻まれるのは、罪のない者達のみ。
しかし、自分はこの向こうの存在なのだ。
悪事を重ねてきたのです。当然の報いですよ、社長・・・
下滝は社長室が大渡そのものであるかのように、心の中で呟いた。
と、その時、背後から下滝の名を呼ぶ者があった。
下滝が振り向くと、そこには大渡温史が立っていた。
「温史さ・・・いえ、社長。この度は・・・お悔やみ申し上げます。」
「おいおい、一番辛いのは君だろう?ずっと、一緒に仕事をしていたんだから。」
軽く会釈する下滝を見て、彼は寂しそうに笑う。
目の前にいる、下滝こそが犯人の一人であるという事を知るよしもなく、大渡は言った。
「親父は昔から仕事に身を打ち込み、家にいる時間よりも、きっと会社を大切に思っていたんだ。僕にとっちゃ、思い出のない親父だった。・・・でも・・・」
彼は、両手でくしゃりと歪んだ顔を覆い、声に涙を絡ませた。
「それでも・・・僕の親父だったんだと思う・・・んだ・・・。」
そう、途切れ途切れに指の間から鳴咽を漏らす大渡を見て、下滝は思う。
・・・この人は、大渡清四郎とは違う。
きっと、自分のために他人を喰らい、富を築いたりはしないだろう。
その証拠に、誰よりも辛いはずの自分を置いて他人を気遣った彼なら、悪徳など持たずして、真摯に会社を導いてくれるだろう。
憎悪の対象である職場に対し、このような感情を持った自身に下滝は少し驚く。
全ての復讐さえ遂げてしまえば、もうこのカラギ貿易社とは関わることもなくなる下滝にも、職場を想う精神は少なからず育まれていた。
「ご・・・ごめんよ。僕が泣いてどうするんだ・・・。」
「謝らないで下さい、社長。それは僕も辛いです。そうなら当然、あなたが辛くないわけないですよ・・・。早急に、事件が解決する事を願いましょう。」
下滝は、本心とは真逆な言葉を最後に添えて、彼を励まそうとほんの少しだけ笑った。
ーーーー
夕方、志麻田は自宅のベランダで空を見上げていた。
日の落ちかけた夕方の空は、子供の頃の、家路につく放課後の空と今も変わらないものだった。
12年前。某県桜田市。
彼らが生まれ育ったのは、そこそこに栄えた、すぐ傍に太平洋を臨む港町である。
秀助、智、一希は、普通の中学生3人組は、真面目な学生生活を送るわけでもなく、火遊びグループに入るわけでもなく、騒ぎながら帰り食いをしたり、テレビゲームに耽ったり、公園で暗くなるまで語ったりと、そんな日常を送っていた。
"秀ちゃん"と周囲から呼ばれる秀助は、自己中心的なマイペースさで、いつも友人2人を引き回していた。
智は、3人の中では一番真面目な部類に入るのだろう。成績も学年でもトップクラスだという。
一希は、無邪気が売りの盛り上げ役だ。周囲からは"カズ"という愛称で呼ばれている。
本当に平凡で、他者から見ればつまらない生活かもしれないが、彼らにとってはそれが当たり前で、かつ楽しい毎日だった。
ある時、いつもの公園で見かけない高校生に出会った。
「あの人、誰だろう。」
公園の展望台のフェンスに寄り掛かり、三人で他愛のない会話を弾ませて時だった。
智が、その展望台から臨む公園の遊具を指差して言った。
この場所からは何をしているかまでは確認できないが、学生服を来た人物が列車を模した大きな遊具の上で、背を丸め、あぐらをかいて座っているではないか。
体格から、恐らくこの学区に通う高校生だろう。
一希が、不思議そうに首を傾げる。
「変な所に座ってるね・・・。」
3人はフェンスを離れ、展望台から階段を駆け降りた。
ここまで来ると、遊具の上の高校生は見えなくなる。
3人で静かに遊具へ近づく中、一早く動いたのは一希だ。
列車の屋根の縁に手をかけ、足を円い窓の縁に乗せて、屋根の上に上半身を乗り出した一希は、いつもの調子で高校生に声を掛けた。
「何してんの?」
高校生は、急に現れた一希にキョトンとしていたが、すぐにニヤリと頬の筋肉を吊り上げた。
悪戯っぽい笑顔には、どこか幼さが見え隠れしていた。
先程まで開いていた数学の参考書を脇に放った彼は、背を伸ばすと、固まっていた彼の背筋が音を立てた。
「受験勉強・・・のつもり。俺、高三。で、受験生。」
「あんた、高校生なんだ。つもりって何だ?受験の自信満々かよ?」
秀助と智も、一希に続き遊具の屋根の上へ登ってきた。
「全然頭良さそうでもないよな、受験落ちる気か?」
高校生は、へぇ。と呟きながら、随分生意気な台詞を吐く秀助を品定めするようにジロジロと眺める。
「お前ら、見たとこ中坊だな?言ってくれるよ。そんなら見てろ。」
秀助の言葉が、高校生のプライドに火をつけたらしい。
彼は傍に置いてある鞄のジッパーを引き、まだ封の切られていない、表題に“数学”という堅苦しい明朝の二文字が、でかでかと主張する問題集を取り出した。
ビニールを引き破る様から、がさつな性格なんだという事がわかる。
彼はシャープペンシルを取り出してノックすると、問題集の三ページ目を開き、凄まじいスピードで書き込み始めた。
唖然として見つめる3人の前で、彼はものの20分程度で最後の問題まで解き終わると、秀助に問題集と色付きのペンを渡した。
「答合わせしてみ?答案はほら、そこ挟んであるから。」
自信に満ちた口ぶりで、彼は言った。
秀助は不審な眼差しで彼をちらりと見ると、問題集の大項目一の一問目に目を落とす。
高校3年生が教わる問題集の内容は、当然自分達にわかるわけがないのだが、答合わせだけはやってみようと、秀助はキャップを外し、問題集と解答冊子を交互に睨みながら、正解のチェックを始めた。
殴り書きされた字は、判別が困難な上に、答を導き出すための式やメモ書きが、余白部分をびっしりと埋め尽くしているため、かなり読みにくい。
秀助は眉間にしわを寄せながら、一つ一つ読み解いていく。
そうしてページが進につれ、三人の表情が少しずつ変化し始めた。
「すげぇ・・・」
一希と智が身を乗り出す中、ついに最後の問題の上をペンが走った。
全てチェック。
問題集を閉じた時、裏表紙に、東京大学を始めとする、中学生でも一度は聞き覚えのあるような名門国立大学の名が、ずらりと並んでいた。
「あんた、何なんだよ・・・?」
3人の目には不信感などはもう宿っておらず、高校生に対し、好奇心と尊敬の眼差しを向けていた。
高校生は、満足そうに笑う。
「はは。見直した?ウチ、親父が勉強しろってうるさいからな。後で話合わすためにとりあえず読んでんだ。この位、楽勝だってのにさ・・・。」
傍に投げ捨てられている参考書を、困ったように顎で指す彼の名は、榊直文。
彼との出会いが、これから起こる事、全ての引き金だったー
と、昔の記憶に浸っていた時、ふわりと冬の夜風が志麻田の頬を撫でる。
寒ぃな、今日は。と白い息を吐きながら、ベランダの戸をスライドさせ、室内へと踵を帰す。
「時渡は始末した。“犯罪者”はあと6人だ・・・!」
そう呟く志麻田の手で、部屋は外気と隔てられた。