1 満を持して
午前7時34分。東京都文京区。
今日も朝日が街に光を注ぎ、薄い雲が冬の澄んだ空気の中で靡く快晴の日。
マンションやアパート、借家が乱立する下町も、そんな朝日の日差しの中日常を迎えていた。
しかし、築33年の古いアパートの2階奥、203号室のその部屋だけは、まだまだ夜のままだった。
朝の清々しい日光は、遮光カーテンによって糸のように細い光となり、カーテンの隙間から部屋の壁をなぞっている。
そんな中、ふわりと動いた室内の空気が、光の中を舞う小さな埃を揺らめかせた。
部屋の主である男がベッドから気怠げに起き上がる。
「・・・寝過ぎた?」
彼はさらりとした髪に寝癖の跳ねる頭を掻きむしりながら、枕元の黒縁の眼鏡と携帯電話を掴んで引き寄せ、重い偏頭痛に顔をしかめつつ電話の時刻表示を見る。
最後に見た数字列は、確か午前2時頃を差していただろうか。
そうでもないな、もう起きなければ、と切れ長の目を擦りながらベッドから立ち上がり、パソコンデスクに歩み寄る。
マウスに触れてホールドを解除すると、ディスプレイは青白い電子の光を放ち、彼の眼鏡に反射した。
彼の名は志麻田秀助。
フリーランスのプログラマーであり、多数の電子機器やソフトウェアを扱う企業から、何本もの依頼を受け持つほどの実力者だ。
志麻田はキャスター付きの椅子に座ると、殴り書きのスケジュールや指示書がメモされた、付箋だらけのホワイトボードに手を伸ばし、その内の一枚を手に取った。
「あ?これ今日までかよ・・・。めんどくせ・・・」
悪態をつきながら、付箋をボードに押し付け貼り直す。
と、志麻田は思い出したように顔を上げた。
デスクの端に置いていたテレビリモコンを手に取り、いすに座ったままテレビへと上体を向けると、スイッチを入れた。
電源の入りを知らせる黄緑の発光ダイオードに光が灯り、直後液晶に映し出されたのは朝の報道番組。
それを前に、彼はほくそ笑んでいた。
「ハハ。やってるやってる。」
報道されているのは、昨日の夜から今朝にかけて起きた殺人事件の様子だった。
タイトなリクルートスーツに身を包んだ女性リポーターが、作ったような焦りを演出しながら、テレビの向こうから事件のあらましを伝えており、それを追うようにテレビ画面下のテロップが流れていく。
その背後には『カラギ貿易センタービル』と彫られた大理石の石版が見えた。
「まだまだ始まりだ。“あいつ”の受けた痛み、そっくりそのまま突き返してやる。待ってやがれ、犯罪者ども・・・!」
ーーー
午前7時58分。
東京都千代田区、カラギ貿易センタービル27階。
その一角の会議室に、支会社の管理職者を含む会社員十数名が、数人の警察官と共に集結していた。
スーツに身を包んだ男女達のどの顔からも、頭を失った会社と我が身を憂う不安な表情が見て取れる。
この会社の社長、大渡清四郎が何者かに殺された。
社長室内には、眉間を銃弾で撃ち抜かれた大渡清四郎の遺体の他に、引き破られた白い包み紙、砕かれた携帯電話、その携帯電話を砕いたであろう銃弾、そして、150万円が詰め込まれたジェラルミンケースだ。
何のためにこの大金が用意されていたのかは、未だ不明らしい。
会議室では今、事情聴取が行われようとしていた。
「誰か、銃声を聞いた人はいらっしゃいませんか?」
個別の事情聴取の前に、警察官の1人が軽く確認を取るが、それに続くのは「知らない」「聞いていない」など、ちらちらと小さな声が上がるだけで、質問は全く意味を成していなかった。
「・・・では、個別に事情聴取を行います。そちらの方から。他の方は、少々お待ち下さい。」
そんな彼らに些か失望を抱きつつも、警察官は社員一人を個室へ呼び出し、扉を閉めた。
残った社員達は、ざわざわと散らばり始める。
一つ下の階に設置されている喫煙室へ向かう者、自動販売機に向かう者。
皆、気を落ち着かせようとしているようだった。
その中で、死んだ大渡の専属秘書を担っていた人物、下滝智
も、喫煙室へ向かおうと足を踏み出した。
そんな彼に、企画考案課長の貝利が、声を掛けてきた。
社内で大渡に一番近しい役職であるからこそ、今一番気が動転しているのは下滝なのだろう、と思ってのことだった。
「大変でしたね。下滝さん。」
「・・・ええ。すごく残念です・・・。どうして社長が・・・。僕、25階の喫煙室に行ってきます。一人になりたいので・・・。この下の階は、皆さん使われているでしょうから。」
下滝は、哀愁の帯びた笑顔を交え彼に会釈すると、階段を下りて行った。
案の定、25階の喫煙室には下滝ただ一人のための空間が広がっていた。
スーツの内ポケットから、ライターと愛用のメーカーのタバコを取り出し口にくわえると、葉の乾いた匂いがふわりと口内に広がった。
優しく酸素を送りながら火を付ける。
抜けていくような感覚を噛み締めながら、下滝は誰もいない喫煙室の壁に背を預けた。
銃声を聞かなかったか?犯人がそれに答えるわけがないだろう。
深く息を吐き出すと、透明度の高い白煙が立ちのぼる。
「ふう・・・。事情徴収なんか、するだけ無駄だろうに・・・。」
貝利に向けたものとは別の、嘲笑を含む笑顔。
これまで作り笑いの種類をいくつも身につけ、自分の憎むべき存在に従う屈辱を感じつつも、創造の笑顔を向けてきた。
だが今のこの瞬間、見上げる天井に向け溢れた笑みは、純粋なものに違いはなかった。
「間違ってるかも知れないけど・・・もう後戻りは出来ないんだ・・・。」
ーーーー
午前8時3分。
東京都千代田区、カラギ貿易センタービル2階の、吹き抜けから1階を見下ろす、エスカレーター先の社員専用オープンカフェ。
十数台のテーブルに、それぞれ2脚ずつ逆さに乗せられた椅子を下ろしつつ、鷹尾一希は携帯電話を耳に押し当て、電話の向こうへ怒鳴りつけた。
「先に来て表掃除しといてって言ってるのに、何でいっつも来てないんだよ!?」
『すみません、今電車乗ってるんで切りますね。んじゃ、後で。』
「はぁ!?ちょっと山下
くん!?」
このカフェのチーフである鷹尾は、毎日開店前の8時を目安に出勤していた。
後輩の女性従業員である山下には、いつも早めに出勤するように言っているのだが、守った試しが殆ど無い。
仕事の意識が低すぎる山下だが、彼女に対して押しの弱い鷹尾は、なかなかそれを強要できないでいた。
「なめられてんのかな俺・・・。」
オープンスペースを見渡すと、まだまだ仕事はたくさんある。
やっと全ての椅子を降ろし終えた鷹尾は、テーブルの並びを整えるとカウンターの向こうの簡単なキッチンへ回り、ティーバック、ミルクや砂糖などの在庫を点検する。
ふと見ると、オープンスペースには、ちらほらと会社員が入ってきている。
顔を上げてオープンスペースを一望する赤い壁掛け時計を確認すれば、時計は8時27分を差していた。
「あれ?この時間なのに思ったより人来てんだな・・・」
カウンターにコーヒーと軽い朝食を注文しに来た会社員達の表情は、不安に満ちている。
当然だ。自分の勤める会社の社長が、あろう事か、このビル内で殺害されていたのだから。
ここにも、アリバイを教えてくれなどと、警察が聞きに来るかもしれない。
いつもと比べて忙しくなりそうな今日この時間に、随分面倒な話である。
鷹尾は客の出した小銭と引き替えに、コーヒーと軽食の乗ったトレイを丁寧に渡し、そうして列の最後の一人が注文を終え、トレイを手にカウンターを去った時だった。
二人の男が、カウンターの向こうに現れた。他の社員と同じく、スーツを着ているが、タグを付けていないことから部外者だとすぐに判断できた。
1人は、不精髭に恐面の長身の男。見た目の印象から、40代後半ほどだろうか。
もう1人は、茶髪がかった髪が目立つ、目つきの悪い若い男だ。
そんな、言ってしまえば暴力団関係者を連想させる彼らに、鷹尾は身構えつつ怪訝な顔で二人を見る。
長身の男は懐から金の章の入った警察手帳を取り出し鷹尾に提示した。
・・・やはり来たか。鷹尾は眉一つ動かさず、心の中で呟いた。
「鷹尾さんですね?刑事の正木
です。こっちは伊方。」
ドラマでしか見た事のない警察手帳の物珍しさに少しだけ興味を惹かれるが、すぐに正木と名乗った刑事と、伊方と紹介されたもう一人の刑事に視線を戻した。
「そうですけど、何か?」
「この会社の社長が殺害されたのは知っていますね?あなた・・・鷹尾さんは退社時間を過ぎてから、ここから出ると聞きましたが、何か変わった事はありませんでしたか?」
「・・・あのさ、刑事さん。」
一旦途絶えた朝の客足も戻りつつあるというのに、この刑事達はタイミングが悪すぎる。
「確かに、昨日は6時過ぎに退社したよ。でも関係ないから。見てわかると思うけど、もう店開けちゃって、お客さんもいるわけだ。警察ったって営業妨害だよ。そういう事は後にしてくれないかな。」
一気にまくし立てられた正木は、その怒涛の返答にきょとんと言葉を失っていたが、その様に痺れを切らした伊方が正木の前に割って入り、カウンターに乗り出した。
「おい、警察相手に喧嘩売る気かコラ。」
市民を守る警察関係者とは言い難い啖呵に、鷹尾はたじろくも、負けじと皮肉を吐きかける。
「ふ・・・ふーん。天下の刑事さまがそういう脅し方をするんですね。取り調べなんかもそうやってんのかな?怖いねぇ。」
「・・・なんだと?上等だよ、今すぐしょっぴいて・・・」
「はい、そこまで。」
睨みを利かせ鷹尾のエプロンの肩ひもを掴み下ろす伊方と、カウンターの向こうで冷や汗混じりになっている鷹尾。
そんな彼らに向けられた、ざわつく周囲の目に気づき、正木が止めに入る。
「でも正木さん、こいつ・・・」
「うるせぇな、お前が悪い。営業妨害だろうが。」
正木はピシャリと伊方を諫めると、鷹尾に向き直った。
「すみませんでした。また閉店時間にでも出直します。」
「そうしてよ。時間外だったら、俺にできる事があれば協力するから。」
「それは助かる。では、後ほど。」
伊方に対しての一喝を交えそう残すと、正木は踵を反して、大股でエスカレーターへと向かっていく。
伊方も、その後を追ってエスカレーターを降り見えなくなった。
鷹尾は涼しい顔でその後ろ姿を見送る。
「アンタら無能に、俺が協力なんかするわけないじゃん。」
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12年前、この時の為にそれぞれの道を違え、満を持して今ここに集結した3人の男。
大渡の死は、これから真冬の東京に引き起こされる連続殺人の予兆となった。