海を見に。
少女は、前世を覚えていた。
それも、不思議なことに、幼いころに忘れるようなおぼろげなものではなく、幼いころは漠然と覚えていたものが、年を経るにつれて、だんだん、はっきりとした記憶になって、思い出せたのだった。
少女は、前世、猫だった。
気ままに暮らし、かわいがられて、一度は死に、猫又になって再び現世を闊歩する存在になり、そこで出会った悲しい術者の青年に取り憑いた。
最期は術者の青年にかけられた呪詛とともに祓われることになって、無事に命の輪廻の輪に乗ることができた。
待てど暮らせど、術者の青年がやってこないから、勝手に転生して、幾星霜。
幸せな家族のもとに生まれ、前世の記憶があるらしいと不思議な顔をされながらも、ほかの子供と変わらぬように育て上げられ、今は、大学生。
ようやく、彼が封じられているらしいところを突き止めて、夏休みを利用してやってきたのだった。
まさか、本当に、死なずに待っているなんて、そんなことができるなんて、思わなかった。
懐かしい冷たい手が、そっと額をかき分けて触れたのを感じて、少女は、薄く瞼を開いた。
「気が付いたか?」
懐かしい声。でも、あり得るわけない。
それでも、信じたい気持ちが、少女の胸にあった。
「どうした?」
少女は、夢うつつのまま、覚えている名をのどに乗せる。そうであればいいと、言いたげに、不安そうな声だった。
「ともなり……?」
少女の声に、額に乗った手がわずかに震えた。小刻みに震える、その手に、少しの落胆を感じながら、少女は、覚悟を決めて目を開いた。
「あ、すいません。違いますよね……」
寝ぼけていたとしても、つらいいいわけだ。驚いているらしい青年を見上げて目を瞬かせる。懐かしい面立ち。息をのんでいた。
「覚えて、いるのか?」
懐かしい声に、口調に、その面影に、少女は目を見開いていた。
「ともなり? 本当に?」
無造作に切られていた髪はすっきりと整えられていて、あの頃、薄汚れていた端正な顔は、綺麗になっている。浴衣のような白い単衣を身にまとい、片手は少女の頬に触れ、そして、もう片手にリモコンを持っているのがものすごくアンバランスだった。
「……化け猫、だな?」
震える声で尋ねられ、少女は、青年に抱き付いていた。
重なる、かりそめではない、生身の体と体。
かじりつくように肩に顔をうずめる彼女に、青年はふっと表情を緩めるとリモコンをベッドの上にぽんと投げて、少女を抱き返した。
「ともなり。ともなり!」
記憶にあるよりもずっとしなやかになった体を抱きしめて少女は青年に頬を摺り寄せていた。暖かい腕が背中を抱きしめ、そして、なだめるように撫ぜられる。
「ああ。ここにいる」
変わりない声に、においに、少女は、本当にここにいると、安心するまで青年にしがみついていた。
少女は、クーラーに効いた部屋の中、青年の膝の上に乗って、体を預けていた。青年は、どこか困った顔をしながら持ってきたぬるい麦茶を少女に手渡して、頭を撫ぜる。
「とりあえず、飲め。あの炎天下の中ぶっ通しで歩いてくるなんて、お前はバカか?」
「どうせ猫頭ですよー」
「わかってるじゃないか」
なんとなく懐かしい言い争いに、少女はふっと笑って、手渡された麦茶を飲んでくたりと青年の体に頭を預ける。腹に緩く回った腕の重みが心地よい。
「この世の中になっても、その服装なの? ともなりは」
「……お前を拾ってきたときはちゃんとスーツを着てた」
彼の声で、彼の口調で、そんな外来語が出てくるのがたまらなくおかしいと吹き出すと、彼の手が、まだ液体の残るコップを取り上げて、脇にあるサイドテーブルにそれをおいて、強く抱きしめた。
「ともなり?」
青年が、黙って、抱きしめるのを感じながら、少女は首を傾げて、巡らせた。
「……少し、黙って」
少女の小さな肩に顔をうずめるようにして、切なげにつぶやいた青年に、少女はことんと、青年の頭に頭を預けた。
クーラーの効いた、涼しい部屋の中、汗ばんだ温かい体が合わさる。
「……」
少女は、なだめるように青年の腕をそっと撫でて耳元で、小さくささやいた。
彼にしか聞こえない声に、青年の体が震え、そして、強く少女を引き寄せた。目を強くつぶって、声を押し殺そうとしても、漏れる声は殺せていなかった。
少女は、悲しげに、いとおしそうに微笑んで、小刻みに震える青年の肩を落ち着くまでずっとさすっていた。