高橋薫(3)
「私を誘拐してもらえませんか?」
木下詩織の言葉に一瞬耳を疑う。隣に座っている櫻子もぽかんと口を開けていた。木下詩織は相変わらず真っ直ぐに目を見つめてくる。
誘拐という言葉が頭の中を駆け回る。誘拐とは子どもを拉致して親に身代金を要求する誘拐のことだろうか。いや、文字の変換を間違っただけで、他のことを言っているのだろうか。
「誘拐? どういうこと?」十秒程して櫻子が口を開いた。「私たちが詩織ちゃんを誘拐?」
「正確には、私が誘拐されたように偽装して、父親に身代金を要求してほしいんです」
「何のために?」そんな疑問が自然に零れた。
木下詩織は少し口ごもった。「お父さんを困らせたくて」少しして言った。
父親を困らせてどうすると言うのだろうか。これでは探偵どころか犯罪者である。櫻子と顔を見合わせる。何故か非常に真剣な表情をしていた。
「その依頼はちょっと受けられ」断ろうとした瞬間、木下詩織は勢いよく机に手を叩きつけて身を乗り出してきた。
「絶対にお二人に迷惑はかけません。芝居に協力するようなものです」大きな声で言った。
その勢いに二の句が継げなくなってしまった。ただ口がぱくぱくと動くだけで言葉が出てこなかった。その依頼自体が迷惑なのだと思ったが声にならない。
「分かった。引き受けるね」突然櫻子がとんでもないことを言い出した。
「おい、お前何言ってんだ。誘拐なんてできる訳ないだろ」
「はあ、薫は始める前に無理とか言うんだから」櫻子が呆れたように言う。
そんな問題ではない。始めた瞬間犯罪者である。シャーロックホームズに憧れた結果が刑務所なんて笑い話にもならない。
「馬鹿だろ。捕まって刑務所だ。日本じゃ誘拐犯が身代金貰って逃亡に成功したことないのに」
「それは被害者が協力者じゃないからでしょ。今回は被害者が協力するんだから勝手が違うって」櫻子が呑気に言う。「ちょっと待っててね。説得してくるから」そう言って自分を部屋の奥の方に連れて行く。
二人で浴室に入って扉を閉める。時々櫻子は頭の螺子が外れているとは思っていたが、こんな依頼を受けるほど狂っていたとは思わなかった。
「どういうつもりなんだよ」できる限りの非難を込めて言う。
「詩織ちゃん、どんな子に見える?」櫻子は答えず、質問で返してきた。
「最初は真面目で快活そうな良い子だと思ったけど」少し考えてから素直な感想を述べる。
「そうだよ。あんな子が父親を困らせるためだけに誘拐とか言い出すと思う?」櫻子が顔を近づけながら問う。「絶対何か深い事情があるんだって」
「根拠は?」
「女の勘」櫻子は自信満々に答える。目が本気だった。変なことを言っている自覚は全くないようだった。
「何か事情があるとしても他に方法があるだろう。誘拐を偽装するなんて馬鹿げてる」大きな溜め息が零れる。
「まあ、とりあえず話を聞いてみよう。詩織ちゃんも芝居だって言ってたんだし。困っている女の子を助けないなんて、人でなしのすることだよ」いつも通りの言葉を口にする。「あと、お前の娘は預かったって台詞言ってみたいじゃない」
「そんな理由かよ」櫻子の言葉に呆れてしまう一方で、ドラマみたいな台詞に憧れる気持ちも少し分かってしまった。「聞くだけね。無理だと思ったら断るからな」昔から櫻子の言うことに逆らえないのだった。
浴室を出てソファのところに戻る。櫻子は「待たせてごめんね」とにこにこしながら言っている。木下詩織は、小さな声で「大丈夫です」と返した。
「一応話は聞く。どんな計画なのか教えてほしい。協力するかどうかは話を聞いて決める。これで良いかな?」そう尋ねると、木下詩織は小さく頷いた。
長くなると判断したのか櫻子がコーヒーを入れに行った。夕飯を先に食べたのも正解のようだった。櫻子が戻ってくるまで話を進める訳にもいかない。適当に話題を探す。
「どうしてお父さんを困らせたいの?」何となく尋ねる。
彼女は俯いてしまった。両手の指を絡ませて口ごもっている。「お父さんが嫌いだから」消え入りそうな声でそう言った。
女子高生だから父親との関係が悪くなるのは分かる。櫻子も高校生の頃は父親と毎日口喧嘩をしていた。だからと言って、誘拐されてまで困らせる必要もないだろうにと、内心首をかしげた。
沈黙の時間が続く。少しして櫻子が盆を持って戻ってくる。それぞれの目の前にカップを置くと、「詩織ちゃん、砂糖とミルクは入れる派?」と尋ねる。彼女が頷くと、盆の上からシュガースティックとミルクを取り出す。準備が良い。どうしてそんなに冷静でいられるのだ、と疑問でならなかった。
コーヒーを口にして一息つく。落ち着いている場合ではないのだが、慌てても仕方がないと開き直っていた。
「それでどういう計画なの?」櫻子が尋ねる。心なしか瞳が輝いているように見える。正気を疑った。
「私と男友達を誘拐してほしいんです。車で、建物に。あ、これは良さそうな場所を見つけないといけないんですけど。そこに私と彼を運びます。彼の手足を縛って、目隠しをしたら、二人は建物から離れます」
「離れて良いの?」櫻子が尋ねる。
「はい。あと二人の役目は私と一緒に脅迫の電話をするだけです。私の父親の携帯宛に、身代金を持って一人で建物まで来い、変な動きをしたのが分かったら娘と友達を殺すって」
「うん、それで?」続きを尋ねる。
「終わりです」彼女は短く言った。聞き間違えだろうか。
「終わり?」櫻子と声が重なった。「それだけで?」
「私の目的はそれで果たせますから。あとは電話で会話して上手く誘導します」彼女は言った。
「それで友達もさらう理由は?」
「人質が私一人だったら、身代金の受け渡しはお二人のどちらかが担当することになって、それは危険なので」確かにそこで捕まってしまったら、それどころか姿を見られたらまずい。「人質が二人いたら、一人を回収に行かせて、変な動きをしたらもう一人を殺すって脅しで牽制できます」
「身代金はどうするの?」櫻子が尋ねる。
「私が回収に行きます。建物の外で受け取って、中に戻ったら靴底にでも隠します。細工も難しくないでしょうし」警察も人質が身代金を持っているとは考えないだろう。「それから私が建物から出て、犯人は逃げたと言います。その後突入されてもお二人はもういません。中にいないのだから建物を囲んでいても無意味です。忽然と姿を消したことになります。身代金を後日渡して依頼終了です」
彼女の説明を聞く限り、危険性はあるが綿密に計画すれば何とかなりそうな気もした。「警察に通報されても計画に支障はないの?」
「警察が捜査しても二人はそこにいませんから。なんとか誤魔化します」
「全部がお芝居だってばれる可能性は?」櫻子が尋ねる。
「上手く演じきれば。もしばれてもお二人のことは絶対に話しません。私が全部仕組んだということで責任は取ります。協力してもらえませんか?」彼女の目は真剣そのものだった。