武藤剛志(2)
駅の改札を抜ける。一階に下るエスカレーターの左側に人の列ができる。時間に追われているらしい中年女性が右側を駆け下りていく。左側に乗らなければならない規則などない。最近では、真ん中に乗ることを推奨しているポスターさえ目にする。しかし、人の群れは集団が作り上げた規則に従って動いていく。
暗黙の規則は、それが秩序の維持に働くのなら大いに望ましいものだろう。しかし、それは時に悪い方向にも働くものだ。
W杯やオリンピック、クリスマスや年越し、そういった祭り事の度に街に集まって騒ぐ人々がいる。物を壊し、ごみを撒き散らす。そこには秩序など何もない。しかし、騒いでいる人に一人ずつ、「物を壊すのをどう思いますか?」「道端にごみを捨てるのをどう思いますか?」と尋ねたならば、彼らはきっと「それは良くないことだ」と答えるだろう。
社会の秩序は、集団の空気の前に時に無視されてしまう。そのことが怖かった。いつか社会全体が悪しき空気に流されてしまうのではないか不安だった。だから、警察官になった。秩序を守るためには、それに抗う分子を取り締まる側にならなければならないと考えたからだった。
薬物の件も恐ろしかった。ある集団で薬物が蔓延すれば、その空気は徐々に集団の周縁にも拡大していく。地面の一点に垂らした水が周りを侵食していくように、より大きい範囲に染み込んでいく。
いつか自らの生活も飲みこまれていくのではないかと想像してしまう。大袈裟だと人は言うが、彼らは人間の意志というものを過信している。人は思っている以上に流されやすい。警察官になって様々な現場を経験して、その思いは強くなっていった。
密売人を捕まえることは、自分にとって早急の課題だった。社会の秩序のためでも、警察の尊厳のためでもない。偏に自らの不安、恐怖を除くためであった。
家に帰るためには街の繁華街を通る。金曜日の夜の繁華街には、週終わりの飲み会に来たらしいサラリーマンが多かった。お酒はあまり好きではない。飲めない訳ではないが酔っ払う気になれない。「飲み過ぎて意識がなくなった」などと笑って語る人間が信じられない。ただでさえ薄弱な意思を手放すなど有り得なかった。
行き交う人を横目に見ながら街を歩いていると、また胸の携帯電話が振動した。娘からの電話だった。
「もしもし。どうした?」
「あ、お父さん、今どこにいる?」娘が尋ねてきた。繁華街と短く答える。「キャットフードが無くなっちゃったから買ってきて。それと何かおやつも。モンブランの気分だなあ」
「何でもない日にケーキなんて贅沢だぞ」
「ええ、たまには良いじゃん。お父さんも甘いもの好きでしょ」
「二週間前も買って帰ったぞ。まあ、仕方ないから買ってやるよ」
「さすがお父さん。待ってるから、気を付けて帰ってきてね」嬉しそうな声が聞こえてから電話が切れた。
最後の言葉は、「ケーキを楽しみに待ってるから、崩れないように気を付けて帰ってきてね」というのが正しい解釈だなと考えて、一人で笑ってしまった。
数年前の娘との関係を思い出す。思春期になると娘は父親を毛嫌いするというが、自分の子どもも例外ではなかった。話しかければ無視され、部屋に入ろうものなら人非人のような扱いをされたものである。娘の語彙は、「きもい」「うるさい」「関係ないでしょ」の三つだけになってしまったのかと疑うほどだった。
話には聞いていたが、いざ自分がその対象になってみると、その衝撃は計り知れなかった。最初の数週間ショックで飯が喉を通らず、体重が減ったこともあった。目に見えて落ち込んでいる自分を見て、妻は「今だけよ。すぐに元に戻るわ」と慰めてくれたが、そのときは全く信じられなかった。
そんな娘も高校生になってからは落ち着いてきたのか、徐々に普通に話しかけてくれるようになっていった。最初の頃こそ、反発し合っていた手前、距離感がなかなか掴めなかったものの、最近では一緒に買い物に行くぐらいに親子関係も修復された。変わったことと言えば、以前に増して娘に甘くなったことくらいかもしれない。
スーパーでキャットフードを買ったあと、街角のケーキ屋で妻も合わせて三人分のケーキを注文する。繁華街の真ん中でライトアップされたクリスマスツリーを見た。今年はプレゼントに何を頼まれるのだろうと考える。
反抗期の頃でさえ、クリスマスや誕生日にはプレゼントをねだってきた調子のいい娘だ。妻もこの時期は普段よりも優しく接してくる。そんなところは母娘で似てしまったらしい。そんな家族との時間は、人生で最も幸せな時間だ。
家族との平和な幸せを思えば思うほど、事件のことが頭によぎった。薬物の事件で亡くなった女の子と娘は同い年である。不安にならずにはいられなかった。娘は簡単に薬物に手を出すような真似はしないと信じている。しかし、何らかの形で事件に巻き込まれるかもしれない。逮捕するまでは安心はできない。早く解決しなければという気持ちは強まる一方だった。
繁華街を抜けると、家まではあと数分である。繁華街の眩しいくらいの明かりに比べると、帰り道の月明かりと街灯は心細いとしか思えなかった。道の果てには暗闇がぽっかりと口を開けているようにも見える。あの暗闇の向こうから何か悪いものが飛び出してくるのではないか。もしくは街ごとあの暗闇に飲まれてしまうのではないか。まるで幼い子どもが抱くような恐怖に襲われ、帰宅する足が自然と早まった。