武藤剛志(1)
吊革に預けた体が電車の動きに合わせて左右に揺れる。窓から見える夕焼け空がゆっくりと流れていく。今日も一日が終わっていくのだという気持ちが浮かんでくる。
夕方五時の電車は、帰宅しているのであろう中高生やサラリーマンで一杯になっていた。友達と楽しそうに会話する中高生と、疲れきった顔のサラ―リーマンが対照的だった。
あの中高生もいつかは社会の荒波にもまれて疲れ切っていくのだろうか。雑巾のように使い古され草臥れていくのが人生なのだろうか。俺はどうだろうか。身体も精神も、いつの間にか擦り切れてしまってはいないだろうか。
隣で楽しそうに会話をしている男子高校生らしき二人の会話に耳を傾ける。「明日カラオケ行こうぜ」「テスト前じゃん。勉強しろよ」「一日くらいいいじゃん」「彼女でも誘えよ」「あいつ真面目だからさ」「俺は真面目じゃないのかよ」高校生らしい微笑ましい会話に思わず頬が緩んだ。
少しくらい勉強を怠けてもいい。先生に反抗してもいい。たまには校則を破ってもいい。品行方正が過ぎるのは怖いくらいだ。中高生の頃不良と呼ばれる類であっただろう自分も、今や警察官として真面目に働いている。
ある程度の反抗心は必要だと考えている。社会は真っ直ぐなだけでは生きられないからだ。「真面目にやれ。でも、愚直では駄目だ」高校生のとき、剣道部の顧問から言われた言葉である。残念ながら、正直者は馬鹿を見る世の中だ。
しかし、中には一線を越えてしまう奴らがいる。そのつもりがなくとも社会からはみ出してしまう奴らがいる。最近担当している事件のことを思い出して頭が痛くなった。
十数年前から脱法ドラッグというものが問題になっている。ある薬物を禁止しても、法の網を掻い潜って新たな薬物が作られる。その薬物を禁止しても新たな薬物が現れる。未だにいたちごっこが続いていた。
二年前の三月、近隣の県で薬物使用者の運転する車が死亡事故を起こした。容疑者はその月に高校を卒業したばかりの十八歳の少年であった。被害者は二十八歳の女性、妊娠七ヶ月だった。
容疑者が非常に若かったことや、被害者が妊婦というのが同情を誘ったことが原因か、メディアでも大きく取り上げられ、若者の薬物使用に関してセンセーショナルな議論を巻き起こした。
事故を受けて警察でも薬物の取り締まりを強化したものの、天網恢恢疎にして漏らさずということにはならなかった。何人かの販売者を逮捕したり、密売のルートを抑えたりという成果は上がったが、それも氷山の一角である。依然として薬物使用の問題は終息しそうになかった。
そして一ヶ月前、ついに管轄している街で薬物による死亡者が出た。亡くなったのは私立高校に通う十六歳の女子高生だった。住んでいるマンション十階からの飛び降りだった。最初は自殺かと思われたが、その理由に乏しいこと、また解剖の結果、違法薬物の反応が見られたことから事故と判断された。
同級生への聞き込みの結果、その三日前に喫茶店で出会った男から薬物を買っていたことが分かった。一緒にいたという友達によると大した理由はなかったという。「最近イライラするんだよ。親とか先生とか困らせてみたいじゃん」彼女はそう言ったらしい。
単なる遊び感覚だったのだろう。自己責任と批判する人もいたが、若くして命を散らしたことに胸が痛んだ。それと同時に、まだ見ぬ密売人への怒りが湧いた。
この事故を受けて、薬物の密売に関する捜査を言い渡された。例の男の目撃情報の収集や、薬物使用での逮捕者への聴取、それらから得た情報を下に張り込みを行った。グループでの活動と思われるため、誰か一人でも押さえられたらと思ったが、なかなか尻尾を見せなかった。
二週間前、密売グループの拠点に関して有力な情報を得た。すぐに向かったが、部屋は既にもぬけの殻だった。何処からか捜査の情報が漏れたらしい。慌てて逃げ出したのか、部屋の隅には段ボール箱が積まれていた。箱の中にあった錠剤や、床に残されたビニール袋や注射針からは、亡くなった女子高生が使用した薬物と同じ成分が確認された。
逮捕に一歩近づいたかと思われたが、それから二週間調査には何の進展もなかった。今日は電車で三十分程離れた街に情報を集めに行ったが、大した情報は得られなかった。
次の被害者が出る前に密売グループを捕まえたかったが、なかなか進展が見られず苛立ちが募っていた。女子高生の事故があった今、薬物に簡単に手を出すような人が現れないことを祈るのみだった。
ふと気が付くと電車を乗り換える駅に着いていた。慌てて電車を飛び下りた。駅構内をゆっくりと歩いていると胸ポケットに入れている携帯電話が振動した。取り出して、通話ボタンを押す。
「はい、武藤です」
「おう、剛。俺だ。徳永だ」大きな声が耳に響いた。上司の徳永俊哉警部だった。
「徳永警部、どうしたんですか?」突然の電話の理由を尋ねる。
「徳永警部とか堅苦しい呼び方は止めてくれよ。昔みたいに俊さんでいいよ。捜査の方はどうかと思ってな」
徳永警部は三歳上の先輩であった。警察官になりたての頃から、四十二歳の現在までずっとお世話になっている。若い頃は、剛・俊さんと呼び合っていたが、この歳になると恥ずかしくて躊躇ってしまう。
「なかなか進まないですね。二週間前からさっぱりです」
「そうか。俺も現場で捜査できたらいいんだけどな。やっぱり警部になるんじゃなかったか」二年前に警部に昇進した彼は、現場に出ることが少なくなっていた。
「俊さんは警部補に留まるような器じゃないですよ」本心だった。彼ほど人の上に立つに相応しい人物はいないと思っている。
「止せよ、恥ずかしいじゃないか」照れ臭そうに電話の向こうで笑った。「頑張ってくれよ。剛、いや、武藤警部補。良い結果を期待している」
「はい。精一杯に努めます」
「おう。解決したら飯食いに行こう」
「そうですね。俊さんの結婚祝いもしなきゃいけませんし」
「止めてくれ。この歳での結婚、恥ずかしいんだ」そう言う徳永警部の声には喜びが溢れているように感じた。
自分が警察官になって二十年が経った今でも、徳永警部はこうやって電話をかけてくる。もう新人でもないのにと苦笑いが零れるとともに、今でも気にかけてくれる先輩がいることが嬉しかった。