朝倉日向(1)
金曜日の夕方の繁華街には人が溢れていた。街を歩くと様々な会話が聞こえてくる。好きな芸能人について語る女子高生、井戸端会議に花を咲かせる主婦、母親に玩具をねだる子ども、セールの宣伝をする服屋の店員、重なり合った声はまるで街の息吹のようだ。
今この街にはどれだけの人がいるのだろうか。数千だろうか、いや、万を超えるのかもしれない。この小さな街の中で、それほどの人が同じように息をして、思考して、体を動かしているのだ。人の数だけの人生があると考えると、何故だか鳥肌が立ってしまった。たった一つの人生しか経験できないことが残念でならなかった。
「日向、テスト勉強は順調?」隣を歩いていた木下詩織が、顔を覗き込みながら尋ねてきた。
「ああ、順調だよ。お前の買い物に付き合ってやるくらいには」
「そうかあ。日向勉強できるもんね」皮肉が通じていないようだった。「私はやばいかな」
「いつもそう言って、俺より点数上の癖に」
「テストが簡単なんだよ」と言って詩織は微笑んだ。
平日の午後五時頃、いつもなら野球部の練習に励んでいる時間だった。来週水曜日からの定期試験に備えて、今週から部活動は中止ということになっている。他の学校も試験期間が被っているのか、心なしか街に中高生が多いように感じられた。
普段練習が忙しくて勉強に全力を注げないため、試験までの期間は早く帰宅して勉強すると決めていた。ところが、ホームルームが終わって教室を出ようとしたとき、詩織に呼び止められた。
「野球部の備品を買いに行くから手伝え」何故か命令口調だった。断ろうとすると、「野球部員としての志が低い」だの、「女子に重い荷物を持たせるのか」だの文句を言われ、結局買い物を手伝わされる羽目になった。
詩織は野球部のマネージャーをしている。小柄で眼鏡をかけている。見た目は文学少女といった大人しい感じなのだが、性格は極めて豪快で男勝りだった。
詩織との付き合いは小学校まで遡る。小学生の頃、自分は苛められていた。いや、苛められたというのは言い過ぎかもしれない。体が小さく、また病気がちだったからか、他の男子から馬鹿にされることが多かった。「あさくらひなた」という名前も少し弱々しい印象を与えたのかもしれない。
小学四年生のときだったと記憶している。ある日、いつものように弄られているところに詩織がやって来た。「何してるの?」と落ち着いた声音で言った。詩織は当時クラスの女子で一番背が高く、力も男子に引けを取らなかった。助けてくれるのかと思った瞬間、詩織は俺の顔を殴ってきた。「やられたら、やり返しなよ」と男前な台詞を口にした。弄っていた男子数人がどん引きしていた。
それからクラスで弄られることはなくなった。いや、むしろ弄っていた奴らと仲良くなった。俺が殴られたのを見た瞬間、何故か仲間意識が芽生えてしまったらしい。「きっと子ども心に、男として負けたと思ったんだろうな。まあ、あいつは女なんだけど」高校生になってから、その内の一人が口にした。
中学校は殆ど全員が地元の学校に進学するため、一緒の学校になるのは仕方がないことなのだが、詩織とは高校まで一緒になってしまった。入学式の日、「日向は私がいないと苛められちゃうから」と言って笑った。
身長が伸び、彼女よりも体が大きくなった今でも、詩織には逆らうことができない。方法に対しては疑問が残るが、それでも詩織は自分のヒーローだった。あの出来事がなければ、全然違う人生を送っていただろう。
憧れはいつの間にか恋心に変わっていた。認めたくないことであったが、気付けば詩織の姿を目で追うようになっていた。しかし、告白する勇気は湧かない。小学生の友達付き合いの延長のような今の関係が壊れることが怖かった。
人混みを掻き分けるように進み、やっとのことでスポーツ用品店に着いた。
「それで、何買うんだ?」
「えっとね、テーピングとエアサロとダンベル。あ、あとスポドリの溶かすやつ」
「わざわざ試験期間に買いに来る必要はあったのか?」
「私今日行きたいところがあってね。ついでに買い物もしとこうかなって思って。だから荷物はお願いします」顔の前で手を合わせて頭を下げてくる。
「ついでかよ」と溜め息を零しつつ、内心では喜んでいる自分がいた。扱き使われて嬉しいのはどうかと思うが、想いを寄せる人に頼み事をされて嫌がる男は少ないだろう。
「なんで笑ってるの? あ、ていうか今何時?」顔に出ていたらしい。携帯電話で時間を確認する。
「もう少しで五時半だな」
「やばい、時間ないじゃん。ほら急ぐ!」背中をばしばしと叩いてくる。
手分けして商品を見つけてレジに並んだ。ダンベルがあるため、買い物籠はそれなりの重さになっていた。
「ちょっと籠持たせて」詩織が手を差し出しながら言った。
「どうかした?」尋ねつつ手渡す。
「うわ、重っ!」籠を持った瞬間悲鳴を上げる。「はあ、あんなに小さかった日向が立派になったもんだねえ」と泣き真似をしながら籠を差し出してきた。
「いつの話をしてるんだよ」受け取りながら突っ込みを入れる。
高校生になった今でも、小学生の頃の件でからかってくる。「日向が困ったときは私が助けてあげるよ」というのが詩織の口癖だった。助けるどころか殴ってきたではないかという突っ込みは自重している。
会計を済まして店の外に出ると、もう太陽は完全に沈んでいた。暗くなった街にはネオンが毒々しく輝いている。吐く息が微かに白く染まった。十一月の街には少しずつだが冬が近づいてきているらしい。
「あ、クリスマスツリーだ」突然右の方を指差しながら、詩織が歓声を上げた。
指差した方向を見ると、繁華街の真ん中にライトアップされた大きなツリーが屹立していた。派手な髪型をした女性のグループが、ツリーを背に写真を撮っているのが見えた。
クリスマスまで一ヶ月以上もあるというのに、街は徐々にクリスマスムードに染まってきていた。店先のツリーやリース、色とりどりに点燈するイルミネーション、普段に増して浮き立った雰囲気が伝わってくる季節だった。
「あのさ、日向はいつまでサンタクロースを信じてた?」突然尋ねてきた。
「サンタクロース……」すぐには思い出せずに考える。「いつだったかな。ああ、小学校の」
「あ、話してる時間なんてないんだって。早く行かなきゃ」答えようとした瞬間に詩織が叫んだ。「じゃあね日向。荷物よろしくね」返事も待たずに街の方に駆け出していった。すいすいと人を避けながら走り去っていく。
すぐに人混みに紛れて姿が見えなくなった。相変わらずマイペースな奴だなと笑みが零れる。一人で繁華街を歩き始める。さっきまでよりも気温が低くなったようだった。右手の荷物も心なしか重くなった気がした。