高橋薫(1)
椅子の上で上半身を伸ばす。同時に大きな欠伸が出た。窓に目をやると、遥か遠くの空に夕日で赤く染まった雲が棚引いている。普段はモノクロに見える街の景色も、仄かに赤く色付いているように見える。無機質な冷たい街に、温かい感情が宿ったようだ。
秋と夕暮れという組み合わせは、遥か昔から詠い継がれてきたものであるが、確かに言葉には表し難い情趣が感じられる。自然に対する感性は長い時代を経ても変わらないのかもしれない。
ぼうっと物思いに耽っていると、「薫」と呼びかけられた。声のした方を見ると、実姉である高橋櫻子が両手にマグカップを持って立っている。「今日も一日お疲れ様。あ、これコーヒーね」
「ああ、ありがとう」櫻子からマグカップを受け取る。コーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。立ち上る湯気から、猫舌の自分には飲めそうもない熱が伝わってきた。
「誰も来ないね」櫻子はマグカップに口をつけたかと思うと、「あつっ」と悲鳴を上げて涙目になっていた。
「平和だったってことだよ」
今日も『高橋探偵事務所』の扉が叩かれることはなかった。大学卒業後勢いで始めてしまった探偵業だが、過去に戻れるなら必死に他の選択肢を勧めるだろう。
幼い頃、母はよく『シャーロック・ホームズシリーズ』を読み聞かせてくれた。子ども向けにアレンジされたものだったと記憶している。小学校の高学年になると、図書館でシリーズを手当たり次第に読破するようになった。
気付けばホームズの熱烈なファンになっていた。ホームズへの憧れは成長して衰えるどころか、ますます強くなっていった。ベーカー街221Bを訪れるという夢は未だに叶えられていない。
大学生の頃、学業とバイトに励む一方で、便利屋を始めた。ペットの世話や紛失物の捜索、引越し、家事の手伝いなど、依頼されたことは何でもやった。小金を稼ぐという目的もあった。しかし、いつか大きな事件が舞い込んでくるのではないか、という期待の方が大きかった。
大学四年間で大きな事件に出会うことはできなかった。個人の探偵事務所でそんな経験ができるはずもないのだが、大学を卒業した二十二歳の自分は諦めていなかった。バイトと便利屋で稼いだ金で大きめの部屋を借りた。表に『高橋探偵事務所』と掲げて探偵業を始めた。
繁華街から少し外れた路地にある、小さなビルの二階の部屋である。三年生の頃に知り合ったお爺さんが格安で貸してくれた。散歩中に失くした結婚指輪を見つけてあげたお礼ということだった。便利屋の仕事も無駄ではなかったようだ。
一年後、櫻子が事務所の扉を叩いた。「薫が面白いことしてるって聞いたから。私も一緒にやろうと思って」大きな荷物とともに転がり込んできた。
櫻子は二歳年上の姉である。男勝りな性格で、幼い頃から振り回されてきた。自由気ままで、大学卒業後日本各地を旅しながら、その日暮らしの生活をしていたらしい。久しぶりに顔を見せたかと思うと、そのまま事務所に居座った。
一人では不安になっていた頃だったからか、櫻子の存在は純粋に心強かった。しかしながら、その後も相変わらず便利屋でしかなかった。猫を追いかけ、旅先で失くした鞄を探し、浮気の疑惑をかけられた旦那さんを尾行し、引越しの手伝いに精を出す日々だった。それだけで生計が立てられるわけもなく、週四で他のバイトに励む生活を送っている。
将来のことを思うと溜め息が零れた。一方、目の前にいる櫻子は能天気にコーヒーを啜っている。
「溜め息なんかついてどうしたの?」首をかしげて尋ねてくる。
「このままじゃ将来が不安だろ。何か事件でも舞い込んでこないかなって思って」
「こないだのスーツケース運ぶ依頼は絶対事件だったよ」櫻子は少し興奮した様子で言った。「絶対事件だね」
「あれは小麦粉を運んだだけだよ」
三ヶ月程前の話である。事務所に突然電話がかかってきた。「隣の県まで荷物を運んでくれないか」という依頼だった。車で一時間もかからず行ける距離であったし、報酬もはずむという話だったため、二つ返事で引き受けた。
指定された場所に行くと、そこには数人の男がいた。全員黒目の服装で、鋭い目つきで自分たちを睨んできた。「高橋か?」と確認してくる男に、無言で頷くことしかできなかった。
「この駅の南口にいる男に渡してくれ。赤いジャケットにサングラス、目立つからすぐ分かる」と言われ、灰色のアルミトランクと簡単なメモを手渡された。
櫻子が呑気に「重いですね。中身は何なんですか?」と尋ねた。男は「小麦粉だ。大事なものだから失くしたりしないでくれよ」と言って、にたりと笑った。それ以上何も聞く気になれず、すぐに車で出発した。駅にいた男に荷物を渡して、急いで事務所に戻った。
「あれは小麦粉だ」繰り返して言う。
「なんで小麦粉運んだだけで三十万円も振り込まれるのよ?」櫻子は呆れた様子で声を上げた。「わざわざ他人に頼むって、怪しさ満点じゃない」
「それは、あれだよ。大事な小麦粉だったんだ。多分何かのパーティーだったんだよ。ケーキでも作ったんじゃないか?」滅茶苦茶な意見だった。
「あれは絶対ドラッグってやつね。ある意味パーティーかも」
「そんな訳ないだろ。この事務所にそんな事件が舞い込んでくる訳あるかよ」
「事件が舞い込んできてほしいって言ったり、そんな訳ないって言ったり、どっちなのよ」櫻子は笑った。
事件を解決はしたいが、自分が事件に巻き込まれるのは御免だ。とは言っても、事件らしきものはその件だけで、あとは便利屋として小金を稼ぐだけの日々だ。日本で普通に生きていて事件に巻き込まれる確率はゼロに近い。どの依頼も、平和な日常の中の些細な出来事だった。
時計に目をやる。時刻は午後五時半になっていた。事務所は六時に閉めることにしている。今日も何も起こることなく一日が終わりそうだった。