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縁側と水面

作者: 深津条太

 ひんやりとした冷水があたしを眠りからゆっくりと引き戻す。くるぶしまで水に浸かった足の清涼感が、干乾びていたあたしに命を吹き込んでくれる。

 あたしはどのくらい眠っていたのだろう。微かに香る木の匂い。空のてっぺんで熱線を放射していた太陽は気付けば、随分と傾いて、ほんの少しだけ赤みを帯びていた。

 柔らかくなった陽に照らされた縁側に寝転がった。きい……と板が軋む音と、服が擦れる音が混ざり合う。そのときに身体と共に落ちた掌が張られた木板に当たって、青みがかったそれが軽やかな音色を奏でる。静かな庭先に、その音は心地よく響いた。

 小高い山の中腹に建てられた古民家。実はあたしが生まれる少し前に物好きな両親が建てたもので、古民家と呼ぶには歴史が浅いのだけれど。そんな伝統的な日本家屋の隅っこが、あたしにとっての聖域となっていた。遠くに街が佇む縁側。あたしはここからの眺めがどうしようもなく好きだった。

 ここに誰かが来ることは滅多にない。いつもここであたしは一人になれた。一人になりたいとき、この縁側はひそやかに、いつでもあたしを迎え入れてくれた。落ち込んだとき、悔しいとき、落ち着きたいとき、人と会うことに疲れたとき……。いつでもここにいた。そして、過去に置いてきたあたしが、ここにはいっぱい残っていた。

 あたしは所謂、ハーフだ。しかし、両親のどちらに似るでもなく、その真ん中で宙ぶらりんだった。そのことで嬉しいことも、悲しいことも、悔しいことも数え切れないほど経験した。話す言葉も、食べる物だって一緒なのに、たくさん馬鹿にもされたし、たくさんの羨望も受けた。幼かったあたしは自由な時間のほとんどをここで費やした。けれど、彼らの反応もいつからか自然と鎮火していった。他人をからかいたい年頃で標的に適したあたしがいた。ただそれだけのことだった。そのあとに待っていた、複雑で、まどろっこしい人間関係もあたしを疲れさせるには十分だった。

 短く息を吐いたあたしは、思い切って頬を打った。ぐだぐだといつまでも愚痴を零しているなんてもったいないと自分に言い聞かせて。両頬を潰したまま身体を起こすと、足元のタライを蹴り飛ばしてしまう。「あ」と言葉が漏れたのと同時に、風が吹いた。赤くなった頬を撫でた爽やかな風が、家の中を吹き抜ける。後ろから雑誌が捲れる音が聞こえていた。

 風が止んだ世界はあまりにも静かだった。わずかに波を立てる水音だけが耳に触れ、遠くで小さく揺らめく街だけが立ち尽くしている。細長い葉が一枚、足元の水面にゆらゆらと浮かんでいた。

 頭の中に柔らかい音色が流れる。あたし達の流行りの曲。あたしが着信音に設定した音楽だった。肩を落としたあと、応答すると強く念じると、その音楽は途切れて聞き慣れた声が流れはじめる。

「もしもし?」

 その声が現実に引き戻される時間を告げる。

「うん、わかってる。……もう行く」

 足元にあった金ダライは波に運ばれて、遥か遠くで円形の波紋を作りながら流れている。わずかに波打つ海面が弱々しい波紋を呑んでいく。

 この場所ももう最後だった。もうすぐ、あの街と同じように海の下に埋まってしまう。もうこの縁側に横たわって何かを嘆くこともできなくなってしまう。寂しさに後ろ髪を引かれながら、あたしは重い腰を上げた。あたしの足から生まれたふたつの波は、水面を浮遊するタライを追うように彼方に溶けていく。

 深く息を呑み込むようにさざめく気持ちを落ち着けると、肌に紛れた鱗が波打つようにむず痒くなる。わずかな水分を纏った腕を、あたしは怖々と撫で上げてみた。鱗の端が手の中で小さく反り返った気がした。

 もうこの場所はあたしの場所では、人類の居場所ではなくなるのだ。中途半端に鱗の生えたこの腕を見て、あたしはそれを冷静に悟る。そんな気になっていた。

 広大に広がる海に潜ってからも、あたしの目の端から零れ落ちていくものの感覚は、しつこいほどにあたしに付き纏って、離してはくれなかった。

 口から漏れた気泡が水面を揺れながら、けれども確実に上を目指して昇っていく。あたしとは違う場所を目指して。冷たい水の中はあまりにも静かで、あたし一人だけがいる世界に思えて、気がつけば、むず痒い目蓋をあたしはそっと閉じていた。

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