特にこれといって何もない始まりですが。
今日という日が五月でなければ、初夏とはまさしくこういう日の事を言うのだろう。日陰に隠れていなければ比喩ではなく本当に焦げてしまいそうだ。 ただ、夏が到来していないからなのか、ここが都心から離れた場所だからなのか、不快な暑さではない。日陰にさえいればむしろ心地よく、夏休みまでおおよそ三ヶ月もあることさえ忘れてしまいそうだ。
こんな日にはハメを外してはしゃいでしまいたくなるのだが、そう上手くはいかないらしい。
何で上手くいかないかというと、時期を除けば、父の転勤という割とベターな理由で今こうして新居に積み上げられたダンボールと格闘しているからだ。……でも、まぁ少し休憩するのもいいかもしれない。部屋のレイアウトはどうしようかなぁ、適当でいいかなぁ、自分の荷物少ないし適当でいいよなぁ。と考えつつ、まだビニールが剥がされていないソファーに腰を下ろし、氷でキンキンに冷えた水道水を飲み小休止を挟んでいたのだけれど……。
「おーい桜太ぁー。ジュース飲みたーい」
…なんか聞こえる。何だか嫌な予感がするのです。水道水でいいじゃない。おいしいよ?水道水。
「桜太ぁ、さくたぁ。ジュース飲みたい! 買ってきて!」
二階から降り、階段越しから聞こえてくる、どこか眠たそうな声の主は、二つ年上の姉である。眠たそうな喋り方をしているが、決して眠たいわけではないらしい。
そんな姉は少々駄々っ子で、度々こうして何かと駆り出されてしまうのだ。そして天真爛漫というか、マイペースというか何というか地に足がついていない人だ。
「えぇ~、暑いし疲れたしやだぁ。後、陽奈美姉さんや、おれの名前さくたじゃなくて、おうただからね? 桜に太いと書いて『おうた』だからね? 姉に呼び間違えられるとかどうなんすかね?」
人からはよく姉弟そっくりなんて言われるが、似ているところなんて髪の毛がちょっと茶色でちょっとくるくるしている癖毛なところ位だ。性格はおれの方がしっかりしているはずだし、そうに違いない。
「作田桜太、略してサクサク。……ぷふっ。あっ、後ジュース代立て替えておいてね☆」
「使い古されたネタで何自分で笑っちゃってるの!?いろんな意味で恥ずかしいよ! あと弟にたからないでください! お願いします!」
「住所変更の手続きでバイト代の振込みが遅れてるのだ! ごめんね!」
「おれもそうだよ! 威張るな!」
「サクサクお願いぃ~」
小学生の頃から使い古され、姉にはこうして時々からかわれる、自分の中では割と不名誉な『サクサク』なるニックネームが転入する学校で使われないと良いのだけれど…まぁそもそもニックネームでもないし、いつ頃からかあまり使われなくなったしあまり気にしてないのだが。
母に「勉強もサクサク進めばいいのにねぇ」なんて嫌味を言われたり、当時小学生の頃好きだった子に「作田君は名前はサクサクしてるのに中身は呑気くんだねぇ。ウサギとカメの話知ってる? 飛べない亀はただの亀なんだよ」なんて言われたこともあるが全然気にしてないのだ。
亀だって必死で生きているのだろうし、飛べないからって馬鹿にしちゃいけないと思う。そもそも飛べる亀ってなんですか。
亀のことを思いふけっている中、姉が再度ジュースの催促をしてくる。
「今日は暑いねぇ~何か炭酸がいいなぁ。ほらお姉ちゃん越してきたばっかりで道よく分からないし?」
ほんと、自分で買って来てくれないかなぁ。
「おれも越してきたばっかりだから道よく分からないよ~。そういえば車に乗ってた時にコンビニ見えたよね?いってらしゃい!」
そう言って姉を優しく送り出した。こんなに優しい弟はそうそういないだろう。そもそもおれだって中々の金欠なのだ。
「今日は暑いねぇ~何か炭酸がいいなぁ。ほらお姉ちゃん越してきたばっかりで道よく分からないし?」
……我が姉は暑さで頭がやられてしまったのだろうか……壊れたブリキ製のおもちゃなるモノの様に同じセリフを繰り返すなんて。
かわいそうに……でも、そんなに喉渇いてるなら水道水でいいじゃん……
「キンキンに冷えた水道水も悪くないね!おいしい!」
水道水飲んでるじゃん。ジュースはどこへいった。
「あ、柑橘系の炭酸がいいなぁ。よろしくね☆」
「もう水道水でいいじゃん! 今喉潤ってたよね?」
何というかゆるふわでマイペースな姉のことを考えて頭を軽く抱えてしまう。
決して自分のツッコミセンスの無さに頭を抱えていた訳ではない。
もちろん炭酸の概念が分からない訳でもない。ないのだが。
「?あ、炭酸っていうのはね、こう……しゅわしゅわしてる飲み物のことだよ~」
姉には、おれが炭酸のことが分からなくて頭を抱えて困っている様に見えたのだろうか。
手で、しゅわしゅわのジェスチャーを交えつついらん説明をする姉であった。
「わかってるよ! その説明はいらなかった! 至上まれに見る蛇足感だったよ!」
「桜太様! お願いします! 炭酸に取り憑かれた憐れなる姉のためにどうかジュース遠征をば~」
ジュース遠征って何だよ……おれはこんな素っ頓狂なこと言わないし、本当にどこが姉弟そっくりなんだろうか。
「ジュースぅ……」
なんか言ってるが絶対に屈しないからな?姉のマイペースさにはもう翻弄されないからな?
そう思い、自分の意思を固く持とうと決心した。もう負けない。おれは飛べない亀じゃないんだ。
そうして水道水に口をつけながら、絶対に使い走りになんかされない!と意思表明していると姉が、少し申し訳なさそうに、弟にわがまま言いすぎたかなぁ、なんて言って反省している様だ。
おれも意地を張りすぎたかな。申し訳なさそうに、場を取り成す様に苦笑いを浮かべている姉を見ているとこっちがほろ苦い気持ちになってくる。
「……お姉ちゃんね、実はさっき作業中に怪我しちゃって。」
なんだ、最初からそう言ってくれればよかったのに。
意地を張っていた自分が馬鹿みたいじゃないか。
「どこ怪我したの? そういうのは最初に言ってよ。」
「桜太って心配性でしょ? だから言いづらくて……桜太の人の良さを見てると、悪い人に騙されるんじゃないかと思って見てられなくなるの」
意外と奥ゆかしい姉を見ていると少しくすぐったい気持ちになってくる。
「しょうがないなぁ。柑橘系の炭酸ね? あと、別におれ人に騙されたりしないよ。どっちが心配性だよまったくもう」
「桜太は優しいなぁ。バイト代入ったらかっこいいジュース奢ってあげるね!」
調子が良いなぁ。何度も同じ様なこと言われてるけど数回しか奢ってもらったことないぞ?
それにかっこいいジュースってなんですか。非常に気になる。まぁ、帰ったら詳しく聞くことにしよう。
そんな事より怪我をした姉のために買出しだ。姉はへらへらしている位が丁度良いのだ。
我ながら優しい弟だな……しかし怪我をしたのに元気そうだなぁ。
「ところで姉ちゃんどこ怪我したの?」
「行ってらっしゃい! 季節はずれだけど熱射病には気をつけてね!」
「ところで姉ちゃんどこ怪我したの?」
「ね、捻挫…痛くて一歩も歩けないよ」
姉の足首辺りを掴んでみる。
「い、痛ぁ~い。へへ…」
せめてもう少しマシな演技をしてもらいたいものだ。
「ところで姉ちゃんどこ怪我したの?」
壊れたブリキ製のおもちゃなるモノの様に同じセリフを繰り返すおれ。
決して暑さで頭がやられてしまった訳ではない。
「つ、突き指……痛くて箸も握れないよぉ。へへ……」
目も合わせずそう言う姉の全く腫れていない細い指を、握ってみる。
「く、くすぐったい……ぷふぅ」
なぜくすぐったがるのかこの姉は……。握力が弱いと言われているようで少し腹立たしい。平均だ。間違いなくおれの握力は平均だ。
「ところで桜太、ジュース買ってきてくれるって言ったよね?」
「むふぅ」
悔しさで鼻息が荒くなってしまう。毎度いいように扱われている自分の間抜けさが悔しくもあり悲しくもある。
「お姉ちゃん嘘つきさんは嫌いだなぁ~」
「あんただよ! 嘘つきはあんただよ!」
「へへへ~ふふ?」
「笑ってごまかすなよ!」
「『笑ってごまかす』……我が家の家訓だよ?」
「……マジで?……いやいやいやいや! そんな家訓じゃ社会に出た時に通用しないよ!?」
父も母も姉ものんびりしているし、割とへらへらしているので危うく信じそうになってしまった。
「それが何とかなるんだよね~社会って割りと曖昧だよ?根拠はないけど」
「あんた社会人じゃなくて大学生でしょ……。しかも根拠ないんかい」
しかしながら姉を見ているとホントに何とかなっちゃいそうに思える。不思議だなぁ。
とにかく、このまま姉と話していると日が暮れてしまいそうなので、納得はいかないがちゃっちゃとジュースを買いに行くとしよう。
「それじゃあそろそろ行ってくるね。あと、帰ったら『かっこいいジュース』とやらのことを詳しく教えてね」
なんだかんだ言っても男は『かっこいい』に弱いのだ。きっとおれだけじゃない。かっこいいジュースかぁ。気になるなぁ。
「あぁ! 待って! もうすこしお話ししようよ!」
「ジュースジュース! 飲みたがってるのあんたでしょ! これ以上引き止めたら、出てくるのはジュースじゃなくて夕御飯になっちゃうよ!?」
「夕御飯何かな?」
「おれは唐揚げがいいなぁ……姉ちゃんレモンかける派?」
「ん~どっちでも? 強いて言うなら和風おろしとか?」
あ~和風おろしもいいなぁ……しまった、ジュースのこと忘れてた!三歩歩けば忘れてしまう鳥の様に華麗にジュースのことを忘れてた。唐揚げ恐るべし。
「唐揚げもいいけどジュースよろしくね~。寄り道しないで帰ってくるんだよ~?」
「はぁい。いってきまーす」
ホントに、ドつぼにはまる前に行ってしまおう。
そうして、まだ慣れない道を歩くためにドアを開いた。