死にたがりの男
死は、どこにあるのだろう。
目下、茂野徹の悩み事といえば、そんなものだった。
何せ、茂野は自殺に悉く失敗している。動脈を深く切って大量に出血しても、出た量と同じだけ輸血をされていつの間にか回復した。高層ビルから飛び降り自殺を図っても、三週間の昏睡状態が続いただけで、損傷した肉体は奇跡的に回復した。入水自殺を図っても、これまた二週間ほど意識が戻らなかったようだが、いつの間にか回復していた。積雪の多い冬に富士の樹海へ単身乗り込んでも、重度の凍傷を負っただけで回復した。服毒自殺を図っても、胃洗浄をされてあっという間に回復した。家に放火し自殺を図っても、全身火傷で半年ほど隔離入院させられて、皮膚移植を受けて、いつの間にか回復した。車に乗ったまま有明の海へ飛び込んだこともあったが、それもなぜだか失敗した。駅のホームから急行列車の目の前へ飛び込んだこともあったが、それも同様だった。
つまり悉く――茂野は死に嫌われているらしかったのだ。
「北野さん、先月亡くなったんだって。ほら――石田先生が手術した胃がんの患者さん。お腹開けても、もうひど過ぎて手の施しようがなかったっていう……結局、岬のホスピスに移った人よ」
看護師の噂話というものは、大抵、他人の生き死にの話だった。
茂野は同期の石田から話題の患者の話を聞いたことがあったが――治療方針について相談されたのだが――噂にあるように、石田の手術ミスの所為ではなかった。リンパへの転移と、そもそも発見時のがんの病期が末期であったからだ。
彼女たちの噂話を背後に聞きながら、茂野はぼんやりした顔のまま、病院を訪れる患者のご家族にも人気の院内カフェ『アリサ』特製のナポリタンに齧り付く。それを蕎麦のように啜れば、相席となった作業療法士の青年が顰め面をしていた。
「でもね、それより気の毒になったのは野々垣さんのことよ。ほら、茂野先生の手術で、劇的に回復した脳腫瘍の女の子。あれからどんどん回復して、学校にも通えるようになったのに、その途中で居眠り運転のトラックに跳ねられて亡くなったらしいの」
ナポリタンを飲み込むように掻き込んで――毎食食べているから、いちいち確認しなくても、美味であることは十分知っているらしい――、茂野は水を呷る。その時、突拍子もなく自分の名前が出てきて、彼は思わず斜め後ろの彼女たちを盗み見た。背中合わせのように、すぐ近くに座っているというのに、あちらは茂野には気付く素振りもない。
噂話とは、誰が聞いているか分からない。けれど、どこでも構わず話したくなってしまう厄介なものなのだ。しかしいくらなんでも、突然自分の名前が話に出れば、驚くというもの。
「この前、お母さまがわざわざ、お礼にいらっしゃったのよ。茂野先生の手術を受けていなかったら、あの子も学校に通うことなく、ただ病院のベッドで過ごすだけの一生を送っていただろうって。それ聞いたら私、とても気の毒だったけれど、ああ…良かったなあ、って……」
話をしていた看護師の声が不意に震えて、尻すぼみになって消える。沈黙の中に、微かに鼻を啜る音が混ざる。
野々垣結子は、茂野の患者だった。先月の誕生日で十歳になったばかりの少女だ。一年近く通院し、時折、悪化するごとに入退院を繰り返し、そして半年前に腫瘍摘出手術を行った。
もともと腫瘍の大きさ自体は些細なもので、命に関わるものでもなかったのだ。ただし、その位置が問題であった。摘出手術を行うことが不可能に近い部位にあった腫瘍の所為で、野々垣結子はあらゆる病院を盥回しにされ、ようやく、この病院に辿り付いたのだった。
たとえ腫瘍があったとしてもなかったとしても、死に不釣り合いのはずの少女が死んだ。それも単に交通事故で――…野々垣結子は確かに茂野の患者だった。しかし茂野には、つい半年前だというのに顔も、声も、その仕草も思い浮かばなかった。ただ、物事は平然と過ぎ去っていくことのように感じただけだ。へえ、と何事も無関心に頷くように。
他人の死など、茂野には大した問題ではなかった。
「そう…可哀想に、……」
世の中は無常で、そして無情でもある。
死に程遠い人間が死に、死に限りなく近い人間が救われ、死を望む人間が死に損なうのだから。そして度々その死に損なった人間が、死に掛けた人間を救わなくてはならないのだから、皮肉なものだ。
脳腫瘍を摘出した野々垣結子には、確かに、死の影など見当たらなかった。死は、野々垣結子の体内には存在しなかったのだ。
しかし、それならば死は一体、どこにあったというのだろう――…。茂野は宇宙の謎でも考えるように、眉間に皺を寄せ、諦めにも似た溜息をついた。
「それにしても、流石よね。茂野先生。まだ若いのに技術は国内一、世界でも十本の指に入るといってもいいくらいだって。神の手を持つ天才脳外科医なんて、言われるだけあるわ」
はたして看護師の噂話というものは、大抵、くだらない話だった。
茂野に与えられた神の手を持つ云々、という謂れは、彼が十年前に執刀した手術の成功によるものだった。当時、どんな最先端の医療技術であっても、治療不可能、摘出不可能、回復の見込みが零であった患者が、息を吹き返した。ただ、その手術に立ち会ったのが茂野であった為に、如何にも茂野が最高技術を持った医者のように言われたのだが、あれは単に、その患者に死が存在しなかったからだ。
どでかい腫瘍はあるのに、死はどこを探しても見当たらなかった。それこそ脳味噌を掻き回して必死になって探したとしても、見付からなかっただろう。おそらくその患者は、もとから、死ぬことのない人間だったのだ。
お陰で茂野は、若手ながら、国内外にその名を知らしめることとなった。
「おい茂野――…ここだけの話なんだが、この後、大学病院の教授が研究用でひとつ遺体を解剖するらしいぜ。うちの解剖室貸し出すらしくて、ちょっとだけなら見学してもいいって」
病棟のステーション前を通り過ぎる時、ちょうどエレベーターから降りてきた外科医の古川が、悪そうな顔を歪ませて――何か楽しみなことがあると、それを抑えようとぎこちない顔になるからだ――言った。
「うちの患者じゃねえよ。俺も今さっき見てきたんだけど。ただ、言えることは、相当ひでえ扱い受けてた人間だろうな。あんなんになるまで放置されてたなんて……多分あれじゃあ、碌に歩くことも、喋ることもできなかったんじゃないかな」
古川は悲しいことがあると、それを隠そうとして無理に笑う癖があった。合理主義である古川でさえも気の毒に思うなんて、如何ほどだろうか、と茂野はほんの少しだけ興味を引かれた。そしてまた、遺体を解剖することには、もっと興味を引かれていた。
死んだ人間にならば、死は、見付けられるかもしれない――。
当然のことだ。茂野が担当する患者は皆、死とは程遠い。何せ、神の手と信じられている茂野が手術するものだから、患者は皆回復してしまう。彼は今までに、死んだ患者というものには縁がなかったのだ。
一階の古い病棟奥にある病理解剖室の戸を開けて、中に滑り込めば、薬品のにおいが鼻をつき、清潔にされた手術台に清潔にされた遺体らしきものが横たわっているのが見えた。しかしそれを見て、期待が高まったのも束の間、茂野は根本的な問題に気付いてしまった。
「ああ、茂野くん。君も見ていくかい? この脳幹部分の浸食具合…」
「いえ、教授。やっぱり私は遠慮いたします」
そこには、生々しい死体しかない――。
期待外れだ。そもそもが、間違っている。探し場所は、死体の中ではなかった。死体は既に死んでいるからだ。当たり前のことなのに愕然として、こうも落胆させられるとは。
深い溜息をついて解剖室を出た茂野に、一緒に見学をしていた学生が――彼は蒼白な顔で、今にも嘔吐しそうな顔色であったが、慰めるような――半分笑うのを耐えているような顔をしていた。その学生に、気持ち悪いのなら吐いてしまえ、とでも言いたげに、茂野は曖昧に笑っておいた。
「先生、急患です――…今、深津はオペ中で、他に対応できる医師がいません。お願いします」
茂野は帰り際、PHSを持って出てきてしまったことに後悔した。しかし、たとえPHSを置いて出てきたとしても、私用の携帯電話の方に着信がくるはずだろう。
看護師の強い気迫に押され、茂野はしぶしぶ緑色の手術着に着替えた。
そのオペを終えたのは、それから四時間後である。すっかり夜も更け、院内は消灯となり、煌々と蛍光灯の灯るステーション以外は足元の照明だけで薄暗い。凝った肩を解しながら、茂野は今度こそ家路に就いた。
その途中、茂野は何気無く空へと視線を上げた。立ち並ぶマンションの黒い影の間から、丸い月が鮮明に見えたのだ。今夜ははたして満月であったか、と院内のテレビで流れていた天気予報を思い出しながら、茂野は鈍い黄色の光を放つ月を見詰めた。
思えば、月も死んだ惑星ではなかっただろうか。
それが、妙に生々しく、太陽の光を受けてこれほどまでに輝いているとは――…茂野は感心した。沈み掛けても尚、丸い形のまま光っている月は、死んだ星といえど、死を感じさせない。まるで今も尚、密やかに呼吸を繰り返し、そこで生きているみたいに。まるで――生きている、みたいに…?
玄関の鍵を開けながら、ふと、自分の患者たちは生きたかったのだろうか、と茂野は疑問に思った。己の病をしり、落胆、絶望して、そしてそれから、患者は何を思ったのだろうか。しかし少なくとも、治療を希望した患者たちは、病を治したいと思ったから、全てを茂野に託したのではないだろうか。茂野が担当する患者に死が存在しなかったのは、それは患者の生きたいという意志の所為だ。
遅い晩食を終えて、入浴を済ませた茂野は、いつも使っている睡眠導入剤を取り出した。たとえばこのような睡眠薬を二十錠、三十錠飲んで自殺を図って救急搬送される患者がいるが、毒物を飲むならばともかく、市販のものや病院で処方される睡眠薬をいくら飲んだとしても、そう簡単に自殺はできない。茂野は院内に保管されている劇薬という部類のものを服薬して自殺を図っても死にきれなかったのだが――、睡眠薬はやはり睡眠薬としての働きしかしないという訳だ。
いつものように百錠ほどの睡眠導入剤を、茂野は数回に分けて飲み干した。これはほとんど患者に処方されることのない強力な薬剤で、取り扱いも難しいものだが、規定量を飲んでもなかなか眠れなくなってしまった茂野には、この量でも少ないくらいだった。
いつものようにそれを飲み、いつものように布団に潜り込む。
茂野は一日の中で、眠りにつく時間が一番好きな時間だった。電気を消した暗闇の中で、目を閉じる。辺りは静寂に包まれ、遠のき消えてゆく。今日のことも、明日の心配ごとも、意識さえも消え失せる――…茂野は瞼の裏に、帰り際に見た満月の光を見た気がした。
その十時間後、途切れることなく急患が押し寄せる中、なかなか連絡の取れない茂野の家に、当直明けの看護師が訪れた。
玄関の扉に顔を近付け、耳を澄ませば、部屋の奥から携帯電話の呼び鈴が聞こえる。しかし電話を鳴らしても、インターホンを鳴らしても、茂野は一向に出てこない。玄関に張り付いたまま動かない看護師に、不審に思ったマンションの住人がマンションの管理人を呼ぶ。その管理人に事情を説明して、看護師は茂野の部屋に足を踏み入れた。
茂野は奥の寝室にいた。ベッド中央で、横になったまま呼び掛けにも反応を見せない――看護師が発見した時には既に、茂野は心停止状態だった。
解剖の結果、死因は心不全。つまり、原因不明だった。テーブルに残された睡眠導入剤の錠剤から、誤って多量に服用したのではないか、と憶測された。
「ねえ聞いた?……先週の、茂野先生のあれ、自殺だったとかって。手術手術で仕事に追われて、精神的に参ってたみたいよ。家から沢山、睡眠薬が見付かったとか、…」
看護師の噂話というものは、大抵、他人の生き死にの話だった。
「ねえ、それよりもさ、今朝のMOニュースでやってたお店って、銀座の駅からすぐだったわよね? 一度行ってみたいと思ってたんだけれど――」
はたして看護師の噂話というものは、大抵、くだらない話だった。