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13.幸せ王子、風邪をひく

 連休明け、いつもに増して憂うつな気分で目覚めた朝、家を出る直前に黒岩双葉からメールが届いた。

『――というわけで今日は学校休むことにした。一緒に行けなくてごめん』


 黒岩双葉が風邪で学校を休んだ。私の記憶が確かなら三年生になってから黒岩双葉の欠席はこれが初めてだ。

 勉強会のときはあんなに元気そうだったのに。

 朝の挨拶の後に「今日は風邪で休む」という内容を長ったらしく書いたメールには一応「お大事に」と返信した。

 黒岩双葉とつきあい始めてからできるだけ見るのを避けていた黒岩双葉の席になんとなく目がいく。

 その度にあのうっとうしいことこの上ない電話が頭をよぎる。あの後も何もなかったみたいにどうでもいいメールが何通もきたから油断していたけど、このタイミングで休まれたら、違うとわかっていてもあの電話が原因なんじゃないかと思わずにはいられない。

「カオルンなんか元気ないねっ。やっぱり黒岩くんがいなくて寂しい?」

 休み時間、頭の上から降ってきた声に顔を上げるとキャサリンが妙ににやけた顔で私の机の横に立っていた。

「気のせいだよ」

「照れない照れないっ」

「照れてないよ」

「もちろん今日お見舞いに行くんだよね?」

 キャサリンは私の否定の言葉を無視して首を大げさに傾げた。

 お見舞い。私が黒岩双葉を見舞う。

「なんで?」

「むしろなんで彼女なのに彼氏のお見舞いに行かないの?」

 ちょっとつきあっているだけでそんな義務が発生するのか。

「面倒くさい。風邪うつったらやだし」

「……カオルン、黒岩くんが聞いたら泣いちゃうよ」

 こんな発言くらいで泣くような神経を黒岩双葉が持ち合わせていたら、私は今頃とっくに別れられていたことだろう。

「とにかく、絶対行ってあげなきゃだめだよっ。キャサリンとの約束っ」

 一方的に指切りをすると満足したようにキャサリンは自分の席に戻っていった。

 次の授業の準備をしながらお見舞いについて考える。学校帰りに行くとなると今日はお金を持っていないから手ぶらで行くことになる。かと言って一度家に戻って果物なりお菓子なりを買って黒岩双葉の家に行くのも面倒くさすぎる。

 国語の授業中ずっと考えた結果、学校帰りに立ち寄って黒岩双葉の顔を一瞬見たらすぐ帰るという結論に至った。

 そもそもお見舞いなんて行くつもりは全然なかったのだからこれで十分だ。キャサリンとの一方的な約束も一応守ったことになるし。


 そして再びやって来た黒岩双葉のマンション。

 うちのおんぼろマンションとの格の違いを見せつけるかのようにオートロックがあったことを、エントランスまで来て思い出した。

 足が勝手に帰りたがったけど、タイミングよくなのか中に入る人がいて思わず一緒に入ってしまった。

 黒岩双葉の家に行くことをメールで伝えておけばよかったかもと気づいたのはドア横のインターホンを鳴らした後だった。

 黒岩双葉は今お父さんと二人で住んでいて、この時間黒岩双葉は一人きりで寝ているのかもしれないと気づいたのはなんの反応もないまま数分が過ぎた頃だった。

 仕方ない。帰ろう。

 その前にキャサリン対策でお見舞いに来たことだけは伝えておくか。

 今朝黒岩双葉にメールを返した後、うっかり制服のポケットに入れて学校に持ってきてしまった携帯を鞄から取り出した。

『今家の前』

 送信ボタンを押す。ちゃんと送信されたのを確認してから携帯を鞄にしまって立ち去ろうとドアに背を向け、数歩進んだところでそのドアが開いた。

「薫子!」

 振り返るとぼさぼさ頭にパジャマ姿の黒岩双葉が満面の笑みでそこにいた。

「……寝てたんじゃないの?」

「メールで起きた。着信音、メールも電話も薫子のだけ特別なのにしてるから」

 できれば知りたくなかった事実を知って鳥肌を立てながら私は、変な勘違いをされても困るから黒岩双葉のほうへ向き直ってここに来た理由を告げる。

「キャサリンに言われてちょっと顔見るのに寄っただけだから。起こしてごめんね。お大事に」

「来てくれてありがとう。俺超幸せ」

 黒岩双葉の耳には「キャサリンに言われて」という部分が聞こえなかったようだ。

「上がってってよ。熱も結構下がった気がするし、今日薫子と会えると思ってなかったからもっと一緒にいたい」

 この様子だとあのうっとうしい電話は本当になかったことにされたようだ。なんだか悔しい気もするけど変に気まずくなるよりはましか。私も何もなかったようにしているからお互い様だし。

「風邪うつったら嫌だから帰る」

「じゃあマスクする!」

 黒岩双葉が思っていたよりもずっと元気そうだったから思わず本音がそのまま口から出てしまったけど、キャサリンが言うみたいに泣いたりはしない黒岩双葉はそう宣言して笑った。

「じゃあ、ちょっとだけね」

 こういうときの黒岩双葉はしつこいだろうから無駄に抵抗するのはやめておいた。

「やった!」


 外観からうちとは明らかに格が違うマンションは、中もやっぱり格が違った。

 前回はダンボールが積み上がっていた廊下もすでにきれいに片づいていて無駄に広くて明るく感じる。

 初めて入った黒岩双葉の部屋は、私の部屋よりも確実に一回りは広かった。

 不安になるくらい物が少ないから余計にそう感じるのかもしれない。置いてある家具がベッドと勉強机だけってどういうことだ。

 まっさらな壁には唯一制服がかかっていて、それが妙に浮いていた。

 勉強道具や小物は机、服とかはウォークインクローゼットに入っているのだろうけどそれにしても私物が少なすぎる。漫画やゲームの一つ二つあってもいいのに。

 広々としたフローリングの床には座布団も何もなくて、座れる場所はベッドの上くらいだから仕方なくマスクを装着して上着を羽織った黒岩双葉と並んで腰かける。

 こんなに広いスペースがあったらぬいぐるみ大運動会が実際にできそうだ。

「なんか、想像と違う。双葉の部屋」

「え、どんなの想像してたの」

「もっとこう、ごちゃごちゃっと、思い出の品とか無駄にとっておいて趣味とか遊びの道具とかもたくさん置いてあって、みたいなの。こんなに寒々しい部屋だとは思わなかった」

 この部屋は、黒岩双葉と噛み合わない。それがなんだか気持ち悪い。

「寒々しいって」

 黒岩双葉は笑った。

「そういうのは全部兄ちゃんの部屋に置かせてもらってる。兄ちゃん家出てるから。俺の部屋散らかしすぎて親に超怒られてさー。前に大掃除したときに部屋のもの一度全部外に出して本当に必要なものだけ戻したらこうなった」

「ふーん」

 多分私はほっとしていた。こんな空っぽの部屋を好む黒岩双葉なんて嫌だ。

「でもお兄さんの部屋に置いてるんだったら双葉の部屋に置いても一緒じゃない?」

「いや、兄ちゃんの部屋だって思うと片づけられるんだけど、自分の部屋だと多分また散らかす。結構処分したけどそれでも量が多いし」

「意外とだらしなかったんだね」

「……そんな嬉しそうに言われるとすっげえ複雑な気分」

 黒岩双葉の弱点を知って嬉しくないわけない。

「でも幻滅されるよりはいいや」

 しまった。ここはそういう反応を返すところだった。

 マスクで顔の半分以上が隠れている黒岩双葉は、それでもニコニコしているのがわかる。

「あ、なんか飲む? ココアあるよ」

「いらない」

 さすがに風邪で休んだ人に飲み物の用意をしてもらうのは気がひける。

 それからしばらく今日の授業のことを話して、気がついたら黒岩双葉に今日の分のノートを貸すことになっていた。私は一度も貸すなんて言っていないのに。

「他に見せてくれる友達いないの?」

 いないわけないのはわかっているけど嫌みのつもりで言ったら案の定黒岩双葉には全く伝わらなかった。

「明日見せてもらうつもりだったけど、薫子のほうがいいもん」

 嫌々鞄から出した数冊のノートが黒岩双葉の手に渡る。

 早速人のノートをぱらぱらとめくっていた黒岩双葉が残念そうな声を上げた。

「意外と普通」

「何が」

「薫子のノートって、もっとこう、面白い落書きとか色々してあるんだと思ってた」

 黒岩双葉は私のことをなんだと思ってるんだ。

「今夜中に写して明日返すから」

「忘れないでね」

 立ち上がった私を追うように黒岩双葉が顔を上げた。

「トイレ?」

「帰る」

「まだだめ」

 黒岩双葉の両手が私の左手をがっちりつかんだ。全身にぞわぞわ鳥肌の立つ感覚に、私は手を離してもらいたい一心で仕方なく腰を下ろした。

「あと五分ね」

「もう一声」

「手を離したらもう五分いる」

「あと三十分いてくれるなら離す」

 黒岩双葉に負けた悔しさを噛みしめながら見慣れない天井を見上げた。


 ぽつぽつとどうでもいい会話をして長い三十分を耐え再び立ち上がった私の左手を、黒岩双葉の両手ががっちりつかんでいた。今度は鳥肌を立てる前にその手の熱さに驚いた。

 座り直して右手で黒岩双葉のマスクを下にずらしたら真っ赤になった顔が出てきた。下がったと言っていた熱がまた上がったのは間違いない。

「薫子?」

「まだ帰らないから今すぐ布団に入って」

「え?」

 まさか自分のことなのに気づいていないのか。

「熱、上がってるでしょ。入らないなら帰る」

 黒岩双葉に勝ってもこんな状況じゃ少しも嬉しくない。

 ベッドの横で、私はどうすればいいのかわからず意味もなく殺風景な部屋を見回した。

 黒岩双葉は私が指摘してやっと自分の体調の悪化に気づいたらしくベッドに横になって目を閉じている。

 そうだ、とりあえずおでこを冷やそう。

 黒岩双葉の部屋を出てすぐ近くに洗面所を見つけ、そこでポケットに入れていたハンカチを濡らした。大きな洗面台を羨ましがる余裕は残念ながら今の私にはなかった。

 部屋に戻って濡らしたハンカチをたたみ直して黒岩双葉のおでこに乗せた。黒岩双葉が目を開けた。

「ありがと。ごめん、引き止めたの俺なのにこんなことになって。暗くなる前に帰って」

「うん。じゃあ、お大事に」

 鞄を持って黒岩双葉に背を向ける。黒岩双葉ももう帰っていいと言っているし私がここにいないといけない理由はなくなった。

 でも帰る前に気になることだけ一応訊いておこう。

 私は黒岩双葉を振り返った。

「お父さんはいつ帰ってくるの?」

「遅くなるって、朝言ってたけど」

「ごはんは?」

「うちにあるもの適当に食べる。昼もそうしたし」

「ふーん」

 風邪をひいて一人心細い時間を過ごす黒岩双葉。

「でも今日は薫子が来てくれたから、風邪ひいてラッキーだったかも。本当にありがとう」

 ハンカチとマスクの間の目が細められる。

 黒岩双葉はそんな時間さえも、幸せだと思ってしまえるんだろう。


 いつもより急ぎ足で薄暗い雰囲気の漂う我が家に帰りつく。

 机の上に鞄を置いて時間を確認する。おじさんとおばさんはまだ帰ってこない。

 よく考えたら私とつきあっている間に黒岩双葉が風邪をひくなんてこの先もうないかもしれない。風邪をひいたときにやさしくされれば、普段ない状況なだけに黒岩双葉の記憶にも強く残るはずだ。

 思い出は多ければ多いほど後で黒岩双葉が受けるダメージもきっと大きい。

 今は黒岩双葉をふってやることはできなくても、いつか別れたときに黒岩双葉が抱える消したい過去を増やすことはできる。

 私は意を決して鞄にお財布をつっこむと、近所のコンビニでレトルトのおかゆとみかんのゼリーとスポーツドリンクを買って再び黒岩双葉の家へ向かった。


 私が帰った後も黒岩双葉はずっと寝ていたのか、玄関の鍵は空いたままになっていた。不用心だと思いながら無断で家に上がる。

 黒岩双葉を驚かせてやろうという悪戯心からできるだけ足音を忍ばせて黒岩双葉の部屋の前に立つ。

 音を立てないように慎重にノブを回してドアを開ける。途中、コンビニの袋がかなり大きな音を立てて焦ったけれど、壁際のベッドの前までなんとか黒岩双葉に気づかれずにたどりついて小さく息を吐き出した。

 黒岩双葉はまだマスクをつけたまま横になっていた。

 私は大きく息を吸い込んだ。

「わ!」

 眠っていたらしい黒岩双葉が私の声に反応して飛び起きた。おでこに乗っていた私のハンカチが落ちる。

「え、え、何? か、薫子? なんで? 帰ったんじゃ」

「おかゆとか買ってきた。ゼリーもあるよ。夕飯にどうぞ」

 右手に持っていた袋を落としたのは、黒岩双葉が突然私の腰に抱きついてきたからだ。

 のどのところまで一気にきた悲鳴は残念ながら不発に終わって小さな音がもれただけだった。

「ふ、双葉」

 追いつめられた犯人みたいに両手を上げたまま私は私にひっついている黒岩双葉のつむじを見つめた。

「ごめん、嬉しくて」

 凍りついていた体が動いて黒岩双葉の頭を殴ろうとした瞬間黒岩双葉が離れて私はベッドから数歩距離をおいた。

「じゃあ、今度こそ本当に帰るから」

 看病っぽいことを少しはするつもりでいたけど今の黒岩双葉の行動で全てなしになった。

「待って、もう少しだけ、傍にいて。お願い」

 目をうるうるさせてのお願い攻撃は子供かかわいい女の子じゃないと意味がないということを黒岩双葉は知らないらしい。

 それにしてもまさかこんなチャンスがやってくるなんて。さすがの黒岩双葉も弱っているときの心細さには勝てないようだ。ここで黒岩双葉を突き放して帰ってしまえば、さすがに幸せとか言ってられないだろう。

「もう帰るってば。あとは一人で頑張ってね」

「薫子」

 黒岩双葉に背を向けた途端強く名前を呼ばれて前に出しかけた左足をうっかり止めてしまった。

「……何?」

 そして振り返ってしまった自分の甘さに腹が立つ。

「暗くなる前に帰れって言ったのは双葉だよ」

「そう、だけど、やっぱり薫子がいてくれないと嫌だ。もう少ししたら家まで送るから」

「病人に送ってもらいたくない。ちゃんと休まないと治るものも治らないよ」

「今、風邪ひいててよかったかも」

「は?」

 会話が繋がってない。

「元気だったら、薫子のこともっとぎゅーっとして、キスだっていっぱいしてたかも」

「元気だったらそもそもここにいないから。じゃあね」

 気持ち悪い発言をする元気はあるようだからこれで心置きなく帰れる。

 部屋を出ようとドアのノブに手をかけたのとほぼ同時に物音がした。

 それが玄関のドアが開いて閉まる音だと気づいたときににはノブが私の手から離れていた。

「双葉! 大丈夫!? 風邪ひいたって――」

 突然の衝撃に何が起こったのかわからないまま後ろによろめいた。

 何かがぶつかった鼻を押さえながら顔を上げたら十五年後の黒岩双葉がそこにいた。

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