今夜だけはホワイトデー
ふとデジタル時計の隅に映る3.14の表示を見て、私は「あっ」と小さな声を上げた。すっかり忘れていたが、今日はホワイトデーだ。
なるほど。だから友樹は今日夕食はいらないと言ったのか。
「若いなぁ」
と呟く。はっとして
「いやいや私だってまだ若…くはないか…」
自分の独り言で自滅した。なんだか最近は独り言が増えて、もの悲しい。
息子の友樹は高校生。つまり子どもを産んでからそれだけの時間がたったのだ。ハタチ過ぎてからは早いと聞くが、30過ぎてからも十分早い。
子どものころの十年間とは全然違う。その頃は真新しいきらきらしたものが、びゅんびゅん向こうから飛んできた。その速さに目が眩んで、けれど、どうにかそれを掴もうと必死に手を延ばして。充実していたその十年は、それはもう永遠のように感じたものだ。
今ではすっかりと周りの空気はゆっくりになり、自分だけが早足で動いている気がする。
ホワイトデーだって見落としてしまうほど、早足で。
そういえば、とふと思い出す。数年前まではもうちょっとバレンタインもホワイトデーも手ごたえのあるイベントだった気がする。
友樹が中学生だった頃までだろうか。
毎年のようにあげていた手作りのチョコを友樹に渡したら、そんなものもういらないと突っぱねられたのだ。あの時は息子の成長と反抗期を悲しむやら悔やむやら喜ぶやらという思いで、夫にあげる予定だったチョコをやけ食いした。そのことを仕事から帰ってきた夫に言ったら大いに呆れられたのは、今となっては笑い話である。
私は一人で思い出し笑いをして、肩を揺らす。そう、その頃からバレンタインもホワイトデーも適当になってしまったのだ。生娘じゃあるまいし、まぁ、そんなものだろう。
去年のバレンタインに、夫にどんなものを渡したかもいまいち思い出せない。
「やっぱり私も年をとったなぁ」
認めたくはない事実だけれど、とため息をついた。
ガチャリと玄関から音がして、洗濯物を畳む手を止める。
友樹だろうかと思ったが、廊下を歩く音で夫だと分かった。
「おかえりなさい。今日は少し遅かったのね」
「ああ。夕飯は食べてきた」
あなたもですか、と私は軽く肩をすくめた。
「友樹は部屋か?」
「ううん、出かけてますよ」
「こんな時間にか」と夫が眉を顰める。私はまぁまぁと彼をなだめた。
「今日はホワイトデーですから。今日くらいは大目にみましょう」
「お前は緩いな」
夫が目を細めた。別に怒っているわけではない。照れ屋な彼が呆れたり喜んだりするときの、癖のようなものだ。
「ところで、あなた。今日はホワイトデーなんですよ」
おどけてそんな風に言ってみると
「今聞いた」
と、なんともつれない返事をされた。それほど期待していたわけではないけれど、軽くへこむ。むっとした顔を俯き加減で隠して、無言で洗濯物畳みの続きに取り掛かった。
「ほれ」
頭に軽い衝撃。
顔を上げると、そこにはシンプルなラッピングをされた箱
。
予想外のものの出現に、私は目を見開いて固まってしまった。
「え、何ですかこれ」
「今日はホワイトデーだぞ」
「や、それ、さっき私が言いましたけど」
箱を受け取る。裏のラベルを確認すると、私の好物のチョコレートだった。
「…ありがとうございます」
「うん」
夫は、やはり目を細めていた。呆れたときと、喜んでいるときに見られる顔。
「ああもう!私若くないのに!」
そう叫ぶと、夫は「は?」と困惑した。私は立ち上がって、頭上にハテナを揺らしているような表情の彼から背を向けた。キッチンへと向かう。自分の熱くなった頬を隠すために。
ああもう、本当に若くないのに。
いい年したおばさんがこんな顔、似合わないのに!
「チョコレート、一緒に食べましょうよ。コーヒー淹れますから。あ、紅茶とコーヒー、どっちがいい?」
私はポットの電源を入れてから、リビングで背広を脱いでいる夫に声をかけた。
「…いや、酒飲みたい気分だ」
「チョコレートにお酒?」
「戸棚にこないだ貰ったブランデーあっただろ」
そういえば、と納得して戸棚を開ける。ブランデーとチョコレート。なんだか私に似合わないくらいロマンチックだ。どうしたんだろう、今日は。
「あ、そうだ。私あれやってみたいです。スプーンに砂糖とブランデー入れて、火を付けるやつ」
うきうきしながら、チョコレートとブランデーを開ける。
食べるのが惜しいくらい綺麗な模様の入ったチョコレートと、まったりとした慣れない香りのブランデー。コーヒー豆を挽いてドリッパーに入れると、いつもの落ち着く香りが広がった。
二人で、こんな夜もたまにはいいかもしれない。私はそう思って微笑んだ。息子と三人も幸せだけれど。
今日だけは、ホワイトデー。
コーヒーを飲んで、ブランデーを飲んで、チョコレートを口にいれて。
いまさら「愛してる」なんて言わないけれど「美味しい」と言えば、きっと夫はいつものように目を細めてくれるはずだ。