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「このペンを一万金貨で売れなければ婚約破棄だ!」と言われたので、価値の分かる王宮へ持ち込みました 〜亡き王妃様の遺品だったため、婚約者は断罪されました〜

作者: 上下左右
掲載日:2026/05/15

「このペンを一万金貨で売ってみせろ!」


 男爵家主催の夜会で、婚約者のレナード・グレイセルはそう言った。


 磨き上げられた大理石の床。天井から吊るされたシャンデリア。壁際に飾られた薔薇と百合。王都でも指折りの華やかな広間で、リディアは一本の古いペンを差し出されていた。


「できたなら、お前を婚約者として正式に迎えてやる。できなければ、俺の隣に立つ価値がなかったということだ」


 リディアは、差し出されたペンをすぐには受け取らなかった。


 金具はくすみ、ペン先には乾いたインクの跡がこびりついている。宝石も装飾もない。夜会の場で婚約者へ渡すには、あまりに見栄えのしない品だった。


「……レナード様。これは、どういうことでしょうか?」

「言葉の通りだ。お前に最後の機会を与えようと思ってな」

「最後の機会ですか?」

「ああ。お前の実家であるベルフォード伯爵家は、借金で没落寸前だ。俺の隣に立つ資格が十分とは言えない。そうは思わないか?」


 レナードは広間にいる客人たちを見回し、得意げに杯を掲げた。


「聞いている者も多いだろう。俺が王都で売り出したグレイセル男爵領の石鹸は、すでに貴族令嬢たちの間で評判になっていることを」


 その問いに夜会に集まった客人たちが反応を示す。


「香りを付けて小箱に詰めたそうですね」

「婚約祝いにも人気だとか」

「公爵家にも愛用者がいるらしいな」


 レナードを称える声が広がる中、リディアは拳を握りしめる。


(私の功績を奪うのですね……)


 当初、グレイセル男爵領の石鹸は、質こそ悪くなかったが、灰色の塊のまま市場に並べられ、王都では安物として買い叩かれていた。


 それを変えたのはリディアだった。


 手のひらに収まる大きさに切り分け、花や果実の香りを付け、贈り物用の小箱まで作らせた。


 ただ最初からすべてが順調だったわけではない。


 王都の香水店や仕立屋に頭を下げ、試供品を置かせてもらった。


 加えて香りが強すぎると言われれば配合を見直し、箱が大きすぎると言われれば持ち帰りやすいサイズに変えた。


 そういった工夫で得られた人気だった。


 だが、夜会で称賛を受けているのはレナードだ。リディアが真の貢献者だと、この広間の客人たちは誰も知らない。


「……あの石鹸を売れる形に整えたのは、私です」


 リディアは冷静なままに事実だけを伝える。すると彼は不満そうに鼻を鳴らす。


「随分と生意気な口ぶりだな」

「事実ですから」

「馬鹿を言うな。石鹸そのものは男爵領の品だ。それに我がグレイセル男爵家の名があるからこそ、商人たちも信頼したのだ。決して、お前の力ではない」


 詭弁だ。


 だがこの場で言い返しても水掛け論になるだけであり、招待客たちはレナードへの称賛を止めはしないだろう。


(前世を思い出しますね……)


 リディアは前世で、日本の老舗文具メーカーの営業として働いていた。取引先の要望を聞き、試作品の不満を拾い、売り場での見せ方を考えた。


 けれど大口契約が決まっても、表彰されるのはいつも上司だった。


 今世でも同じだ。リディアが聞き、考え、足を運んで形にした仕事は、人目につく場所へ出る前に、レナードの名前で上書きされていた。


「黙り込むほど難しい話だったか?」

「……呆れて、言葉を選んでいるだけです」


 リディアが言い返せなかったのには他にも理由がある。


 彼女の実家であるベルフォード伯爵家は、投資の失敗で負債を抱えている。


 その穴を埋めてくれたのが、レナードの父であるオルガン・グレイセル男爵だった。


 もちろん、ただの善意ではない。


 グレイセル男爵家の狙いは、ベルフォード伯爵家の爵位だ。金を貸し、婚約を結び、いずれリディアを通して伯爵家の実権を握る。そのための縁談だと、リディアにも分かっていたが、家を守るためなら耐えるしかないと思っていた。


 だが、レナードは急に態度を変えた。


(きっとそれは、公爵令嬢との浮気が理由でしょうね)


 公爵の地位が手に入るなら、伯爵家の爵位は不要になる。


 だからか、最近では、公爵令嬢との仲を隠そうともしなくなった。夜会で寄り添い、贈り物を交わし、リディアの前でも平然と名を出す。


 伯爵と公爵。天秤にかけるまでもないと、彼はリディアを捨てる決断をしたのだ。


 ただ一方的な都合で婚約を破棄すれば、男爵家の面目に傷がつく。


 だからこそ、リディアが失敗した形にしたいのだ。


 課題をこなせなかった無能な婚約者。そういう名目があれば、世間に言い訳が立つという算段だった。


(婚約に未練はありませんが……もしそうなれば我が家は……)


 婚約破棄となれば、ベルフォード伯爵家に援助する理由もなくなる。


 リディアは実家を守るため、課題から逃げるわけにはいかなかった。


「このペンを、一万金貨で売ればよろしいのですね?」

「ただし家の名前は使うなよ」

「分かりました……ちなみに、この品は、どちらで?」

「倉庫に転がっていたものだ……傷だらけで、インク染みまである。お前にはお似合いの品だ」


 リディアはペンを受け取る。指先に伝わる重みは、見た目よりもずっとしっかりしている。


 傷は多い。それでも、雑に作られた品ではない。


 軸の太さ、重心、金具の嵌め方。これは安価な量産品ではない。長く使うことを前提に作られた、持ち主に合わせた一本だ。


 乱暴に扱われて傷んだのではなく、大切に使われ続けた末、最後にどこかで持ち主の手を離れたものに見えた。


「期限は明日までだ」


 レナードが告げる。


「売れなければ、お前も納得の上で婚約破棄したことにさせてもらう。いいな?」

「分かりました……」


 リディアは顔を上げた。


 レナードの目には、勝ちを確信した男の光があった。最初から売れると思っていない。リディアを失敗させ、婚約を破棄する理由を作りたいだけだ。


 リディアは礼をして、広間を出る。その背中を追いかける者は誰もいなかった。


 ●


 私室に戻ると、リディアは卓上の燭台に火を入れた。


 夜会のざわめきは、厚い扉を隔ててもまだ遠くに残っている。笑い声も、楽団の音も、別の世界のものに聞こえた。


 リディアは布を敷き、その上に古いペンを置いた。重さ、艶、擦れた場所、修理の跡。商品には、作り手と使い手の情報が残る。


「ただの古道具ではありませんね」


 リディアは燭台のそばへ寄り、金具の根元にこびりついたインクを柔らかな布で拭った。


 黒ずんだ汚れの下から、細い線が現れる。


 最初は傷に見えた。けれど明かりに傾けると、それは翼を広げた鳥と、花弁を組み合わせた古い紋章だと分かる。


 王国の紋章ではない。


 もっと古く、異国めいた意匠だ。


 リディアは眉を寄せ、ペンをさらに傾けた。そこに細い文字が刻まれていた。


「エレオノーラ……」


 リディアの指先が止まった。


 そのペンに残されていたのは、先代王妃の名前だったからだ。


 王国へ嫁いできた王妃は、今はもう地図から消えたアスタリア帝国の皇女だった。翼を広げた鳥と花弁を組み合わせた紋章は、アスタリア皇室に連なる者だけが使うことを許された紋章だ。


 その事実は歴史書にも載っている。


 だが皇室の紋章まで正確に覚えている者は少ない。レナードが気づかなかったのも、無理はなかった。


 リディアはペンを布の上に戻し、しばらく見つめる。


 帝国から王妃とともに持ち込まれた品か、あるいは王妃のために特注された一本か。


 どちらにせよ、商人の店先に並べてよい品ではない。


「売る相手を、間違えてはいけませんね」


 レナードは、一万金貨で売れと言った。


 けれど、このペンに必要なのは、ただ高く売ることではない。由来を確かめ、正しく価値を認められる相手へ届けることだ。


 リディアは燭台の上で揺れる炎を眺めながら、自分のやるべきことを認識するのだった。


 ●


 翌朝、リディアは王宮を訪ねた。


 正門の衛兵は伯爵令嬢の来訪に眉をひそめたが、リディアがペンを差し示すと、表情を変える。


「亡くなった王妃様のゆかりの品かもしれません。王宮での確認をお願いしたく参りました」

「承知しました。担当者の元へお連れします」


 やがてリディアは、王宮の一室へ通された。


 部屋には、革装丁の記録簿が壁一面に並んでいる。窓際の机で書類を読んでいた青年が、顔を上げた。


 濃紺の上着と王家の紋章から彼が誰かすぐに分かった。


 アルバート第一王子だ。


 リディアはすぐに膝を折る。


「堅苦しい真似はしなくていい」


 アルバートは立ち上がると、灰青の瞳をリディアの手元に向ける。


「アスタリア皇室の紋章が刻まれたペンを持ち込んだのは君か?」

「はい。リディアと申します」

「ベルフォード伯爵家の令嬢か……さっそく、見せてもらえるかな」

「はい」


 リディアは机の上にペンを置いて布を開く。古びたペンが現れた瞬間、彼の動きが止まった。


「これは……」


 アルバートはペンを手に取る。その慎重な手つきは、壊れ物を扱うかのようだった。


「どこで、これを?」

「昨夜、婚約者から渡されました。一万金貨で売ってこい、と」

「誰だ?」

「男爵令息のレナード・グレイセル様です。倉庫で見つけたとおっしゃっていました」


 アルバートはペンに刻まれた名を指でなぞった。


「これは、亡き母上が個人的な手紙を書くときに使っていたものだ。いずれ私に譲ってくれると約束していたのだが、遺品整理の混乱で行方がわからなくなっていたのだ」


 アルバートは書棚から記録簿を取り出す。


「当時、母上の遺品整理には、レナードの父であるオルガン・グレイセル男爵も関わっていた。王宮に残す品、処分する品、縁ある家へ譲る品。その仕分けを補佐していたはずだ」

「では、その折に倉庫に紛れ込んだのでしょうか……」

「ありえる。記録簿には紛失と記録されているからな」

「殿下。差し支えなければ、その記録を私も拝見してもよろしいでしょうか」

「記録を?」

「はい、何か気づけることがあるかもしれません」


 アルバートはしばらくリディアを見つめる。やがて、記録簿を彼女が見えるよう机の上に置いた。


「ありがとうございます」


 リディアは深く頭を下げ、机のそばへ寄った。


 アルバートが記録簿を開く。


 銀細工の宝石箱や手鏡、髪飾りなど、王妃の残した品名が並んでいる。その隣には、保管先や確認者の名前も記されていた。


 リディアは、文字を追いながら眉を寄せる。


「こちらの品目はすべて紛失扱いですね。そして署名欄の名前は……」

「グレイセル男爵か……」


 アルバートの目が細くなった。紛失と記された高額品の多くに、オルガン・グレイセル男爵の名前がある。偶然で片付けるにはあまりに不自然だった。


「偶然ではないな……」

「断言はできませんが、横領の可能性があります」

「少なくとも紛失したペンは倉庫にあったわけだからな」


 アルバートはしばらく記録簿を見下ろしていた。やがて、リディアが頭を下げる。


「申し訳ございません。私がもっと早く気づけていれば」

「君が謝ることではない」


 そこで初めて、アルバートはリディアを正面から見据えた。


「……君はなぜこのペンを商人に売らなかった?」

「価値を知らない相手に渡すべきではないと考えました」


 リディアは言葉を選びながら続ける。


「傷は多くあります。ですが、乱暴に扱われた傷ではありません。握りの艶も、ペン先の癖も、長く手元に置かれていた証です。大切に使われてきたものだと分かりました」

「君は文具に詳しいのか」

「文具を扱う商いに、少し関わったことがございますから」


 アルバートはペンを明かりにかざす。


 そのとき、彼は軸の付け根に違和感を覚える。


「この軸の根元、開くかもしれん」

「開けてみますか?」

「いいのか?」

「元は王妃様の持ち物ですから。アルバート様が構わないなら、私から申し上げることはございません」


 アルバートは頷くと、傍にあった机の引き出しを開け、細い金具を取り出す。先端を差し込んで軽く押すと、軸の内部から小さな筒が現れる。


「これは……」


 アルバートは筒の蓋を外し、中に収められていた紙片を取り出す。


 それは古い便箋だった。


 紙片を広げ、最初の一行を目にした瞬間、彼の指が止まった。


「母上は、私に愛情を抱いていないと思っていた」


 アルバートは便箋を握り潰さないように注意しながら独白を続ける。


「病に侵された後も、私には政務の話しかしなかった。だから、母上の本心など、もう聞けないものだと思っていた」


 彼の視線は、紙の上から離れない。


「だが、ここには……母上の本音が書かれていた」


 アルバートがリディアに便箋を手渡す。そこには、短く、『あなたが私の息子でいてくれたことが、人生で一番の誇りでした』とだけ記されていた。


 このペンは、いずれアルバートへ譲るつもりだったものだ。その軸の内側に、誰にも知られない形で、息子への言葉を隠していたのだ。


 アルバートは目元を覆うことはしなかったが、喉を一度だけ動かした。


「このペンだが、私に一万金貨で買い取らせて欲しい」

「殿下……よろしいのですか?」

「これは施しではない。君が価値を見抜き、正しい買い手へ持ち込んだ。その対価だ」


 アルバートは部下を呼び、革袋に詰まった金貨を用意させる。


 受け取れば、レナードの課題は果たしたことになる。ベルフォード伯爵家への援助を断つ口実も潰せる。


「もう一度言う。これは君に対する正当な対価だ」

「ありがたく、頂戴いたします」


 リディアは両手で革袋を受け取った。


 アルバートはペンに視線を戻す。


「君の課題はこれで解決だ。しかし、横領の問題はまだ残っている」


 なぜこのペンが倉庫にあったのか。オルガン・グレイセル男爵を問いたださなければならない。


「男爵家へ使者を出せ。私が向かうと伝えろ」

「承知しました」


 金貨を運んできた部下が去り、部屋には再び、リディアとアルバートだけが残った。


「君も私に付いてくるか?」

「はい、見届けさせてください」


 リディアは背筋を伸ばし、アルバートの後に続くのだった。


 ●


 グレイセル男爵邸へ向かう馬車の中で、リディアは膝の上の革袋を見下ろしてから、隣に座るアルバートに視線を移す。


(この人は仕事が早いですね)


 王宮でリディアと会ってから間もないというのに、彼はすぐさま男爵家へ向かう馬車を用意した。前後には護衛の馬車がつき、王宮に残った者たちも、調査の命を受けて動いている。


「来たな」


 アルバートが窓の外へ目を向けると、灰色の鳥が馬車と並ぶように飛んでいた。御者台にいた護衛が窓を開けると、鳥は迷わず車内へ入り、アルバートの手元に降りる。


 細い足には、小さく巻かれた紙片が結ばれている。


「部下からの報せだ」


 アルバートは鳥の足から紙片を外し、指先で広げた。


 灰青の瞳が紙面を追い、必要な文字を拾っていく。口元は引き結ばれ、車輪の音だけが馬車の中に響いた。


「情報が揃ったな……」


 その一言が零れた後、やがて、馬車が止まる。


 目の前にはひときわ大きな屋敷が聳えている。高い鉄柵の奥には手入れされた庭が広がり、玄関には磨かれた石段が続いている。


「行こうか」


 アルバートが先に馬車を降り、リディアも続く。


 玄関前で待っていた執事は、アルバートの姿を見るなり深く頭を下げた。


「王太子殿下、ようこそいらっしゃいました」

「オルガン・グレイセル男爵に会う。すぐに通せ」

「ただちに」


 執事は二人を応接間へ案内する。辿り着くと、そこには、すでにレナードが待っていた。


 白い礼服に身を包み、どこか苛立った顔で立っている。王太子が来ると聞いて慌てたのだろう。襟元はわずかに乱れている。


「リディア!」


 レナードは彼女の姿を見つけるなり、眉を吊り上げた。


「お前は何を考えている。王太子殿下を巻き込んで、まさか俺に恥をかかせるつもりか?」


 リディアは答えない。


 代わりに、アルバートが部屋の中央へ進んだ。


「恥をかくかどうかは、君たちの説明次第だ」


 アルバートの力強い言葉に、レナードの顔から血の気が引く。


 そのとき、奥の扉が開き、オルガン・グレイセル男爵が現れる。


 年の頃は五十前後。整えられた髭に、金糸の刺繍が入った上着。いかにも名門貴族らしい落ち着きをまとっている。


「王太子殿下。本日は突然のご来訪、光栄にございます。それで本日はどのようなご用件で?」

「このペンに見覚えがあるか?」

「……古い筆記具のようですな」

「母上のものだ」


 アルバートの一言で、応接間の空気が変わった。オルガンの表情に動揺が浮かぶ。


「このペンはレナードが倉庫で見つけたものだそうだ」

「本当か、レナード!」

「あ、はい。倉庫から持ち出したのは俺なので……でも、まさか、王妃様のものだとは……」

「これは母が私へ残した品で、王宮の記録では、紛失とされている。どうしてこれが、男爵家の倉庫にある?」


 アルバートの問いに、オルガンはすぐには答えない。口元にはまだ貴族らしい余裕が残っているが、その視線だけはペンから離れなかった。


「……存じ上げませんな」

「惚けるつもりならはっきり言おう。私は男爵が母上の遺品を横領したと疑っている」

「侮辱ですぞ!」


 オルガンの声が応接間に響いた。レナードも父の怒声に勢いづいたのか、アルバートを睨みつける。


「そうだ、侮辱だ! たかが古いペン一本で、父上を疑うなど――」

「証拠がペンだけならな。紛失扱いになっている母上の遺品の多くに、オルガン男爵の署名が残されていた」

「それは……」

「さらにだ。オルガン男爵が遺品を売った商人も特定してある。特定されうる宝石を外し、銀や金を溶かして売るように依頼されたと証言している。ここまで揃っていても、無実だと?」


 レナードは父に問いかけるような目を向ける。だがオルガンは唇を噛んで、口を開こうとしない。そこに畳みかけるようにアルバートは続ける。


「余罪はこれだけじゃない。ベルフォード伯爵家の借金についてもだ。心当たりがあるな?」

「お、俺たちはベルフォード伯爵家を救ってやったんだ。それの何が悪いと!」

「助けた? その借金を作った元凶が君たちなのにか?」

「な、なにを言って……」

「ベルフォード伯爵家は長年の不作で金に困っていた。そんな彼らに儲け話を持ち込んだ男がいた。だが投資は失敗し、伯爵家は借金を背負った……」


 リディアは父がその話を信じた日のことを思い出し、唇を結ぶ。


 領地の不作で、使用人の給金も、種籾の代金も、冬越しの蓄えも足りなくなっていた。


 そこへ現れた男は、笑顔で救いを差し出したのだ。窮地に立たされた父が手を伸ばしたのも無理のないことだった。


「その詐欺師の男は、ただの実行犯だった。裏でベルフォード伯爵家を嵌めるように指示していた者がいたのだ。それが誰かは言うまでもないな」

「冤罪です! 王太子殿下といえど、証拠もなく男爵家を侮辱なさるのは――」

「証拠はある。なにせ、その詐欺師は王家の牢にいるからな。彼はすべて白状した。伯爵家を罠にかけて、爵位を手に入れる計画だったとな」

「騙されてはいけません! その囚人は嘘を吐いているのです!」

「彼は身の安全のために詐欺の指示書を残していた。筆跡鑑定も済んでいる。それでも嘘だと?」

「なっ!」


 決定的な証拠があっては言い逃れもできない。


 オルガンはもちろんレナードの顔色も変わる。リディアはそれを見逃さなかった。


「レナード様も関与していたのですね」

「知らない! 俺は何も知らない!」


 レナードは必死に否定するが、アルバートの追及は止まらない。


「レナード・グレイセル。君も詐欺師と面会しているな」

「そ、それは……父上に言われて……」

「何も知らなかった、と言うつもりかな?」


 アルバートの問いに、レナードは視線を泳がせる。詐欺師が王家に囚われている以上、嘘はすぐに露呈する。それが分かっているからこそ、彼は黙り込むしかできなかった。


「君たちは悪意を持って詐欺を働いた」


 アルバートは、父子を順に見据えた。


「王妃の遺品横領だけでなく、伯爵家の爵位を奪おうと君たちは画策した。許されない重罪だ。覚悟はできているな?」

「お、お待ちください、殿下」


 オルガンは膝に力を入れ、どうにか姿勢を保とうとする。


「私は国家に尽くして参りました。多少の手違いはあったかもしれませんが、すべては王家のためで――」

「王家のために、私の母の遺品を売り払ったのか」

「それは……」

「答えられないなら、ここまでだな」


 アルバートが片手を上げる。


 扉の外で控えていた衛兵たちが、一斉に姿を見せた。鎧の金具が鳴り、応接間の空気が一変する。


「り、リディア!」


 そこでようやく、レナードがリディアを見た。


「お前からも何か言え! 俺たちは婚約者だろう!」

「婚約者ですか……」


 リディアは一万金貨が詰まった革袋を取り出し、机の上に置く。金貨の重みが鈍く響いた。


「私はあなたの依頼を達成しました。ですが……婚約は破棄で結構です」

「……は?」

「あなたとの婚約など、こちらから願い下げですから」


 レナードの顔が赤く染まる。見下していた相手から否定され、怒りがこみ上げたのだ。


「リディアっ!」


 次の瞬間、レナードが踏み込んだ。怒りに任せて振り上げられた拳がリディアに迫る。


 だが、届かなかった。


 アルバートがリディアの前へ踏み込み、レナードの手首をつかむ。次の瞬間には、レナードの腕が背中へ回され、彼は床に膝をついていた。


「ぐっ、痛い! 離せ! 俺を誰だと思っている!」

「私の前で伯爵令嬢に手を上げた男だ」


 アルバートの声に、レナードの顔から血の気が引いた。


「ち、違う! 今のは、その女が俺を侮辱したから――」

「言い訳は牢の中で聞こう」


 アルバートが衛兵へ目を向ける。


「連れていけ」

「はっ」


 衛兵がレナードの両腕を取った。


「父上! 何とか言ってください! 俺は言われた通りにしただけだ!」


 叫ぶレナードの声に、オルガン男爵の肩が震えた。先ほどまで威厳に満ちていた彼の膝から力が抜け、床へ崩れ落ちた。


 オルガンは顔を上げられなかった。


 衛兵たちが父子を連れていく。レナードの怒鳴り声は扉の向こうへ遠ざかり、やがて途切れたのだった。


 ●


 後日、グレイセル男爵家の不正は王家によって明らかにされた。


 先代王妃の遺品整理を任された際、オルガン・グレイセル男爵はアスタリア皇室ゆかりの品を複数横領し、その一部を裏で売り払っていた。


 王家は不正に得た資産を回収し、ベルフォード伯爵家の借金返済に充てると発表した。伯爵領には王家の監督下で再建資金が入ることになった。


 首謀者のオルガンは投獄され、冷たい牢屋の中で過ごしている。傍にはレナードの姿もある。


 彼は父に命じられただけだと言い張ったが、共犯の罪からは逃れられなかった。


 そして、もう一つ。


 レナードが自慢していた石鹸事業についても、王家の調査が入った。調べ直された書類の多くが、リディアの貢献の証拠になった。


「王家は慰謝料として、香り付き石鹸の販売権をベルフォード伯爵家へ譲渡するように命じた」

「販売権を、私の家にですか?」

「ああ。これからは、リディア・ベルフォード伯爵令嬢が企画し、育てた商品として売ることができる」


 書類には、王家の正式な認可印が押されていた。


「ありがとうございます、殿下」

「礼を言うのは私の方だ」


 アルバートは机の上に置かれたペンへ視線を移す。


 そこには、洗浄を終えた古いペンが置かれていた。くすんでいた金具は磨かれ、刻まれたエレオノーラの名が細く光っている。


「君のおかげで母の想いを知ることができた。リディアは私の恩人だ」

「アルバート様……」

「だから頼みがある。これからも君には傍にいて欲しい」


 リディアのまつげが上がる。


 すぐに返事はできなかった。けれど、断る言葉も浮かばなかった。


「まずは、お仕事のお手伝いからでお願いいたします」

「ああ、そこからでいい」


 アルバートは満足げに頷く。


 その先にある道を、リディアはまだ知らない。


 けれどリディアはもう、自分の未来を誰かの手に預けるつもりはなかった。


 机の上には、新しい契約書が置かれている。そこにはリディア・ベルフォードの署名欄が用意されていた。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました!


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― 新着の感想 ―
面白い作品でした。リディアがしっかりしているようで何処か抜けている所がいいですね。 前世の知識があるなら男爵家で石鹸を作らず伯爵家で作れば良かったのに。
男爵家の癖に何でここまで王子に楯突けるんだろ。 あれかな、伯爵家を詐偽に掛けられたから自分のが優位とか思ってたように、横領に気付かない間抜けな王家とか思い上がっていたのかな。
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