「このペンを一万金貨で売れなければ婚約破棄だ!」と言われたので、価値の分かる王宮へ持ち込みました 〜亡き王妃様の遺品だったため、婚約者は断罪されました〜
「このペンを一万金貨で売ってみせろ!」
男爵家主催の夜会で、婚約者のレナード・グレイセルはそう言った。
磨き上げられた大理石の床。天井から吊るされたシャンデリア。壁際に飾られた薔薇と百合。王都でも指折りの華やかな広間で、リディアは一本の古いペンを差し出されていた。
「できたなら、お前を婚約者として正式に迎えてやる。できなければ、俺の隣に立つ価値がなかったということだ」
リディアは、差し出されたペンをすぐには受け取らなかった。
金具はくすみ、ペン先には乾いたインクの跡がこびりついている。宝石も装飾もない。夜会の場で婚約者へ渡すには、あまりに見栄えのしない品だった。
「……レナード様。これは、どういうことでしょうか?」
「言葉の通りだ。お前に最後の機会を与えようと思ってな」
「最後の機会ですか?」
「ああ。お前の実家であるベルフォード伯爵家は、借金で没落寸前だ。俺の隣に立つ資格が十分とは言えない。そうは思わないか?」
レナードは広間にいる客人たちを見回し、得意げに杯を掲げた。
「聞いている者も多いだろう。俺が王都で売り出したグレイセル男爵領の石鹸は、すでに貴族令嬢たちの間で評判になっていることを」
その問いに夜会に集まった客人たちが反応を示す。
「香りを付けて小箱に詰めたそうですね」
「婚約祝いにも人気だとか」
「公爵家にも愛用者がいるらしいな」
レナードを称える声が広がる中、リディアは拳を握りしめる。
(私の功績を奪うのですね……)
当初、グレイセル男爵領の石鹸は、質こそ悪くなかったが、灰色の塊のまま市場に並べられ、王都では安物として買い叩かれていた。
それを変えたのはリディアだった。
手のひらに収まる大きさに切り分け、花や果実の香りを付け、贈り物用の小箱まで作らせた。
ただ最初からすべてが順調だったわけではない。
王都の香水店や仕立屋に頭を下げ、試供品を置かせてもらった。
加えて香りが強すぎると言われれば配合を見直し、箱が大きすぎると言われれば持ち帰りやすいサイズに変えた。
そういった工夫で得られた人気だった。
だが、夜会で称賛を受けているのはレナードだ。リディアが真の貢献者だと、この広間の客人たちは誰も知らない。
「……あの石鹸を売れる形に整えたのは、私です」
リディアは冷静なままに事実だけを伝える。すると彼は不満そうに鼻を鳴らす。
「随分と生意気な口ぶりだな」
「事実ですから」
「馬鹿を言うな。石鹸そのものは男爵領の品だ。それに我がグレイセル男爵家の名があるからこそ、商人たちも信頼したのだ。決して、お前の力ではない」
詭弁だ。
だがこの場で言い返しても水掛け論になるだけであり、招待客たちはレナードへの称賛を止めはしないだろう。
(前世を思い出しますね……)
リディアは前世で、日本の老舗文具メーカーの営業として働いていた。取引先の要望を聞き、試作品の不満を拾い、売り場での見せ方を考えた。
けれど大口契約が決まっても、表彰されるのはいつも上司だった。
今世でも同じだ。リディアが聞き、考え、足を運んで形にした仕事は、人目につく場所へ出る前に、レナードの名前で上書きされていた。
「黙り込むほど難しい話だったか?」
「……呆れて、言葉を選んでいるだけです」
リディアが言い返せなかったのには他にも理由がある。
彼女の実家であるベルフォード伯爵家は、投資の失敗で負債を抱えている。
その穴を埋めてくれたのが、レナードの父であるオルガン・グレイセル男爵だった。
もちろん、ただの善意ではない。
グレイセル男爵家の狙いは、ベルフォード伯爵家の爵位だ。金を貸し、婚約を結び、いずれリディアを通して伯爵家の実権を握る。そのための縁談だと、リディアにも分かっていたが、家を守るためなら耐えるしかないと思っていた。
だが、レナードは急に態度を変えた。
(きっとそれは、公爵令嬢との浮気が理由でしょうね)
公爵の地位が手に入るなら、伯爵家の爵位は不要になる。
だからか、最近では、公爵令嬢との仲を隠そうともしなくなった。夜会で寄り添い、贈り物を交わし、リディアの前でも平然と名を出す。
伯爵と公爵。天秤にかけるまでもないと、彼はリディアを捨てる決断をしたのだ。
ただ一方的な都合で婚約を破棄すれば、男爵家の面目に傷がつく。
だからこそ、リディアが失敗した形にしたいのだ。
課題をこなせなかった無能な婚約者。そういう名目があれば、世間に言い訳が立つという算段だった。
(婚約に未練はありませんが……もしそうなれば我が家は……)
婚約破棄となれば、ベルフォード伯爵家に援助する理由もなくなる。
リディアは実家を守るため、課題から逃げるわけにはいかなかった。
「このペンを、一万金貨で売ればよろしいのですね?」
「ただし家の名前は使うなよ」
「分かりました……ちなみに、この品は、どちらで?」
「倉庫に転がっていたものだ……傷だらけで、インク染みまである。お前にはお似合いの品だ」
リディアはペンを受け取る。指先に伝わる重みは、見た目よりもずっとしっかりしている。
傷は多い。それでも、雑に作られた品ではない。
軸の太さ、重心、金具の嵌め方。これは安価な量産品ではない。長く使うことを前提に作られた、持ち主に合わせた一本だ。
乱暴に扱われて傷んだのではなく、大切に使われ続けた末、最後にどこかで持ち主の手を離れたものに見えた。
「期限は明日までだ」
レナードが告げる。
「売れなければ、お前も納得の上で婚約破棄したことにさせてもらう。いいな?」
「分かりました……」
リディアは顔を上げた。
レナードの目には、勝ちを確信した男の光があった。最初から売れると思っていない。リディアを失敗させ、婚約を破棄する理由を作りたいだけだ。
リディアは礼をして、広間を出る。その背中を追いかける者は誰もいなかった。
●
私室に戻ると、リディアは卓上の燭台に火を入れた。
夜会のざわめきは、厚い扉を隔ててもまだ遠くに残っている。笑い声も、楽団の音も、別の世界のものに聞こえた。
リディアは布を敷き、その上に古いペンを置いた。重さ、艶、擦れた場所、修理の跡。商品には、作り手と使い手の情報が残る。
「ただの古道具ではありませんね」
リディアは燭台のそばへ寄り、金具の根元にこびりついたインクを柔らかな布で拭った。
黒ずんだ汚れの下から、細い線が現れる。
最初は傷に見えた。けれど明かりに傾けると、それは翼を広げた鳥と、花弁を組み合わせた古い紋章だと分かる。
王国の紋章ではない。
もっと古く、異国めいた意匠だ。
リディアは眉を寄せ、ペンをさらに傾けた。そこに細い文字が刻まれていた。
「エレオノーラ……」
リディアの指先が止まった。
そのペンに残されていたのは、先代王妃の名前だったからだ。
王国へ嫁いできた王妃は、今はもう地図から消えたアスタリア帝国の皇女だった。翼を広げた鳥と花弁を組み合わせた紋章は、アスタリア皇室に連なる者だけが使うことを許された紋章だ。
その事実は歴史書にも載っている。
だが皇室の紋章まで正確に覚えている者は少ない。レナードが気づかなかったのも、無理はなかった。
リディアはペンを布の上に戻し、しばらく見つめる。
帝国から王妃とともに持ち込まれた品か、あるいは王妃のために特注された一本か。
どちらにせよ、商人の店先に並べてよい品ではない。
「売る相手を、間違えてはいけませんね」
レナードは、一万金貨で売れと言った。
けれど、このペンに必要なのは、ただ高く売ることではない。由来を確かめ、正しく価値を認められる相手へ届けることだ。
リディアは燭台の上で揺れる炎を眺めながら、自分のやるべきことを認識するのだった。
●
翌朝、リディアは王宮を訪ねた。
正門の衛兵は伯爵令嬢の来訪に眉をひそめたが、リディアがペンを差し示すと、表情を変える。
「亡くなった王妃様のゆかりの品かもしれません。王宮での確認をお願いしたく参りました」
「承知しました。担当者の元へお連れします」
やがてリディアは、王宮の一室へ通された。
部屋には、革装丁の記録簿が壁一面に並んでいる。窓際の机で書類を読んでいた青年が、顔を上げた。
濃紺の上着と王家の紋章から彼が誰かすぐに分かった。
アルバート第一王子だ。
リディアはすぐに膝を折る。
「堅苦しい真似はしなくていい」
アルバートは立ち上がると、灰青の瞳をリディアの手元に向ける。
「アスタリア皇室の紋章が刻まれたペンを持ち込んだのは君か?」
「はい。リディアと申します」
「ベルフォード伯爵家の令嬢か……さっそく、見せてもらえるかな」
「はい」
リディアは机の上にペンを置いて布を開く。古びたペンが現れた瞬間、彼の動きが止まった。
「これは……」
アルバートはペンを手に取る。その慎重な手つきは、壊れ物を扱うかのようだった。
「どこで、これを?」
「昨夜、婚約者から渡されました。一万金貨で売ってこい、と」
「誰だ?」
「男爵令息のレナード・グレイセル様です。倉庫で見つけたとおっしゃっていました」
アルバートはペンに刻まれた名を指でなぞった。
「これは、亡き母上が個人的な手紙を書くときに使っていたものだ。いずれ私に譲ってくれると約束していたのだが、遺品整理の混乱で行方がわからなくなっていたのだ」
アルバートは書棚から記録簿を取り出す。
「当時、母上の遺品整理には、レナードの父であるオルガン・グレイセル男爵も関わっていた。王宮に残す品、処分する品、縁ある家へ譲る品。その仕分けを補佐していたはずだ」
「では、その折に倉庫に紛れ込んだのでしょうか……」
「ありえる。記録簿には紛失と記録されているからな」
「殿下。差し支えなければ、その記録を私も拝見してもよろしいでしょうか」
「記録を?」
「はい、何か気づけることがあるかもしれません」
アルバートはしばらくリディアを見つめる。やがて、記録簿を彼女が見えるよう机の上に置いた。
「ありがとうございます」
リディアは深く頭を下げ、机のそばへ寄った。
アルバートが記録簿を開く。
銀細工の宝石箱や手鏡、髪飾りなど、王妃の残した品名が並んでいる。その隣には、保管先や確認者の名前も記されていた。
リディアは、文字を追いながら眉を寄せる。
「こちらの品目はすべて紛失扱いですね。そして署名欄の名前は……」
「グレイセル男爵か……」
アルバートの目が細くなった。紛失と記された高額品の多くに、オルガン・グレイセル男爵の名前がある。偶然で片付けるにはあまりに不自然だった。
「偶然ではないな……」
「断言はできませんが、横領の可能性があります」
「少なくとも紛失したペンは倉庫にあったわけだからな」
アルバートはしばらく記録簿を見下ろしていた。やがて、リディアが頭を下げる。
「申し訳ございません。私がもっと早く気づけていれば」
「君が謝ることではない」
そこで初めて、アルバートはリディアを正面から見据えた。
「……君はなぜこのペンを商人に売らなかった?」
「価値を知らない相手に渡すべきではないと考えました」
リディアは言葉を選びながら続ける。
「傷は多くあります。ですが、乱暴に扱われた傷ではありません。握りの艶も、ペン先の癖も、長く手元に置かれていた証です。大切に使われてきたものだと分かりました」
「君は文具に詳しいのか」
「文具を扱う商いに、少し関わったことがございますから」
アルバートはペンを明かりにかざす。
そのとき、彼は軸の付け根に違和感を覚える。
「この軸の根元、開くかもしれん」
「開けてみますか?」
「いいのか?」
「元は王妃様の持ち物ですから。アルバート様が構わないなら、私から申し上げることはございません」
アルバートは頷くと、傍にあった机の引き出しを開け、細い金具を取り出す。先端を差し込んで軽く押すと、軸の内部から小さな筒が現れる。
「これは……」
アルバートは筒の蓋を外し、中に収められていた紙片を取り出す。
それは古い便箋だった。
紙片を広げ、最初の一行を目にした瞬間、彼の指が止まった。
「母上は、私に愛情を抱いていないと思っていた」
アルバートは便箋を握り潰さないように注意しながら独白を続ける。
「病に侵された後も、私には政務の話しかしなかった。だから、母上の本心など、もう聞けないものだと思っていた」
彼の視線は、紙の上から離れない。
「だが、ここには……母上の本音が書かれていた」
アルバートがリディアに便箋を手渡す。そこには、短く、『あなたが私の息子でいてくれたことが、人生で一番の誇りでした』とだけ記されていた。
このペンは、いずれアルバートへ譲るつもりだったものだ。その軸の内側に、誰にも知られない形で、息子への言葉を隠していたのだ。
アルバートは目元を覆うことはしなかったが、喉を一度だけ動かした。
「このペンだが、私に一万金貨で買い取らせて欲しい」
「殿下……よろしいのですか?」
「これは施しではない。君が価値を見抜き、正しい買い手へ持ち込んだ。その対価だ」
アルバートは部下を呼び、革袋に詰まった金貨を用意させる。
受け取れば、レナードの課題は果たしたことになる。ベルフォード伯爵家への援助を断つ口実も潰せる。
「もう一度言う。これは君に対する正当な対価だ」
「ありがたく、頂戴いたします」
リディアは両手で革袋を受け取った。
アルバートはペンに視線を戻す。
「君の課題はこれで解決だ。しかし、横領の問題はまだ残っている」
なぜこのペンが倉庫にあったのか。オルガン・グレイセル男爵を問いたださなければならない。
「男爵家へ使者を出せ。私が向かうと伝えろ」
「承知しました」
金貨を運んできた部下が去り、部屋には再び、リディアとアルバートだけが残った。
「君も私に付いてくるか?」
「はい、見届けさせてください」
リディアは背筋を伸ばし、アルバートの後に続くのだった。
●
グレイセル男爵邸へ向かう馬車の中で、リディアは膝の上の革袋を見下ろしてから、隣に座るアルバートに視線を移す。
(この人は仕事が早いですね)
王宮でリディアと会ってから間もないというのに、彼はすぐさま男爵家へ向かう馬車を用意した。前後には護衛の馬車がつき、王宮に残った者たちも、調査の命を受けて動いている。
「来たな」
アルバートが窓の外へ目を向けると、灰色の鳥が馬車と並ぶように飛んでいた。御者台にいた護衛が窓を開けると、鳥は迷わず車内へ入り、アルバートの手元に降りる。
細い足には、小さく巻かれた紙片が結ばれている。
「部下からの報せだ」
アルバートは鳥の足から紙片を外し、指先で広げた。
灰青の瞳が紙面を追い、必要な文字を拾っていく。口元は引き結ばれ、車輪の音だけが馬車の中に響いた。
「情報が揃ったな……」
その一言が零れた後、やがて、馬車が止まる。
目の前にはひときわ大きな屋敷が聳えている。高い鉄柵の奥には手入れされた庭が広がり、玄関には磨かれた石段が続いている。
「行こうか」
アルバートが先に馬車を降り、リディアも続く。
玄関前で待っていた執事は、アルバートの姿を見るなり深く頭を下げた。
「王太子殿下、ようこそいらっしゃいました」
「オルガン・グレイセル男爵に会う。すぐに通せ」
「ただちに」
執事は二人を応接間へ案内する。辿り着くと、そこには、すでにレナードが待っていた。
白い礼服に身を包み、どこか苛立った顔で立っている。王太子が来ると聞いて慌てたのだろう。襟元はわずかに乱れている。
「リディア!」
レナードは彼女の姿を見つけるなり、眉を吊り上げた。
「お前は何を考えている。王太子殿下を巻き込んで、まさか俺に恥をかかせるつもりか?」
リディアは答えない。
代わりに、アルバートが部屋の中央へ進んだ。
「恥をかくかどうかは、君たちの説明次第だ」
アルバートの力強い言葉に、レナードの顔から血の気が引く。
そのとき、奥の扉が開き、オルガン・グレイセル男爵が現れる。
年の頃は五十前後。整えられた髭に、金糸の刺繍が入った上着。いかにも名門貴族らしい落ち着きをまとっている。
「王太子殿下。本日は突然のご来訪、光栄にございます。それで本日はどのようなご用件で?」
「このペンに見覚えがあるか?」
「……古い筆記具のようですな」
「母上のものだ」
アルバートの一言で、応接間の空気が変わった。オルガンの表情に動揺が浮かぶ。
「このペンはレナードが倉庫で見つけたものだそうだ」
「本当か、レナード!」
「あ、はい。倉庫から持ち出したのは俺なので……でも、まさか、王妃様のものだとは……」
「これは母が私へ残した品で、王宮の記録では、紛失とされている。どうしてこれが、男爵家の倉庫にある?」
アルバートの問いに、オルガンはすぐには答えない。口元にはまだ貴族らしい余裕が残っているが、その視線だけはペンから離れなかった。
「……存じ上げませんな」
「惚けるつもりならはっきり言おう。私は男爵が母上の遺品を横領したと疑っている」
「侮辱ですぞ!」
オルガンの声が応接間に響いた。レナードも父の怒声に勢いづいたのか、アルバートを睨みつける。
「そうだ、侮辱だ! たかが古いペン一本で、父上を疑うなど――」
「証拠がペンだけならな。紛失扱いになっている母上の遺品の多くに、オルガン男爵の署名が残されていた」
「それは……」
「さらにだ。オルガン男爵が遺品を売った商人も特定してある。特定されうる宝石を外し、銀や金を溶かして売るように依頼されたと証言している。ここまで揃っていても、無実だと?」
レナードは父に問いかけるような目を向ける。だがオルガンは唇を噛んで、口を開こうとしない。そこに畳みかけるようにアルバートは続ける。
「余罪はこれだけじゃない。ベルフォード伯爵家の借金についてもだ。心当たりがあるな?」
「お、俺たちはベルフォード伯爵家を救ってやったんだ。それの何が悪いと!」
「助けた? その借金を作った元凶が君たちなのにか?」
「な、なにを言って……」
「ベルフォード伯爵家は長年の不作で金に困っていた。そんな彼らに儲け話を持ち込んだ男がいた。だが投資は失敗し、伯爵家は借金を背負った……」
リディアは父がその話を信じた日のことを思い出し、唇を結ぶ。
領地の不作で、使用人の給金も、種籾の代金も、冬越しの蓄えも足りなくなっていた。
そこへ現れた男は、笑顔で救いを差し出したのだ。窮地に立たされた父が手を伸ばしたのも無理のないことだった。
「その詐欺師の男は、ただの実行犯だった。裏でベルフォード伯爵家を嵌めるように指示していた者がいたのだ。それが誰かは言うまでもないな」
「冤罪です! 王太子殿下といえど、証拠もなく男爵家を侮辱なさるのは――」
「証拠はある。なにせ、その詐欺師は王家の牢にいるからな。彼はすべて白状した。伯爵家を罠にかけて、爵位を手に入れる計画だったとな」
「騙されてはいけません! その囚人は嘘を吐いているのです!」
「彼は身の安全のために詐欺の指示書を残していた。筆跡鑑定も済んでいる。それでも嘘だと?」
「なっ!」
決定的な証拠があっては言い逃れもできない。
オルガンはもちろんレナードの顔色も変わる。リディアはそれを見逃さなかった。
「レナード様も関与していたのですね」
「知らない! 俺は何も知らない!」
レナードは必死に否定するが、アルバートの追及は止まらない。
「レナード・グレイセル。君も詐欺師と面会しているな」
「そ、それは……父上に言われて……」
「何も知らなかった、と言うつもりかな?」
アルバートの問いに、レナードは視線を泳がせる。詐欺師が王家に囚われている以上、嘘はすぐに露呈する。それが分かっているからこそ、彼は黙り込むしかできなかった。
「君たちは悪意を持って詐欺を働いた」
アルバートは、父子を順に見据えた。
「王妃の遺品横領だけでなく、伯爵家の爵位を奪おうと君たちは画策した。許されない重罪だ。覚悟はできているな?」
「お、お待ちください、殿下」
オルガンは膝に力を入れ、どうにか姿勢を保とうとする。
「私は国家に尽くして参りました。多少の手違いはあったかもしれませんが、すべては王家のためで――」
「王家のために、私の母の遺品を売り払ったのか」
「それは……」
「答えられないなら、ここまでだな」
アルバートが片手を上げる。
扉の外で控えていた衛兵たちが、一斉に姿を見せた。鎧の金具が鳴り、応接間の空気が一変する。
「り、リディア!」
そこでようやく、レナードがリディアを見た。
「お前からも何か言え! 俺たちは婚約者だろう!」
「婚約者ですか……」
リディアは一万金貨が詰まった革袋を取り出し、机の上に置く。金貨の重みが鈍く響いた。
「私はあなたの依頼を達成しました。ですが……婚約は破棄で結構です」
「……は?」
「あなたとの婚約など、こちらから願い下げですから」
レナードの顔が赤く染まる。見下していた相手から否定され、怒りがこみ上げたのだ。
「リディアっ!」
次の瞬間、レナードが踏み込んだ。怒りに任せて振り上げられた拳がリディアに迫る。
だが、届かなかった。
アルバートがリディアの前へ踏み込み、レナードの手首をつかむ。次の瞬間には、レナードの腕が背中へ回され、彼は床に膝をついていた。
「ぐっ、痛い! 離せ! 俺を誰だと思っている!」
「私の前で伯爵令嬢に手を上げた男だ」
アルバートの声に、レナードの顔から血の気が引いた。
「ち、違う! 今のは、その女が俺を侮辱したから――」
「言い訳は牢の中で聞こう」
アルバートが衛兵へ目を向ける。
「連れていけ」
「はっ」
衛兵がレナードの両腕を取った。
「父上! 何とか言ってください! 俺は言われた通りにしただけだ!」
叫ぶレナードの声に、オルガン男爵の肩が震えた。先ほどまで威厳に満ちていた彼の膝から力が抜け、床へ崩れ落ちた。
オルガンは顔を上げられなかった。
衛兵たちが父子を連れていく。レナードの怒鳴り声は扉の向こうへ遠ざかり、やがて途切れたのだった。
●
後日、グレイセル男爵家の不正は王家によって明らかにされた。
先代王妃の遺品整理を任された際、オルガン・グレイセル男爵はアスタリア皇室ゆかりの品を複数横領し、その一部を裏で売り払っていた。
王家は不正に得た資産を回収し、ベルフォード伯爵家の借金返済に充てると発表した。伯爵領には王家の監督下で再建資金が入ることになった。
首謀者のオルガンは投獄され、冷たい牢屋の中で過ごしている。傍にはレナードの姿もある。
彼は父に命じられただけだと言い張ったが、共犯の罪からは逃れられなかった。
そして、もう一つ。
レナードが自慢していた石鹸事業についても、王家の調査が入った。調べ直された書類の多くが、リディアの貢献の証拠になった。
「王家は慰謝料として、香り付き石鹸の販売権をベルフォード伯爵家へ譲渡するように命じた」
「販売権を、私の家にですか?」
「ああ。これからは、リディア・ベルフォード伯爵令嬢が企画し、育てた商品として売ることができる」
書類には、王家の正式な認可印が押されていた。
「ありがとうございます、殿下」
「礼を言うのは私の方だ」
アルバートは机の上に置かれたペンへ視線を移す。
そこには、洗浄を終えた古いペンが置かれていた。くすんでいた金具は磨かれ、刻まれたエレオノーラの名が細く光っている。
「君のおかげで母の想いを知ることができた。リディアは私の恩人だ」
「アルバート様……」
「だから頼みがある。これからも君には傍にいて欲しい」
リディアのまつげが上がる。
すぐに返事はできなかった。けれど、断る言葉も浮かばなかった。
「まずは、お仕事のお手伝いからでお願いいたします」
「ああ、そこからでいい」
アルバートは満足げに頷く。
その先にある道を、リディアはまだ知らない。
けれどリディアはもう、自分の未来を誰かの手に預けるつもりはなかった。
机の上には、新しい契約書が置かれている。そこにはリディア・ベルフォードの署名欄が用意されていた。
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